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周防解読万葉歌 第5部
巻第二 91番歌〜166番歌まで
巻第二は冒頭の注釈文で仁徳天皇を挙げています。
短歌の多くはその仁徳天皇の陵墓の改葬にまつわる歌ですが、確証を得るのが困難な歌ばかりです。
つまり、受けとり様によって自由に解釈できる都合主義な歌が並んでいます。少し例を挙げますと、
巻第二の最初の歌、85番歌 「君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ」
この歌は磐ノ姫皇后が天皇を思って作った歌としてあります。もしこの歌を第三者の歌人が磐ノ姫に
なり代わって詠んだのだとしたら、「君が行き」の部分は陵墓の改葬を意味していることになります。
その他、別の歌として、103番歌と104番歌を例に挙げますと、「我が里に 大雪降れり 大原の
古りにし里に 降らまくは後」 「我が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ」
この歌をこちらの周防に当てはめますと、柳井市日積に大原という所がありまして、大帯姫八幡宮の
近くです。その大帯姫八幡宮のある所を大里と申しまして、歌の「我が里・古りにし里」に相当します。
では、雪は何を意味しているかと言いますと、神武天皇の物語に出て来る「ウカシ兄弟」です。
両人は氷室岳で氷をつかさどっていたことは別章で明らかにしています。そのウカシ兄弟の陵墓は日積の
城山であり、三段構築の山頂古墳です。そのふもとに大原があります。大帯姫八幡宮の参道からその城山は
手にとるようによく見えます。そうしたふうに、次々と繋がっていきますが、いずれも都合主義だと言われれば、
確証は、神武遠征を確かなものにする必要があります。そうした訳で、ここでは確実な歌を挙げて導くことにします。
万葉集 巻第二 91番歌
近江大津宮に天の下治めたまひし天皇の代
天命開別天皇、諡を天智天皇といふ
天皇、鏡王女に賜ふ御歌一首
妹が家も 継ぎてみましを 山跡なる 大嶋の嶺に 家もあらましを
いもがいえも つぎてみましを やまとなる おおしまのみねに いえもあらましを
一に云ふ、「妹があたり 継ぎてもみむに」 一に云ふ、「家居らましを」
この歌で周防大島の位置付けをしています。
この歌があることにより、以後の曖昧な歌を明瞭にして助けています。
周防大島の油良という所に油良八幡宮があります。古記録では正八幡宮になっています。
天保年中(1830〜1844)編纂の防長風土注進案では次のように記してあります。
正八幡宮 新川の内、久保山に在り
由来 (前文略す) 当社岸の松へ船を繋ぐ、それより陸において兵粮米、鹿之家へ運送仰付被り候由 (以下略す)
また別の章には次のようにあります。 「北浦中濱より安下庄境、鹿家峠まで七町三拾間」
歌の意味は、愛する人の家を継ごうとしても、大嶋の山に家はありません、といった意味だと思います。
家は地名ですから当然ありません。
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92番歌
鏡王女の和へ奉る御歌一首
秋山の 木の下隠り 行く水の 吾こそまさめ 思ほすよりは
あきやまの このしたがくり ゆくみずの あれこそまさめ おもおすよりは
秋山は周防大島の地名「秋」との掛け合わせ言葉です。
前に載せた油良八幡宮の由来には船繋ぎ松の存在を記しています。
歌の木をその松とすると、行く水は地名の新川にかかってきます。
川の名が付いていても大きな川はありません。まさに木の下を隠れるように流れる小川です。
「吾こそまさめ」 の「まさめ」は坐さめの意味ではないかと思います。
つまり、油良八幡宮の鎮座を言っているのではないでしょうか。
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93番歌
内大臣藤原卿、鏡王女をよばふ時に、鏡王女、内大臣に贈る歌一首
玉くしげ 覆ふをやすみ 開けて行かば 君が名はあれど 吾が名し惜しも
この93番歌は古事記の仁徳天皇の最終歌にある歌と連係していますので、まずその歌から解明します。原典の文字で載せてみます。
加良怒袁 志本爾夜岐 斯賀阿麻理 許登爾都久理 加岐比久夜 由良能斗能 斗那加能伊久理爾 布禮多都 那豆能紀能 佐夜佐夜
黄緑色で示している部分が問題の箇所です。
そこを解読してみますと、「史本にやし字が余り」 と、なります。「やし」とは方言で「インチキ」という意味です。
つまり、「史本にはインチキな字が余ります」 と言っています。その部分を除けてみますと明確に出て来ます。
からとを琴に造り 描き引くや 油良の門の 門中の いぃくりに触れ建つ 菜漬の記のさやさや
ここからは油良八幡宮のことを理解している必要があります。
方位分析ページを新しく作りました。こちらです。
万葉歌に戻りまして。「玉くしげ」の玉とは、「〜由良の門の 門中のいぃくりに触れ立つ〜」という一節を意味します。
その「いぃくり」とは玉石のことでありまして、今でも、良い玉石のことを「くり」とか「ぐり」と呼んでいます。その玉石を
入れる物が、ここでは「くしげ」であり、つまり、装飾箱を意味します。装飾箱に油良の玉石を採集して祈念にするわけです。
「覆ふをやすみ」、覆ふの部分を歌の通りに解釈すれば、装飾箱のフタを覆うといった意味になりますが、ここでは
油良八幡宮の由来に掛かっています。防長風土注進案の油良八幡宮の由来は次のように記してあります。
(部分引用) 當社御鎭座以来社地等被爲御除置惣鎭守
この曖昧な部分を解読しますと、「当社ご鎮座以来、社地等覆いなす恩 (怨) を除き置き総鎮守」 となります。
万葉歌は、この油良八幡宮の由来に掛けて「覆ふをやすみ」と詠んでいるのです。
次に「開けて行かば」です。この部分は原文では「開而行者」とあります。現状は「あけていなば」としてあります。
「いなば」は方言で「帰れば」という意味になり、「行かば」とは根本的に意味が相反します。ここは行くの「行かば」です。
さて、この歌は字余りが多いです。この一節で考えると、「開け行かば」とすれば丁度字数がいいのですが、意に反して
「而」の文字がありますので、どうしても「開けて」と読まざるを得ません。続く「君が名はあれど」にしてもそうです。
「きみなはあれど」と読むと丁度いいのですが、やはり接続助詞の「が・の」を入れる必要が出てきます。
なぜ字が余るのか、ということに関して、先に説明した古事記の字余りの歌と連係しており、
万葉歌では、わざとそうしたのだろうと思います。
次に「君が名はあれど 吾が名し惜しも」
たぶん、意味がわからないと思います。
ここは古事記の物語で名を替える場面を理解しておく必要があります。
物語を解読したページへ内部リンクしておきます。
この歌の覆うという点においては、こちらの歌とも被ってくるのですが、
一応、前後の歌が油良になっていますので、ここでは油良として解読しました。
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94番歌
内大臣藤原卿、鏡王女にこたへ贈る歌一首
玉くしげ 見む円山の さな葛 さ水は遂に ありかつましじ
たまくしげ みむまろやまの さなかずら さみずはついに ありかつましじ
ある本の歌に曰く、「玉くしげ 三室戸山の」
歌の後部からの説明になりますが、「ありかつましじ」とは、ありはしないだろうという意味です。
水は終にありはしないだろう、と言っています。水は92番歌と連動しています。
今までは「さ寝ずは」と解読されて、意味不明な釈然としないものがありました。
なぜ水になるのかと申しますと、原典文字の寐の読みは、ビ、ミ、ねる、です。
その内の「ミ」を採りまして、「さみずは」となります。
古事記の歌にも「さねさし」という表現がありますが、それは「さぁ出ぇさぁ来ぃ」です。
水があることにより、92番歌と連動し、「見む円山の さな葛」が何を意味するのかが見えて来ます。
「見む円山」とは、注釈文にある一節の室戸と連係していなくてはなりません。「見む」とありますから
見えない、とか、見ない、という意味です。見えない円山であり室戸山です。そこで、油良八幡宮の
方位線図を見ますと、方位線は四国の高知県室戸を指しています。方位線ですから当然見えません。
そうすると、さな葛とは、あたかも葛のように絡まる方位線の事を言っているのです。
よって、歌の意味は、終にわからないだろう、と少し小馬鹿にした歌になるのです。
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96番歌から99番歌まではすべて弓を詠んだ歌が連なります。
信濃の優れた弓を例えに出して問答をしています。
そして100番歌では、弓には関係のない荷物を題材にしています。
弓の話をしていながら、なぜ突然に荷物の話に変えたのか、そこが重要です。
では、歌を引用してみます。
万葉集 巻第二 96番歌〜100番歌まで
久米禅師、石川郎女に問う【娉(とふ)】時の歌五首
96 み薦刈る 信濃の真弓 吾が引かば 馬人さびて 否と言はむかも 禅師
97 み薦刈る 信濃の真弓 引かずして こざるいことを 知ると言はなくに 郎女
98 梓弓 引かばまにまに 依らめども 後の心を 知りかてぬかも 郎女
99 梓弓 つらを取りはき 引く人は 後の心を 知る人そ引く 禅師
100 東人の 荷向けの箱の 荷の緒にも 妹は心に 乗りにけるかも 禅師
大意
96 信濃の優れた弓を私が引いたなら、馬人(騎馬民族)は恐れおののいて嫌とは言わないだろうなあ 禅師
97 信濃の優れた弓を引いたこともないのに、こざるいことです。知りもしないのに 郎女
98 優れた弓は引く人にも依りましょう、後の人々の気持ちなどわかってはおられません 郎女
99 優れた弓をたずさえて引く人は、後の人々の気持ちを理解した人にこそ引いてほしいものだ 禅師
100 東の国人へ送る荷箱の縄にさえ、姫の思いは宿って乗り行くことだろう 禅師
これらの歌は、室津半島を中心に置いて詠んでいます。古記録から地域の由来を引用してみます。
防長風土注進案 天保年中編纂 1830〜1844 (一部現代文に直して引用)
平生村
平生(ひらお)は往古この辺り田名、別府の沖より立ヶ濱、波野、與田、柳井、大嶋、鳴門へ潮往き廻りて
則、萬葉集に出でたる麻里布の内海なりしか、天地老いて山河形をあらたむるならひ、いつとなく干潟と
なりとて、二三里か間ついに田園市井と化し候。 (以下略す)
玖賀嶋山
高さ直立九間、村の西にありし、西方半は岩国御領、竪ヶ濱の内にて市中の真ん中にありし。人家隙間なく
取り巻き候。この山、往古は竹多く生して弓に製し候由、弓の古名をクガと言へるより久賀嶋と唱へしよし
昔より申し伝へ候。
野嶋山
高さ直立六間半、周囲八拾六間、村の南にありし、この山は昔、細き竹生ひ茂りて矢の「かん」に製したるより
かん嶋と呼び来りしより玖珂島の説に同じと申し伝へ候。
濃嶋大明神 由来より一部引用
(塩田・塩浜の段) 防府をはじめ諸郡また九州の果てまでも入り潮濱の開き方を教へ、今に言ふ大業の師と
なりしは当所の根元なり。
古言伝へに、この嶋は麻里布四十嶋の内にて、大昔は能嶋なりし由、中古は野嶋なり。能は矢の古名のよし、
神軍ありし時、この嶋より矢飛び出ること降るがごとし、都濃郡沖の野嶋に至る故に敵神近づくこと能わず。
源九郎義経公も平家追い討ちの時、祈願ありて、矢の飛び出しもここなる由。矢竹の種今に生す。近辺の嶋々
地所の小名に矢の名多くあり。能野郡と言ひし本元なり。故に能野氏の出所なり、今、大嶋、熊毛郡、玖珂郡、
三郡に分かち入りてこの郡名なし。
以上は天保年中編纂の記録です。続く明治時代編纂の記録、山口縣風土誌にはこんな事が記してあります。
(前文略) この辺能島がもとにて能野郡と云へるが、今、大島、熊毛、玖珂、三郡の内に属してその地なしと云へるは、
続日本紀天平二年三月の件に、丁酉周防□能野郡牛島とあるに拠れる説なるべし。この能野郡は熊毛郡にて、
能字は熊字の連火の脱ちたるにて、能野郡と云ふ郡はなき事なり。
明治時代の著述は昔の書き間違いだとして断ち切っています。書き間違いだとするのが早計なのです。
玖珂島と野島 内部リンクです。
玖珂島と野島の由来を見ても万葉歌の弓の歌が並んでいるのは、この由来に基づいていると思われます。
次に、なぜ弓の歌を四首も詠んでおきながら突然に五首目で荷物の歌なのかを解きます。
先に載せた弓の玖珂島と野島から直線距離にして約七キロ半の所に小郡 (おぐに) という所があります。
小郡の由来を古記録では以下のように記してあります。
小郡村
大昔、山城国加茂社の神領にてありし時、貢納を集める所にして、諸村嶋々より負来荷 (おいくるに) の言葉の
縮まり負来荷 (おくに) と云ひしよし、後に文字を誤り伝へをして小国と書く、今の小郡と尾国は元一村なり。
この由来は加茂社に贈る荷としています。なぜ加茂社なのかは、神武東征に繋がっており、室津半島には
賀茂神社が五社もあります。それらの賀茂神社は神武東征での激戦地を追悼して建っています。
室津半島の賀茂神社五社は、すべて拝礼方位に激戦地を指し示しています。
歌が神武に繋がっていることのあかしとして、次に続いている 101番歌は神を詠んだ歌です。
万葉集 巻第二 101・102番歌
大伴宿祢、巨勢郎女に問う時の歌一首。
大伴宿祢、諱 (いみな) を安麻呂といふ也、難波みかどの右大臣大紫大伴長徳卿の第六子。
平城のみかどに大納言兼大将軍に任ぜられて薨ず。
101 玉葛 実生らぬ樹には ちはやぶる 神そつくといふ 生らぬ樹ごとに
たまかづら みならぬきには ちはやぶる かみそつくといふ ならぬきごとに
巨勢郎女こたへ贈る歌一首
すなはち近江のみかどの大納言巨勢人卿の女なり。
102 玉葛 花のみ咲きて 生らざるは 誰が恋ひならめ 吾は恋ひ思ふを
たまかづら はなのみさきて ならさざるは たがこひならめ あはこひおもふを
101番歌・歌にある神とは、凶暴残忍な悪霊のような神を意味しています。
つまり、実の生らない木には悪神がとりつくそうですよと詠んでいます。
その歌に応えて102番歌では、花だけ咲いて実が生らないのは誰のせい
でしょうか?と問いかけて、私は恋い慕っているのに、と結んでいます。
実の生らない木に神ですから、箕山の神武さあを意味しています。そして、
102では花のみ咲いていますから、神花山古墳の木花の昨夜姫です。
神花山古墳は箕山のふもとにあり、よく見えます。
歌の作者はその女神を恋い慕っているわけです。
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万葉集 巻第二 103 104番歌
明日香清御原宮御宇天皇代
天渟中原瀛真人天皇、諡を天武天皇といふ
天皇、藤原夫人に賜ふ御歌一首
103 吾が里に 大雪降れり 大原の 古りにし郷に 降らまくは後
藤原夫人のこたへ奉る歌一首
104 吾が岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪の摧けし そこに散りけむ
藤原宮御宇天皇代
高天原広野姫天皇、諡を持統天皇といふ、元年の丁亥十一年に位を軽太子譲る、尊号太上天皇也
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大意
103 わが里に大雪が降ったぞ、大原の古い郷に降るのは後からだな
104 わが丘の竜神に頼んで降らせた雪です くだけたのがそちらに散ったのでしょう
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注釈にある藤原夫人は、いろんな呼び名を持つ人です。
五百重娘 (いおえのおとめ) とか 大原大刀自 (おおはらのおおとじ) という名です。
姉に 氷上娘 (ひかみのおとめ) があります。 その名をよく把握したうえで、下の地図をご覧ください。
北側に大原、東側に大里、南側に小国があります。
大里には大帯姫八幡宮 (おおたらしひめ) があります。地図上でも現われるほどの長大な参道を持っています。
大帯姫八幡宮の方位は、銭壺山の頂上を拝礼して、右手(南側方位)に琴石山中腹の大神宮を指しています。
次に小国には小国茶臼山古墳があります。上図の赤丸で囲んだ所が山頂古墳です。
以上の3地点は1辺の距離が約 1キロ半程度の関係で位置しています。
次に、上の図を広域に広げてみますと下の図になります。
北の氷室岳から大原まで直線距離にして約 4キロ少々というところです。
この図を先ほどの藤原夫人の名にあてはめてみますと、 大原大刀自 (おおはらのおおとじ)
であり、そして、姉の 氷上娘 (ひかみのおとめ) そのままの関係で存在しています。
では、万葉歌はどれとどれの関係なのかみますと、まず大原と小国ですと、近接していますから
あっちこっちと言うほどの距離はありません。そうすると、歌は氷室岳と大原の関係になってきます。
そこで、大原に近接した小国茶臼山古墳の成り立ちが大事になってきます。
歌の「おかみ」は私のホームページビルダーV9では書けなくて平仮名にしていますが、「おかみ」とは
水神であり竜神のことです。小国茶臼山古墳は神武東征のページで、ウカシ兄弟の古墳であると解きました。
ウカシという名は水に浮かべた氷を意味しています。そうすると、歌の「おかみ」とは、小国茶臼山古墳に
葬られた主を意味していることになります。葬られた主とは、氷を商いとしていたウカシ兄弟のことです。
氷をつかさどっていたウカシ兄弟が活動していた所は氷室岳のある伊陸です。その証明として、日本書紀に
記載してある「捕鳥部万(ととりべのよろず)」の記述があります(内部リンク)。その記述は神武侵略の際に
犠牲になった人々を記したものでしょう。年代が違うのは 1度に記さずに分散して記録しているからです。
そうした訳で、万葉歌の「吾が岡のおかみ」とは、氷をつかさどっていたウカシ兄弟のことであり、
「おかみ」の丘とは、小国茶臼山古墳のことである、ということになります。古墳の被葬者の繋がりを
少し面白おかしい歌にして記録したのでしょう。これらを見ても 103 と 104番歌は、柳井市日積と伊陸を
主体にして詠まれており、氷室のウカシ兄弟は小国茶臼山古墳へ葬られているという私の検証と万葉歌は
一致します。侵略された歴史の事実を忘れ去られないように、また削除されないように近畿方面と混ぜた
歌にして保存したと思われます。
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万葉集 巻第二 105 ・ 106番歌
大津皇子、ひそかに伊勢神宮に下り、上り来る時、大伯皇女御作りの歌二首
105 吾が勢子を 倭へやると さ夜ふけて あかとき露に 吾が立ち濡れし
わがせこを やまとへやると さよふけて あかときつゆに わがたちぬれし
106 二人行けど 行き過ぎ難し 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ
ふたりゆけど ゆきすぎがたき あきやまを いかにかきみが ひとりこゆらむ
注釈文は後で記紀などを参照しながら書き加えたものなので、あまり信用しないのですが、
全部が全部信用できないかと言うとそうでもなく、都合主義な選定になり、苦しいところがあります。
ここでは、ひそかに伊勢に参拝しています。大事なのは、伊勢に下り、上り来る、とあります。
当時の中央である奈良や京都の辺りからですと、今でも伊勢は下り、ということになります。
そこで、歌を見ますと、勢子という言葉と、秋山という言葉が入っています。
勢子という言葉は、11番歌、19番歌、35番歌などで出てきました。波野スフィンクスを意味しています。
そうすると、秋山という言葉はおのずと周防大島になり、多祁理宮(橘の嶋の宮)とで結び付きます。
歌の場所が明らかになれば、注釈文の「ひそかに伊勢神宮に下り」の意味が見えてきます。
前の歌、103 と 104番歌で大里が出てきました。大里には大帯姫八幡宮があります。
その神社は初代の伊勢両宮を指し示しています。拝礼方向に岩国市由宇の銭壺山、そして、
南側方位(向かって右手)に琴石山の中腹にある大神宮を指し示しています(下図参照)。
大神宮(だいじんぐう)は、琴石山(こといしやま)に在った初代の伊勢を中腹に下ろした神社です。
下ろした年代は、天孫降臨の古代へとさかのぼり、明確な年代を出すのは困難ですが、古事記に
抽象的な物語にして記してあります。伊勢の前身に関しては、こちらのページをご覧ください(内部リンク)。
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万葉集 巻第二 111 ・ 112番歌
吉野宮に幸せる時に、弓削皇子、額田王に贈り与ふる歌一首
111 古に 恋ふる鳥かも ゆづる葉の 三井の上より 鳴き渡り行く
いにしへに こふるとりかも ゆづるはの みいのうへより なきわたりゆく
額田王こたへ奉る歌一首 倭京より侵入
112 古に 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 吾が思へるごと
いにしへに こふらむとりは ほととぎす けだしやなきし わがおもへるごと
歌の三井は原典にある文字です。
三井とは、今の光市三井 (ひかりし みい) を言っていると思われます。
御井(みい)と読むかとも思ったのですが、原典文字は三井になっています。
光市にはその三井と、もう 1つ「光井」がありまして、そちらは「みつい」と呼んでいます。
三井 = みい
光井 = みつい
歌の大意は以下のようになっています。
111番歌 いにしえに慕う鳥だろうか ゆづる葉の 三井の上より鳴き渡り行く
112番歌 いにしえを慕う鳥はホトトギスです さぞかし鳴いたことでしょう 私の祈る思いをお察しください
この歌が詠まれたのはだいぶ後の時代だと思います。
それを暗示している言葉として、「 いにしえ 」と詠んでいます。
歌の作者にとって、遠い「いにしえ」の時代に起こった出来事を追悼して歌を詠んでいるのです。
この歌も神武東征に繋がっておりまして、光市三井は「 贄持の子 」の段の辺りに相当します。
歌が詠まれたのは侵略の争乱が終息して何世代後かはわかりませんが、
先祖の故郷に帰ってみたら三井の空をホトトギスが鳴きながら飛んで行く、
栄えていた古(いにしえ)を慕っているのだろうかなあ、と、そんな心持ちでしょう。
ホトトギスという鳥は自分で子を育てません。他の鳥の巣に卵を産みつけ、他の鳥が育てるそうです。
卵から孵化した子鳥が巣立つ時には自分の育った巣をぶっ壊して巣立つのだそうです。そうした習性を
初代ヤマトの人々に掛け合わせて歌を詠んだのでしょう。少し余所余所しいところは、やはりいにしえです。
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115番歌
「道の隈廻」とある部分で 175番歌と共通しています。
175番歌は光市光井に関係しています。
ここで挙げても都合主義になるだけなので、提起だけして次へ進みます。
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万葉集 巻第二 131番歌
この歌では「 にきたづ 」が出てきます。
8番歌でも挙げましたが、もう一度「 にきたづ 」について載せておきます。
万葉集で「にきたづ」が登場する歌は全部で五首あります。
現状はそれらをすべて「 にきたづ 」と解読しています。
それらの原文字を解読してみますと以下のようになります。
8番歌 熟田津 ⇒ うたのつ ⇒ 歌の津
131番歌 和多豆 ⇒ わたのつ ⇒ 綿の津
138番歌 柔田津 ⇒ やわたづ ⇒ 八幡津
323番歌 飽田津 ⇒ あたのつ ⇒ 阿多の津
3202番歌 柔田津 ⇒ やわたづ ⇒ 八幡津
ご覧のように、すべて「からと水道」で詠まれた歌です。
この巻第二は長歌が多くあります。それらの長歌の中のすべてに初代の地を見い出せます。
しかし、この 131番歌のように「 石見 」とあって地名が特定してあればどうにもならない訳です。
石見を、からと水道から見た石城山のこととしてとらえれば石城山を見る意味で石見になりますし、
また方位線の事を「 いわ 」と呼んでいたことは薄々わかるのですが、ご都合主義は否めません。
そうした事は反歌にも表れておりまして、132番歌の「 我が振る袖を 妹見つらむか 」、この歌は
20番歌の「 野守は見ずや 君が袖振る 」の歌と連携していると思われます。しかし、石見とあります。
どうにもこうにも、強引に「 からと水道 」として説明を進めてみるしかないです。
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では、131番の長歌に入ります。巻第二は長歌が大事です。
まず、石見ですが、これは堰見(せきみ)と読めば 140番歌まで通用します。
堰き止められた「からと水道」の堰が見える、という意味での「堰見」です。
「堰見の海 角の浦廻を 浦なしと」(せきみのみ つののうらみを うらなしと)
ここは、次のようにも解釈できます。「堰見の海 角の怨みを 裏なしと」です。
以下、重要な部分は黄色文字です。
131 堰見の海 角の怨みを 裏なしと 人こそ見らめ 形なしと(一云、磯無登) 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし
潟は(一云、磯者)なくとも いさなとり 海辺を指して 綿の津の 荒磯の上に 加勢しょう 玉藻沖つ藻 朝はふる 風こそ依らめ 夕はふる
浪こそ来よれ 浪のむた 彼より此より 玉藻なす 寄り寝し妹を(一云、波之伎余思 妹之手本乎) 露霜の 置きてし来れば この道の
八十の隈ごと 萬段 かへり見すれど いや遠に 里は離りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひしなえて 偲ふらむ 妹が門見む なびけこの山
反歌二首
132 堰見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか
133 小竹の葉は 箕山もさやに さやげども 吾は妹思ふ 別れ来ぬれば
或る本の反歌曰く
134 忌みにある 高角山の 木の間ゆも 吾が袖振るを 妹見けむかも
歌の角とは、役小角のことです。役小角は神武天皇の偶像でもあります。
反歌の「振る袖」は 20番歌と連携しており、高角山は角の名が付いていますから
波野スフィンクスを意味しており、そこに登ると箕山がよく見えます。
また、箕山は大星山にありますが、その大星山は「クジラ」の形をしています。
だから、「潟は(磯は)なくとも いさなとり」 です。
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135 角さはふ 堰見の海の 言さへく 辛の崎なる いくりにぞ 深海松生ふる 荒磯にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす なびき寝し児を 深海松の
深めて思へど さ寝し夜は いくだもあらず 延ぶつたの 別れし来れば 肝向かふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大舟の 渡りの山の
もみち葉の 散りの乱れに 妹が袖 さやにも見えず 妻隠る 屋上の(一云、室上山)山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば
天伝ふ 入日刺しぬれ ますらをと 思へる吾も 敷き妙の 衣の袖ば 通して濡れぬ
反歌二首
136 青駒が 足掻きを速み 雲居にそ 妹があたりを 過ぎて来にける(一云、あたりは 隠り来にける)
137 秋山に 落つるもみち葉 しましくは な散り乱れそ 妹があたり見む(一云、散りな乱れそ)
反歌の 136番歌は聖徳太子の伝説を意味しており、それは満野長者旧記という書物に記してあります。
巻の十 「周防国魚の照般若寺の記」 に聖徳太子が黒駒に乗って諸国を巡行する場面。
歌に関係する場面を引用します。 「〜その時船艪より女性は海に飛び入り給えば、家来も残らず海中に
入るよと見えしが、忽ち谷の朝霧と変じ、波と聞えしは峯の松風、海上遙かに隔てたり。御供の調子丸
お馬の口をとらせ、万里の虚空に飛び上らんとし給いしが、谷間を見給えば多くの墳墓あり。〜」
この後に姫の墳墓の説明がありまして、そこを追及していきますと、万里の虚空に飛び上ろうとして
見た谷間の墳墓とは、波野スフィンクスから見おろしていることになります。だからこの歌も角があります。
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或る本の歌一首 并短歌
138 堰見の海 角浦をなみ 裏なしと 人こそ見らめ 形なしと 人こそ見らめ よしゑやし 裏はなくとも 立てぇやし 形はなくとも いさなとり
海辺を指して 八幡津の 荒磯の上に 加勢しょう 玉藻沖つ藻 明け来れば 浪こそ来よれ 夕されば 風こそ来よれ 浪のむた 彼より此より
玉藻なす 吾がなびき寝し 敷き妙の 妹が手もとを 露霜の 置きてし来れば この道の 八十の隈ごと 萬段 かへり見すれど いや遠に
離れ里来ぬ いや高に 山も越え来ぬ はしきやし 嬬の吾が児が 夏草の 思ひし萎えて 嘆くらむ 角の里見む なびけこの山
反歌一首
139 堰見の海 鬱歌山の 木の間より 吾が振る袖を 妹見つらむか
右(上)、歌の体は同じといへども、句々相替はれり、これに因りて重ねて載す
長歌の138、「里離れ来ぬ」の部分は「離れ里来ぬ」と読むと、後の意味が通じてきます。
離れ里とは、遠つ飛鳥を意味しています。そうして、「我が妻の子が」の部分は「嬬の吾が児が」
と読むと、神武の人質扱いでもあった推古天皇と聖徳太子に繋がり、「嬬の吾が児」とは
推古天皇であることになります。だからその証明として反歌に「鬱歌山」が出ています。
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この間の歌、確定するに乏しく曖昧なため割愛します。
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天皇の崩る時、婦人の作る歌一首 姓氏未詳
150 鬱蝉し 神に勝てずば 離れ居て 朝嘆く君 放り居て 吾が恋ふる君 玉有らば
手に持ち蒔きて 衣有らば 脱ぐ時もなく 吾が恋ふる 君そ貴族の代 夢に見えつる
天皇、大殯の時の歌二首
151 五でありと かねて知りせば 大御船 泊てし泊まりに 注連結はましを 額田王
152 やすみしし 吾ご大王の 大御船 待ちか恋ふらむ 志賀の辛崎 舎人吉年
150番歌は鬱蝉が出ていますから推古天皇のことを詠んでいます。
151、152番歌は仁徳天皇の船を意味しています。地下約 20メートル付近に埋納してある船のことです。
152番歌で志賀が出てくるのは虚です。つまり、大御船は来はしないけれど、志賀で慕って待っているという感情です。
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大后の御歌一首
153 いさなとり 淡海の海を 奥避けて 漕ぎ来る船 辺に付けて 漕ぎ来る船 奥使い
いたくな跳ねそ 辺使い いたくも跳ねそ 若草の 嬬思ひし 鳥立つ
この153番歌は、祟りを恐れている心境を詠んだ歌です。
水道の奥へ入ったら祟られるぞ、という心持ちです。だからすごく焦っているでしょう(笑)。
だいぶ後の歌になりますが、巻第十二の 2998番歌に、こんな歌があります。載せてみます。
「宋入りの 葦別け小舟 障り多み 今来む吾を 淀むと思うな」 こうした歌が随所に見られます。
154 辛浪の 大山守は 誰がためか 山に注連結ふ 君もあらなくに
原文字は神楽浪乃とあります。これを「かぐらなみの」と読むと字余りになります。
さらに「ささなみ」は当て読みです。そうすると、ここはからと水道の波を意味して
「からなみの」と読むと大山守とで意味が通じます。
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十市皇女の薨ぜし時、高市皇子尊の御作歌三首
156 みもろの 神の神杉 花は愚耳 無事見合へつつとも 寝ず夜ぞ多き
この歌は解読不能として、万葉仮名のまま放置してあります。
私が解読すると以上のようになりました。まだ検討の余地がありますが、こんな感じです。
「みもろ」の原典文字は「三諸」ですから「みもろ」と読めます。前の 94番歌とは別です。
その「みもろ」は三輪に繋がるので、現状訳は 「みもろの 三輪の神杉」 と訳しています。
三輪がわかれば解読不能な部分はおのずと導き出ます。三輪の神は大物主です。
大物主は古事記の神武天皇(皇后選定)の段に、丹塗り矢になって川を流れ下って
結婚したことが記してあります。そのことを理解して解読すると、この歌は戯笑歌の部類に入り、
結婚はしたけれども一緒に寝てくれないことのほうが多い(笑)という戯れ歌になります。
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157 神山の 山辺ま麻木綿 短木綿 かくのみ故に 長くと思ひき
これも三輪山伝説に繋がっている歌です。毎夜、女性のもとに通って来る男を何処の人か知るために
男が帰っていく時に衣服に糸を結んでおいた。その糸をたどって行くと、三輪山の神の社に行き着いた。
という伝説です。その伝説が歌の「かくのみ故」に掛かっているのです。この歌は、麻の糸では長さが短い
(長さが足りない)長くならないかなあと言っています。要するに、歌の作者は自分が伝説の主人公になりたい訳ですが、
麻の糸では長さが足りない、なんとかしなくては、と、笑っているのです。この歌も戯笑歌の部類に入ると思います。
さらには、麻の繊維(糸)をあざ笑って、綿花の糸を強調しているとも言えます。
そのことはこの歌の後に水汲みが出てくることからもわかります。
光市三輪のコンピラ山の頂上にある三輪神社は石城山神籠石(古代綿花農園跡)の西麓にあります。
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158 山ぶりの 立ち装ひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく
現状訳では「山吹きの」と訳していますが、この歌も古事記の赤玉の歌に掛かっています。
その歌は、古事記の鵜葦草葦不合命(ウガヤフキアヘズノミコト)の段にあります。載せてみます。
私訳です。 「赤玉は 押さえ光れと 白玉の 君が装ひし 貴くありけり」 この歌です。
鵜葦草葦不合命は聖徳太子のことです。その最初の陵墓は石城山の高日が峰の頂上です。
今は高日神社になっていますが、境内の形状は前方後円墳の面影を今も残しています。
だから「山ぶりの立ち装ひたる」になります。そして石城山神籠石ですから綿花農園跡です。
綿花栽培には多量の水が必要です。だから「山清水」が入れてあるのです。
この歌が詠まれた時には、石城山はもう廃墟になっていたことでしょう。だから「道の知らなく」です。
紀曰く、七年戊寅夏四月丁亥の朔の癸巳に十市皇女、卒然に病発、宮中に薨ず
「紀」を閲覧して推測で註釈を付けていることが記してあります。
こうした注釈文は付けずに歌だけで編纂していてくれたら状況も変わったかもしれません。
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天皇崩之時太后御作歌一首
159 やすみしし 我が大王の 暮されば 召したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳の 山の黄葉を 今日もかも
問ひたまはまし 明日もかも 召したまはまし その山を 振り放け見つつ 暮されば あやに哀しみ 明け来れば
うらさび暮らし 荒たへの 衣の袖は 乾る時もなし
この長歌は古事記の顕宗天皇の「置目老媼(おきめのおみな)」の段を意味しています。
古事記によると、天皇は日毎に呼んで(召して)置目老媼の昔語りを聞いていたようです。
その置目老媼が誰に相当するのかは、万葉歌を解明して行けばわかると思います。
歌中の「神岳」とは、初代ヤマトの山々を総称しているのだろうと思いますが、
1つほど入れておきたい山として、室津半島の皇座山があります。
室津半島は前方後円墳の形の基となっていることは前書きで説明しました。
その後円部に相当しているのが皇座山です。皇座山は、火山であり、その頂上に
常香盤と呼ばれて来た所がありまして、そこは太古の自然葬が営まれていた場所です。
その周辺の小字地名は祀り場としての地名です。そうしたことから、かっては「神山」
とも呼ばれていました。その呼び名は町史にも明確に記してあります。
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一書曰く、天皇崩之時、太上天皇御製歌二首
160 燃ゆる火も 取りて包みて 袋には 入ると言はずやも 砂糖雲
もゆるひも とりてつつみて ふくろには いるといわずやも さとうぐも
161 南山へ たなびく雲の 青雲の 星離れ行き 月も離れて
なんざんへ たなびくくもの せいうんの ほしはなれゆき つきもはなれて
この歌は、「幻影の神域」のページでも採り上げました。
説明は同じ内容になりますが、こちらにも載せておきます。
160番歌、「燃ゆる火も」とは、古事記の木花の佐久夜姫の神話に出てくる火の事です。
袋の意味は、神霊(御神体)の移転を意味しています。
「砂糖雲」とは木花の佐久夜姫を意味しており、古事記原典にも「佐冬毘賣」という一節があります。
現状の普及本では佐冬毘賣を佐久夜姫と訳しているので、古事記原典を見ないとわかりません。
この歌は簡単に言うと、神社の引っ越しの様子を歌にしてあります。
その神社とは、初代の熊毛神社の事です。その辺りの詳細は「幻影の神域」のページをご覧ください。
続く 161番歌、「南山へ」の部分、原典では「向南山」となっていますので、南山へ向かう意味に於いて「南山へ」と解読しました。
南山とは、柳井市の伊陸の近くに今も「南山」という地区がありまして、そこには南山神社があります。
山の中にあるので、知る人の少ない神社ですが、二十五年に一回、十三本の松の木を立て、
八関神楽(はっせきかぐら)を奉納する盛大な祭りがおこなわれます。次回は平成四十年頃です。
「たなびく雲の」の部分、原典では「陳雲之」になっています。陳の文字は「つらねる・つらなる」という意味です。
そうすると、歌は 「南山へ つらなる雲の」 とも解読できるのですが、現行の「たなびく」訳に従います。
「青雲」とは、これも神武東征に関係しており、「青雲の白肩の津」を意味しています。
「星」とは、大星山のことです。大星山の山頂に初代の熊毛神社が在りました。
その神霊(御神体)を移す時の様子が歌にしてあるのです。月とは、般若寺のことです。
ご神体は、あちこちの社寺が持ち回りでお世話してあげていたのでしょう。
熊毛神社の由来を持つ所が多いのも当然な成り行きです。
最終的には、同神であることによって、勝間の羯磨八幡宮(現、熊毛神社)に落ち着いたのだろうと思います。
すべては式内制が施行されるよりも何百年も昔の出来事です。それなら、式内熊毛神社は羯磨八幡宮
ではないかと言われると思います。延喜式の問題点については、こちらのページを参照してください。
(上)大星山頂から北東側を見た風景です。
大星山頂から西南を見た風景です。木花の佐久夜姫(砂糖姫)陵墓が神花山古墳です。
ご覧のように、歌は大星山を中心に置いて、南北の状況が歌に入れてあります。
上の写真は神花山の下の海の埋め立て工事が始まったばかりの頃撮影しました。
今は画面左側の海は埋め立てられて景観が変わっています。
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天皇崩之後、八年九月九日、奉爲御斎会の夜、夢裏に習ひ賜ふ御歌一首 古歌集中出
162 明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし 吾大王 高照らす 日の皇子 いかさまに
思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 尽きたる波に 塩気のみ 香れる国に 馬歌が
あやに乏しき 高照らす 日の皇子
この長歌は後の 166番歌まで連携しています。一首単独の長歌ではありません。
そうした意味では、後に続く短歌は反歌四首という注釈が必要なのです。
とりあえず、この長歌を見ますと、初代の伊勢と、今の三重県の伊勢がごちゃ混ぜです。
中央に居ながら初代の地を思っている、という感じです。
「尽きたる波に」の部分。
靡(なびく)という字は、草などがふしたれる意味を持ち、従う、尽きる、滅びる、といった意味を持ちます。
したがって、先の歌にもありました「堰見」と連携しており、尽きる、という意味に重きを置きました。
「馬歌が」の部分。
原典文字は「味疑」となっており、「うまこり」と解読されて来ました。913番歌にも「うまこり」が出て来ますが、
その文字は「味凍」ですから「うまこり」と読めます。しかしこちらは「味疑」です。
「あやに乏しき」の部分。
原典文字は「文尓乏寸」です。乏の部分が「羨」とあれば、うらやましい、とか、こころひかれる、といった意味になりますが、
ここでは「乏」の文字ですから文字通り「乏しい」わけです。先述した「尽きたる波」と「馬歌」を決定できる要素をも含んでいます。
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藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇、天皇元年丁亥十一年、位を軽太子に譲る、尊号を太上天皇と言ふ
大津皇子薨之後、大来皇女伊勢斎宮より京に上りし時御作歌二首
163 神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに
「君もあらなくに」とある一節でこの歌が三重県の伊勢で詠まれたことがわかります。
歌の作者は新しい三重県の伊勢に馴染めなく、私は何しに来たんだろう、と不満顔です。
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164 見まく欲り 吾がする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲るるに
この歌も 163番歌と同じ内容です。
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大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りし時、大来皇女哀傷して御作歌二首
165 うつそみの 人にある吾や 明日よりは 二上山を 弟世登吾が見む
奈良県北葛城郡の二上山です。雄岳の頂に墓があります。
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166 磯の尾に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありと言はなくに
右(上)の一首は今案ずるに、移し葬りし歌に似ず。けだし疑はくは、
伊勢神宮より京に遷し時、路の上に花を見て、感傷哀咽してこの歌を作るか。
ここで元の国へ帰って来ています。
註釈を付ける時に、なぜこの歌だけ磯があるのかわからなかったのでしょう。
「磯の尾」には納蔵原古墳があり、聖徳太子の周防での陵墓だと推定しています。
だから馬酔木(あしび)なのです。
この歌の時点ではもう奈良県の方に改葬されていたのでしょう。
歌の作者は空になった墓に馬酔木を手向けようとしているのです。
これらの一連の歌を見ますと、古事記の置目老媼(おきめのおみな)の動きと
よく似ているのですが、確定するにはまだ不足で、歌の分析を続ければ見えて来ると思います。
続く第6部はこちらです。
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