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高千穂宮


古事記 中巻 通称「神武天皇」の段より 解読著者

神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれひこのみこと)、その伊呂兄五瀬命(いつせのみこと)と二柱、

高千穂宮に坐し、議りて云う。いずくの地に坐せば、平らく天の下の政りを聞かん。

なお東行(投降)を思う。すなわち日向より発ち竺紫に行幸。

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 物語は「すなわち日向より発ち竺紫に行幸。」とありますが、実際には後の「熊野村」からの物語が先になります。

 物語の進行が順序通りになっておらず、前が後になったり、後が前になったりしています。

 とりあえずそのことを前置きして、ここでの分析は本の順序通りに進んでみます。

 では先ず、日向から位置づけてみます。

 


「すなわち日向より発ち竺紫に行幸」

 古事記には「日向」を発ったとありますが、日本書紀には「此西偏」とだけあり、

筑紫の日向を発ったというようなことは記してありません。


 山口県周防の室津半島には「日向平」という所があり、「ひなたびら」と呼んでいます。

 日向平の周辺には縄文・弥生時代の集落遺跡など多く散在しています。

 古事記にある日向を、室津半島の「日向平」としたらどうなるでしょう。

 東へ向かって進んで行ったと信じられてきたものが、実は西の方向へ進んでいます。

 西へ進んで九州方面を侵攻した後、ふたたび室津半島に帰り、

こんどは東へ進んで岡山方面を侵攻です。

 つまり、室津半島を中心にして西へ東へと侵攻しています。




 上の写真は室津半島スカイライン日向平丘陵です。(撮影、平成10年頃)

 笠佐島や野島、周防大島の飯ノ山などが手に取るように遠望できます。

 この道は著者の知る限り、昔からあった道を拡幅したものであり、室津半島の稜線上を縦断しています。

 今はヒノキが成長して(下写真)、スカイライン開通当初の素晴らしい展望は望めません。

 古代史上極めて重要な所なので、道路脇だけでいいですから、展望を一考してほしいところです。




日向平丘陵の現状です。 2010年10月20日撮影。

室津半島には7基の風力発電が建ち、景観はかなり変わりました。
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 箕山(みやま)

 さて、室津半島にある大きな山を南から順に並べてみると次のようになります。

(小数点以下省略)

  皇座山 ( おうざさん )  526メートル
  鳩ヶ峰 ( はとがみね )  422メートル
  大星山 ( おおぼしやま )  438メートル
  箕山  (みやま)      392メートル
  杵崎山 ( きざきやま )  341メートル

 古代には、これらの山の頂上は神域として神社が祀ってあったようです。

 そのなかで今も神社として残っているのは、皇座山と箕山です。

 皇座山には白雲稲荷、そして箕山には「神武さぁ」と呼ばれる「穂土社」があります。

 箕山(みやま)は大星山系にあり、ほとんど大星山と同化しているような山です。

 箕山の方が少し低く、大星山から見おろされているような感じがあります。


箕山の「箕」という文字は穀物に関係しており、その意味は「穀物にまじっているチリやカラなどを

あおり出す道具」
という意味を持っています。高千穂にしても本来の意味は「稲穂をうず高く

積みあげておく所」
といった意味です。現状では地名として受けとられているようですが。

 高千穂の意味と、箕山の意味を比較してみると、どちらも穀物に関係しており、共通性があります。




箕山の位置  N 33度54分50.2秒  E 132度05分37.4秒  位置精度 +− 3m 駐車場にて計測



上の図、穂土社側が高く、駐車場側が低い。

穂土社は箕山の頂上に位置しています。

図左側の「神護寺を経て大野へ下る」道は山道で車は通れません。

「旧道・大星山へ登る」道は古くの登山道です。今は車で登れる道が別にあります。




箕山からの展望。
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箕山に登るには北側ルートと、南側ルートがあります。

現在は車道の整備されている南側ルートから登るのが一般的です。

歴史上どちらのルートも大事ですが、箕山では古事記の推古天皇の記述が

重要になります。よって大野から登る北側ルートを見なくてはなりません。





写真・上下ともに北側ルートにて2006年2月撮影。 車は無理ですが、バイクなら通れると思います。





箕山への北側ルートは、大野の神護寺の所から登って行きます。

神護寺の由来を見ますと、かっては松蓮寺という名で、明治時代に

石城山にあった神護寺を合わせて今の名になっています。


本来は松蓮寺であり、その寺は推古天皇創建の由来を持つ寺でもありました。

古事記を見ますと、推古天皇の陵墓は大野の丘の上に在った。後に科長の

大きい陵墓に遷した、とあります。実際には大野の前後どちらかでも改葬されて

いますが、それは今とりあえず考えずに、大野の丘の上を見ましょう。


大野の丘の上には、今見ている箕山があり、さらには箕山への道中に推古天皇

に関係する寺がありますから、この北側ルートは古事記にある推古天皇の

陵墓跡を決定する上で極めて重要な意味を持っていることになります。






箕山の頂上には神武さあと呼ばれて来た大きな石祠と、

通夜堂と呼ばれて来た石積み遺跡が存在しています。

古事記に記載されている推古天皇の陵墓を考える上で、

その通夜堂が何らかの意味を持ってきます。




 穂土社に登る参道。 公園の脇から参道が昇っています。





境内です。





 神武さあ境内にある二つの大石。 

 京都の六角堂にあるという「中心石」と実によく似ています。

地図を見ましても、ここ箕山と大星山は室津半島の中心とも言える位置です。

 向こうの三角形の石は高さ1m5p。



丸い穴の直径は38〜40pです。





 上の解説版にある徳山市大字下上の「神上神社」は道案内のページに載せています。こちらです。     






 こうした標柱は、よく見ないと文字や年号を削り取っているものもあります。

 例えば、柱の頂点から左右の長さを計測してみると、長さが偏っていたりします。

 本来の文字を削り取ってわからなくしているんですね。古い物を新しくしたのでしょう。

 他所の鳥居などでも削り取った上に新たに年号を刻んだのではないかと

疑いたくなるものもあります。ある程度疑うことも必要になりましょう。





「神武さあ」 「さあ」とは、この地の方言で「さま」という意味を持っています。

位置  N 33度54分49.6秒  E 132度05分40.5秒  位置精度 +- 7m




祠の高さ・・・1メートル90センチ。最下段の石を入れると、2メートルを超える大きな石祠です。

 祠のなかには木札が納めてあり、次のように記してあります。

 「明治八年三月吉祥日」
 「奉造立神武天皇遙拝所合殿穂土社神殿」

 ここでもまた明治が絡んでいます。明治年号が見えるのは木札だけです。

 石祠本体にはどこにも年号など入っていません。 

 方位を計測してみると、明治創建とするにはつじつまが合わない部分が多く出てきます。


祠堂の方位分析はこちらです(内部リンク)。








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通夜堂跡



 神武さあ境内には、通称「通夜堂跡」と呼ばれている石積み遺跡が残っています。

その遺跡の謂れは、日の出を待つ時の通夜に使われていた、というものです。


 一見、防風垣のような感じで、石積みの高さは人の背丈より少し高いくらいです。

屋根などの類は残っていません。この遺跡はその名称で損をしていて、人によっては

昔の火葬場の跡ではないかと言う人もいるのですが、火葬場跡とするには標高が高過ぎます。

葬儀の度にふもとからお棺を担いでここまで登るというのはいくらなんでも現実的ではありません。


そうすると、先に考察した古事記の「大野の丘の上に在った」という推古天皇の陵墓が浮上して来ます。

この遺跡の形態と全く同じのが柳井市の琴石山の中腹に愛宕社跡と呼ばれる遺跡で残っています。

その愛宕社跡の開口部はこの箕山に向いているわけですが、愛宕社跡を母とするなら、

ここは娘として考えることができます。








 開口部付近の石は風化が進んで脆く丸くなっている所もあります。

開口部の風化量に対して、内側(内部)の石の風化具合が少ないところを見ると、

本来は密閉状態にあった、という見方ができます。そうすると、屋根が付いていたか、

または土中になっていた、ということになります。私の見方を率直に申しますと、


ここは推古天皇の殯の宮跡ではないかと推察します。殯とは「もがり」のことです。

「もがり」とは、亡くなった人を遺骨になるまで一時的に安置しておくことを言います。

何年間か白骨になるまで「殯の宮」に安置しておき、数年から十年を経て、ふたたび

取り出して墳墓に埋葬する本葬をします。ですから、殯をしている間の約十年の内に

陵墓を築造します。では、その本葬をした科長の大きい陵とは何処かと申しますと、

大星山のふもとにあります麻里府の海上に浮かぶ阿多田島の阿多田古墳です。


では、本筋である神武さあは何を意味しているのかと申しますと、推古天皇の殯の宮の

番人(番神)として安置された、ということになります。通称神武天皇は初代ヤマトを侵攻

した後、初代ヤマトの王の子である推古天皇と聖徳太子を可愛がります。そうした事は

日本書紀の方に記してあります。つまり、育ての親でもあるのです。

そうした内容はこれから先のページで見ていきましょう。




開口部から中を見たもの。































































 上の縁から見おろしたもの。画面右側が開口部。





同じく上の縁から見おろしたもの。

最上段の石の風化量が多いところを見ると、殯が済んだ後、石積みはそのままに

埋め戻してあったのかもしれないと推察します。それを後世の人が興味本位に

古墳の宝探し的な考えで掘り出してみたのではないかと推察します。

それなら風化量の差を説明できます。




縁の奥側角から開口部を見たもの。





箕山の頂上直下にある公園です。ここは箕山が公園として整備される以前からこんな平地でした。

 山の上としては、かなりの広さがある平坦地で、草原になっていました。不思議な空間でした。

 先ほど見た殯の宮や神武さあを拝礼する形で、祭祀場だったのかもしれないなと思ったりします。

近隣で似たような空間を持つのが田布施町にある四世紀の国森古墳で、そこもこんな広場が隣接しています。






室津半島の大星山からは、晴れた日には九州の国東半島が遠望できます。

 今の周防灘フェリーで2時間少々の距離です。

神武一行は日向平の室津半島から西へ向かって出発し、

周防灘を渡って宇佐に上陸します。



 それなら宮崎県日向は無関係なのかということになりますが、

 そうしたことは歌と方位線で示してあり、無関係ではありません。

 宮崎県日向こそ重要なんです。少しずつ解明していきましょう。




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