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伊勢の前身であることの説明
伊勢の前身があったと思われる琴石山の頂上。 2006年4月撮影。
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合わせて万葉歌の 105 106番歌も参照してください(内部リンク)。
琴石山の中腹にある大神宮と、岩国市由宇町の銭壺山を伝えている物語は、記紀ともに雄略天皇の段に記してあります。
特に古事記の記述は明確に表われており、それらを補う形で日本書紀の記述があります。
日本書紀は書き変えられていることは別章で明らかにしていますが、全部が虚偽ではなく、
古事記と連携していることが窺えます。では、その記述を挙げてみます。
古事記・雄略天皇の段、通称題 「皇后求婚」の部分です。
全文引用すると長文になるので、始めと終りの部分だけ引用しておきます。中間部は諸本を参照してください。
「ここに山の上に登りて國の内を望けたまへば、堅魚(かつお木のこと)を上げて舎屋を作れる家ありき。
〜〜〜〜〜「日に背きて幸行でましし事、いと恐し。故、己れ直に参上りて仕へ奉らむ。」とまをさしめたまひき。」
長文になるので間をとばしていますが、以上の記述の中に「かつお木」、これは神社の屋根に数本程度
載せてある丸い横木のことですが、それが大神宮を表わしています。物語の内容から推察すると、
伊勢は近畿に移してあるのに残っているのはいけないとして焼き払おうとしたことがうかがえます。
だから、大神宮には今でも千木もかつお木も上がっていません。中世には寺院に装いを変えて隠れていました。
対する日本書紀にはこの記述は無く、代わりに虹と神鏡の記述が記してあり、それが大神宮を意味しています。
大神宮の御幣は一般の御幣とは少し変わっておりまして、神殿に五色の御幣が祀ってあります。虹色です。
続いて、「白き犬」の記述があります。それは氷室岳の伊陸に伝わる「犬の尾原」の伝説を意味しており、
記紀ともに白い犬の記述があります。特に日本書紀の崇峻天皇・即位前紀に記してある捕鳥部万の
犬の記述と、柳井市伊陸に伝わる「犬の尾原」の伝説は、まったく同じです。なぜここで犬の記述を
出すのかは、場所を特定させるためです。犬と言えば伊陸であり、そこには大諏訪神社があります。
大諏訪神社の方位は銭壺山の大将軍山・霧峯神社を指しています。初代伊勢の 2社の内の 1社です。
続いて銭壺山の記述は、「日に背きて幸行でましし事、いと恐し。」この部分に集約されています。
柳井市大里にある大帯姫八幡宮は東へ拝礼しますから、社殿は日に背を向けています。
そして拝礼する方向(社殿の背側)は銭壺山の頂上です。
では、なぜ銭壺山が伊勢になるのか、琴石山にも伊勢があるにもかかわらず2つの伊勢は不可解です。
その意味について説明します。
まず琴石山を、からと水道の初代ヤマトの中心地から見ます。中心地を定めるには神話を手掛かりにします。
ひとつは、古事記にある通称「葦原の中つ国の平定」の段の「事代主神の服従」の前後にこんな記述があります。
「ここに天鳥船神を建御雷神に副えて遣わす。ここをもって、この二柱の神、出雲國の伊耶佐の小濱に降り到りて、
十掬釼(とつかつるぎ)を抜き、逆に浪の穂に刺し立て、その釼の前にあぐみ坐し、その大国主神に問ひて言ふ」
次に「火遠理命」の段の「海神の宮訪問」に記してある井戸。その井戸は船が埋納してある地点に近接(約百メートル)
の所にありますから、天鳥船神が埋納船を意味し、また浪の穂に刺し立てた十掬釼(とつかつるぎ)が初代出雲大社の
高層神殿を意味しています。そのことは、そこが初代ヤマトの中心地点と見ていいと思います。
初代伊勢を決定付けるには、その中心地点からの日の出が重要な鍵になります。
中心地から琴石山は 90度方向になります。
中心地で琴石山から昇って来る日の出を観測しますと、4月13日と、8月30日です。
昇って来る時刻は、電波時計で 6時02分でした。
4月13日は農耕の開始時期を意味しており、伊勢の意味がそこにあるのです。
画面まんなかの送電鉄塔の向こうの尖がった山が琴石山です。
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余談になりますが、十掬釼(とつかつるぎ)が初代出雲大社の高層神殿を意味しているなら、星座も大事です。
星座のオリオンが釼(つるぎ)の前(さき)にあぐみ坐すのは、1月28日〜2月1日の深夜 1時〜2時の間です。
その時期に、からと水道の余田や新庄の辺りから西を仰ぎますと、オリオンは頭を上に立って沈んでいきます。
すなわち、十掬釼(とつかつるぎ=高層神殿)の前(さき)にあぐみ坐して事問いをするのです。
その時、同時に舟形の月(上弦の月)が波野スフィンクスの頭(顔の部分)へ沈んでいきます。
それらの天体ショーはほぼ同時刻です。
また逆に、東側の稜線を見ますと、仰向けに寝て天を仰いでいるオリオン(上写真)がいます。
三ヶ岳(みつがだけ・画面左側)が顔です。日の出はその剣の柄(琴石山)から昇ってきます。
つまり、この図をぐるっと天空を回して西側にしますと、剣を逆(さかしま)に波の穂に突き立てる形になります。
以上のデータは、2004年の冬に私が現地に立ち、実際に目視確認をしたデータです。
さて、初代ヤマトの中心地点から見た伊勢の位置は、農耕の開始時期を日の出位置によって表わしていました。
その日の出位置は琴石山であり、その頂へ神社(伊勢)を祀ることによって豊作を祈願したのでしょう。
しかし、他国からの侵略により、人々が移住を余儀なくされ、初代伊勢の名残りは中腹の大神宮へ引き継がれます。
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こんどは、綿花農園跡と推測する石城山から観測してみます。
石城山の峰は小分けして 5峰ありまして、その内の最高峰は高日ヶ峰です。
頂上に高日神社がありますからその境内から観測します。
2011-12
石城山の高日ヶ峰頂上。
注意・ロックセクションがあるので一般のバイクでは登れません。
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高日ヶ峰から見た方位は、銭壺山が 85〜90度(頂上 86度)、大将軍山が 81度です。
銭壺山はなだらかな横広がりの山で、85〜90度という巾のある数値になります。
その数値を見ますと、前述した初代ヤマトの中心地点から見た琴石山の方位と同じです。
日の出をふもとから見たら琴石山、石城山から見たら銭壺山、
その山から日が昇ってくれば農耕の始めを意味しています。
以上の事を見て、ヤマトの中心地から見た日の出と、石城山の綿園の栽培地から見た日の出の
時期を同じ時期に合わせ、それぞれの日の出位置に伊勢を祀り、農耕の祈りとしたのです。
2つの伊勢があるのはそうした訳です。
2010-11
銭壺山の頂上。画面左の小丘が頂上。
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2010-11
銭壺山の頂上にはお地蔵様が安置してあります。
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銭壺山の頂上に在ったと推測される伊勢は、琴石山の伊勢と同じ運命をたどります。
銭壺伊勢を引き継いでいるのは大将軍山の頂上に在る霧峯神社と思われます。
その証明のひとつとして、石積みの石囲いがあります。琴石山の愛宕社跡と同じです
霧峯神社の石囲いは防風垣として考えられますが、
海は東南に開けているのに対し、石囲いは西側です。
そうした事を見ても、共通性を持たせるために石囲いを設置したのです。
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琴石伊勢・銭壺伊勢の降臨した島とその社
琴石山から見おろす周防大島
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ホームページビルダーの関係で返り点を省略しています、諸本を参照してください。
天照大神誨倭姫命曰是神風伊勢國則常世之浪重浪歸國也傍國可怜國也欲居是國
日本書紀の記述は、初代の伊勢と今の三重県の伊勢とがごちゃ混ぜに記述されています。
つまり、記述された当時は居残り組と移住組とで分かれていたことをも暗示しているようです。
銭壺山から見おろす周防大島
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初代の伊勢は周防大島に降り立ちます。
周防大島には、降り立ったアマテラスを祀る神社が全部で 6社あります。
周防大島の東側に 3社、西側に 3社。 3社という数は英語の SUN を意味しています。
古記録や現地調査を経て、これで間違いは無いと思います。東側からの順です。
筏八幡宮
神山神社
下田八幡宮
戸田神社
横見新宮神社
志駄岸八幡宮
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