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周防解読万葉歌 第6部

巻第二 167番歌〜193番歌まで




167番歌、後半

日並皇子尊、殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并短歌

(167・後半より) 皇子の尊の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴からむと 望月の 彌都(みつ)は除けむと 天の下 「一云・食す国」 

四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか も無き 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 

明け言に 御言問はさず 日月の 数多なりぬる そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも 「一云・さす竹の 皇子の宮人 帰辺を知らにす」


反歌二首

168 久かたの 天見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門の 荒れまく惜しも


169 あかねさす 日は照らせれど 鳥王の 夜渡る月の 隠らく惜しも
「ある本は、件の歌を以ちて後の皇子尊の殯宮の時の歌の反とせり」



変更部分は黄色文字で表示しています。

167番の大意、彌都(みつ)の部分、原文字で書きますと 「 満波之計武跡 」 とあります。

彌都の意味は古事記の神話にありまして、「 彌都波能賣神(みつはのめのかみ) 」

この神は初代ヤマトの中心部に位置していた神です。

よって大意は、初代の存在していたことを隠してしまう、という内容です。


「明け言(あけごと)」 とは、天孫降臨に出てくる有名な一節を意味しています。

「 此地は辛国に向かひ、笠佐の御前を真来通りて、朝日のただ射す国、夕日の日照る国なり。故、此地はいとよき地 」

この一節は室津半島・大星山の頂からの展望を表現したものです。かって大星山の頂には熊毛神社の前身がありました。

だから、「皇子の宮人 」とは、神社に仕える宮司たちのことです。神社は荒廃して宮司たちもどこへ行ったかわからない、

そうした状態を歌にしています。そうして長歌の内容は続く反歌の「荒れまく惜しも」へと受け継がれています。


169番歌の 「鳥王」 は原文字は王ではなく玉(たま)ですが、歌を持って現地に立つと 「鳥王」 だと直感します。

大星山の東側ふもとは伊保庄です。伊保庄の本来の地名は 「烏王の庄(うおうのしょう)」 です。

そこには伊保庄賀茂神社があり、五十鈴姫を祭神としています。だから「あかね」「日」「月」が入っているのです。

歌の読みは「うおう」ではなく、「とりおう」と読むのが正しいと思います。伊保庄賀茂神社の前面には烏島という

鳥の頭の形をした島があります。また、伊保庄の高須という所には「小烏神社」もあります。そうしたことから、

歌では「とりおうの」と解読するのが本来だと思います。王に点を加えて玉にすることは後でもできますから・・・。





170 嶋の宮 曲がりの池の 放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜かず


嶋の宮と呼ばれた宮殿は複数あります。

この歌の嶋の宮は、「曲がりの池」 とあることによって、どの嶋の宮を言っているのかわかります。

からと水道跡の八幡の瀬戸は水道が直角にカーブしていた所です。そこは、いつの時代か堰き止められて

池になっていたようです。万葉歌にもあることによって、堰き止められたのは万葉以前であることがわかります。

現地には今も通称 「流れエビス」 と呼ばれる祠があります。そのすぐ近くには石塔灯台もありまして、かっては

海路だったことを今に伝え残しています。この170番歌はそこで詠まれたと思われます。

以下は関連するページの内部リンクです。

うねる水の道の曲がり角   堤防跡の痕跡をたどる





皇子の尊の宮の舎人等が慟傷して作る歌二十三首

171 高光る 我が日の皇子の 萬代に 国知らさまし 嶋の宮はも


この歌は、橘の豊日命(用明天皇)のことを詠んでいると思われます。

高光る、とあることでわかるのですが、用明天皇の御陵は古事記によりますと、

当初は 「 石寸掖上在 」にありました。この読み方は、「 石城の脇の上ゲに在り 」です。

波野スフィンクスの東側前脚の先端部分がそれです。昔は林松坊(りんしょうぼう)と呼ばれていました。

昭和初期の頃まではそこに石祠が祀ってあったのですが、地域の要望により、八幡八幡宮に合祀されました。

対する西側前脚は、小山と申しまして、万葉歌では香山の表記になっています。そこにも古墳跡があります。

つまり、波野スフィンクスの前脚先端は、左右共に古墳が存在していたようです。

ただ、左右共に殯の古墳跡だろうと思います。


171・172・173番歌に関連する写真ページです。(内部リンク)





172 嶋の宮 上ゲの池なる 放ち鳥 荒びな行きそ 君まさずとも


171番歌がわかれば、この歌も同じく橘の豊日命を詠んだ歌です。

「 上の池なる 」で随分惑わされたのですが、これは「 上ゲの池なる 」と読めば、

橘の豊日命の周防大島の安下庄(あげのしょう)とで一致します。

上ゲの池とは、からと水道のなごりとして入り江が池になっていたようです。

入り江の池を証明している歌が古事記の雄略天皇の段にありまして、

「 日栄えの 入り江の蓮 花ば死す 美の盛り人 羨しきろかも 」

花が入っていることにより木花の佐久夜姫を詠んだ歌だと思います。入り江の蓮です。


写真ページは前の 171番歌と同じです。





173 高光る 吾が日の皇子の 居ましせば 嶋の御門は 荒れざらましを


この歌も前の二首と連係しています。

写真ページは前の 171番歌と同じです。






174 外に見し 真弓の岡も 君ませば 常つ御門と 侍宿するかも


橘の豊日命の最初の陵墓があった上ゲから大星山を見ますと、弓の形をしています。

ふもとには野島と玖珂島があり、両島ともに弓を作っていた由来です。

この歌での君とは誰を言っているのかは、大星山の頂には、かって初代の熊毛神社がありました。

その祭神は、波の穂を踏んで常世の国に渡った御毛沼命です。



写真ページはこちら (内部リンク)





175 夢にだに 見ざりしものを おほほしく 宮出もするか 佐日の隈廻を


夢が出てくることにより、光市の冠天満宮の由来が浮上してきます。神武東征の井氷鹿です。

宮出とは宮殿(神社)を出発する意味だと思います。佐日を廻るために出発する意味です。

佐日とは佐田や日積を意味しており、その隈廻ですから、通称の神武侵攻があったルートです。


写真ページは神武東征・井氷鹿に繋ぎます。 (内部リンク)






176 天地と 共に終へむと 思ひつつ 仕へ奉りし 心違ひぬ


イザナギイザナミ神話が根本にあると思います。

イザナギイザナミの解説ページに繋いでおきます (内部リンク)






177 朝日照る 佐田の岡辺に 群れ居つつ 吾等泣く涙 やむ時もなし


佐田の岡辺とは、石城山のことです。

石城山から 1月1日の朝日を見ますと、丁度、周防大島の安下庄の辺りから昇って来ます。

安下庄には秋国の多祁理宮がありました。多祁理宮は万葉の嶋の宮のひとつでもあります。

多祁理宮 (嶋の宮) は、今は長尾八幡宮になっています。


177番歌の写真ページはこちら (内部リンク)






178 御立たしの 嶋を見る時 にはたづみ 流るる涙 止めそかねつる


この歌も前の 177番歌と連係していると思われますが、「にはたずみ」という明確にならない言葉があります。

原文字は 「 庭多泉 」 です。これは他の読み方があるのではないかと思います。

この読み方を確定すれば「御立たしの嶋」が何処の嶋を言っているのかがわかると思います。

現状では詠まれた場所の確定は困難です。






179 橘の 嶋の宮には 飽かねかも 佐田の岡辺に 侍宿しにゆく


歌の意味は、橘の嶋の宮に飽きることはないが、佐田の岡辺に行こう、という内容です。

現地での進行順としては、この 179番歌が先にあって、続いて 177番歌という順になります。

ここでの嶋の宮は、歌に橘が入っていることにより、古くは美敢郷(みかんきょう)と呼ばれていた周防大島であり、

安下庄の多祁理宮を言っています。周防大島の安下庄から石城山へと廻る行程です。

石城山は、かって仏教寺院で栄えた所ですから、そこで侍宿したのでしょう。






180 御立たしの 嶋をも家と 住む鳥も 荒びな行きそ 年代はるまで


この歌だけで考えると、詠歌地点は特定できません。

歌中の嶋を周防大島とするなら、北辰妙見宮の 「 お鳥食い神事 」 があります。

ところが、歌の並び順が不規則な点を考えて並べ替えてみると見えてきます。

海の後退と共に沖へ沖へと移動して行った塩の神のことを詠んでいる可能性があります。

歌の並び順を歌番号で示すと、182⇒180⇒181 になります。そのことを前置きして次へ進んでみます。




鉛筆は場所を指しているだけです関係ありません 。^^。
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181 御立たしの 嶋の荒磯を 今見れば 生ひざりし草 生ひにけるかも


この歌を塩の神の移転としてとらえると、前の 180番歌の後の状況になります。


写真ページはこちら (内部リンク) 解説を多く入れています。ぜひご覧ください。






182 鳥垣立て 飼ひし雁の子 巣立ちなば 真弓の岡に 飛び帰り来ぃね


鳥ぐら(とぐら) の文字ですが、現状は一応「くら」と読んでいます。

しかし、その「くら」の文字は諸本によって、いろんな文字が使われています。

まず、土辺と木辺とがあり、どちらの文字も見あたりません。無い文字です。

さらに、「垣」の文字が使われている本があります。「とがきたて」です。


この歌は、からと水道の荒木の西北に波野天神と呼ばれる天満宮がありまして、

古記録では波野府天満宮と記してあります。そこには「 雁 」を詠んだ歌が残されています。

その歌については別ページで解説しています。波野天神から南東の方向を遠望しますと、

弓の形をした大星山があります。今の風力発電が建っている山です。そうしたことにより、

この歌は波野天神で詠まれていると確信するのです。


天満宮は菅原道真を祭る神社であり、年代的に新しいと言われるのが常ですが、それは

後に入った祭神です。波野天神の創建当初は塩田の神として祀られます。やがて海が遠ざかるにつれて

塩田の神も沖へ沖へと移動して行きます。波野天神から荒木神社、野島・玖珂島神社へと

移転して行くのです。そして、最初の塩の神を祀った神社は空になりますから、

菅原道真という新しい神を迎えて今に至っているという推察です。


そうすると、歌の並び順は、この182番歌が先であり、そして、180 から 181 へと進行していることになります。



写真ページはこちら (内部リンク)





183 吾が御門 千代 とことばに 栄えむと 思ひてありし 吾し悲しも


現在のJR・田布施駅から東へ数百メートル程度歩いた丘の上に祇園八坂神社があります。

さらにその東側の丘を今は大内公園と呼んでいます。そこは、縄文・弥生遺跡でもあるのですが、

その丘は、波野スフィンクスの前脚が香炉を持っている形でもあります。そこは初代の上宮跡

だと確信している所です。現在の中央の上宮の前身です。上宮といえば聖徳太子です。


歌の原文字を見ますと、「 千代常登婆尓 」とあります。

これに区切り線を入れますと、「 千代 / とことばに 」となります。

 「 とことば 」です。仏足石歌に「 とことば 」という言葉が出てくるそうです。

よって、歌の解読は、千代でいったん区切り、とことばに、と読むのが正しいと思います。

 (仏足石歌) 奈良薬師寺の仏足石歌碑に刻まれた二十一首の歌。575777と七音多い(短歌は57577)。


写真ページはこちら (内部リンク)






184 東の の御門に 侍へど 昨日も今日も 召す言もなし


この歌を追究すると、基準地点をどこに置いて東と言っているのかが問われます。

その基準となる地点は古事記にあり、「市辺の忍歯王の難」に記載してあります。

場所を特定できる一節を引用してみます。


途中より 「 淡海の久多綿の蚊屋野は、多に猪鹿あり。その立てる足は荻原の如く

指し挙げる角は枯松の如し。」 この一節があることにより、後の顕宗天皇でもある

袁祁命に繋がっていきます。袁祁命は父の市辺の忍歯王の遺骨を掘り出して

蚊屋野の東の山に御陵を造って葬ります。






以上を見れば、歌の基準地点は波野スフィンクスの東側ふもと、後ろ足の辺りです。

そこには天王原古墳がありまして、古事記の記述、殺した市辺の忍歯王を馬のかいば桶に

入れて、平地同然の所に埋めた、とある記述と一致する古墳跡です。袁祁命はそこから父の

遺骨を掘り出して、蚊屋野の東の山、今の水口茶臼山古墳へと改葬します。


そうすると、歌の荻の御門とは水口茶臼山古墳だと思われますが、もうひとつ。


歌中の荻は「袁祁命」をも意味しており、袁祁は「荻」です。

今は「おけ」と読んでいますが、荻の命、それは聖徳太子のことです。

 そして、荻の命といつも一緒にいる意祁命とは「沖」と読みます。

沖の命、それは推古天皇です。


なぜ沖になるかと申しますと、荻の命の古墳は納蔵原古墳です。その古墳は

前方後円墳ですが、前方部は麻里府の阿多田古墳へと向いています。

納蔵原古墳から見て、阿多田古墳は沖になりますから、沖の命です。


そうすると、荻の命の古墳は波野スフィンクスの東側ふもとにありますから、

万葉歌の「東の荻の御門」で涙しているのは、納蔵原古墳とも受けとれる訳です。

結局、父と子の関係ですから、歌はどちらも語っていると見るのが妥当かと思います。


以下のリンクページは新しく見直しをしました。ぜひご覧ください。

石城山・ (内部リンク)。


波野行者山 (内部リンク)


天王原古墳・納蔵原古墳・水口茶臼山古墳・写真ページ (内部リンク)








185 水伝ふ 磯の浦廻の 石つつじ 茂く咲く道を またも見むかも

みずつたう いそのうらみの いわつつじ もくさくみちを またもみむかも


この歌を原典文字で買いてみますと以下のようになっています。

水傳磯乃浦廻乃石乍自木丘開道乎又将見鴨


茂く咲く (もくさく) 、と訳している部分は『木丘開 』の文字になっています。

茂く ( もく ) の言葉自体に異論はありませんが、木丘を ( もく )と読んでいいのだろうかと、

疑問を抱きます。もし、『 茂く 』と詠むなら、なにも木丘の文字をあてなくともいいはずです。

この歌の作者になって考えてみますと、いちおう茂くと読ませておいて、実は他の意味を

内包させているのではないかと推察してみました。そうして他の読み方を考えてみますと、

少し冗長かもしれませんが、以下のように解釈でき、方位線もその通りになっています。

見ず伝ふ 磯の浦廻の 石つつじ 気球開く道を またも見むかも

これは、文章で説明するよりも、方位線の事実を挙げてみます。


分析ページです。 (内部リンク)







186 一日には 千度参りし 東の 大き御門を 入りかてぬかも


ここまで見て来た歌の一連の繋がりから導き出しますと、

この歌は、石城山の東門跡で詠まれたと考えられます。


こちらのページで解説します (内部リンク)








187 つれもなき 佐田の岡辺に 帰り居ば 嶋の御橋に 誰か住まはむ


「つれもなき」の意味については、今の言葉で言うなら「つれない」という意味であり、

国語辞典から引用しますと、「思いやりがなく、つめたい」 とか

「よそよそしい」 「そしらぬ顔をしている」 などといった意味になります。


詳細はこちらのページをご覧ください (内部リンク)。








188 朝曇り 日の入りざれば 御立たしの 嶋に下り居て 嘆きつるかも


朝曇りの部分の読み方が問題点になります。

詳細はこちらのページをご覧ください(内部リンク)。









189 朝日照る 嶋の御門に おほほしく 人音もせねば 真浦悲しも


 この歌も「朝日照る」の部分を原典では「旦日照」となっています。

前の188番歌でも説明しましたが、ここでの「旦」の文字には方言が入っているらしく、

方言の「田ん(たん)」とすると「田の〜」という意味になります。田とは木花の佐久夜姫を意味しており、

神花山古墳の神花神社の由来にも田が出てきますし、そのふもと一帯を田名(たな)と呼んでいます (内部リンク)。

 次に、「嶋の御門」、ここでの御門とは前の184番歌にもありましたように陵墓を意味しています。

墓をそのままストレートに墓と詠んでしまったら味気ないでしょう。歌詠みの心情と言いますか、ロマンです。

詳細はこちらのページをご覧ください (内部リンク)。









190 真木柱 太き心は ありしかど この吾が心 鎮めかねつも


この歌の「真木柱」とは、出雲大社の前身でもある高い塔の柱を言っています。

歌の意味は、太く高い柱を建てても私の心は鎮められない、といった意味です。

現地の地下深くには、「加良怒 (からと)」と呼ばれていた双胴船と思われる船が埋めてあるはずです。









191 毛ころもを 時かたまけて いでましし 歌の大野は 思ほえむかも


この歌のポイントは、原文字の「宇●乃大野者」の部分、●をどう読むかです。

私のホームページビルダーでは書けない文字なので、●にしています。

IMEパッドでは出るのですが・・・・・●の文字は諸本を参照してください。

●の字は「タ」とか「チ」になります。そうすると、読みは「歌の大野は」になります。


写真ページはこちらです (内部リンク)。









192 朝日照る 佐田の岡辺に 鳴く鳥の 夜泣きかへらふ この懇ろ


佐田の岡辺とは石城山のことを言っていることは前で説明しました。

石城山から佐田を見おろせる所に夜泣き石と呼ばれる石彫遺跡があります。


解説と写真ページはこちらです (内部リンク)。









193 はた子らが 夜昼といはず 行く道を 吾はことごと 宮道にぞする

右(上)日本紀曰く、三年己丑夏四月、癸未の朔の乙未に薨ず。


23首はこの歌が最後になります。

今まで挙げて来た一連の23首は、どんな人々の集合体だったのか、

この歌が決定付けています。それは初代ヤマトの子供たちを引率して

疎開していた女性たちです。


詳細はこちらのページです(内部リンク)。





福岡県福津市  宮地嶽神社の駐車場にて宮地嶽。





山口県熊毛郡田布施町御蔵戸(みくろうど)にて波野行者山。





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