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兄ウカシ・弟ウカシの陵墓跡の研究



陵墓跡を探る前にまず古事記の記述から載せてみます。


その地よりゆき行き、忍坂の大室に到りし時、尾生ふる土雲八十建て、その室に在り待ちいなる。

故に天つ神の御子の命以ちて和え(和え物)を八十建てに賜ふ。ここに八十建てに宛、八十膳を置く(供える意味)。

人毎に太刀佩く。その膳夫らへ教えいわく。歌を聞きしば、一時共に斬れ。故、その土雲を討たむを明かし歌いいわく。


忍坂の 大室屋に 人多に 来入り居り 人多に 入り居りとも みつみつし 久米の子が くぶつつい 

石つつい持ち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子らが くぶつつい 石つつい持ち 今撃たば良らし


かく歌ひて太刀を抜き一時打殺也






 伊陸の中心部から直線距離にして約 4〜5キロ東南へ行った所に小国という所があります。

 我々は広域の名で日積(ひづみ)と呼んでいます。







 (享和年中(1801〜1804)編纂・玖珂郡志・より)

日積村

 旧記曰、日積は日月乃村と云。日を積んで月と成との古語也。

 故に当郷は日月之表儀也。斎奉る伊勢両宮の古い謂れ也。







 小国には山頂古墳がありまして、由来は中世の年代とされてしまっている古墳があります。

 中世とされている背景には玖珂郡志などの古記録にそうあるからなのですが、

この辺の古記録にある記述の多くは年代を新しくされてしまっています。

その背景には戦国大名の関連性が出て来るわけです。つまり、自分の手柄です。


古事記などを基に根本から繋いでいきますと、ここは古事記の景行天皇の段に登場する大碓・小碓

兄弟の陵墓であることになります。つまり、伊陸で登場したウカシ兄弟こそ大碓・小碓であります。

そして大碓・小碓兄弟はヤマトタケルの物語に登場しますから、この古墳はヤマトタケルの初代陵墓

であるということになります。ヤマトタケルは白鳥になって飛んで行きます。それは改葬を意味しており、

ここから平生町佐賀の白鳥古墳に改葬されたと思われます。


上の写真は小国茶臼山古墳への登山口で撮影したものです。

 車の向きが出口方向に向いていますが、画面では向こうに登って行きます。



玖珂郡志より (享和年中(1801〜1804)編纂)

 小国城山
(「しろやま」・茶臼山のことです。) (欄外・稲葉ヶ城)

 本丸三間半に四間程、廻り三段、西に堀切、ニ。

 城主明らかならず。一説に重藤因幡守という者、住居せしと申伝。

 上の平みに城主墓とて石畔有。

 この城山に登り化女に逢ば、即病気となる故に姫ヶ城と云。

 城山の南の原を城ヶ原と云。首塚とて小高き所あり。

 一説に、所の地下人、同所茶臼山に小城構住たると也。

 然るを海賊槇尾山より取り掛け、合戦に及。その時の首塚と云。

 形、今に有之。又、一説に此山の西に、トウゲン山に敵籠り戦たるとて、此山にも首塚あり。



冒頭に載せたように古事記には『 忍坂の大室屋 』の記述があります。

忍坂を、忍道と坂川の合わせだとすると、その頭文字を採って忍坂です。




北側に道、南側に



大室屋というのが意味不明なのですが、室(むろ)とは洞窟をも意味します。

洞窟を言っているとすると、先ほどの坂川の西隣りに宮ヶ原という所がありまして、

そこには『 コウモリの穴 』と言われていた洞窟の記述があります。以下に載せてみます。


玖珂郡誌より (享和年中(1801〜1804)編纂)

(読みやすいように現代文に変えました。)


コウモリの穴

琴石の麓、日積方宮ヶ原の頭に在り。この穴、入り口一間程、高さニ尺余り。這いて入れば中は畳五六枚敷けるか。

或は十五間程立ちて行けるか。その奥に又狭き穴あり、人、身を縮めて行くに、其の所に井あり。深きこと計り知れず。俗に鳴戸へ通ずと云う。

そこを過ぎて、又六七畳も敷けるか、広き所あって、始めのごとし狭き所を過ぎ、又広き所あり。かくの如き所を幾所と云うことも知れず。穴の深さ測りがたし。

出口の井ある穴、或はそのニ三の穴迄は人行けるといえども、その先より行く者なし。コウモリ多き故、穴の名とす。

『東鑑』仁田四郎、人穴の類いか。又、『大和名所図会』に春日山に、窟の深さ六七歩にして中にコウモリの巣あり。これより蝙蝠ノ窟と云う。所の者は仙宮ノ窟と云う。


古事記の歌の意味は戦いの歌ではなく、洞窟掘りの様子を歌にしたのかもしれません。

いずれにしても、古事記の記述の通りに大きい室(洞窟)があります。


では、なぜ忍道と坂川の頭文字を採って忍坂と記したのかという疑問は、

古墳の双方中円墳を意味している可能性があります。以下で見ていきましょう。




小国茶臼山古墳




 小国茶臼山古墳の頂上。

 この丘の周囲は階段ピラミッドのように段々構造になっています。

 由来記にも「〜廻り三段、西に堀切、ニ」とあります。






 画面左側に見えている大師堂が頂上です。画面右側の段は、頂上から一段目になります。





現状で確認できる範囲で図にしてみました。

こんな真円ではありませんが、およそこんな感じです。

一段目の土手に円周の外方向へ向けて石仏が取り巻いています。




頂上から数えて 1段目の周囲を回ってみます。

 古墳の周囲、上から一段目はよく残っており、段はぐるりと古墳の周りを廻っています。

 段には多くの舟形地蔵(観音仏)が古墳の外方向へ向いて取り巻いています。

 手で撫でると砂粒がポロポロとこぼれ落ちるものもあり、その風化量は尋常ではありません。













冒頭に載せた古事記の記述にある『八十建 』とは、このことを言っている可能性があります。






 上と下の写真 2枚は墳丘の裏側(北側)で撮影したものです。

 墳丘の周囲にある石仏の数は現状で確認できるのは二十四体あります。

 さらに参道に十体ありますので、堂宇外にあるのは全部で三十四体ということになります。





 三十四体という数は三十三体観音であり、三十三は古事記に記載されている天皇の数でもあります。

 頂上を取り巻いている二十四体は年齢を表わし、また、二十四節季であり、それは太陽神(女神)によって生じるものです。

つまり、古墳の周囲は女神によって守護されている、と解釈しました。女神であることは由来にも抽象的な記述で記してあり、

「この城山に登り、化け女に逢へば即病気となるが故に、姫ヶ城と云」 とあります。

たぶん、本来の記述は「即病気の治るが故に」ではないかと思います(笑)。





 この丘からの展望は雑木が茂って見渡せませんが、木々の隙間から銭壷山が見えます。

 銭壷山は伊勢に関連しており、太将軍山の頂上にある霧峰神社がそれに相当します。

 また、雑木が無ければ琴石山も見えるはずです。琴石山も初代伊勢の名残りです。

日積の由来記にもありますように、「伊勢両宮」の意味です。




では、こんどは頂上を見てみます。




 茶臼山大師堂








頂上図 A の石祠です。





頂上図 B C の石祠です。

なぜ前後関係になっているのかは不明です。

推測するに、手前側の石祠が何らかで崩壊したので後ろ側に新しい祠を建てたかと思います。



次に、こんどは太子堂の内部を参拝してみます。




 大師堂に安置してある石彫仏です。 総高 50センチメートル。

 この舟形の石彫仏は一般の仏像では見かけないスタイルをしています。

髪型などを見ましても明らかに古代を連想させる髪型です。

 だからこそ特別に堂内に安置してあるのだろうと思いますが、

 これこそ古代ヤマトタケルの姿だと直感させるものがあります。








右側の地蔵菩薩は、この堂宇が太師堂という名からして弘法大師の石像だと思われます。

 地域の人々の信仰も厚いようです。

以上のことを見まして、この古墳こそウカシ兄弟の最初の墓だと思います。




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小国茶臼山古墳までの道案内




 遠方から来られる方は、どの山かわからないだろうと思います。

 まず先に日積・大里の「大帯姫八幡宮」に参詣してみてください。

その参道の石段から西の方向を見ます。それが上の写真です。





 ズームで拡大してみました。赤矢印が小国茶臼山古墳です。


 この古墳は円墳というのが通説です。ところが、古墳周辺を歩いてみますと、

あくまでも私の推測ですが、本来は双方中円墳だったのではないかと思わせる一面があります。

双方中円墳は、岡山県の楯築弥生墳丘墓のような形態を言います。






 まず最初に、日積の大帯姫八幡宮を探してください。

 そこから上図のように走ればわかりやすいと思います。

クリックと書いている部分は現地写真へ跳びます。


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 地図の 0.9キロ地点。赤矢印が小国茶臼山です。

 この先のT字路交差点を左折です。


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 上写真の地点を左折したら、約七百メートルで下の写真の地点になります。


 

地図の 1.6 キロ地点です。




同じく 1.6 キロ地点。撮影方向を変えて写したものです。

この道を登って行きます。右側の電柱横に小さく標柱が見えています。


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 細い山道を登って行きますと、道はほぼ平坦地状態になります。

 分岐点が幾つかあります。道が下っていなければ大丈夫です。

 心細い道を過ぎると、上の写真のように少し開けた所に出ます。

 私の車は向きを変えています。こっちから向こう方向です。

 ここから先は普通車だと方向転換が少し苦しくなります。

ここに車を置いて歩くほうが良いと思います。


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少し歩くと再び分岐点があります。

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頂上直下にも分岐点があります。

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 登り始めると、道の両側にお地蔵さまが連なって行きます。

お地蔵さまを見ながら登って行くと頂上に出ます。





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