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大物主の神と大穴牟遅の神/研究
大物主の神
イナバのシロウサギからの続きです。大物主の神と大穴牟遅の神を研究します。
日本書紀には大物主の神と大穴牟遅の神は同神と記しています。
しかし、古事記には大物主の神は含まれていません。
稲葉と三輪神社は約千五百メートルの距離を置いて、目視できる距離に存在しています。
はたして、この二神は同神なのか、大物主の神を祀る三輪神社を見ていきます。
まず三輪神社のことから証明しなくてはならないので、根本的な由来からになります。
西側から見た金比羅山。ふもとを丹塗り矢伝説の田布施川の源流が流れています。
天保年中編纂の防長風土注進案には、この山を以下のように記しています。
古城山、當時金比羅山と相唱候事。
金比羅山の頂上には三輪神社があります。
天保年中編纂、防長風土注進案 三輪村より
三輪大明神
祭神五社 大己貴命 金山彦尊 大山祇尊 崇徳天皇 素盞鳴尊
古城山山頭鎮座、この神は過る元文年中(1736〜1741)の比年々村方田作枯穂の愁ありし候ゆへ、
穂の木別枯穂一株宛を巓(いただき)に埋め稲穂塚と号し、讃州金比羅大権現を内密勧請し、
三輪大明神と唱へ村中の鎮守と崇め奉り、以来枯穂の愁へ無きし。年三度祭りの内、三月十日
三輪市へ神幸をなし氏人崇敬し候。古城山を今にあたりても金比羅山と唱へ来候事。
三輪と言えば古事記の崇神天皇の段にある三輪山伝説です。
崇神天皇の名を御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)と申します。
師木の水垣の宮で世を治めます。
この天皇は木の国造の娘と結婚して豊木入日子命をもうけます。
木が続いて出てきます。
三輪神社の由来(先述)には「穂の木別枯穂一株を巓に埋め・・・」とあります。
古事記の崇神天皇の段は話しが前後していて、時間的経過で物語るなら三輪山伝説が先になくてはなりません。
物語の編纂上でのそうした特異的な面を理解することが必要です。
要するに、始めにダーッと簡単に語っておいて、後で詳しく語る、といった感じです。
原典に段落の開けはありません。文法は定まっておらず今の小説のようにわかり易くないです。
三輪山伝説のあらすじを簡単に載せてみます。
活玉依比賣(イクタマヨリヒメ)という美しい女性がいた。
その女性の所に毎晩通って来る男がいた。いくらも日にちが経たないうちに女性が妊娠した。
女性の父母は不審に思って、どんな男かと娘に問うも、名前も知らない麗しい男としかわからなかった。
父母は娘にその男の着物の裾に糸を結んでおきなさいとアドバイスする。
夜半になると、いつものように男が来て、また帰って行った。
翌朝、糸のまにまにたどって行くと、美和山に至って神の社に留まった。
故、神の子であると知る。
糸は三輪ほど残ったので其処を名づけて美和と呼ぶようになった。
物語のあらすじは以上です。
この三輪山伝説とよく似た物語が南方の方に散在しているそうです。
そのことは、物語の伝播経路として、南方に関連しています。
それを暗示するかのように金比羅山と呼ばれています。
金比羅というのは南方の魚の名前「クンピーラ」だと聞きました。
参道の石段は築造年代によって幅を分けられます。
この石段は幅が 1m20cm 前後で、古いタイプの石段です。
上昇角度は 30度 です。
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三輪神社は山頂にありまして、その直下は山頂をグルリと一周する段付きになっています。
周囲をグルリと廻れるということは柳井市日積の城山(茶臼山)古墳や、大星山とウリふたつです。
また、参道を含めた全体像で見ますと、波野行者山(波野スフィンクス)の形態ともそっくりです。
山頂古墳の形態をしています。
近年になって段付き棚の部分に貯水場が造られまして、構造が一部失われています。
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三輪神社の祭神は大物主の神ですが、防長風土注進案には大己貴命とあります。
大物主の神と、大己貴の神とは別神なんですが、いったいどちらが本当の神なのかと疑問に思うことでしょう。
その背景には日本書紀の記述が同神となっているからです。しかし古事記にはそういう事は書いてありません。
この三輪神社の本当の神を究明するには古事記の記述と照らし合わせれば明瞭になります。
神武天皇「皇后選定」の段より。
神武天皇は多くの妻がいたが、まだほかの美人を欲っされた。大久米の命は美人の話しをしてさしあげた。
ある所に勢夜陀多良比賣(セヤダタラヒメ)という美しい女がいた。その容姿は麗しく美人だった。
美和の大物主の神はその美人に惚れ込んだ。美人がトイレに入ったすきに丹塗り矢になって流れ下り、
その美人の陰部を突いた。美人は驚き立ち上がり、走り慌てふためいた。
やがてその丹塗り矢を床の辺に置くと麗しい男になって目出度く結婚した。
ざっと、こういう物語なんですが、
トイレに入ったすきをねらって襲ったということで、さんざん嘲笑の対象にされて来ました。
神話と言えば、いつもこの説話が引っかかり、神代史研究の妨げになってきました。
ここで明確にしておきましょう。
現地の金比羅山のふもとには金比羅山をグルリと廻って田布施川の源流が流れています(下の写真)。
佐田の辺りに源があり、佐田で多くの支流を集めて金比羅山のふもとの塩田や三輪地域を下って行きます。
三輪を通過するとすぐに城南古墳群の真っ只中を流れていきます。川の両側に古墳群があります。
やがて田布施地域に出た流れは波野行者山(初代神武陵推定)を遠めに見ながら下っていきます。
その辺りで多くの万葉歌が詠まれています。
田布施地域を通過した流れは、やがて麻里府に流れ出ます。
今で言う平生(ひらお)湾です。その河口に神花山古墳や阿多田古墳があります。
流れの突き当たる所は阿多田古墳になりましょうか。阿多田古墳は推古天皇の初代陵墓跡です。
青い線が田布施川です。 赤い点は主な古墳のある所です。
川をたどってみた写真集はこちらのページです。
今まで散々嘲笑の的にされてきた美和の大物主の物語は実は墳墓を語っている物語なんです。
大便のことをを糞(ふん)とも言います。糞とは墳のことであり、墳墓を意味しています。
すなわちトイレの美女を襲ったという説話は風景を抽象化して創作した物語だというわけです。
よって三輪神社の祭神は大物主の神で間違いはないということになります。
では、由来にある大己貴命は何なのかということになります。
そうなった原因は日本書紀にあり、例の『一書曰く』を多用したからです。
ここでその問題の発端でもある記述を載せて説明します。
古事記の記述・・・『大国主神、またの名は大穴牟遅神と謂ひ、またの名は葦原色許男神 〜〜〜』
日本書紀の記述・・・『大国主神は別名を大物主神、または国作り大己貴命と名づける 〜〜〜』
大己貴の読み方は『おおあなむち』と読むことは日本書紀に説明が記してあります。
日本書紀はご存知のように『一書曰く』を多用しており、多くの本を引用しています。
それだけ多くの本を引用している背景には、書かれた時代にはすでにわからなくなっていたからです。
日本書紀の問題点については別ページを参照してください。
古事記の記述に大物主の名は記載してありませんので、大穴牟遅神と、大物主神は別神です。
防長風土注進案に記載してある祭神名は日本書紀の記述を参照して書いたのでしょう。
つまり、天保時代当時の記録者が日本書紀のほうに精通していたので大物主の神と大己貴の神を
同神とみなして書記し、提出したと考えられます。よって、防長風土注進案の記述は誤りではないです。
大己貴神とあるのが『大物主神』に相当します。
基になる原典が間違えているのですから、間違いではないです。
この三輪神社の神殿と拝殿の方位を比較しますと、4度のズレがあります。
通常、神殿と拝殿は同じ方位であり、4度ものズレがあることは少ないです。
当初は再建時に生じたズレだろうと思いました。そのズレに気付いた当初、
私は数値の中間を採ったり、神殿の方位を採ったりして大雑把な分析でした。
そうして歳月が過ぎて行き、ある時期に両方を分析してみることにしました。
そのきっかけとなったのは、境内にある小さな祠堂が国森古墳(方墳)を指していたからです。
もしや、神殿と拝殿のズレはそれぞれに方位があるのではないかと直感しました。
その分析結果を見ますと、案の定、最初から故意にズラしてあることがわかりました。
神殿の礎石。
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右ほこら堂
この祠堂は国森古墳を拝礼しています。 拝礼方位 65度。
国森古墳のページ。(内部リンク)
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左ほこら堂
礎石がかなり丈夫な造りです。
祇園・荒神・疫神の三社が祀ってあります。 拝礼方位 338度。
338度は須賀社と同じ方位です。
後述しますが、この祠堂は阿多田古墳を指しています。
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三輪神社の方位線分析図はこちらです(内部リンク)。
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三輪神社・特筆方位線
左祠堂の方位は 338度です。これは須賀社と同じ方位です。
須賀社と三輪神社は位置的な距離がありますから、方位線は平行線になります。
須賀社が神花山古墳を指し、三輪神社の左祠堂が阿多田古墳を指しています。
三輪神社の左祠堂の方位線です。
右祠堂は国森古墳を指しています。
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神殿は前面方位に九州の二つの高千穂を指していることにより、米を意味しています。
米に関しては、この三輪神社の由来記にも稲穂を埋めて稲穂塚と呼んでいたことが記してあります。
稲穂(米)は、エビス・ダイコクのダイコクさまを意味しており、ダイコクさまは米俵におられます。
さらに、拝殿方位に周防大島の日見大仏があります。ダイコクさまの作製された仏像であり、
だからダイコクさまは打ち出の小づちを振り上げたスタイルをしているのです。
すなわち、大物主の神はダイコクさまのモデルになった人物です。
神殿方位は出雲の西谷四隅突出型弥生墳丘墓群東側の人形の山を指しています。
西谷古墳群は四角い形(方形)をしていて、角がアメーバーのように伸びています。
当初、私は三輪神社の金比羅山から直接改葬されたのだろうと思っていたのですが、
三輪神社の右側にある祠堂を計測してみましたところ、田布施町国森にある国森古墳を
指していることを発見しました。国森古墳も西谷と同じく弥生時代の築造であり、四角い方墳です。
そうすると、大物主の神は金比羅山から国森古墳へ改葬された後に出雲の西谷古墳へ改葬されたことになります。
やがては西谷古墳から近畿へと改葬された可能性があります。わかりますか?方墳の合わせです。
大物主の神は天竺毘首羯磨(てんじくびしゅかつま)と同一人物であることは「幻影の神域」の章で究明しました。
天竺とありますようにインド人だったのでしょう。ダイコクさまを大黒さまとも書きます。
インド人であったからこそ特異なマスタバ墳墓なのです。
そうして研究しますと、周防大島の日見西長寺にある日本最大の木彫仏はダイコクさまの作品であります。
ダイコクさまは天竺毘首羯磨でありますから、周防には天竺毘首羯磨作の木彫仏は幾つも寺の由来にあります。
仏像の年代設定は朝鮮半島や中国を基準に設定していますから、見直す必要がありましょう。
さらに、方位線は出雲方面だけでなく、四国の縄文遺跡を指し示しています(下の写真)。
発見当初は偶然に当たった遺跡だろうと思ったのですが、1本の方位線に二ヶ所の縄文遺跡が
入っており、ここ以外にも方位線に縄文遺跡が見られ、偶然ではなく縄文を相当に意識しています。
それは当時の人々にとって縄文時代は先祖の時代であり、先祖は守護神になり得るのです。
三輪神社の狛犬。
立ち上がった狛犬は特に重要な神社に安置されていることが多いです。
三輪神社から見る呉麓山。
三輪神社から見る大星山。
天竺毘首羯磨はミケヌノ命でもありますから、その神霊は
大星山頂に在ったであろう熊毛神社の前身に祀られます。
やがては熊毛町の勝間八幡宮(現・熊毛神社)に移されたのです。
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以上のことを見て、光市三輪にある三輪神社こそ古事記に記してある大物主の神の地であると確信するものです。
そして、この初代の地で検証しますと、大物主の神と、大穴牟遅の神は別神であるという結論に至りました。
二神はエビスダイコクであり、こちらの大物主の神がダイコクさまに相当します。
大穴牟遅の神に関しては、こちらのページを参照してください。
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