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 多祁理宮(たけりのみや)


古事記 中巻 通称「神武天皇」の段より 解読著者

神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれひこのみこと)、その伊呂兄五瀬命(いつせのみこと)と二柱、

高千穂宮に坐し、議りて云う。いずくの地に坐せば、平らく天の下の政りを聞かん。なお東行(投降)を

思う。すなわち日向より発ち竺紫に行幸。故、豊国の宇沙に至りし時、そこの土着民、名を宇沙津比古

(うさつひこ)、宇沙津比賣(うさつひめ)の二人、足ひとつの騰(あがり)の宮を造りて大御饗(おおみあえ)

たてまつる。その地より遷移(うつり)て竺紫の岡田の宮に於いて一年坐す。また、その国より上り幸でて、

阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)に於いて七年坐す。


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多祁理宮の在った所は、阿岐国とありますから、安芸国と解釈して広島県としてあります。

安芸国(広島県)とした背景には日本書紀の「安藝國の埃宮」という記述があるからです。

埃宮を「えのみや」と解読しています。現代の読みですと、埃の漢字は「え」とは読めず、

えと読むなら「挨」この漢字になります。よく似ていますが、やはり埃を「え」とは読めません。

なぜ昔の人は読めない漢字を「え」と呼んだのかと大修館の辞典で漢字について調べてみますと、

埃の漢字は「エジプトの音訳」とあります。そうすると「エジプトの宮」と解釈することもできます。


とりあえず日本書紀の記述は前置きだけにして、古事記の記述から現地を探り出してみます。

阿岐国の読みは「あきのくに」又は「あきこく」です。この阿岐は「秋」を意味しているのではないかと

見渡してみますと、周防大島に「秋」という所があります。




 周防大島の秋にて。
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侵攻経路を最初から考えますと(下図)、室津半島から瀬戸内海を通って九州方面へ遠征侵攻して、ふたたび

室津半島の隣りにある周防大島へ帰って来ていることになります。そのことを証明する記述として、

九州の岡田の宮を発つときに初めて「上幸而・のぼりいでて」という記述が出てきます。

上りという言葉を使っていますから、当時の首都である初代ヤマトに上る(帰る)ことを意味しています。



ここまでの侵攻経路  萩(別記) ⇒ 初代ヤマト ⇒ 中津 ⇒ 御所ヶ谷神籠石をベースにして九州各地へ侵攻 ⇒ 初代ヤマトへ帰る。

萩を制圧すれば後は全部内陸からの侵攻になり、当時の人々は想像だにしなかったであろう侵攻経路です。

移民を装った先遣隊が先に狼煙台を押さえておけば通信手段はありません。夜間に襲撃すれば伝書鳩も飛ばせません。

守りが強固なのはすべて日本海側であり、瀬戸内側の守りは手薄だったことを突いています。裏から裏から侵攻しています。

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さて、阿岐国の多祁理宮を証明するには日本書紀の記述は勿論のこと、

万葉集の歌が重要なカギになります。万葉歌から先に解明してみます。

万葉集には橘の嶋の宮を詠んだ歌がありまして、その嶋の宮を

位置づけることによって多祁理宮が見えてきます。


万葉集 巻第二 179

橘の 嶋の宮には 飽かねかも 佐田の岡辺に 侍宿しに行く


橘とは、みかんの一種で、普通のみかんより少し小さいのが特徴です。

昔には果物の最上として珍重されたとあります。

橘の名がつく天皇は橘豊日王(たちばなのとよひのおう)であり、用明天皇です。

持統天皇までの歴代天皇で橘の名がつくのは橘豊日王だけです。

つまり、万葉歌の橘の嶋の宮とは、橘豊日王の宮殿を意味しています。

そして本題の阿岐国を周防大島の秋と仮定して考えますと、橘のみかん郷が見えてきます。



 先ず「みかん郷」について考えてみます。

周防大島は平城京跡から出土した荷札木簡が知られています。

その荷札には、こう記してあります。一つほど載せてみます。

 
周防国大嶋郡美敢郷凡海阿耶男御調塩二斗  天平十七年



 さらに、もう一つの実例として。

 承平年間につくられた和名類聚抄 巻八 周防国第百十七条には、

大島郡は三郷名の記載があり、「屋代」「美敷」「務理」とあります。

 注目してほしいのは「美敷」の文字です。塩の荷札には美敢とあり、和名類聚抄では美敷になっています。

いったいどちらが本当の文字なのか、それを知るために双方の文字の使われた年代を西暦にしてみます。

 美敢  西暦745年に記された文字

 美敷  西暦931年に記された文字

 ごらんのように約二百年もの隔たりがあります。

その隔たりを見ても、年代の古い美敢の文字が本来の文字だとわかります。

 では、何と読めばいいのだろうと考えてみますと、「敢」は「かん」と読みます。

そうすると「美敢」は「みかん」と読めます。蜜柑のことです。「大嶋郡蜜柑郷」です。

では、周防大島がなぜ蜜柑郷なのでしょうか。その答えは古事記に記してあります。

古事記の通称「天孫降臨」の段です。その場面を引用してみます。


(途中より) 故、その天忍日命(こは大伴連等の祖先)天津久米命(こは久米直等の祖先なり)ここに詔りし。

此地は韓國(からくに)に向かい、笠紗の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。

故、此地は甚吉(いとよき)地と詔りて、底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて坐すなり。



この記述は、前方後円墳の基となった室津半島の真ん中に在る大星山から朝日と夕日を見て讃えた文です。

韓國(からくに)の意味は、からと水道のことです。室津半島の前方部はそのからと水道へ向いています。


なぜ韓國なのかは、先ず、初代神武天皇陵墓の波野(はの)行者山へ向いているからなのですが、

初代神武天皇陵墓については後述するとして、本来の被葬者の遺骨を下(ふもと)に降ろしてぶんどった陵墓です。

だから韓國へ向かい、としてあります。もう一つは、塩からい意味も入っています。からと水道は太古には

塩と綿花の収益で栄えた国です。塩からい国という意味で「からい国⇒からぁ国」となります。


次に、笠紗の御前を真来通りて、の部分を諸本によっては御前を「みさき」と読んで「岬」と解釈する向きもありますが、

原典では御前となっており、前に御をつけた敬語です。「笠紗の前をまっすぐに通って」という意味になります。

まっすぐに通るのは朝日(太陽)を言っています。




写真は五月下旬に撮影したものですが、記述の通りに笠佐の前という表現に見合っています。

さらに、なぜ周防大島が蜜柑郷と呼ばれたのかも、この写真からもわかると思います。




大星山から見た朝日は夏期の頃を除いて一年を通して周防大島から昇って来ます。

神代人たちは昇って来る朝日を見て、蜜柑を連想したのでしょう。もいで食べたいと思ったけれど、

叶わないことでした。美味しそうな蜜柑が昇って来ることにより蜜柑郷と呼ばれるようになります。

そして、橘の根源はこの朝日にあります。だから橘豊日王です。



さて、本題の橘の嶋の宮は周防大島の何処に在ったかということは、万葉歌を追究してみます。

先述した万葉集 巻第二 179番歌 「橘の 嶋の宮には 飽かねかも 佐田の岡辺に 侍宿しに行く

この歌は二十三首がひとまとめになっていて、そのなかにある一首です。

詠まれた歌の順番はバラバラになっていますが、179番歌の前の177番歌には

こうあります。「朝日照る 佐田の岡辺に 群れ居つつ 我が泣く涙 止む時もなし


私はこの歌の詠まれた地点を確定するのに十年もの歳月がかかりました。

当初は石城山の北側に位置する佐田地域の何処かで詠まれていると信じ込んでいました。

そして、佐田地域の守護神である佐田八幡宮へ数えきれないほど参拝しては考えました。


佐田地域から何度朝日を見ても、涙の意味がわからず曖昧でした。そうして歌をよく見ますと、

佐田の岡辺、とあります。歌では佐田の岡辺(丘)で朝日を見て涙に暮れています。もしや、その丘とは

佐田地域の南側に位置する石城山のことを佐田の岡辺と詠んだのではないだろうかと気づくと、

それまでの十年の歳月は嘘のように、ほんの短時間で解明できました。




佐田八幡宮参道より仰ぐ石城山・高日ヶ峰。
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佐田地域から仰げるのは石城山五峰の内の最高峰である石城山高日ヶ峰です。

その高日ヶ峰で朝日が昇って来る地点を観察すれば何かが発見できるかもしれないと思いました。

高日ヶ峰から橘である蜜柑郷(周防大島)を見まして、地名で残っている秋付近から

昇って来る朝日を観察しますと、太陽暦の一月一日に行き着きました。さらにその太陽の

昇って来る地点を絞り込んで行きますと、旧橘町に在る長尾八幡宮にたどり着きました。


下の三枚の写真が石城山から見た一月の朝日です。周防大島の秋から昇っているのがわかると思います。

地球の地軸は23.5度傾いているため、朝日の太陽は斜めの角度で上昇していきます。

それを計算に入れて日の出を見ますと、現代の安下庄(旧橘町)になります。

安下庄には長尾八幡宮があります。そここそ橘の嶋の宮が在った所です。

長尾八幡宮の敷地は本来、組み合わせ石棺が出土したことにより前方後円墳だった可能性があります。




上写真・八合目辺りで撮影したもので、見る場所に多少ズレがありますが、およその位置はわかると思います。
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上下の写真・石城山頂上の高日ヶ峰にて1月10日に撮影。この日も霧で島影がかろうじて見える状態。



広角写真です。年に一回しか撮影できないので、島影がなかなか鮮明に出てくれません。ご勘弁を。
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再び万葉歌に戻りまして。先述した歌です。

179  「橘の 嶋の宮には 飽かねかも 佐田の岡辺に 侍宿しに行く」

177  「朝日照る 佐田の岡辺に 群れ居つつ 我が泣く涙 止む時もなし」


179は、橘(周防大島)の島の宮に飽きることはないが、佐田の岡辺(石城山)でご来光を待とう、といった内容になります。

そして、177でご来光を見て涙に暮れているわけです。涙の意味は橘豊日王の栄えていた頃をしのんで涙しているわけです。




橘の嶋の宮から佐田の岡辺まで直線距離にして23キロです。
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安下庄の長尾八幡宮から佐田を経て石城山まで登る所要時間は、手漕ぎ舟と徒歩を考慮して、

安下庄から大波野まで手漕ぎ舟でどのくらい時間がかかるかですが、四時間みておけばいいと思います。

大波野(からと水道)から徒歩で佐田まで行ってみましたところ、約四十分、ゆっくり歩いても一時間もあれば

ラクに佐田まで行けます。佐田からは石城山直結の北ルートで登れば一時間見ておけばいいです。

全部の時間を合計すると、安下庄(橘の嶋の宮)を早朝に出発すれば昼過ぎには石城山(佐田の岡辺)に

到着できることになり、万葉歌は現実的なものであることが証明されます。



ここまでは万葉集から橘の嶋の宮を追究してみました。

一般の人と話しをしますと、万葉集は後の時代のものであり、神代史ではない、と申される方もおられますが、

それは万葉集が編纂された時代のことです。古くから収集してあった歌を万葉集として編纂した時代を言っておられ、

歌が詠まれた時代とは切り離して考える必要があります。歌が詠まれた時代はずっと遡って古い時代のものです。

また、収集保存されていた歌は巻子本のような物に書かれてあったのではなく、一首一首が木簡や竹簡に

書かれてあって、それらを束ねて保存してあったと思います。その証拠に先述した歌も順序がバラバラです。



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ここからは本題でもある多祁理宮を追究してみます。

多祁理宮を証明するには、先ず室津半島にある賀茂神社を知る必要があります。

前方後円墳のモデルとなった室津半島には五社の賀茂神社が在ります。

それぞれに拝礼方向が異なっており、それらの方位を分析しますと、神武遠征の激戦地を

追悼拝礼して建っていることがわかりました。以下の図はその賀茂神社の方位を示したものです。





上図にある賀茂神社五社はすべて神武侵攻激戦地を拝礼しています。

追悼の意味を以っているのでしょう。全体の詳しい状況は賀茂神社の章で説明します。

多祁理宮跡を知るには尾国賀茂神社の方位を分析することによってわかるようにしてあります。




尾国賀茂神社
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尾国賀茂神社の拝礼方位は周防大島安下庄にある長尾八幡宮になっています。

長尾八幡宮は先に研究した万葉歌の橘の嶋の宮でもありました。そここそ多祁理宮でしょう。



神武東征に関係してくる部分をピックアップしてみます。




方位線のオレンジマーカーの所が長尾八幡宮です。

尾国賀茂神社の拝礼方位線は長尾八幡宮を指しています。多祁理宮(橘の嶋の宮)です。


こんどは前面方位線を見てみます(下図)。




尾国賀茂神社・前面方位線は図のようになっています。

御所ヶ谷神籠石は前章で解明した岡田の宮です。


以上の分析結果を見まして、神武侵攻は御所ヶ谷の岡田の宮を拠点にして九州各地へ侵攻した後、再び周防の地に帰り、

周防大島安下庄の多祁理宮(橘の嶋の宮)で過ごしたことが方位線によってわかるようにしてあります。


多祁理宮跡地でもある長尾八幡宮の建っている丘を「神南山(かんなびやま)」と申します。

以下、資料より引用。


大正五年、御年祭(25年毎)の記念事業として、これまでの社殿をさらに西後方に移転して社殿の大再建をした。

この時神殿の位置を2メートル掘り下げる作業中、組合式石棺・骨片・勾玉が発見された。

自然の台地を利用した前方後円墳かと予想されたが、まだ結論は出ていない。

 昭和三十七年、神南山西南の字宮ノ首からは、組合式石棺・皿・壷・勾玉が発見された。

 平成二年十一月、御大典記念事業として手水社の段の西玉垣修繕のため石垣下部の土を

約1メートル掘り下げたところ、十数個ばかりの皿・高坏等の土器が出土した。

完全な形を留めたものは少ないが、掘ればもっと出土するだろう。年代等は現在調査中である。

この他にも、神南山(現在の社殿の地点)にはまだまだ祭祀遺跡が土中に埋まっていると思われる。


以上、長尾八幡宮祢宜編纂 「うぶすなの杜」より引用。


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日本書紀の記述の研究


十二月の丙辰(ひのえたつ)の朔壬午(みずのえうま・二十七日)に安藝國に至り、埃の宮に居。


安藝國の読みを「あき」と読むには少し苦しいところがあります。「あげのくに」と読めば先に解明した多祁理宮

(長尾八幡宮)は安下庄(あげのしょう)という所にありますから「あげのくに」で共通してきます。しかし、

防長風土注進案によりますと、安下庄はもと甲ノ荘と呼ばれていたのを延喜元年に安下庄に改めたとあります。

さらに、日本書紀には埃の宮(エジプトの宮)に居たとありますから埃の宮で繋がる必要があります。


地名を安下庄と改めた背景を探ってみますと、先の万葉歌でも登場した橘豊日王(用明天皇)に関係しています。

橘豊日王の陵墓を古事記ではこう記してあります。「御陵は石寸掖上、後に科長の中の陵に遷也」とあります。

科長は推古天皇と同じ所です。問題は、最初の陵墓が在った「石寸掖上」という所です。これをどう読むか、です。

寸は「き」と読めます。そうすると石寸は「いわき」です。掖は文字通り「わき」と読みます。上をどう読むかが重要であり、

上は「あげ」です。全部を通して読みますと、「御陵は石城の脇の上ゲに在りしを後に科長の中の陵に遷す也」です。





上ゲという所は「からと水道」の中間地点にありまして、からと水道が直角にカーブしている辺りの西側だと思えばいいです。

記述通りに石城山の脇にあります。そこにはこの海風想で波野スフィンクスと呼んでいる山がありまして、そのスフィンクスの

前脚の先端に相当する所が「上ゲ」です。陵墓は前脚の部分に在ったと思われます。上の図で林松坊と呼ばれている所です。

香山が女王で、林松坊が男王。どちらも殯として埋葬されていた可能性があります。スフィンクスがあることにより、日本書紀の記述通りに

「上ゲの国のエジプトの宮」と合います。古事記が秋国(周防大島)を記し、日本紀が埃の宮(上ゲ)を記していたことになります。

やがて橘豊日王の宮が在った周防大島の甲ノ荘を安下庄(あげのしょう)という地名にして共通性をもたせたのだと考えられます。

安下庄天満宮の由来に「風鎮の御祈願を遊ばし、日本紀を読誦したまひしにたちまち風波鎮まりければ」という一節があります。

つまり、安下庄は日本紀に関係しているよ、という表現です。日本紀を書き変えた物が日本書紀であることは前述した通りです。



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また、侵攻勢力はあちこち荒らしてもいたらしく、周防大島に隣接する浮島(うかしま)にはこんな伝承があります。


防長風土注進案・大島宰判・森村・浮嶋(うかしま)の条

(途中より) 長(たけ)二丈あまりの黒ゲンジャと申す者人民の住家に来たり。その形、頭に角生え耳鼻すべて備わり、

眼を怒らし一丈あまりも立ち上がり、口を開き、すでに害せんとする事三日に及ぶ。まことに恐ろしきありさま故に

森村宝王大明神祠官◯◯左近へ告げ知らせ候ところ、すぐに大明神へ祈念いたし、札守りを取り帰り、毒蛇の前に

立て置き候へば忽ち退散す。これひとえに山神の災いならんか、又十日あまり過ぎ候て、一尺あまりの大鼠出、

幾千万ということなく人家を荒らし、作物山野草木にいたるまで残らず根葉を枯らし住家不相成につき、また神主

◯◯左近へ告げ候へば急ぎ神を鎮座すべしと宝王大明神より三宝荒神勧請し、すなわち岩尾大明神と仰ぎ奉り候。

それよりは諸々の変化等災いせず候事。(以下略す)



ここに登場する宝王大明神とは、森ピラミッドの中腹にある神山神社のことです。

浮島(うかしま)は周防大島の森地域の沖に浮かんでいる島ですが、頭島が砂州続きで隣接しています。

現在は浮島と橋で繋がっていて歩いて渡ることができますが、その頭島にも浮島と同じ由来が記してあります。

「(一部抜粋)作物は勿論のこと木草海草さざえやニナの類いにいたるまで食い荒らし、心細きこと不大形。」とあります。

記述は鼠が荒らすという抽象的なものですが、それを侵攻勢力のたとえとして考えると見えてくるものがあります。




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