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 延喜式について   

 式内社については昔から多くの研究があり、今さら私ごときが論ずることは何もありません。
 ただ一つ、見過ごされて来た問題点があります。その問題点とは極めて簡単明瞭なことなのですが、それに付いて最初に申し上げておきたい事として、延喜式という記録が我々一般人でも読めるようになったのは、つい最近のことです。今では翻訳本も出ており、多くの情報を得ることができます。しかし、昔は一般の歴史家程度では見ることも読むこともできなかった、という事が迷走を生む最大の問題点になったのだろうと思います。その事に念を入れておきます。

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 問題部分

 「延喜格式上表」より
 (前文略す) 是に於いて古典を周室にさぐり、旧儀を漢家に択び、
弘仁・貞観の弛張を取捨し、永徽・開元の沿革に因脩し、録して二部と成す。名づけて延喜格式と曰う。(以下略す)

 「延喜式序」より
 (前文略す) 貞観の天朝、また叡旨を降し古今をはかりさだめて式二十巻を選ぶ。
新旧二つながら存し、本枝相待つ。然れどもなお後式の録するところ、事、漏略多し。今上陛下、元を体し正を履み、斗を御め衡を提ぐ。おもほすらく、貞観十二年以来、炎涼すでに久しく文案やや積れり、しかのみならず前後の式、章条既に同じくして巻軸これ異なり、諸司事に触れて検閲するに多岐なりと。これによりて、延喜五年秋八月、(この部分、名前の列挙・略す)〜らをして、開元・永徽式の例に准拠し、両式を併省して一部に削成せしむ。選定未だ終らざるの間、公卿大夫頻年薨卒す。(途中略す)〜凡そ弘仁の旧式に起り、延喜の新定に至るまで、前後綴叙し筆削はじめてなる。すべて五十巻に編み、名付けて延喜式と曰う。  (一部、新漢字や仮名使いに変更しました。)

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 問題点の全ては序文に記してあります。
 簡単に説明しますと、「弘仁時代(810〜824)の記録と、貞観時代(859〜877)の記録の二つが存在していた。ところが、貞観時代の記録は記入漏れや省略した部分が多かった。よって、式の違いはあれど、両記録を合わせて一部にまとめる事にした。しかし、文章の取りまとめが終らないうちに、志半ばにして亡くなる人が多く出た。」というような内容です。

 問題点は、「漏略」にあります。新しい方の貞観の記録は、漏れや略しが多かったわけです。なぜ「記入漏れや略し」になっていたか、それを古い記録と合わせてまとめたらどうなるかです。昔の記録は昔の事として残しておいて、新たに調査編纂すればいいわけです。それをなぜ百年も昔の記録を使って新しい記録に編纂したか、という部分に、当時の連絡網や道路事情、さらには漢文の読み書きが出来るか、などを考えずにはおれません。ある意味でのいい加減さも必要だったのではないかと、思いめぐらしてみたりします。
 早い話しが、延喜式という記録を編纂するにあたって、全て現地取材がなされたかどうかという点が最大の問題点です。もし、現地取材がなされていたなら、もっと別の展開になっていたであろうと思うのであります。
 延喜式の編纂されたのは西暦900年代の事です。周防各地にはその年代など物ともしない古い神社が大部分を占めています。ここに来て何も年代の新しい式内を争う必要もないのではないかと、私はそう思っております。

 さらに、もう一件、原文で読むと考えさせられる部分がありますが、ここでとりあげてみても仕方の無いことなので、まだ問題点もあるんだ、という事だけにして割愛させていただきます。

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