トップページに戻る    神武東征の目次
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ひとつ前のページに戻る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 兄ウカシ・弟ウカシ


 その地より踏み穿ち越えてうたいゆき。故、うたの穿(うかち)というなり。

 故、うたに兄宇迦斯(えうかし)弟宇迦斯(おとうかし)の二人あり。

故、先ず八咫烏を遣い二人に問い曰く。「今、天神御子ゆき行く。汝等仕え奉ろを?」




 柳井市伊陸(いかち)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 以下、岩波書店・古事記より引用。

 ここに兄宇迦斯、鳴鏑をもちてその使を待ち射返しき。故、その鳴鏑の落ちし地を、訶夫羅前と謂ふ。

待ち撃たむと云ひて軍を聚めき。然れども軍を得聚めざりしかば、仕へ奉らむと欺陽りて、大殿を作り、

その殿の内に押機(おし)を作りて待ちし時に、弟宇迦斯、まづ参向へて、拝みて曰しけらく、

「僕が兄、兄宇迦斯、天つ神の御子の使を射返し、待ち攻めむとして軍を聚むれども、得聚めざりしかば、

殿を作り、その内に押機(おし)を張りて待ち取らむとす。故、参向へて顕はし白しつ。」とまをしき。

ここに
大伴連等の祖、道臣命、久米直等の祖、大久米命の二人、兄宇迦斯を召びて、罵詈りて云ひけらく、

「汝が作り仕へ奉れる大殿の内には、おれまづ入りて、その仕へ奉らむとする状を明し白せ。」といひて、

すなはち横刀の手上を握り、矛ゆけ矢刺して、追ひ入るる時、すなはち己が作りし押に打たえて死にき。

ここにすなはち控き出して斬り散りき。故、其地を宇陀の血原と謂ふ。

然してその弟宇迦斯が獻りし大饗をば、悉にその御軍に賜ひき。

(途中、歌略す)故、その弟宇迦斯、(こは宇陀の水取等の祖なり。)  



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 物語通りに解釈しますと、ウカシの兄弟が居て、弟の寝返りによって兄が討たれてしまう、というのが今までの解釈です。

そういう事もあるかもしれませんが、物語の中に不自然な部分が多くあります。大伴と久米は味方であり、自分達の仲間です。

伊陸を中心にして、東は大伴であり、周防大島や岩国市を意味します。そして、西は久米であり、今の周南市や防府市です。

そうした内容は古事記の天孫降臨の段に、天忍日命(大伴)、天津久米命(久米)、の高天原(日向平丘陵)での詔りで明解です。

そうしたこともあり、物語をストレートに受け取ると明らかに不自然です。そもそも、古事記は味方側の人物を悪者に仕立て上げて

書き進んでいる部分が多く見られます。そうしておかないと記録を消されてしまうからです。いや、消されるだけならまだしも、

自分の身に危険が及びますから。そうした訳で、事情を知った仲間内だからこそ名前を出して物語に出来たのです。



この伊陸までの道中を振り返ってみますと、ヤタガラスの先導によって進んで来ました。

ヤタガラスとはヤマトの子供達を意味しています。つまり、子供達を楯(人質)にして進んでいるわけです。

国を守るか、子供達を守るか、兄弟の意見が対立したとしても、この混乱状態では仕方のないことでしょう。

さらに、弟が捕虜として拷問を受けたとしたら、押機(おし・敵を落とし込むワナのことです)の所在を

喋らざるを得なかったことでしょう。



伊陸の物語の終末部にこうあります。「ウカシの兄弟は歌の水採りらの祖先である」と。

歌とは万葉歌を詠んだ人たちのことを言っています。つまり、ウカシの兄弟は初代ヤマトの

現地人であり、味方側だと主張しています。



ウカシとは氷を意味している名です。氷を水に浮かす(浮かし)です。

氷に関しては、伊陸の由来に記してあります。載せてみます。


和銅四年九日(月次未詳)。

氷室嶽、防一州の富士山なり。斎奉る氷大明神たる跡を氷室大権現と称ふ。

歌に曰、「氷りにし 氷室の池も 冬ながら 東風吹く風に 解けやしぬらむ」


池に関しては永正五年の記述。『 社を池の上に遷す。則、今の氷室大権現社地是也 』

なぜ池の上なのかは、氷を保存するために地下に掘った大きな穴が使われなくなって

その穴に水が溜まって池に変貌したからです。氷に関しては、こちらのページをご覧ください(内部リンク)。

そうした訳で、伊陸は氷に関係した地域であり、ウカシ兄弟の名は氷に関係した名であると言えます。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



こんどは記紀共に記してある犬の記述についてです。

伊陸には犬の尾原という伝説がありまして、それが記紀の犬の記述と合います。



柳井市史より 伊陸 『 犬の尾原 』

 名もない犬が主人のために尽くして殺され、それが「犬の尾原」という地名となって残っているところが伊陸にある。

戦国時代、伊陸の町野相模守は陶晴賢(すえはるかた)の家臣となって厳島の合戦で戦死した。

弘治元年(1555)十月、小早川軍は、岩国から柳井へ向かう途中、町野氏の残党を討つために、

浦兵部丞、飯田七郎左衛門、香川左衛門尉など700騎を差し向け、由宇から伊陸に攻め入らせた。

町野氏の部下たちは氷室岳に城を構えてよく防いだ。その合戦では、味方の兵数十名が討ち死にし、

小早川軍でも浦氏の家臣乃美八郎、香川氏の家臣三宅市之丞ら20〜30名が戦死した。このとき、

伊陸の北畑と奥畑のあたりに小早川軍が攻め寄せた。それを見つけた町野氏の飼い犬が、

敵が来たとほえ立てて味方に知らせた。そのため犬は打ち殺されたが、その跡に尾が残ったので、

「犬の尾原」という名がつけられた。犬でありながら戦死した主人の恩を忘れなかったという美談が後々まで、

村人たちによって語り継がれた。優勢な小早川軍のために追われた残党は、久可地でも戦ったが、ついに降参した。

そのとき結ばれた助命の約束は破られて、高山寺の松の木に十七名もの者がはりつけの刑に処せられたと伝えられている。

今も犬の尾、上原には、武士たちを葬って小石を積み重ねた塚が残っている。(「谷林博遺稿集」より) 



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇 秋七月


 物部守屋大連の近侍者である捕鳥部万(ととりべのよろず)は、一百人をひきいて難波の邸宅を守っていたが、

大連が滅びたと聞いて夜馬に乗って逃げ、茅渟県の有真香邑(ありまかのむら)に向かい、妻の家に立ち寄ったのち、

山にかくれた。朝廷は詮議して、「万は反逆の心があるから山中にかくれたのだ。急いで一族を滅ぼせ。

ぐずぐずするな」といった。万は、衣服が破れ、垢だらけで、すっかりやつれ、弓を持ち剣を帯びて、一人で自分から出てきた。

官人が数百の衛士を遣わして万を囲むと、万はあわてて竹やぶにかくれ、縄を竹につないで引き動かし、

自分のかくれているところをわからないようにした。衛士たちがだまされて、揺れる竹を指さしてかけつけ、

「いたぞ。ここだ」と叫ぶと、万はそれをめがけて矢を放ち、一つとして当らないものはない有様なので、

衛士たちは恐れて近づこうとしなかった。万はそこで、弓をはずして脇にさしはさみ、山に向かって逃げていった。

衛士たちは川をはさんで追いかけて射たが、みなあたらなかった。たまたま一人の衛士が、馬を馳せて万に先まわりし、

川のそばに伏して弓に矢をつがえ、膝に射あてた。万は矢を引き抜き、弓を張って矢を放ち、地面に伏して、

「万は天皇の御楯となってその武勇を示そうとした。それなのに、何の推問もないままに逆にこの窮地に追いつめられた。

ともに語るべき者をよこせ。自分を殺そうとするのか、捕えようとするのか、それを聞きたいのだ」と大声で叫んだ。

衛士たちはきそって馬を馳せて万を射た。万は飛んでくる矢を払いのけてなおも三十余人を殺したのち、

持った剣で弓を三つに切り落し、さらにその剣を押し曲げて川の中に投げこみ、別の刀子で頸を刺して死んだ。

河内国司は、万の死んだありさまを朝廷に報告した。朝廷は命令書を下して、「八段に斬ってばらばらにし、

八つの国で串ざしにせよ」と命じた。河内国司が符の旨に従って万を斬り、串ざしにしようとすると、雷鳴があり、

大雨が降った。このとき、万の飼っていた白犬が、首を振り、悲しそうに吠えながら遺骸の側をまわっていたが、

やがて万の頭をくわえると、古い墓に収めおき、自分はその側に横たわって、ついに飢え死んだ。

河内国司はその犬のふるまいを奇異に思い、朝廷に報告した。朝廷はたいそう哀れみ、符を下してたたえ、

「この犬の行為はまことに奇特で、後の世に示すべきものである。万の同族に墓を作って葬らせるように」と命じた。

そこで万の同族は、墓を有真香邑に並べてつくり、万と犬とを葬った。河内国司はまた、「餌香川原(えがのかわら)には、

斬られて死んだ人の遺骸が数えると数百もあり、頭も身も腐爛して姓も名も判らず、人々はわずかに衣服の色で

遺骸をひきとっております。ところが桜井田部連胆渟(さくらいのたべのむらじいぬ)の飼っていた犬は、

主人の遺骸をくわえ続け、側に横たわって固く守り、遺骸を収めさせてから立ち去りました」と報告した。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



古事記 雄略天皇


『 前文は大神宮(初代伊勢)の記述、略します 』  布を白き犬にかけ、鈴をつけて、己が族名は腰佩と謂ふ人に

犬の縄を取らしめて献上。故、その火を着くるを止めしめ、すなはちその若日下部王のもとにゆき行き、その犬を入れて

詔らしめ賜ふ、「この物は、今日、道に得しめずらしき物、故、妻問ひの物」と言ひて入れ賜ふなり。ここに若日下部王

天皇に奏さしめ、「日に背きてゆき行きしこと、いと恐し、故、己直に参上して仕へ奉らむ」。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


以上のように犬の物語は三誌ともに共通性があります。

現地に即した物語は古事記の記述です。





載せた古事記の犬の記述の前文には初代伊勢の記述があります。

それは神殿の屋根にカツオ木を上げていることに対する騒動です。

琴石山の中腹に大神宮と呼ばれて来た神社がありまして、そこが該当します。

伊勢の記述に続いて犬の記述を載せています。犬を献上したことにより焼かれずに済みます。

つまり、伊勢の記述で神殿を焼こうとして、次には伊陸でも焼こうとします。2回あります。

そして、日に背を向けて行くことを褒めています。そこが木焼の大諏訪神社の記述になります。





伊陸には地名の「 木焼 」という所に大諏訪神社があります。

その神社は伊陸平野の西に在り、拝礼方位は西、日に背を向けて拝礼します。

古事記の記述通りがあります。後述する大諏訪神社の方位線分析も合わせて参照してください。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



氷室亀山神社の方位を分析




 氷室亀山神社参道 一の鳥居

長大な参道を持っています。




 氷室亀山神社参道 二の鳥居





 伊陸地域の中心的な神社



拝礼方位 5度






北側(上)が拝礼方位です。南北の池を拝礼しています。

その池が伝説の氷室の池です。今は灌漑用水池になっています。





社殿の前面方位





前面方位線は日向平丘陵を縦走して大星山になっています。

これは熊毛神社の移転ルートでもあります。左手方位で出てきます。

初代熊毛神社は確かに大星山に在ったということです。








大星山を通過した方位線は、蒲井の木崎の頭上で大諏訪神社の方位線と交差します。

木崎は蒲井の涅槃像です。





社殿に向かって右手方位線





大将軍山の頂上には霧峯神社がありまして、2つの伊勢の内の1つです。





社殿に向かって左手方位線





前面方位線で移転ルートを示して、左手方位線で移転先の熊毛神社を示しています。

近隣には熊毛神社の由来を持つ神社が多くありますが、それらは御神霊の移転先が決まるまで、

御神体を持ち回りでお世話をしてさしあげた神社だと思います。ですから、熊毛神社以上に由緒が深いです。







山口県豊浦町です。周辺には古代遺跡が多く散在しています。

方位線は厚母大仏を意識しています。その大仏は天竺毘首羯磨の作です。

そのあたりの説明は、こちらのページをご覧ください(内部リンク)。

方位線が熊毛神社と一体になっていることから証明されます。つまり、

今の設定年代より、もっともっと古い時代に彫られた仏像である、という証明です。

大陸からの侵攻による犠牲者の鎮護・供養の意味を以って安置されたのでしょう。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



大諏訪神社の方位を分析




 伊陸 大諏訪神社

 「おおすわさぁ」と呼ばれています。鍛冶の神であり、鎌を奉納すると喜ばれると由来にあります。



拝礼方位 270度





図は下関です。

方位線は周南市の黒髪島を通り、下関市の蒲生野に至ります。

すぐ近くには綾羅木郷遺跡があります。




社殿の前面方位線





大諏訪神社は前面方位線になります。おまいりする我々は日に背を向けます。

前に挙げた古事記の記述、「 日に背きて 」とある部分です。

大将軍山・霧峯神社のページです(内部リンク)。




社殿に向かって右手方位線





これも氷室亀山神社の方位線と連携していて、初代熊毛神社の移転ルートです。

祖生・岩隈八幡宮   玖珂・岩隈八幡宮  (内部リンク)




社殿に向かって左手方位線





方位線は「さねひこ碑」から数十メートル西側へ離れてはいますが、石碑の所と判断しました。

そここそ、通称般若姫の入水地点です。それは推古天皇だと思われ、暗殺された疑いがあります。

そこには供養の意味で海上の大寺(仏塔)が建っていたと思います。


神護寺は、本来は松蓮寺という寺で、推古天皇の創建です。

明治時代に石城山の神護寺と合祀したことにより、今は神護寺と呼んでいます。

境内の山中には石彫遺跡が散在しています。







木崎は、このホームページでは蒲井の涅槃像と呼んでいます。

方位線はその頭上でクロスしています。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



参考資料



 「古村記」より

(岩国藩の地誌で最も古いが、明治16年書写に絡んでいます。)

 伊賀路村

 一 東西へ長き所也。祖生境袖トキ川より日積境赤道迄五拾町程、

南北横祖生境ヒムロガ嶽より馬皿境トウゲ垰迄四拾町程。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 「玖珂郡志」より

 伊陸郷  「熊野帳」には村とあり。古語に従いて郷となす。

 (私記す・万葉集に村とありますので、村が古語になります。)

 一 祖生の南、由宇の西にあたる。東西一里十四丁、南北一里四丁。岩国より五里。萩領小行司境川限。

 一 猪鹿路。伊賀地。恚鹿路(イカチ・イカル)。((朱)亥鹿路) 『二鹿本縁』曰、朱雀天皇承平五年、

梅津中将、二鹿を追いて、余鏃(アマカネ)にて射損じたまへば、忽鹿怒りて通りけるを以って、恚鹿路と云。

日村権現の棟札に、永正五年・貞和二年・弘治四年、何れも伊賀道郷と有り。

木部十輪寺跡に有りし法泉寺殿の判物にも、伊賀道郷と有り。天正元年十月十日。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 氷室社の縁起 

 氷室大権現。氷室嶽。奥畑村。 (中略) 周防国富士権現と云。 

 抑、氷室大権現は防之玖珂郡伊賀路之郷鎮座。神をことわるに奇霊その妙、異にして測り難し。

謂れ往古、彼の氷室の池の辺、つねに闇となし、時及ぶに於いて三筋の光、雷のごとく光輝きて天に出、

往きて見れば即ち氷室なり。村人そのさまを怪しみて、国また平安ならず、故に大峰前鬼の苗裔に

使いを以ってこの縁祈る由、よろしきかな、功徳の至れり、国穏やかにして奇怪ともに滅す。

故に彼の行主の徳を仰ぎ、永くこの郷に住むを請ひければ、即ち請うままに住む。

その住みし所を呼びて山瀬谷と謂ふ。また前谷とも呼ぶ。また山上山伏谷と謂ふ。今、三世谷と云うは訛り也。

時変易するや、また奇怪なる光を放つ。故に庶人はなはだ嘆き、この旨を朝廷に告げる由、

鎮守符を以って鎮守せよとの訟令。その後、国主、防府の宮市へ下向の時、この郷に来る。



兄ウカシ弟ウカシの陵墓跡の研究




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
次のページへ進む
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  トップページに戻る    神武東征の目次
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・