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大穴牟遅の神


イナバのシロウサギで書いた『大穴牟遅の神』と、『大物主の神』を徹底的に研究します。

大物主の神については別ページを参照してください。

まず先に知っておく必要がある事として、古事記と日本書紀の成立の違いがあります。

特に日本書紀は問題点が多く、日本書紀の研究はこちらのページに書きました。


古事記は国(都)が近畿に移る前の諸々の事跡を記しています。

つまり、推古天皇で初代の国(都)は終えんになったのです。

だから古事記は推古天皇で完結しています。

その事を理解すれば大穴牟遅の神の不可解な点は見えて来ます。



古事記の記述

通称段落 『天照大神と須佐之男命』 第6章・須佐之男命の大蛇退治のページ。

大國主神、またの名は大穴牟遅神と謂ひ、またの名は葦原色許男神と謂ひ、

またの名は八千矛神と謂ひ、またの名は宇都志國玉神と謂ひ、合わせて五つの名あり。



日本書紀の記述

通称段落 『日本書紀・巻第一』 神代上 第七段〜第八段

大己貴、これを「おほあなむち」という。

一書曰く。大國主神、またの名は大物主神、また國作大己貴命と申す、また葦原醜男と申す、

また八千戈神と申す、また大國玉神と申す、また顯國玉神と申す。其の子すべて一百八十一あり。



日本書紀では大物主神と、大己貴神は同神であるかのように記してあります。

大物主神を研究しますと、奈良県桜井市三輪にある『大神神社』に行き着きます。

大神神社と書いて「おおみわ・じんじゃ」と呼んでいます。特筆はその祭神です。

私が読んでいるのは大神神社の宮司さんが書かれた書物なので間違いは無いと思います。

その祭神は『大物主神 大己貴神 少彦名神』の三神です。ご覧のように別神です。


日本書紀にはイナバのシロウサギの神話はありません。

そのことが大己貴神を位置付けるのに混乱を招いてきました。


大物主神は別ページで解明しましたので、大穴牟遅神を研究してみます。

下の画像は柳井市水口茶臼山古墳から出土した銅鏡です。








ご覧のようにムチの蔓(つる)の先に玉が付いています。

これを振り回せば大穴が開くことでしょう。オオアナムチという名の由来が見えてきます。

さらにはウツシクニタマという名にも関連してきます。ヤチホコの名は文字通り鉾(ほこ)であり、

周防大島の嵩山中腹にある『大悲閣』は島根県神庭郡の荒神谷遺跡をピタリと指しています。

周防大島と言えば古事記では秋国の「たけりの宮」、万葉集では「橘の嶋の宮」、人物では

「橘の豊日の命」、考古出土品では「大嶋郡みかん郷」、その他たくさんあります。


荒神谷遺跡を指している堂宇はもうひとつ、田布施町大波野天神社があります。

大波野天神社と水口茶臼山古墳、この2つの結び付きに葦原色許男神の名の由来があり、

古事記の顕宗天皇の段、遺骨を掘り出して「茅野の東の山に御陵を造って葬った」とあります。

大波野から平野部を隔てて東の山に水口茶臼山古墳があります。


そして水口茶臼山古墳から出土した銅鏡に、先述したムチのレリーフがあります。

さらには、その銅鏡に親子と思われる2匹の蛇が描かれてあり、その蛇は長い定規をくわえています。

大穴牟遅神が出て来るイナバのシロウサギの神話の前章には大蛇の神話があります。


 

絵図・茶臼山古墳パンフレットより引用。
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こうして見ると、大穴牟遅神は誰がモデルになっているのかが見えてきます。

古事記の顕宗天皇の段に記してあります。茅野の東の山に葬られた人物は

市の邊の忍歯の王です。遺骨はその子どもたちによって改葬されます。

その子どもたちとは、荻の命(聖徳太子)と、沖の命(推古天皇)です。


こうして見ると、イナバの神話と顕宗天皇とで年代的に大きな開きがあります。

それは現実に起きたことを上手く神話に融合させて、それぞれの天皇に背負わせたのでしょう。


やがて何年か経過の後、市の邊の押歯の王の遺骨は移住遷都した地へ改葬されます。

そこの記述、『 しかる後にその遺骨を持ち上るなり。故、還り上りまして、』 とあります。

上って上る、意味不明だと思います。

初代の地から遺骨を持って遷都地へ上り、再び初代の地へ帰り上る、と解釈すればいいのです。

すなわち、大穴牟遅の神とは、市の邊の押歯の王であります。大物主の神はコンピラ山で別神です。


大物主の神を追求しますと、御毛沼の命になります。波の穂を踏んで常世の国に渡った神です。

そうすると、少名毘古那の神も常世の国に渡っていますから、大物主の神と少名毘古那の神は同神

である可能性があります。つまり、大穴牟遅の神と大物主の神とは、エビスダイコクの関係なのです。


エビスダイコクを明瞭にしている歌が万葉集の巻第三にありまして、下の画像の歌です。





私が忠実に解読したので従来の解読とは異なります。

右の257番歌は 『雨漏りつく(あもりつく)』 と解釈します。仁徳天皇の段、記紀共に宮殿の雨漏りが記してあります。 五七五で始まります。

左の260番歌は 『あまくだりつく』 と読むほうが意味が通じます。川を流れ下って結婚した大物主の神の伝説です。

歌の字数の問題点はありますが 『あまくだりつく』 と解読しても七音ですから不自然さは感じません。 七七五で始まります。


この歌は仁徳天皇の船のことが詠んであります。今も地下に埋納してあるようです。

右側の歌がエビス神を表わし、左側の歌がダイコク神を表わしています。

そうすると、大穴牟遅の神は仁徳天皇であるということになります。


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イナバのシロウサギは木花の佐久夜姫をモデルにしていると思います。

それは須賀社が神花山古墳を指していることから推察されます。


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場所を明確にするために書かれた記述


イナバのシロウサギの後に続く神話にはそれぞれに場所付けがしてあります。

通称 『八十神の迫害』 は波野スフィンクスのことを語っており、赤き猪がその根拠になります。


続く 『根の国訪問』 は茶臼山古墳のことを語り、その根拠は木の国の大屋毘古神です。

木の国は「木地」を意味し波野スフィンクスのふもと、そして

大屋毘古神は水口茶臼山古墳を意味します。下写真。





続いて神話は蛇の話になり、それは茶臼山古墳の銅鏡のことを語っています。

そして鳴鏑(なりかぶら)の大野、これは文字通り平生町大野です。

その根拠は万葉集にあり、巻一の3番歌と4番歌に弓の弦が鳴る歌があります。

その大野へ向いているのが阿児山の鼠です。下の写真参照。




コバルト台地にて撮影。向こうが東。
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鼠は弓をくわえて出てきます。

『 ここにその鼠、その鳴鏑をくひ持ち、出で来て奉る也。その矢羽は、その鼠の子等皆くらう也。 』

上の写真の大野と書いた辺りに玖珂島と野島があり、かっては弓を作る材料が採れたと由来にあります。


古事記の記述は、鼠の伝説の後も抽象的な物語が続きます。

シラミの話や、ムカデの話で意味不明です。しかしその記述の中には特徴的な部分があります。

たとえば、唾を吐き出す場面は「海神の宮訪問」に出て来る井戸を意味しています。

上の写真のネズミの尾のこちら側にその井戸があります。


物語は、やがて黄泉比良坂になります。

そして須世理毘賣を妻にさせて高天の原に居らせます。

黄泉比良坂は「イザナギイザナミ」の章で説明しました。

高天の原は「幻影の神域」の章で説明しました。


こういうふうに、初代の地で検証すると、多くが繋がってきます。

極め付けとして「御諸山」の記述を検証してみましょう。


御諸山の記述、古事記は「少名毘古那の神と国作り」の段にあります。

日本書紀は「神代上、第八段」通称の「大己貴神の国作り」に記載してあります。

記紀どちらの記述も大穴牟遅と少名毘古那とが力を合わせて国作りをしたとあります。


ただし、日本書紀は近畿方面で物語の構成を導き出しているようです。

そのことを単直に表わしているのが御諸山の所在地の記述です。

私は御諸山と書いていますが、それは古事記の表記であり、日本書紀には

三諸山とあり、その三諸山に祀ったのが大三輪の神であるとしています。

もしそうなら、海から神々しい光を放って浮かび上がって来た神は

何になるのかその辺りが曖昧です。


古事記で検証すれば、その曖昧な部分は明瞭になります。

古事記も似た内容ですが、細部が異なります。以下、古事記で説明します。

まず物語の内容を簡単に載せます。



大穴牟遅と少名毘古那の二人は力を合わせて国作りをします。

やがて後、志半ばにして少名毘古那が常世の国へ渡ります (注・亡くなったという意味)。

大国主神は愁いて (注・ここで大穴牟遅が大国主だとわかる) 自分ひとりでは作り難いと

嘆きます。 その時、海を照らして寄り来る神が出現します。そして言います。

私を倭の青垣の東の山の上に祀れば、国作りは成る。

そして古事記は説明します。 この神は御諸山の上に坐す神である。



以上が御諸山のあらすじです。

海を照らして寄り来る神とは朝日を意味しており、日の出をつかさどるのはアマテラスであり伊勢です。

その伊勢を祀った御諸山はどの山なのか。それはちゃんと記してあります。青垣の東の山の上です。

青垣とは綿花栽培をしていた石城山の垣囲いを意味しています。その石城山の東に見える山は

初代伊勢の琴石山です。下の写真は石城山神籠石遺跡の東門跡から東を見た写真です。

東 100度方向に琴石山が見えます。その琴石山の上には初代伊勢がありました。

すなわち、古事記の言う御諸山とは初代伊勢の琴石山のことです。






ここまで大穴牟遅の神に関係する記述をざっと挙げてみました。

記述のほとんどを証明することができるのがおわかりいただけると思います。




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