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万葉三山歌に見る神籠石



 

からと水道跡から望む石城山。 (柳井市新庄にて)

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 神籠石遺跡が綿花の農園跡であることは万葉集にも記載してあります。

 しかし、万葉集は古くからの歌を集録したものですから、歌のなかへ

織り込む形で記録し、一般の由来記のように直接に書いてはありません。


 ましてや、現状の万葉歌は近畿方面を主体として解釈してあり、

さらには編纂時に書き加えられた歌の注釈文の問題も出てきます。


 注釈文の大部分は編纂時に記紀などを基にして、「おそらくこうだろう、その人の歌だろう」

という推測のもとに記されています。だから合っているのもあれば間違っているのもあります。

そうしたことを考えると、あの注釈文はむしろ無いほうが良かったかもしれません。

 推測の注釈文があるばかりに、歌よりも注釈文を主体にした分析や解釈がなされています。

 万葉集は歌の集めですから歌を見なくてはなりません。

先ず歌があって、注釈文は参考にする程度にとどめておくのが本筋だと思います。


 さて、神籠石遺跡が綿花の農園跡であることは万葉歌に記載してあります。

 神籠石のナゾを解明するうえで万葉集には極めて大事な事柄が多くあります。


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 神籠石遺跡を詠んだ歌として、有名な大和三山の歌があります。

 三山歌を挙げる前に、万葉歌は、いくつかの都に同期性を持たせて詠まれています。

 たとえば、A と B の場所があるとしますと、

A の場所で B を思い出しながら、A と B を同期させて詠む手法です。


ですから、当時の人には複数内容(複数地点)を入れても直感できたけれど、

今の我々には複数の現地が解明されない限り、単一地点での解釈しかできません。

歌の例を挙げますと、巻第一の 1番歌や 2番歌などがそうです。

虚見つ(そらみつ)、という表現で明確に解釈の仕方を表示しています。



今から挙げる三山歌にしても、そうした特異性を持っています。



 では、三山歌を私の解読で載せてみます。

三山歌は一首の長歌に対して二首の反歌があります。

 三首全てを解読してみます。


 なお、この読み方はまだ認可されていませんので、学校の試験などでは通用しません。

 試験勉強では日本古典文学全集などの諸本を参照してください。



 万葉集 巻一  第十三番歌

 高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曾虚蝉毛嬬乎相挌良思吉


 高山は うね日雄々しと 耳無しよ 愛想競ひき 神代より 獅子にあるらし 小昔も 膳にあれこそ 鬱蝉も 図をそう描くらしき

 たかやまは うねびおおしと みみなしよ あいそうきそいき かみよより ししにあるらし こむかしも ぜんにあれこそ うつせみも ずをそうかくらしき



 周防の現地写真を見ながら歌の説明をしていきます。




「加良怒水道」を航行する万葉歌人たちが見たであろう朝日の風景です。

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以下、歌の黄色文字の部分を説明していきます。


 高山は うね日雄々しと 耳無しよ 愛想競ひき 神代より 獅子にあるらし 小昔も 膳にあれこそ 鬱蝉も 図をそう描くらしき  


 三山歌はどれも「からと水道」から初代の山々を仰いで詠んだ歌です。

 からと水道から仰ぎますと、歌中の「うね日雄々し」が東側、

そして「耳無し」が西側に位置しています。


 その東西の位置を見て歌を解釈すると、朝日と夕日とが愛想を競い合った、という内容です。

 日の出と日の入り、初代ヤマトでは日の出と日の入りの場所を神域として崇め、神社が祀ってありました。

 日の出の場所には「伊勢」、 日の入りの場所には「岩戸」です。

どちらも初期には山の頂に祀ってあったのを、後にふもとへ降ろしています。

 やがて人々の移住と共に引っ越し、現代の日本列島を縦断する長大な神域へと発展します。

 歌は、朝日と夕日が愛想を競い合ったという広大な神代のストーリーから始まり、

やがて史実へとなだれ込んで行きます。


 こんどは、加良怒水道跡から西の方向(夕日)を見ます。









 高山は うね日雄々しと 耳無しよ 愛想競ひき 神代より 獅子にあるらし 小昔も 膳にあれこそ 鬱蝉も 図をそう描くらしき  


 歌の「耳無しよ」 に相当するのは「波野(はの)行者山」 と 「呉麓山(くれろくさん)」です。


 波野行者山は上の写真のように動物が伏した形をしています。

 兎のようにも見えますし、また、熊が伏しているようにも見えます。


また、呉麓山も動物が伏した形をしています(下写真)。西側から見れば

熊のように見えますし、東側から見れば犬が伏しているように見えます

 この動物はご覧のように耳がありません。


 そうしたことから、万葉時代は「耳無し」とか「獅子」と表現されたようです。

 このホームページでは地名を冠して「波野スフィンクス」「岩戸スフィンクス」と呼んでいます。

 波野スフィンクスは、加良怒水道の何処から見ても獅子が伏している形で見えます。

 不思議なことに東西南北のどの位置から見ても獅子が伏している形に見えます。



呉麓山(岩戸スフィンクス)を、加良怒水道跡から見ますと、丁度 270 度 で真西に位置しています。

そうしたことから日の入りをつかさどる岩戸を意味しており、呉麓山のふもとには

今でも岩戸八幡宮があり、その境内は弥生遺跡に指定されています。


また、岩戸八幡宮の境内を空から見ると、鳥の地上絵になっています。

ただし、今は樹木が茂って、上空から見てもわからないと思います。

ペルーの地上絵の鳥はくちばしの先に実がありませんが、岩戸の地上絵の鳥は

実をくわえています。そうしたことから『溝呂井(みぞろい)』という地名です。

古代人たちは「ナスカの地上絵」の鳥に実が無いことを知っていたのです。

だから「みぞろい」という地名を冠したのです。

もちろん、私が解明するまでは地名の意味は知られていませんでした。





 呉麓山を西側の岩戸八幡宮付近から見た写真です。

 これも耳がありません。歌の耳無しに相当します。

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呉麓山を東側の田布施町宿井から見た写真です。

こちらは犬が伏している形をしています。

加良怒水道からは、こちらの形で見えます。


もっと書きますなら、加良怒水道からは波野スフィンクスと、岩戸スフィンクスの

二頭のスフィンクスが向かい合う形で存在しています。

もちろん、二頭の遠近はありますが、向かい合う形で存在しています。



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 では、ふたたび歌に戻ります。



 高山は うね日雄々しと 耳無しよ 愛想競ひき 神代より 獅子にあるらし 小昔も 膳にあれこそ 鬱蝉も 図をそう描くらしき  


愛想を競うという意味は、朝日と夕日は神代より愛想を競い合ってきた、という意味です。

以下の 2枚、朝日。






以上、加良怒水道跡から見た朝日です。

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以下の 2枚、夕日。






以上、加良怒水道跡から見た夕日です。


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 では次に。

 高山は うね日雄々しと 耳無しよ 愛想競ひき 神代より 獅子にあるらし 小昔も 膳にあれこそ 鬱蝉も 図をそう描くらしき  





 獅子については先ほど説明した通りです。

 写真は、南側から見た波野スフィンクス。

 東西南北の何処から見ても横向きになっている不思議な山です。

撮影地点・平生町の人島(ひとじま)という所、川は田布施川です。


 (山の輪郭を鮮明に出すため雲影ができるのを待っての撮影に苦労しました。




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 次に移りまして。 


 高山は うね日雄々しと 耳無しよ 愛想競ひき 神代より 獅子にあるらし 小昔も 膳にあれこそ 鬱蝉も 図をそう描くらしき  



 膳とは、食事に使う「お膳」のことです。

 膳の意味しているのは豊御食炊屋比賣命(とよみけかしきやひめのみこと)です。

この人は推古天皇です。良い名ではなく、「メシ炊きオンナ」といった意味を持っています。

 なぜメシ炊きオンナかは、地震(ない・「大野」の章参照)と関連していて、

 地震(ない)とは通称「神武東征」の戦乱を地震にたとえて「ない」と呼んでいたようです。


豊御食炊屋比賣命は戦乱の当時は幼少だったようです。

その根拠は古事記の清寧天皇の段に通称名「二王子発見」として書かれてあります。

まだ幼かった二人は戦乱が終わっても人質同然です。

 だから、いつもジージー泣いてばかりいる「鬱蝉」なのです。

 日本書紀によると、青と赤は可愛がられたとありますが・・・・・。

 青は推古天皇を意味し、赤は聖徳太子を意味しています。

 そうした訳で、歌の「膳」は豊御食炊屋比賣を意味しており、それは推古天皇のことです。



古事記の推古天皇の記述は少なく、小治田宮で天の下を治める事三十七歳。

御陵は大野の岡の上に在りしを後に科長の大き陵に遷す。

それだけの記述です。



推古天皇の陵墓は別ページでも解明しましたように、当初は山口県平生町大野の丘の上、

つまり、大野の丘の上とは、大野から仰げる箕山のことです。そこには石積み遺跡が残っており、

通称「通夜堂跡」と呼ばれています。そこで殯をした後に、南西側ふもとの阿多田古墳へ本葬されます。

やがて、長い年月を経て近畿へと改葬されます。近畿改葬時点で大物主と合葬(後述)されたと考えられます。



古事記は以上ですが、日本書紀には竹田の皇子の陵に葬ったとあり、歴史学的に混乱の元になっています。

物語形式で書いていますから、どれが本当でどれが虚偽なのか明確にならないというジレンマがあります。

書く時に年号と実行した内容だけ書いてくれれば良かったのですが、はるか昔の物語とごちゃ混ぜで書いたものですから、

後の時代にそれを読むと混乱するのは当然です。あるいは、当初から混乱させるのが主目的だったのかもしれません。



日本書紀の推古天皇の物語はだいぶ後の時代に書いています。

つまり、初代ヤマトの地から近畿方面へ移住してから、だいぶ年数が経った後に

世の中が安定して来た頃に合葬したのです。合葬相手を適当に竹田の皇子としたことから

話がややこしくなっています。合葬したのは大物主との合葬です。



別ページでも解明しましたが、大物主の陵墓は山口県光市の三輪神社が明確に指し示しています。

その指し示している所は、当初の陵墓は山口県田布施町の国森古墳です。後に島根県出雲市大津町の

西谷四隅突出型古墳に改装されます。西谷古墳は6基集中して、少し離れて、もう1基あります。

どれが大物主の陵墓だったのかは、いくつかの証拠が残されており、現在復元されている2号墳の確立性が

高いと思っています。それは、墳丘が破壊された状態で残って来たからです。中世頃の土採りという

見解もあるようですが、いえいえ、近畿へ合葬する時に掘り出して、そのまま修復しなかったのでしょう。

その証明として、大物主が丹塗り矢になって流れ下った田布施川のほとりに浮島神社というのがありまして、

その方位線は西谷四隅突出型古墳群の 2号墳を指しています。そうしたことから、 2号墳に埋葬されていたと

確信するものであります。



大物主の陵墓を見ますと、最初から四角い方墳です。国森古墳も方墳ですし、

西谷四隅突出型古墳も方墳が基になっています。

そして、合葬された推古天皇陵は前方後方墳といって、四角い方墳に前方部を付けた、

いわゆる前方後円墳と四角い方墳とを合わせた形にしてあります。



そうしたことから、推古天皇と大物主が合葬されているはずです。

話が万葉歌から反れましたが、根本は周防にあるということを主張しています。



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 では次に移ります。


 高山は うね日雄々しと 耳無しよ 愛想競ひき 神代より 獅子にあるらし 小昔も 膳にあれこそ 鬱蝉も 図をそう描くらしき


図と解釈する訳は、山口県柳井市の水口茶臼山古墳から出土した銅鏡に下図のレリーフが彫ってあるからです。



 琴石山の南側ふもとに水口茶臼山古墳があります。

 その古墳から出土した鏡に「単頭双胴怪獣鏡」と呼ばれる純国産の銅鏡があります。

 直径44・8センチの大鏡で、つい最近まで日本最大(世界最大?)を君臨していました。

 その鏡に定規をくわえたハブ(竜)の親子のレリーフがあります(下図参照)。

 定規は線をひくための物です。線ひきの意味するところは社寺の方位線です。

 古代の人々は初代夜麻登の史実を社寺に託して方位線で記録しました。

文字の確立していなかった時代のことですから、図にすれば文字や言葉は関係なしに理解できます。


 なお、解読では図としましたが、実際には「ジュ」と読みます。

ジュの意味するところは火であり、女王は焼き殺されたようです。

 その悲惨さが常に根本にあり、結果的に図と解釈できます。




  上の絵図は、柳井市教育委員会発行の茶臼山古墳資料より引用しました。




柳井市水口茶臼山古墳出土、単頭双胴怪獣鏡、直径 44.8p


水口茶臼山古墳の銅鏡が日本(世界)最大径であるのに対して、

国森古墳の銅鏡(下写真)は日本(世界?)最小径です。




田布施町・国森古墳出土の青銅鏡。

面径 91mm 、この大きさは湯飲みコップのフタぐらいの小ささです。

両古墳間の距離は直線距離にして約 20 km です。

最大と最小という部分に繋がるものを感じます。


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 当時の日本人の心をあらわしているかのごとく粉々に叩き割ってある中国鏡。

銅は叩いただけでは割れません。 焼いて叩いてこそ割れます。

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13番歌のまとめとして、朝日と夕日が愛想を競い合った、という一節があるため、

朝日と夕日、どちらも競演が見れる場所で詠まれています。

詠まれた地点は 15番歌と同じ地点だということになります(後述)。




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 次の反歌に移ります。

 反歌  第十四番歌

 高山与耳梨山与相之時立見尓来之伊奈美國波良


 香山と 耳無し山と 合わし時 立ち見に来し 稲美国原
 こうやまと みみなしやまと あわしとき たちみにきし いなびくにはら


 (大意) 
 香山(小山)に眠る姫と、耳無し山(波野スフィンクス)に眠る男王の

陵墓とを合葬した時、立ち見の見物に来た稲美国原だよ。



現状の諸本は『立ちて見に来し』と訳しています。

それでも構わないのですが、『て』に相当する文字はありません。


『立ちて見に来し』とすると、立ち上がって見に来た、とか、ある地点を立って見に来た、いう意味になります。

『立ち見に来して』と訳すと、立ち見の見物に来た、という意味になり、少し意味合いが変わってきます。


考えますに、『て』の発声はせずに六音で『立ち見に来し』なのかもしれません。たとえば、2番歌などは

『うまし国そ』で、六音です。初期の歌は定形が定まっていない面があり、六音の可能性があります。



 現地の写真を見ながら説明します。




 香山と 耳無し山と 合わし時 立ち見に来し 稲美国原


 この歌の「耳無し山」とは波野行者山(波野スフィンクス)をいっています。

 小山には「下から上に上げた」という言い伝えが今も残っています。

 現地の小字(こあざ)を今でも「上ゲ(あげ)」と呼んでいます。

 田布施町(たぶせちょう)大字波野(はの)小字上ゲ(あげ)です。


 現状の語り伝えは小山の稲荷社(徳吉稲荷)を、小山のふもとから小山頂上に上げた

というのが通説になっています。

 ところがこの歌を見ても、上げたのは小山から波野行者山の頂上に上げたということになります。

 何千年以上も昔のことですから、上げたという場所が変化して伝わっても不思議はありません。

 上げたという語り伝えが今も残っているのが実状です。



なぜ、小山(香山)から波野行者山に上げたのかは、

小山(香山)で殯をして、波野行者山に本葬をしたことを意味しています。

殯(もがり)というのは、仮埋葬のことです。

亡くなった人を骨になるまで何年間か土葬しておいて、

骨になった頃、遺骨を掘り出して海水で洗い、本葬をします。


小山(香山)には、その殯の跡が今も残っています。

小山(香山)頂上付近に方形の石囲いが一部露出しており、

そこへ仮埋葬されていたと考えられます。


小山(香山)のページ (内部リンク)


波野行者山のページ (内部リンク)


では、小山(香山)に殯埋葬された被葬者は誰か、ということになります。

その人物の特定は『満野長者旧記 』という記録に抽象的な仏教物語に変えて

記されています。その記録の中にあるのが通称 『般若姫物語 』 と呼ばれています。

そもそもが仏教を広めるために書かれた仏教書の趣きの強い書物であり、

墳墓を特定できる記述は少なく、般若姫の遺言と、聖徳太子の記述しかありません。

姫の遺言は 『我死後は向うに見えたる高山の頂に埋め置くべし 』 とあり、それだけです。


対する聖徳太子の記述は、抽象的ではありますが、かなり詳しく書かれてあり、

ほぼ特定可能な領域と言えます。大事な部分を抜き出してみます。


『 〜 忽ち谷の朝霧と変じ、波と聞えしは峯の松原、海上遙かに隔てたり、御供の調子丸お馬の口をとらせ、

万里の虚空に飛び上らんとし給いしが、谷間を見給えば多くの墳墓あり。立ち寄り御覧あれば、大なる墓の

後に高らかに印札を立て、表に般若皇大后宮十九才にして丁亥(ひのとい)四月十三日薨去す、裏に豊後国

満野長者一女と書き記したり、その余は海底に沈みたる家来共の墓とみゆ。(以下略)』


波野行者山からふもとを見おろしますと、小山(香山)があり、この記述の通りです。


もっと研究しますと、陰徳太平記という記録に小早川隆景の記録があります。

隆景は伊保庄に暫らく船をとめます。そこから西北の方向に般若寺が見えた、とあります。

実際の記述は問答形式に書いてありますが、簡略しました。

『 青松茂シテ高ク天ニ倚レル峯有ツテ 』

とある記述から見ても、伊保庄から西北に見えるのは波野行者山です。



まとめとして、歌の「高山」は「こうやま」と発音して、小山(香山)のことです。

「耳無し山」は小山(香山)の北側にある波野行者山(はのぎょうじゃさん)です。

耳の無い兎(熊)みたいな形をしていますから、そう呼ばれたのでしょう。

それを「合わせた」とは、墳墓を合わせたという意味であり、小山(香山)の被葬者を

波野行者山へ上げた(合葬した)という意味です。

そして、歌を詠んだ人は、その葬儀をふもとから立ち見をしたよと言っているのです。

現地に立ってみますと、ふもとからよく見えます。

この歌が詠まれた地点は、高い塔があった所、すなわち出雲大社の前身が建っていた所です。



香山と 耳無し山と 合わし時 立ち見に来し 稲美国原
 こうやまと みみなしやまと あわしとき たちみにきし いなびくにはら


 「たぶせ」という地名の起源は田にあり、稲作と関連しています。

 万葉集にも「田廬 (たぶせ)」と詠まれています。巻第十六 3817 番歌。

 だからこそ稲穂の美しい原という意味をもって「稲美国原」と詠んだのでしょう。 

また、稲穂を見渡す意味での『稲見 (いなみ)』の可能性もあります。『 稲見国原 』です。


防長風土注進案(1830〜1844)より

熊毛郡上関御宰判 上田布施村(かみたぶせ)

 田布施といへるは上代秋田刈上の時、田屋といへる邊曠地にて刈收の便利不宜に付、

 田ことに假りの菴りをしつらひ其業を営しよりして田廬とは名付しを、いつとなく一郷の惣名

 と成りて、當境国木、竹尾、眞殿まても田布施と唱へ来り候之由古老申傳へ候。(中略)

 八ヶ国の御時田布施波野之内海にて寺家田と申處大潮満干有之、此所を唐戸の迫門と

 申候由、然共すべてに於いて浅海にして干潟の地多く、(以下略す)  




 
熊毛郡上関御宰判 下田布施村(しもたぶせ)

 當村を田布施と申事は往昔民屋無數時、曠地の田毎に暇りの庵を結ひて刈收の不自在を

 便し候よりして田廬とは呼ひ候を、いつの比よりか田布施と文字を書かへ候よし古き事にて

 難相知と古老申傳へ候、(以下略す)   



熊毛郡上関御宰判之内 波野村   

 波野といへる村名、其むかし東は大嶋鳴門より南は麻里布の沖へ潮行通ひ候時、

 波の打寄る野といふ心より波野と呼ひ習はせしと閭里に申傳へ候





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 では次の歌に移ります。  


 第十五番歌

 渡津海乃豊旗雲尓伊理比紗(祢・弥・沙・佐)之今夜乃月夜清明己曾

 綿摘みの 豊旗雲に 入り日さし 今宵の月夜 さや明れこそ
 わたつみの とよはたくもに いりひさし こよいのつくよ さやあかれこそ






 三山歌は、この歌に来て、ようやく神籠石が綿花の遺跡であることを証明します。


 綿摘みの 豊旗雲に 入り日さし 今宵の月夜 さや明れこそ

 「綿摘み」とは文字通り綿花を摘むことです。

その綿摘みの山を海上から見ています。


 万葉人たちは上写真のような夕日を見て詠んだのでしょう。

 そうすると、「わたつみ」という言葉が「海神」をも意味するようになった過程も

海上であることにより、理解できます。

 「わたつみ」は「綿摘み」でありながら「海神(わたつみ)」でもあるということの意味がここにあります。


 「豊旗雲(とよはたくも)」については当初、「旗のようになびいた雲」と解釈していました。

現状の諸本もそう解釈してあるはずです。勿論それでも問題は無いです。

雲ということについては、綿花の比喩ではないかと思います。

石城山に綿が熟成しますと、山の頂が真っ白になって、

あたかも雲がかかっているように見えたはずです。

ただし、この歌が詠まれた時期は夏至の頃です(後述)棉のタネを蒔く時期であり、

その点を考えると、歌人は虚を見ていたのかもしれません。

あるいは、栄えていた往時を偲んで詠んだのかもしれません。



豊旗ということにつきましては、神籠石の加工痕に発見がありまして、

 のぼり旗を立てていた可能性があります。

 石城山神籠石のページと重複しますが、もう一度載せてみます。




 石城山神籠石にある柱穴。右上の四角い穴がそれです。

柱穴の詳しいことは、このページ(内部リンク)をご覧ください。

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 現状では、列石が土中に潜っている所もあり、柱穴は 5穴しか確認できません。

 もし、八つ以上の穴を発見できれば、ふもとの「八幡(八和田)」

と呼ばれている地名は、八幡の語源に迫っていくことでしょう。


 そうした訳で、歌中の「豊旗雲」とは、たくさんの旗と、

綿花の白色とが合わさった造語と考えます。




加良怒水道跡(柳井市新庄)にて撮影した石城山。



 では、次に移りまして、こんどは「入り日さし」です。





綿摘みの 豊旗雲に 入り日さし 今宵の月夜 さや明れこそ


豊旗雲が石城山を意味していることは先述しました。

歌は、その豊旗雲に入り日がさしています。

上の写真は夏至の頃に撮影したものです。

夏至の頃には歌の通りに石城山に日が沈んでいきます。


この写真は2006年の撮影です。その頃にはまだ詠歌地点が明確にならなかった時でもあります。

撮影地点にズレがありますが、同じ地域で撮影したものなので、石城山に沈んでいくことは明瞭です。



さて、そこで問題になるのが月です。

「今宵の月夜 さや明れこそ」

夏至の頃の月没は深夜 0時半頃になります。

深夜に上弦の月、いわゆる舟形をした月で沈んでいきます。


月没地点を決めるには詠歌地点を明確にする必要があります。

日没と月没とが歌の通りになる場所を探しますと、柳井市新庄の

「宮の下」という所になりました。現在のJR山陽本線の北側横です。

そこには『信比古碑』(さねひこのひ)と呼ばれる石碑があります。

そこがピタリ合います。その石碑の辺りで詠んでいます。


根拠を説明します。


6月21日の夏至の頃の夕日は 299度方向に沈みます。

同じく 6月21日の夏至の月没は274度方向に沈みます。

その数値を下の写真に合わせてみてください。



詠歌地点は綿摘みの山(石城山)と、海神(わたつみ)を根本に置かなくてはなりません。

歌は海上で詠まれており、詠歌地点を導き出すには海域であることが第一条件です。

つまり、かっては海域だった所でこそ「海神(わたつみ)」になります。海です。

現在のJR山陽本線は、かっての加良怒水道跡の最深部だった所を通っています。



そして、波野行者山には、かって般若寺の前身があったことは先述しました。

つまり、波野行者山は月に関係していなくてはなりません(半如姫⇒般若姫)。

日没と月没とが歌の意味と合ってこそ詠歌地点になります。



詠歌地点を導き出します。

石城山へ日没したその日の夜の月没は、

先述した「信比古碑」の所で測定しますと、

月没位置が波野行者山になります。













 この辺りを追究していきますと、ある伝説と一致します。

 その伝説とは、ほとんど幻に近い伝説なんですが、現在は「濡田廃寺」と呼ばれています。

 かって大きな寺が存在していたという語り伝えです。

実際に寺跡と思われる白鳳朝の瓦なども出土しているようです。

 様々な憶測が飛び交っているのが現状ですが、ただひとつ、

はっきりしていることは明治時代が絡んでいることです。

 すべては明治時代にわからなくされているんです。

その決定的な証拠となる事実があります。



明治の山陽本線敷設の時、

直径2メートルという大きな礎石を破砕して線路敷設の材料に使っています。

 市史によりますと、その礎石は二重孔式の奈良朝期の様式を示す塔の心礎石だったとあります。

 孔内から舎利容器や仏舎利などが出たようですが現存していません。

 直径2メートルの礎石だったといいますから相当な物です。



さてそこで、濡田というのは地名で、現在の新庄字安行という所です。

 礎石はそこにあったと言われているんですが、どうも釈然としない点がありまして、

 第一に山陽本線からずいぶん距離があります。

 山陽本線は唐戸水道の最深部だった辺りを通っていますが、

 礎石のあったと言われている所は線路から北へ数百メートル離れた丘です。

 現地で考えてみますと、少し距離があり過ぎることは一目瞭然です。。


 近隣の社寺の方位線を合わせますと、山陽本線付近の方が有力になってきます。

 それなら濡田廃寺はどうなのかと考えると、濡田廃寺と心礎石は別物ではないか、

 明治時代に山陽本線付近に大寺の遺跡(心礎石)があったのを破壊します。

その心礎石が濡田廃寺の伝承と合体してしまったのではないか、と考えるのであります。


 多くの社寺の方位線をもとにして導き出しますと、

 その礎石は山陽本線付近にあった可能性が高いです。

 つまり、そこをねらって線路敷設をしたというわけです。


 山陽本線は加良怒水道の最深部だった所を通っていますから、

幻の大寺の心礎石は海上にそびえ立つ仏塔の心礎石だったことになります。

 広島県宮島の厳島神社と同じような海上の大寺です。

だからこそ直径 2メートルという巨大な礎石だったのです。


 日本書紀にこんな記述があります。

 敏達天皇十四年二月

 蘇我馬子は、塔を大野の丘の北に立てて大会の設斎をし、達等が以前に感得した舎利を塔の柱頭に収めた。



 「大野の丘」とは、赤子山(阿児山)のことです。

「大野の丘の北」ですから阿児山です。

 その阿児山の北ですから、現在の柳井市新庄。

 すなわち、からと水道、大寺伝承の残る所です。



では、なぜ海上の大寺(塔)だったのか、という点について言及しますと、

 そここそ般若姫の入水地点だからです。般若姫というのは仮称の名でありまして、

追究していきますと、親子(母娘)がごちゃ混ぜになって脚色されています。

般若姫物語は実話を基にして仏教色豊かに書かれた仏教小説です。

つまり、早い話しが、複数の女性のストーリーをひとつの物語に入れたと思えばいいでしょう。



では、そうなら、入水した女性は誰なのかと追究していきますと、先述した敏達天皇が絡んできます。

敏達天皇はなぜ塔を建てたのか、それは亡き妻を供養するために建てたのです。

敏達天皇の妻は、推古天皇です。

特筆すべきは、敏達天皇は仏教を信じていなかった、と、日本書紀には記してあります。


推古天皇の伝記は記紀共に少なく、日本書紀は多く書いてあるように見えますが、

よく読んでみますと、ほとんど聖徳太子の伝記になっています。推古天皇の伝記が少ないです。


年代を逆行してみます。推古元年、仏の舎利を法興寺の塔の心礎の中に安置します。

そして塔の心柱を建てます。寺名は近畿に合わせてありますからここでは考えずに、

その法興寺は崇峻天皇の代に飛鳥衣縫造の祖先の家を奪って建てた、とあります。

さらに年代を逆行すると、敏達天皇は塔の柱頭に舎利を収める祭事をします。

これ、全部ひとつのことではないかと。

つまり、敏達天皇の時代のことが分けて書いてあるようです。

塔の記述は敏達天皇から推古天皇へと繋がっています。



敏達天皇は仏教反対派(物部派)の進言により、国に疫病が流行るのは

仏教のせいだ、なぜお採り上げにならないのかと奏上します。

物部派はみずから塔を切り倒して火を放ち、仏像を難波の堀江に投棄します。

そして尼僧たちの法衣をはぎとり、身を縛って鞭うった、とあります。

難波の堀江とあるのが決め手になります。



訳がわからないと思いますので順に並べてみます。



@ 反仏派の敏達天皇が崇仏派の推古天皇と結婚。

A 敏達天皇が崇仏派に転向する。

B 反仏派の勢力に難波の仏塔を焼き討ちにされる。

C 反仏派は尼僧でもある推古天皇を暗殺(水死)

D 敏達天皇は妻である推古天皇の水死地点に仏塔を建て供養する。

E ふたたびその仏塔は焼き討ちに遭う。



ここまでわかれば、万葉三山歌の詠歌地点はおのずと導き出せます。

13番歌 ⇒ 難波(四天王寺の前身)

14番歌 ⇒ 上ゲ(出雲大社の前身)

15番歌 ⇒ 新庄(信比古碑のある所)





上の地図を見ながら説明します。


13番歌の詠歌地点

(上図・八幡) 難波というのは九州方言で「難ばところ」という意味であり、八幡の瀬戸。

今の蓮台寺山に仏塔が建ててあったのでしょう。今の高圧線鉄塔のある辺り、または、

極楽寺跡(赤丸)の可能性もありますが、極楽寺跡は海浜跡から少し離れていることを見ると、

八幡の瀬戸に近接した所、今の高圧線鉄塔の辺りだと思います。しかしそれは仏塔(寺院)が

あった地点であり、13番歌の詠歌地点は、別の所だと思います。13番歌が詠まれた時には

仏塔はすでに無かったはずです。廃墟になった場所(蓮台寺山と言います)を見ながら、

海上で詠んだとしたら、歌に関係するすべての山が見える所は、今の農協の市場が

建っている辺り(太古には海上)が最も有力になります。上の地図の青丸印を付けた所です。

そこの地名を『余田(よた)』と言います。

私が現地で 13番歌に叶う位置を GPS で測定しておきました(下記)。


N 33度 57分 52.9

E 132度 03分 51.5

位置精度 +- 4m


E 線は上記の数値でほとんど動かさない位置に立ちます。

N 線が多少百メートル程度前後していたかもしれません。

上の地図に青丸印を付けている所です。


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14番歌の詠歌地点

(上図・大内) 上ゲは今の大内公園の丘の上で詠んだ可能性があります。

その公園は聖徳太子の上宮の前身地点跡になります。ここから近畿へ移転したのです。


古事記にはその根拠となる記述があります。顕宗天皇の置目老媼のページ。

「さて後に、その遺骨を持ち上りたまひ、故、還り上りまして」 とある部分です。

遺骨を近畿へ持ち上りて、周防へ帰り上った、という意味です。


大内公園は、私が幼少の頃には土手で縄文模様の土器片が採集できていました。

昭和時代の造成拡張により、表土は除去されています。今は弥生遺跡になっています。


その丘からは田布施町の広範囲が見渡せます。万葉歌の『稲美』は、

稲穂を見渡せる『稲見 (いなみ)』かもしれないなと思ったりします。

私が現地で 14番歌に叶う位置を GPS で測定しておきました(下記)。


N 33度 57分 32.3

E 132度 02分 59.4

位置精度 +- 4m

公園(丘)の真ん中で測定。


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15番歌の詠歌地点

(上図・新庄) 内容は先述した通りです。


N 33度 58分 15.8

E 132度 05分 14.2

位置精度 +- 3m

信比古の石碑の所で測定。



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以上の三地点を見て、星座のオリオンベルトを直感されたと思います。

エジプトの三大ピラミッドの配列と同じで、オリオンベルトを意識しています。


2004年2月1日の私の星座観測のメモを公開します。

2月1日の深夜、1時〜2時の間に観測。

観測地点、柳井市余田と新庄の境界付近(加良怒水道跡)

以下、私のメモの記述。


2004年のメモ。

1月28日から2月1日の深夜 1時から 2時の間に、オリオンと舟形の月(上弦の月)が

並んで沈んでいく。余田から見ると、月は波野行者山(スフィンクス)の顔面に沈み、

オリオンが小山(香山)に立ったまま沈んでいく。時期的には 1月30日が丁度見ごろだろう。

小山(香山)のふもとには高い塔(出雲大社の前身)があったと思われることから、

オリオンは矛先(塔)にあぐらをかいて事問い(ことどい)をするのである。


2007年のメモ。

1月25日、深夜 3時。 観測場所、同上。

オリオンの下半身が沈んでいて、丁度、矛先にあぐらをかいている形になる。



2007年のメモ。

1月27日、深夜 1時半。 観測場所、伊保庄賀茂神社。

1の鳥居から見て、オリオンは神殿の上に立っている。



以上を見ても星座のオリオンと連携していることが見えると思います。

そもそも、オリオン星座は人の形には見え難いのです。

星座を意識して見てみますと、オリオン星座は巨大な蝶に見えませんか?

三つのオリオンベルトは蝶の体に見えると思います。

それをわざわざオリオンという人物に見立てています。

そのあたりを深く見て行くと、星座は日本神話に繋がっていくのです。






これで三山歌の説明は完了しますが、後に写真などを差し替えるつもりです

差し替えたら、その旨トップページで通知します。










 柳井市新庄の土穂石八幡宮付近より西の方向を見たもの。
 線路の右側に大きな木が見えています。
 そこには庄屋であり国学者でもあった「岩政信比古(さねひこ・千八百年代)」の石碑があります。



 「信比古(さねひこ)碑」とあります・・・。






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