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万葉集 23首を歩く 第一回 橘の嶋の宮
「たちばなの しまのみやには あかねかも さだのをかべに とのゐしにゆく」
周防大島小松、オレンジロード(見山橋)より望む笠佐島。その向こうの白い家並みが、かっての唐戸水道東側出入り口です。 (フィルムスキャン)
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この章では、歌に詠まれている「橘の嶋」の位置付けの考察をしてみたいと思います。前章で載せた部分と重複する所もありますが、この歌で23首全部を決定できるほど大事な歌なので、もう一度ご覧ください。
上の歌の意味は 「橘の島の宮殿に飽きる事はないが、佐田の岡辺(丘辺)に宿をとりに行こう」 という意味です。この歌は万葉集にあり、23首の歌で一まとめになっている内の中の一首です。「橘の嶋の宮」とは、どこを語っているのか、私は長いことそのナゾ解きに夢中になってきました。「嶋の宮」とある以上、湖や海に浮かぶ島です。まれに縄張りを「シマ」と言うこともありますが、やはりここは純粋に湖海の島と解釈すべきです。
万葉集に地名としての橘が詠まれた歌は私が研究した限りでは四首あります。花としての橘を詠んだ歌は多くあるのですが、地名か、それとも植物の橘か、さらには橘豊日命(用明天皇)の橘もあります。その辺の分別は気持ちの持ち様もあり、少々決め難い面があり、明らかに地名(地域を呼ぶ時のニックネーム)だとわかる歌は現状で四首あります。その内の一首が上の写真の歌です。
地名としての橘とは何処の橘を言っているのでしょうか?現状では奈良県高市郡明日香村橘としてあります。しかし、前述したように「嶋の宮」と呼ぶには少し苦しいところがあります。島庄という所もあるようですが、この23首のなかには「嶋の荒磯を今見れば」と詠まれた歌がありまして、荒い磯ですから海があるはずです。
橘は蜜柑の古名とされています。ところが、蜜柑の名も相当古くから有ったらしく、平城京跡出土木簡には次のように記してあります。
平城京跡発掘調査出土木簡より
周防国大嶋郡美敢郷凡海阿耶男御調塩二斗 天平十七年
周防国大嶋郡美敢郷田部小足調塩二斗 天平十七年
周防国大嶋郡美敢郷凡海直?山御調尻塩
上の三点は塩の荷札木簡です。注目してほしいところは「美敢」の文字です。塩の荷札は美敢とありますが、承平年間(931〜938)につくられた「和名類聚抄」巻八 周防国第百十七条では、大島郡は「屋代」「美敷」「務理」となっています。美敢と美敷、いったいどちらが本来の文字なのか、又、何と読めばいいのでしょうか。
それを知るために双方の文字が使われた年代をわかりやすく西暦にしてみます。
美敢 西暦745年の文字。
美敷 西暦931年頃の文字。
約二百年もの隔たりがあります。現在、普及している書物では「美敷」の文字を使ったものが多くを占めていて、「みぶ」と読んでいます。文字を比較してみますと、文字の形が実によく似ています。眼鏡の無かった昔には見間違えやすい字でもあります。又、毛筆書きの漢字は改ざんされやすい欠点があります。ためしに、毛筆で敢の文字を書いて、それに線を加えて敷の文字に変えてみてください。簡単に変えられるでしょう。改ざんは主に書き加える手法で変えていきますから、敷を敢にするのは、ちょっとできません。そうした事を思うと、年代の通りに「美敢」の文字が本来の文字だとわかります。
安下庄(あげのしょう)天満宮にて。 (フィルムスキャン)
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では、何と読むのだろうと考えてみると、敢の文字は「カン」と読みますから、美敢は「みかん」と読めることになります。オレンジの蜜柑です。蜜柑を古典では橘とも言います。どちらも同じミカン科の植物です。現状では「蜜柑の古名を橘という」としてあります。蜜柑の古名が橘であるなら、美敢郷はもっとべつの意味があるのではないか、もしかすると「未完郷」ではないだろうか、と言った考え方も出てくると思います。美敢は、蜜柑かそれとも未完か、それを知るためには大島の西隣にある室津半島の大星山に登ってみる必要があります。
大星山を語っている一節です。
古事記 天孫降臨 より
「ここは加良国(からくに)に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日のただ射す国、夕日の日照る国なり。ここは、いと良きところ。」と詔りて、底つ岩根に宮柱太しり、高天原に氷伝たかしりて坐しき。
この一節は「幻の熊毛神社」(内部リンク)でも解説したように、笠佐島の向こうから昇った朝日は、笠戸島へと沈んで行く様を讃えたものです。大星山頂から日の出を見ると、夏至や冬至の頃を除いてほとんど一年中、朝日は周防大島から昇って来ます。その昇って来る太陽をひと目見れば、なぜ周防大島が「蜜柑郷」と呼ばれたかの意味がわかります。すなわち、朝日を蜜柑に見立てているわけです。
大星山より望む、周防大島、飯の山の向こうから昇って来る朝日。 (フィルムスキャン)
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神代人達は、その昇って来る美味しそうな朝日(蜜柑)を食べたいと思った、でも、やがてそれは叶わない事だと知る、それでも食べたいと思った。蜜柑の昇って来る島ゆえ、「蜜柑郷」と呼んだのでしょう。
そうすると、蜜柑と橘は同種ですから、万葉歌の「橘の嶋」を周防大島として考える事が可能になります。
大星山より望む、周防大島から昇る朝日。 (フィルムスキャン)
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次に、地名と思われる橘の万葉歌の分析をしてみたいと思います。
前述したように地名としての橘を詠んだ歌は四首あります。上の一首と残りの三首は年代を隔てて存在しています。それらの歌の全てが同一地点になれば、橘の嶋は周防大島であるという事になります。
橘が次に登場するのは巻7です。先ほどの歌は巻2でしたから、ずいぶんと隔たりがあります。その隔たりは、そのまま年代の隔たりと解釈してもいいと思います。侵略による戦乱を逃れた人々が疎開移住して行って、百年あるいは何百年も過ぎているかもしれません。歌集の中では同一線上にあり、巻2から巻7へはすぐに移ることができますが、実際には何百年もの開きがありそうです。歌を見る時、その年数の開きを感覚として置いておく必要があります。巻2の佐田の丘辺で涙した人々の何代も何代も後の世代が詠んでいる、と思えばいいでしょう。それほど年代が離れて来ますと、自分達の先祖という感覚は失せてしまいます。戯笑歌(ぎしょうか)であるのも、そうした部分を意識しておく必要があります。
たちばなの しまにしおれば かわとおみ さらさずぬいし わがしたごろも
(大意) 橘の島に居れば、神が川を流れ下って結婚したという伝説の川は遠い。せめて染めずに縫った私の下着でいにしえを偲ぼう。 (フィルムスキャン)
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三輪神社を中心に円を描くように流れている。たぶせ川の源流域。
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解説
この歌の川とは、神話にある伝説の川のことです。美和の大物主神が勢夜陀多良比賣に恋をして、丹塗矢に変身し、川を流れ下って結婚したという物語です。「下衣」とある言葉が下心を連想させていて、とても面白い歌だと思います。この物語を古事記では神武天皇の段に入れてあります。物語に即して現地で照合してみると、美和(現在、三輪)を流れているのは「たぶせ川」の源流であり、歌中の「川遠み」とはその川を指していることになります。距離的には、周防大島の西側辺りからでも、およそ十五キロありますから、やはり川遠みになります。
ところで、この歌の作者は古事記を読んでいるようです。そうでないと、こんな歌は詠めませんから。
周防大島小松にて撮影。 (フィルムスキャン)
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三輪神社境内より撮影。
十年前の写真です。今は桜の木が成長して見えにくくなっています。(ネガフィルムスキャン)
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橘を詠んだ歌、次に移りまして、こんどは巻十六です。前の歌が巻七ですから、年代的に相当な隔たりがあります。
たちばなの てらのながやに わがゐねし うなゐはなりは かみあげつらむか (解読、管理人)
(大意) 橘の寺の坊舎に我々一行は宿をとっている。後妻が前妻の童女を育てたという神代の語り伝えを上げて語らうか。
写真・日見の西長寺本堂 山口十八不動三十六童子霊場 第十六札所
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(解説) 「童女波奈理」とは、「うなゐはなり」と読みますが、これも古事記などの神話から発生した言葉です。木花の佐久夜毘売の段に登場する石長比賣のことを童女(うなゐ)と仮称しています。また、後妻のことを古語で宇波奈理と申しますが、石城山にある宇波奈理社の祭神は木花の佐久夜姫です。すなわち、佐久夜姫と石長姫とを掛け合わせて「童女波奈理」と仮称しているわけです。当時の人々にはそれだけの言葉で全てが伝わった、ということでしょう。
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橘を詠んだ歌、次に移りまして、次の歌は前で解説した歌と並んで載せてあります。「子をとらむか」とあることにより、髪の文字を神と決定付ける大事さを持って二首並べてあります。もし、次の歌が無かったら、髪の文字はそのまま髪の毛の髪でしかなかったでしょう。
たちばなの てれるながやに わがゐねし うないほうりに かみ、こをとらむか (解読・管理人)
(大意) 橘の豊日命にまつわる坊舎に我々一行は宿をとっている。伝説によると、童女(石長姫の意味)を付けて差し上げたというが、神武よ、子を取らないか。
(写真・日見、西長寺。左側の石垣が本堂。道と川を中に置いて、右側が大仏堂。)
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(解説) この歌も前の歌と同じように古事記の物語がもとになっています。もとになっているのは「木花の佐久夜毘売」の神話です。
ニニギノミコトは笠沙の御前で麗しい美人に出会います。その麗しい美人が佐久夜姫です。そこで、ニニギノミコトは佐久夜姫の父(大山津見神)に結婚を願い出ます。大山津見神は喜んで、もう一人石長姫も一緒に付けて差し上げます。ところが、石長姫は見にくかったため帰されます。
物語では佐久夜姫の姉が石長姫となっていますが、現地で照合すると石長姫は幼児であり、佐久夜姫は育ての親、そして大山津見神は佐久夜姫の夫(父)であるということになります。万葉歌の語っているところもそこで、すなわち、「髪」は「神」であり「神武天皇」です。よって、神武は幼児をとらなかったということを半ば憤怒の思いで詠んでいる歌です。
この歌があることにより、万葉歌の「橘」は橘の豊日命(用明天皇)にも関連していることがわかります。
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西長寺と木原延命院の由来記は少しややこしい部分がありまして、私が本を作る時のために書き溜めていた研究記を参考までに載せておきます(内部リンク)。本の途中の文章なので少しチグハグな部分もありますが、参考になると思います。
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長尾八幡宮
「橘の島」が見えて来たので、こんどは「島の宮」について考えてみたいと思います。
橘の嶋とは周防大島を言っているようですから、「橘の嶋の宮」とは周防大島の何処かにある「宮」を言っていることになります。そうして思いつくのが神武遠征に登場した「秋国のたけりの宮」です。
神武遠征の章で研究しましたように、たけりの宮は室津半島の尾国賀茂神社が指し示しています。その方位線から導き出た場所は旧橘町(安下庄)にある長尾八幡宮でした。長尾八幡宮は木原を拝礼して早戸大明神に繋がっており、早戸大明神は上関(古称・竈戸関)に移されて竈八幡宮の前身になります。この繋がりを見ましても、長尾八幡宮は「たけりの宮」の跡地に建立されている、と言えるわけです。
それをこんどは万葉歌と合わせますと、歌の「橘の嶋の宮」とは、「たけりの宮」のことであり、その跡地に建っている長尾八幡宮のことである、ということになります。
秋地区方面からですと、目指す長尾八幡宮は、安下庄の町の入り口付近にあります。県道の山側に大きな石鳥居が立っていますから、それを目標にするとわかりやすいと思います。参道は海浜の方向に延びており、ここも、かっては舟を乗り付けて参詣していたであろうと推察されます。たぶん創建当初は大鳥居のあたり一帯は海浜で、海はすぐそばにあったことだろうと推測できます。
補足
ここでは秋方面から説明していますが、道路事情として、安下庄へ行くには、大島大橋を渡って左折し、海岸を通り、日前で山越えをして安下庄に入るのが一般的です。
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境内の東側に参道と平行して八幡川が流れています。
参道からは嵩山(だけさん)がよく遠望できます。嵩山は死火山で、山を歩いてみると溶岩で形成された山ということがよくわかります。
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長尾八幡宮境内は安下庄湾を一望できる小丘の上にあります。
丘の東麓にはミカン園が広がっており、橘を意識せずにはおれません。 (フィルムスキャン)
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防長風土注進案 安下庄
往古は甲ノ荘と申し候ところ、延喜元年菅丞相(菅原道真)筑紫に下向の節、風波起こり当地に船を停泊された。当地の名をたずねられたので甲ノ荘と答えると、庄に甲を載せては不繁昌である。今より安下庄と改むべしと仰せあり。よって安下庄と改め候由、申し伝え候。当郡二十七ヶ村の内、支村無き御座候事。
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石段を登りきると境内は小さな庭園になっており、池の石橋を渡って参詣します。
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さらに奥へ進んで行くと、境内には向かって左側の配祀で「武内社」と呼ばれる石祠があります。参道に対して直角方向に向けて祀ってあり、参詣する我々は武内社を左手に拝礼して本殿へ向かうことになります。武内社には木造鳥居が建ててあります。
武内社
前面方位は長尾八幡宮本殿右方位と同じで、島根県温泉津、石見銀山付近を通過する。
温泉津は、かって古代に大がかりな侵入があったことがうかがえる。
山口県豊北町の土井が浜遺跡などは、侵入の痕跡を明瞭にとどめている。
九州の佐賀県吉野ヶ里遺跡なども大がかりな侵入の痕跡がうかがえる。それらは神武東征として語り継がれて来た。神武を英雄としなければならなかった背景には、完全な掌握下に置かれていたことをも意味していよう。神武を研究する時、名を取り換えていることを考慮しなくてはならない。
この章で研究している23首の万葉歌も、その背景を抜きにしては語れない。
倭国大乱などと捏造されて国内の争いにされてしまっているが、とんでもないことだ。当時の国内は現在にも匹敵するほどの良好な統治だったことは、連鎖していく地名を見てもわかる。
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古事記 通称「神功皇后の新羅征討」の段より (解読 管理人)
(途中より) 恐(かしこ)し我が大神、貴神の腹に坐しし御子は誰の子かと申すと、男爵の子と、お答えいたす。「爾具請之」今かくのごとく教えし大神は、その御名を知って欲し。すなはち答えて申す。この天照大神の御心もまた。「底筒男、中筒男、上筒男」三柱の大神なり。「この時、その三柱大神の御名はあきらかになり。」
今まことにその国を求めむと思へば、天神地祇また山の神および河海の諸神に、ことごとく幣帛たてまつり、和の御魂、烏を船上に坐せて、神木の灰を瓠(ひさご)に納め、また、著におよぶ比羅伝を多に作り、皆々、近江に散らし浮かしをもって託す由。「ここは二通りの解読(皆々必見、産婦、花はどうか。子の備えを教え諭し条。)」
軍勢、船を並べて門を行きし時、貝腹の巣など大小問わず悉く。温泉負けて明け渡すのみ。順風多く発ちゆく。温泉乱れるままに。故、その温泉の波瀾、新羅の国、押し上がり、もはや中つ国に到る。ここに措いて、箕(み)の国の王移行。宋言う。「今より以後、天皇命は隋にて、身を馬韓となす。」
年ごとに戦争。船腹の乾くことなし、梶櫂の乾くことなし。天地の友よ退くことなく仕え奉れ。
故、これをもって新羅の国は御馬甘(みまかひ)と定め、百済の国は綿(わた)の屯(みや)家(け)と定む。
難事その怨情をもって、新羅の国主の門に築き立て、すなはち墨江大神の荒御魂を国守る神とし、祀り沈めて(鎮めて)遷都なり。
神功皇后の段より気比の大神
故、建内宿禰の命(武内宿禰)、その太子をひきい禊せむとす。淡海および若狭の国を経歴の時、香(こう)を知るさきの角(つぬ)鹿(しし)に於いて仮宮を造りて坐す。汝その地に坐す伊奢沙和気の大神の命、親の夢を見て言う。「我が名を持って御子(みこ)の御名(みな)換(か)えて欲し。」母(かあ)言う、父(とお)申しし。「恐(かしこ)し、命に従い換(か)え奉る。」またその神、招く。明日の朝、干浜へ行き、まさに名を換えし幣立て待つ。故、その朝、干浜へゆきゆきし時、花滅ぼししイルカすでに一浦に依る。ここに於いて御子、干神に申さしめ告る。「我、意祁(おき)の名給う。」故、こもまた、その御名を計りて御食(みけ)の津の大神と名づける。故、今を祁比(けひ)の大神というなり。地震(ない)の地の花の名貸し人(泣かし人・・・)、そもまた。 故、その浦をたけりの地の浦と謂う。今、都八つ(原文、奴?双?・・・二つ?)が謂われなり。
(解読・管理人)
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長尾八幡宮
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この長尾八幡宮の神殿は桧皮葺で、一見して伊保庄賀茂神社との共通性を感じます。これほど共通している神殿は、この二つを置いて他に見えません。その訳は拝礼方位に伊保庄賀茂神社があることによって解明されます。
ひとつ残念なことに、拝殿と神殿とが渡り殿で接続してあり、神殿の前部は見えません。
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境内には稲荷社もあります。こちらは少し趣が違い、奥まった所にあるので参道から直接は見えません。稲荷社は本殿に向かって右側の配祀、その高さは本殿の神殿と同じ高さか又は少し高い位置にあります。堂宇が新しいので近年に祀られた稲荷社かと思い、宮司さんにたずねてみたところ、昔からそこに在った稲荷社だということです。八幡宮神殿と同じ高さで祀ってあることを見ても、おそらく長尾八幡宮と同じくらいの年歴を経ていると推察されます。
(フィルムスキャン)
稲荷社の参道脇からは細い道が出ており、境内の丘の周囲を一周することができます。境内裏手にも小さな鳥居があり、(下の写真)そばに石祠があります。境内を歩いてみて特に大事な点として、この小丘は安下庄を一望できる丘であるということ、そして海に近く、何か急を要する時はすぐに船に乗ることができる。戦術的に見ても都合の良い丘であることがわかります。丘の周囲を見渡すと、他にも丘はありますが、条件にかなう丘は少ないようです。
長尾八幡宮 裏参道 (フィルムスキャン)
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長尾八幡宮 裏参道 (フィルムスキャン)
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長尾八幡宮 裏参道の鳥居をくぐると小路が丘を廻っている。写真の石祠は「産社」と呼ばれている。
(フィルムスキャン)
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防長風土注進案より
長尾八幡宮 安下庄内の宮崎にあり
(前文の規模の記録は省略する)
祭神四座
姫太神
足仲彦尊 (仲哀天皇)
気長足姫尊 (神功皇后)
誉田別尊 (応神天皇)
貞観二年城州男山にて勧請と云々。始めは庄内大畠(植松上)と申す所に御鎮座候ところ、沖行く船を(途中略す)破船ありし候につき、白窪と申す所に移す。そこに御鎮座なされている内に回録及び神宝や旧記など、ことごとく焼失し候につき、縁記相知れず。それより今の社地に移し奉る。これも又、年月相知れず。
古額一面「神南山」 唐人の筆と申し伝え候
按ずるに神南山は神南備山なるべし、神奈備とも神南備とも書けり、額面なる故に備を略したるか、又只神南と計書たるもあらんかと覺申し候。 (以下略す)
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神南備山の本来の意味は古事記に記してあります。
先ほど載せた神功皇后の部分を、もう一度引用してみます。
(解読 管理人)
(途中より) 恐(かしこ)し我が大神、貴神の腹に坐しし御子は誰の子かと申すと、男爵の子と、お答えいたす。「爾具請之」今かくのごとく教えし大神は、その御名を知って欲し。すなはち答えて申す。この天照大神の御心もまた。「底筒男、中筒男、上筒男」三柱の大神なり。「この時、その三柱大神の御名はあきらかになり。」
今まことにその国を求めむと思へば、天神地祇また山の神および河海の諸神に、ことごとく幣帛たてまつり、和の御魂、烏を船上に坐せて、神木の灰を瓠(ひさご)に納め、また、著におよぶ比羅伝を多に作り、皆々、近江に散らし浮かしをもって託す由。「ここは二通りの解読(皆々必見、産婦、花はどうか。子の備えを教え諭し条。)」
「爾具請之」の部分が難解なんですが、解読すると、「母(かあ)、備える、子を、の」と、なります。読者の皆さんも辞典を開いて考えてみてください。そうなると思います。
次に、「子の備えを教え諭し条」ですが、三柱の神とは、神功皇后の隠し子であるということになります。
子が生まれたらすぐに女官にあずけて、血の繋がりを隠してしまうわけです。そうすることによって、一族が滅びるのを(全滅するのを)防ぐことができます。あずける、というよりも、生まれたばかりの子をあげてしまう、と言ったほうが適切かもしれません。生んだ母親は自分の子に会うことも話すことも許されません。もし、会いに行ったりしたら血縁を知られてしまいますから、絶対に他人になっていなくてはいけません。とても辛いものがあったと思います。だから、「子の備えを教え諭し条」になっています。
以上のことを見ると、「神南備山」の本来の意味が見えてくるようです。
「 こを みなみ そなえ さん 」 「子を皆見、備えさん」
人の多さこそが国力であり、有事の際には兵の多さが勝因につながります。今の世にしてもそうです。人が多ければ国が栄えます。余談ですが、少子化の原因は何か、子供にカネがかかるからです。子供一人に対しての学費は相当な額に上がります。そうした学費を国が大々的に補助すれば、少子化をくい止めることができましょう。人が多くなれば税も入りますから市町村が栄え、ひいては国も栄えます。
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上の地名図の作成に於いて、長尾健彦 著 「うぶすなの社」を参考にさせていただきました。
著者の長尾健彦さんは長尾八幡宮の宮司さんです。
記録では、あまりにも度々移転したことになっているので、尋ねてみました。長尾さんもその事を研究しておられまして、自身の著書「うぶすなの社」を私にくださって、いろいろと教えていただきました。ありがとうございました。
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私の研究した結論として、長尾八幡宮の方位線を見ますと、その移転は由来にあるほど新しい年代ではなく、室津半島の多くの神社と同じように、移転はすべてを連係して行なわれている。その大がかりな移転を神話では通称天孫降臨として語り継いでいる。つまり、平和だった頃に山頂に祀った神社をふもとに降臨させて歴史の記録として残したわけです。
長尾八幡宮 方位線通過地点
拝礼方向 ⇒ 東屋代の大歳神社(拝礼方位は柳井市水口茶臼山古墳) ⇒ 木原(早戸大神跡) ⇒ 伊保庄賀茂神社 ⇒ 神護寺(古称 松蓮寺 巨石群) ⇒ 光市室積海岸(海浜に小祠堂あり) ⇒ 下松市笠戸島カツネ崎 ⇒ 吉敷郡秋穂町 ⇒ 楠木町舟木 ⇒ 小月 ⇒ 下関市吉見付近 ⇒ 水島 ⇒ 酒ノ瀬 ⇒ 鐘ヶ崎 ⇒ 対馬美津島
社殿前面方向 ⇒ 三ッ松(安下庄海浜) ⇒ 竜崎 ⇒ 旧東和町船越の金刀比羅宮 ⇒ 同じく船越の山田神社 ⇒ 愛媛県松山市 ⇒ 徳島県宍喰
社殿に向かって右方向 ⇒ 安下庄天満宮(祭神に吉祥女・・・。^^。) ⇒ 嵩山頂上 ⇒ 広島県宮島の東岸(鷹ノ巣浦) ⇒ 広島県五日市 ⇒ 豊平町 ⇒ 島根県太田市
社殿に向かって左方向 ⇒ 掛津島 ⇒ 平郡島 ⇒ 愛媛県佐田岬半島 ⇒ 大分県鶴御崎 ⇒ 日向灘
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長尾八幡宮も、神武遠征に登場する多くの社寺と同じように、古墳の上に祀られたようです。祭祀土器が多く出土している点においては、岩戸八幡宮の岩戸遺跡(光市岩田)と同じです。以下「うぶすなの社」より引用させていただきます。
大正五年、御年祭(25年毎)の記念事業として、これまでの社殿をさらに西後方に移転して社殿の大再建をした。この時神殿の位置を2メートル掘り下げる作業中、組合式石棺・骨片・勾玉が発見された。自然の台地を利用した前方後円墳かと予想されたが、まだ結論は出ていない。
昭和三十七年、神南山西南の字宮ノ首からは、組合式石棺・皿・壷・勾玉が発見された。
平成二年十一月、御大典記念事業として手水社の段の西玉垣修繕のため石垣下部の土を約1メートル掘り下げたところ、十数個ばかりの皿・高坏等の土器が出土した。完全な形を留めたものは少ないが、掘ればもっと出土するだろう。年代等は現在調査中である。
この他にも、神南山(現在の社殿の地点)にはまだまだ祭祀遺跡が土中に埋まっていると思われる。
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二十五年毎に御年祭が斎行される、というところが大事です。
柳井市の南山妙見宮と同じ周期です。
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万葉歌の「橘の嶋の宮」を決定付ける重要な要素として、「佐田の岡辺」の朝日があります。
では、次の章で「佐田の岡辺」について考えてみることにします。
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