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周防解読万葉歌 第2部

巻第一 23番歌〜49番まで


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周防と関連してくる万葉歌の解読に少しずつ着手することにしました。今までの訓は可能な限り残して、変える必要性のある部分だけを変えていきます。

また、歌の意味や解釈にしても同じで、変える必要性のある部分だけを採りあげます。長い間人々の心に浸透してきた歌を今すぐに変えてしまうのは暴挙になります。

ここでは今すぐに変えることは考えずに、百年の歪みは百年を以って修正するという心で取り組みたいと思います。 必ずや後世の役に立つと信じて。 2014年10月。

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今回から歌の変更部分を黄色文字にします。




萬葉集巻第一 23番歌

麻続王、伊勢国の伊良虞の島に流されたる時に、人の哀傷して作る歌


打麻を 麻続王 海人なれや 糸子ヶ島の 玉藻刈ります

うちそを をみのおほきみ あまなれや いとこがしまの たまもかります


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黄色文字の所が変更部分です。原典の文字は「射等籠荷四間乃」となっています。

打麻が歌の頭にあり、収穫した麻の繊維を打ち叩いて柔らかくする作業を意味しています。

打ち叩いて柔らかくした麻は糸にしますから、それらの作業をする人のことを「糸子」と呼びます。

今でも裁縫をする人のことを「お針子」と呼んでいます。そうしたことから歌の意味は、ちょっと

意地悪な感じで、「糸子である麻続王は海人になったか、島の玉藻を刈っていらっしゃる」

といった意味になります。




今でも伊勢の名が付く伊勢小島。岩国市由宇の海浜公園にて撮影。

ズーム拡大したのが下の写真。魚の形、クジラの形をしているのが特徴。





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万葉集巻第一 24番歌

麻続王、これを聞き感傷して和ふる歌


鬱蝉の 命を惜しみ 波に濡れ 伊予子の島の 玉藻刈り食む


右、日本紀を案ふるに曰く、「天皇の四年乙亥の夏四月、戊戌の朔の乙卯に、

三位麻続王罪ありて因幡に流す。一子は伊豆の島に流し、一子は血鹿の島に流す」といふ。

ここに伊勢国の伊良虞の島に配すと云ふは、けだし後の人歌辞に縁りて誤り記せるか。


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原典の文字は「伊良虞能嶋之」となっています。なぜここでは伊予と解読したかと申しますと、

この歌も頭の部分が決め手になっています。鬱蝉とは、推古天皇の子ども時代を表わしており、

侵略方の人質同然にとられていたようです。だからジージー泣いてばかりいる、だから鬱蝉です。

その推古天皇の初代陵墓は麻里府の阿多田古墳です。阿多田古墳は田布施川の河口沖にあります。

田布施川の源流には通称コンピラ山があり、頂上には三輪神社があります。その三輪神社の祭神は

大物主の神です。大物主の伝説は神武天皇の段に入れてありまして、川を流れ下って結婚したようです。

つまり、大物主と推古天皇には繋がりがあります。それを理解したうえで伊予(四国)を見ますと、香川県に

有名な金刀比羅宮があります。その祭神は大物主神と崇徳天皇です。だから歌では伊予子と訳します。

伊予子の島という名の島は実際にはありませんが、歌では比喩としてそう詠んでいるのです。





これらの歌の詠まれた地点を探ってみますと、桂森天満宮の境内に行き着きました。

桂森天満宮は、榊八幡宮から距離約1キロ数百メートルの海側にありまして、

見晴らしの良い山(丘)の頂上に境内があり、遠く伊予の山並みも見えます。


桂森天満宮  内部リンクです。




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以上の23・24番歌と同じ表現を使って詠んでいる歌がもう一首、42番歌にもあります。

少し飛びますが、その42番歌もここで訳しておきます。



万葉集巻第一 42番歌


潮さゐに 五十子らの島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻を

しおさいに いこらのしまべ こぐふねに いものるらむか あらきしまみを


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五十とある数字は五十鈴姫(いすゞ姫)を表わしています。その五十鈴姫は初代ヤマトの子供たちを

戦乱から守るために引率して行く際のリーダー的な女性です。古事記にこんな歌があります。

沖辺には 小船連らく 苦労じゃやの まさず子吾妹 国へ下らす

「苦労じゃやの」という部分が変更部分ですが、子供たちを引率して安全な他国へ疎開して行く

五十鈴姫たちの船を見て詠んだ歌です。その苦労は想像を絶するものだったことは万葉集にも

しっかりと記載してあります。たとえば、子供たちに着せる衣服のことがありまして、本来なら

最上級の衣服を着るべき子供たちなのに放り捨てたくなるような粗末な服を着せている、

というような歌もあります。現状訳では解読・解釈が異なっているのでわかりません。

その五十鈴姫は漢詩文に長けていたことは万葉集の解読を進めて行くとわかります。

漢詩文に長けていたわけですから、解読は漢文読みです。原典の文字を引用してみます。

「〜五十等児乃嶋邉〜」 漢文のように行きつ戻りつして読みますと、「〜いこらのしまべ〜」となります。


後世の歌人たちが沖に浮かぶ島や船を見て昔を想像して詠んだのだろうと思います。ですから、

島の名は正式な名称ではなく、すべて歌の都合に合わせてニックネームで詠んだ島名です。また、

妹とあるのは歌人の恋人とかではなく、女神を恋人にたとえて妹と親しみを込めて詠んでいます。



さて、戦乱を逃れての子供たちの疎開は東西に及んだようです。東は吉備方面、西は九州方面、

四国もありますが、なお研究してみようと思います。吉備へ逃れた子どもたちは、たぶん

見つけられてしまった可能性が多大です。対する九州方面は、今わかっている限り遠賀郡へ

疎開したようです。遠賀郡の辺りの守りは防人で強固になっていたことは言うまでもなく、

侵略は北九州沿岸部を外した戦法で、内陸から攻め込んでいます。この疎開は成功でした。


宮地嶽神社に保存してある世界最大の大鈴と大太鼓がそうしたことを物語っています。

そうしたことからでしょう、歌が前の二首と距離を置いてあります


鈴が五十ですから、大勢の子どもたちに1人1人鈴を付けて

迷子になってもわかるようにしていたのだと思います(笑)。





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万葉集 巻第一 25番歌〜28番歌


次に、続く25番歌から28番歌までの四首は中央の方で詠まれた歌です。

25・26・27・の歌では吉野が出てきますし、28番歌では香具山が出てきます。

原典文字が香山ではなく香具山になっていることにより、決定的となります。

移住して行った当時の苦労や悔しさが滲み出ている歌です。


ただし、佐賀県神崎郡吉野ケ里町の吉野を無視はできません。

だから、27番歌で、よく見よ・よく見よ、と、しつこく詠んでいます(苦笑)。


しかし、香具山が入っていることにより、中央であることになりますが、

香具山の歌を単独歌として考えると様相が変わってきます。

なおも研究してみたい部分として、この四首は残しておきます。




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次は長歌になります。虚と現実とが交差しています。虚とは過去を意味します。

現実を直視しながら心のなかでは過去の繁栄を見ている、といった趣きでしょうか。

歌は詩でもありますから、一首の長歌の中には時間的な幻想が入っています。



万葉集巻第一 29番歌

近江の荒れたる都に過る時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌


玉だすき 畝火の山の 橿原の 聖の御代ゆ 生れましし 神のことごと つがの木の いや継ぎ継ぎに 天の下

 知らしめししを 天にみつ 倭を置きて 青丹よし 平山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離る 鄙にはあれど

 石走る 淡海の国の 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇の 神の尊の 大宮は ここと聞けども

 大殿は ここと云へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる 百磯城の 大宮処 見れば悲しも



長歌全般に言えることなんですが、万葉集を編纂する時にいろんな書写本を参照して

編纂しているようです。それは「或云」の表記で示してあり、この長歌だけでも実に六ヶ所もあります。

「或云」の読み方にすると以下のようになっています。歌の末尾だけ載せておきます。


「 〜 霞立ち 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる 百磯城の 大宮処 見れば寂しも 」


夏草が入っているところが異なります。


では本題に入りまして、「淡海の国の大津の宮」とある部分が大事です。従来の解読は近江として

滋賀県でした。しかし原文字では淡の字を用いて淡海としてあります。淡海とは「からと水道」をも

意味しています。大津の宮とは、根本から知る必要があるのですが、前方後円墳のモデルに

なった室津半島の後円部の先端、つまり、室津半島の先端部は今でも大津という地名です。


 大津


大津にある千葉稲荷の内部リンクです。




大津にて。対岸の島は平郡島。
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天保年中(1830〜1844)編纂の防長風土注進案にも大津と記してありまして、古来より大津と

呼ばれていたことがわかります。大津からは平郡島がよく見え、その平郡島は神武遠征で

登場する島です。また神武遠征に出てくる竈山の付近でもあります。そうしたことから、

この長歌は初代ヤマトと、移住先の近畿とが混在している歌ということになります。


反歌でもそうしたことが明確に出ており、歌人の心には新旧両方の都があったようです。

反歌で新旧両方を反映している歌として、31番歌に「比良の大わだ」という表現が「一云」として

記載してあります。比良とは、日良府のことではないかと思います。日良府とは、今の平生町一帯を云い、

古地図にも「往古の日良府想定圏」というのがありますし、古事記にも天孫降臨の後の

「猿女の君」の段に比良夫貝という表現で出てきますことから、31番歌は新旧両方の都が

混在していることになります。では、その反歌を載せてみます。


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反歌

30番歌  楽浪の 志賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ


歌人の心には滋賀県の唐崎に居ながら初代の海が心のなかにあって、永遠に来ない船を待っていたのでしょう。



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31番歌  楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも


31番歌・一云の歌  楽浪の 比良の大わだ 淀むとも 昔の人に 逢はむと思へや


一首の歌の中に志賀と比良の二首が存在していることにより、歌人の心は移住先と故郷への思いが

葛藤していたことがわかります。実に幻想的な感覚で詠んでおり、永遠に来ない昔の人に逢おうとしています。

だから万葉歌は「虚見つ(そらみつ)」なんです。





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万葉集巻第一 32・33・34・35番歌

高市古人、近江の旧き垣を感傷して作る歌  ある書に云 高市連黒人

32番歌  古の 人に我あれや 楽浪の 古き都を 見れば悲しき



33番歌  楽浪の 国つ御神の うらさびて 荒れたる京 見れば悲しも



紀伊国に幸せる時に、川島皇子の作らす歌  一云、山上臣憶良の作

34番歌  白波の 浜松が枝の 手向けくさ 幾代までにか 年の経ぬらむ

日本紀に曰く、「朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊国に幸す」といふ




この三首だけを見ると、どこの都(国)でも当てはまりそうな歌です。

場所は特定できませんが、続く35番歌は場所が明確になっています。





勢の山を越ゆる時、阿閇皇女御作歌

35番歌  これやこの 倭にしては 我が恋ふる 木路にありといふ 名に負ふ勢の山




勢の表現は19番歌にもありました。19番歌での勢は山を意味していました。

最初から説明しないとわからないと思います。長くなりますが説明します。かなりややこしいです。


先ず、木路についてです。木路の文字は原典の文字ですが、歌を分析すると、これは木地のこと

ではないかと思ったのがこの歌を調べる発端です。木地は波野行者山(波野スフィンクス)の

西麓に位置しており、歩いて行く時間としては、からと水道跡から約10分程度の所にあります。

そこには木地遺跡と呼ばれている弥生時代の集落遺跡があります。私の手元に

田布施地方史研究会の報告書がありますので、発掘調査の状況を引用してみます。



木地遺跡遺構確認調査概報 より引用

(部分引用) ◯◯◯◯◯氏所有の畑から弥生土器が出土することは周知であり、田布施町郷土館長◯◯◯◯氏は

文化財保護の立場から、何らかの処置が必要であると説いた。それを受けて田布施町教育委員会は、遺構確認

調査を実施して今後に備えることにした。土地所有の◯◯◯◯◯氏はその成果を認められて、遺跡をそのままの

状態で保存することを確約された。


調査期間  平成12年(2000)7月1日〜8月5日

調査場所  田布施町大字波野木地遺跡


立地

木地遺跡は行者山の西麓、谷筋に南面する傾斜変換線付近の高手に所在する。調査地点は

現在では開墾されて畑になっているが、かっては小さな谷地形をなしていたと思われる。


遺構

トレンチの中央東寄りで、十字状に大小の角礫を組み、その真中に肩部以上を打ち欠いた

甕を伏せている構造物を発見した。遺構と言えるかどうか、疑問もあるが、その状況は

人為的にみえる。水場の祭祀遺構であろうか。


まとめ

木地遺跡出土の土器は大半が弥生後期後半のものであるが、複合口縁壷・甕・高坏のように

古相を呈するものがあり、それを時期幅とみるか、古相の残存とみるかは難しい所である。

十字の石組を持つ遺構状の伏甕は、その甕が丸底化傾向を示していることから、出土土器群の

中では最も新相を呈している。この点を重視して言えば、集落が何らかの事情で移転するとき、

それまで利用してきた水場で祭祀を行い、その後大量の土器を投棄して去った、とみることもできよう。


弥生後期後半は全国的にも遺跡数が激増する時期であり、生産安定による人口爆発の

あったことが窺える。木地遺跡もその一つであるが、その安定は長くは続かなかった。

弥生時代の終末期にまた多くの大集落が断絶する。木地遺跡の弥生人達も集落の閉鎖を

余儀なくされた。一体どんな災難が降りかかったのであろうか。今後の研究に期待しておきたい。


以上、田布施地方史研究会・木地遺跡遺構確認調査概報 より部分引用。






木地の灌漑池から波野行者山(波野スフィンクス頭部)万葉・勢の山を仰ぐ。向こうが東。
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勢の山(波野スフィンクス)の西麓に弥生時代の木地遺跡があるのですから、

万葉歌の木路と連動させることができます。

勢の山は、本来は山頂古墳だったようです。そのことを説明します。

私の個人的研究で現状でわかっている被葬者を挙げてみますと、先ず最初に仁徳天皇、

これは市辺の忍歯王と同一人物になります。その人物の陵墓に関することは、古事記では

安寧天皇の段に通称「市辺の忍歯王の難」として記載してあります。


なぜ仁徳天皇の陵墓が安寧天皇の段に記載してあるのかということは不明ですが、記述をカモフラージュ

しておく必要があったのではないかと思っています。古事記が年代順に編集されていないことの証明です。

市辺の忍歯王が仁徳天皇であると結び付けているのが意祁王と袁祁王です。

この二人の王の名の読み方を現状では 「おけのおう」 「をけのおう」 と同じ読み方をしていますが、

人物を特定すると、意祁王が「おきのおう」(沖の王)であり推古天皇。袁祁王が「おぎのおう」(荻の王)であり

聖徳太子であることになります。この名は陵墓の体裁から付けられていますから二人の没後の名であります。



古事記の「市辺の忍歯王の難」の段には波野スフィンクスから遺骨を下ろしたことが抽象的に書かれてあります。

先ず、「淡海の久多綿の蚊屋野は、さわに猪鹿あり」と記述されていることから、猪鹿とは波野スフィンクスを言って

いることがわかります。記述は物語で書いてありますが、カモフラージュさせるための文章手法です。重要な部分を

抜き出してみますと、次の部分。 「たちまちの間に、馬よりゆき並びて、矢を抜きてその忍歯王を射落として、すなはち

またその身を切りて、馬ぶね(馬のかいば桶)に入れて土と等しく埋みたまひき。」 要約しますと、遺骨を馬のかいば桶に

入れて平地と同じ高さに埋めた、ということです。この場面は、山の頂に在った陵墓を盗られて埋葬してあった遺骨を

山のふもとに下ろし、平地同然の所に改葬した、という意味です。最初の陵墓が波野スフィンクスの山頂にあって、

それを東麓の天王原古墳に下ろしています。その時点での意祁王と袁祁王は戦火を逃れて疎開していますから、

父の遺骨を何処にやったか見ていません。何年もの後、大人になった二人は遺骨を探します。その場面が古事記の

顕宗天皇の置目老媼(おきめのおみな)の段に記載してあります。 「ここに民をを起こして土を掘りて、その御骨を求めき。

すなはちその御骨を得て、その蚊屋野(茅野)の東の山に御陵を造りて葬りたまひて、韓たい(「からぁたい」塩を意味)

の子等をもちてその陵を守らしめたまひき。」  物語通りですと、そうあります。







天王原古墳  2011年撮影
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茅野の東の山とは、柳井市水口茶臼山古墳です。天王原から東に見えます。

下の写真は水口茶臼山古墳の墳丘の上に立って天王原を遠望したものです。

蚊屋野の東の山に御陵を造った、とある古事記の記述と合っています。

家屋が建ち並んでいる所が往古のからと水道跡になります。







水口茶臼山古墳
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さらに古事記は伝えます。「さて後にその御骨を持ち上りたまひき。故、還り上りまして、その老媼を召して、〜」

特筆すべきは上るが二つ出てきます。遺骨を持って上ったのは今の大仙古墳(仁徳天皇陵)でしょう。そして、

還り上って老媼を召した(招待した)のは周防の地です。当時はまだ引っ越しが完全に落ち着いていなかったようで、

日本の中心(首都)が二つ存在していたことを物語っています。 



さて、本題に戻りまして、波野スフィンクスに埋葬されていた遺骨はふもとに下ろされて、その後に敵方の首長が収まります。

その収まった時点に小山(香山)の姫(通称・般若姫)はどうだったのかで、万葉歌の「我が恋ふる」が、王に恋ているのか、

それとも姫に恋ているのかの認識が変わってきます。万葉時代の恋の意味は今の男女の恋愛だけの意味ではなく、慕う、

というような意味も持っていますから、区別がつき難いという難点があります。注釈文には歌を詠んだのは阿閇皇女とあります。

この万葉歌が詠まれた時はだいぶ後の時代でしょうから、波野スフィンクスの山頂古墳はすでに破壊されていたはずです(後述)。


破壊されていた、という根拠は、それも古事記にありまして、顕宗天皇の「御陵の土」の段に記載してあります。

簡単に説明しますと、天皇は父王を殺した天皇を怨んで御陵を崩そうとして使いを送ろうとします。そこで、

それを知った意祁王(推古天皇)が私の手で崩したいと申し出ます。天皇(袁祁王)は了承して意祁王を送ります。

やがて、あまりにも早く帰って来た意祁王を見て、天皇は問いつめます。意祁王は答えます。 『「父王の怨みをその霊に

報いむと欲ほすは、これ誠に理なり。然れどもその大長谷天皇は、父の怨みにはあれども、還りては我が従父にまし、

また天の下治らしめしし天皇なり。ここに今、単に父の仇といふ志を取りて、悉に天の下治らしめしし天皇の陵を破りなば、

後の人必ず謗らむ。ただ父王の仇は報いざるべからず。故、少しその陵の邊を掘りつ。すでに是く恥みせつければ、後の

世に示すに足らむ」と申したまひき。』  以上、この場面で陵墓を崩します。波野行者山(波野スフィンクス)の頂上には

今もその時に崩した痕跡が残っていて、そこに小さな堂宇が建っています(下の写真)。




波野スフィンクス頭部の山頂古墳跡。 現状は山城跡と解釈してあります。

上の画面、小丘の上に立っているのが下の写真の、東を向く人の横顔。

現地では、ただの岩にしか見えませんが、太陽が真上に来ると、人の顔になります。

鎧兜をつけた人の横顔にも見えますし、髪の長い女性のようにも見えます。

翔泳社・発行「創世の守護神・上巻」 194ページの絵図をご覧ください。ここになります。





さらに研究をしていきますと、かって頂上には般若寺の前身が在った、ということになります。その証拠として、

現在の平生町般若寺の本堂から観音堂にかけての境内は初代の地形を縮小再現した写しになっています。

般若姫は本来、波野行者山のふもとの小山(香山)に埋葬(殯)されていましたが、万葉三山歌(14番歌)の時代に

波野行者山(波野スフィンクス)に上げられています。その上げる時の様子を立ち見に来た、というのが14番歌です。


そうすると、最初は男女合葬してあったのを男王だけ下ろして、敵方の男王を埋葬したということになります。

許せません。 そうした諸々が原因して今の般若寺へ移したのだろうと思います。

行者山頂古墳の前身は、当初は南側に長大な石段が築いてあって、その痕跡は今も残っています。

ふもとから見ると、あたかも天空へ飛び立つロケットのカタパルトのごとき景観だっただろうと思います。

それらの石材は別の神社へ再利用されたようです。今は石段を取り払った痕跡を残す傾斜地のみです。


そういう訳で、35番歌の詠まれた時は、年代的にどの段階にあったのかというのが論点になると思います。

35番歌の前にある32〜34番歌では「古き都」とか「荒れたる都」という表現がありますから、すべては遷してあって、

後年の旅人であったろう歌人はその廃墟(痕跡)を見て、この山だったんだなぁと驚きと畏敬の念を以って

歌を詠んだのではないかと推察します。よって、恋ふるの意味は特定の人物を恋ふるというよりも、

初代の山容栄華を慕ってやって来て、驚いて仰ぎ見ている意味になると思います。



田布施地方史研究会 会誌より引用

行者山城跡 (平成六年(1994)十一月の調査)

標高194mの山頂に三段の削平地が残る。山頂には東西11.5m×南北26.8mの主郭を置き、一段下がって

主郭を包むように面積の広い腰郭がみられる。この二つの曲線郭が城郭の中心の郭で、さらに北側に二つに

区切られた腰郭がみられる。また、西側と東側の緩斜面の尾根部分にも小さな曲線郭がみられる。

これら主郭を含む郭群は削平が不十分なため完全な曲線郭になっておらず、郭と郭の段差も少なく防衛機能が

進化していないことが分かる。ただ郭の法面はすべて人の手が加えられており、急斜面になっている。

もちろん、この城郭は堀切を伴わない削平地だけの構造で、中世初期の縄張り形態をもつ輪郭式の中世城郭

である。構築年代については、室町時代中期までの形式をもつ典型的な山城である。1400年代の構築。

そして戦国期には使用されず、そのまま廃城になったものと思われる。縄張り構造に虎口、堀切、土塁、

石垣の改修部分がみられないが、眼下に平野が一望できることから狼煙場として使用されていた可能性は残る。







この図は頭頂部だけです。左の下角の方向が鼻先になります。





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36・37・38・39番歌


続く36〜39番歌は長歌とその反歌です。特徴的なのが河内が多く出てくることです。

37番歌を除いて他の三首にはすべて河内が出てきます。河内の無い37番歌も実情は

河が出てきますから、河内は四首すべての歌に重要な意味を以っていると言えましょう。

河内が何を意味しているかは、神武遠征の侵攻経路を見ればわかります。つまり、

河内という言葉を用いて大陸からの侵攻と侵略を無言の内に含ませているのです。


歌そのものは奈良県吉野で詠まれていると思います。吉野に居ながら初代の地を思い慕っている、

つまり、神の御代はこうであったが吉野の地こそ永遠であってほしい、という願いが込めてあるようです。

歌に河内という言葉を用いて侵略を含ませたのは、大陸からの関係者が吉野に残っていたからではないかと

推察します。ストレートに書くとどうなるかわからないから含ませたと推察します。


では、河内に関係している侵攻ルートを見てみましょう。

先ず、萩から侵入した後の侵攻経路には河内が多く出てきます。

特筆すべきは侵攻ルート上にある飛龍八幡宮への合祀社です(下写真)。








河内の意味を考えるに足りるだけの異常な数の河内社です。

これだけの数の河内が揃っている所はちょっと無いです。

この堂宇も河築神社であり、河の名が付いています。


さらに、歌にある吉野川にも関連性があり、神武遠征の島田川に関連します。

今のJR島田駅付近です。


そうした訳で、歌は奈良県吉野に居ながら、初代の地を思いやっていると考えます。





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40〜42番歌


伊勢の国に幸せる時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌

40 名詠みの浦に 船乗りすらむ をとめらが 玉裳の裾に 潮満つらむか

なよみのうらに ふなのりすらむ をとめらが たまものすそに しほみつらむか


41 剣つく 手節の先に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ

つるぎつく てぶしのさきに きょうもかも おほみやひとの たまもかるらむ


42 潮さゐに 五十子らの島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻を

しおさいに いこらのしまべ こぐふねに いものるらむか あらきしまみを




この三首のすべては42番歌にかかっています。

先ず40番歌です。原典の文字は「鳴呼見乃浦尓」となっています。これを「あみのうらに」と読んでいます。

そう読んでいる背景には、巻第十五の3610番歌の左注に「安美能宇良」という注釈が出てくるからです。

その文字ですと「あみのうら」と読めますが、3610番歌の注釈に40番歌をこう読めという指定はありません。

そうした理由で、40番歌と3610番歌の注釈は切り離して考えたほうが良いと思います。


注釈文は後代に推測で書かれたものですから、合っているものもあれば全然違うものもあります。

では、なぜ「名詠みの浦」になるのかは、42番歌にかかっており、42番歌は、前で解読した23番歌と24番歌との

合わせになっていることは前で解説した通りです。23番歌も24番歌も糸子・伊予子という名前(ニックネーム)に

なっていました。そしてこの42番歌も五十子というニックネームで歌を詠んでいます。だから「名詠みの浦」です。


さて、そう解読すると、音数が多いです。短歌は通常五七五七七の音数です。それがこの歌は七七五七七に

なっています。なぜこんなことをしたのだろうと考えますと、七の数が突出しています。七は古事記では七媛女(ななをとめ)

として登場します。古事記、神武天皇の皇后選定の段です。富登多多良伊須須岐比賣命(トミトタタライススキヒメノミコト)

又の名を、比賣多多良伊須気余理比賣(ヒメタタライスケヨリヒメ)この名は、富登の部分を「ほと」と読まれて嫌だから後に名を

改めたとあります。つまり、歌の七の数はその七媛女を意味しているのです。これも名に関係していることがおわかりでしょう。

さらには神武天皇の段ですから、侵略されたという意味も入っているのでしょう。




次に41番歌です。

原典では頭の文字が「釼」です。読みは「けん・つるぎ」の古字俗字です。今はこれを釧(くしろ)と読んで腕輪としてあります。

ここは釧とは読まずにそのまま剣(つるぎ)と解読します。これは暗殺に繋がっており、古事記では景行天皇の小碓命の西征の

段に記載してあり、通称ヤマトタケルの熊曾建征伐にあります。その記述を引用しますと、「懐より剣を出し、熊曾の衣の衿を取りて

剣もちてその胸より刺し通したまひし時、その弟建、見畏みて逃げ出でき。すなはち追ひてその室の椅(階段)の本に至りて、その

背皮を取りて、剣を尻より刺し通したまひき。」 この場面です。古事記では一応ヤマトタケルという男性にしてありますが、剣を

刺し通したのは女性であり、刺し殺された(暗殺された)のは義理の夫で通称の神武天皇です。それを言えば、女性が誰であるのかは

直感されます。つまり、意岐命であり推古天皇のことです。万葉歌ではそうした事を抽象的に描いています。ヤマトタケルの物語では

熊曾建(くまそたける)という九州方面の一族を退治する設定ですが、九州方面は良く統治されていたことは神籠石遺跡を見れば

わかります。そういうふうに古事記では味方側を悪く悪く書いて全体像を浮かび挙げる手法が多く使ってあります。結局そうしておかないと

消されてしまう恐れがあったからだろうと思います。人物名にしても、心安い味方側の人物を悪者に書いて全体像を伝える手法です。

その点をよく理解していないと、そのままストレートに解釈すると、とんでもない方向に向かうことになりますから注意が必要です。




次の42番歌は前の段階で解明しています。




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43・44番歌


当麻真人麻呂が妻の作る歌

43 我が勢子は いづく行くらむ 沖つ藻の 隠れの山を 今日か越ゆらむ

わがせこは いづくゆくらむ おきつもの かくれのやまを けふかこゆらむ


石上大臣従駕して作る歌

44 我妹子を いざみの山を 高みかも 日本の見えぬ 国遠みかも



この二首には短歌の後に長い注釈文が付けてあります。

持統天皇六年(692)に天皇は広瀬の王たちを留守番に残して行幸されることになった。

そこで三輪の朝臣は冠を投げ捨てて「農繁期の前に行幸するべきではない」と諌めた。しかし、

持統天皇はそれに従わずに、ついに伊勢国に行幸された。五月六日に阿胡の宮へ着いた。

という内容です。


ここでも35番歌と同じ勢子が出てきます。この歌が詠まれた時にはすでに改葬した後だったようです。

我が勢子はどこへ行ったんだろう、隠れの山を今日は越えているのだろうか、という内容です。

歌中に「沖つ藻」という表現があることにより、隠れの山とは何処の山を言っているのかわかります。

つまり、沖とは意祁王(おきのおう)を言っており、推古天皇のことです。それが沖つ藻ですから、推古天皇の陵墓を

言っています。古事記では推古天皇の葬送は大野の岡の上で殯をして、ふもとの阿多田古墳へ本葬されています。

大野の岡の上とは、大星山の中腹にある箕山のことです。そこまでわかれば、この歌で言っている勢子が

誰であるのかわかります。推古天皇の殯の宮跡に寄り添っているのは神武堂です。殯の番神にされています。


やがて44番歌で推古天皇の遺骨を近畿へと改葬します。殯の番神は置いて行かれたようです。

だから我妹子は国遠くなったと嘆いているわけです。





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45〜49番歌


軽皇子、秋の野に宿る時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌

45  やすみしし 我が大王 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京を置きて こもりくの

泊瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 石が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる

夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 篠を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて


短歌

46 秋の野に 宿る旅人 うちなびき 眠も寝らめやも いにしへ思ふに

あきののに やどるたびびと うちなびき いもぬらめやも いにしへおもふに


47 ま草刈る 荒野はあれど もみち葉の 過ぎ去る君の 形見とそ来し

まくさかる あらのはあれど もみちばの すぎさるきみの かたみとそこし


48 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月西渡る

ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきにしわたる


49 日並の 皇子の命の 馬添へて み狩立たしし 時は来向かふ

ひなみしの みこのみことの うまそへて みかりたたしし ときはきむかふ




45番の長歌は奈良県が主体になっています。私の推察では、46〜49番の短歌に対する長歌ではないかと思います。

つまり、短歌が先にあって、それに対しての長歌だと思います。だからここは注釈が反歌ではなく短歌になっています。

よって、歌の意味も微妙に変わると思います。



46番歌です。 ここでの「秋の野に」とあるのは、次の47番歌から導かれます。周防大島の秋です。



47番歌は「過ぎ去る」という言葉が重要な意味を持っており、原典では「過去君之」とあります。これは後で出てきますが、

69番歌に「客去君跡(きゃくさるきみと)」という表現がありまして、それは周防大島の八社客人大明神(北辰妙見宮)を意味

しています。推古天皇の創建です。その神社は人里離れた山の中の高い所にあります。そうしたことから、歌に「もみじ」が

入っています。なぜ形見かと申しますと、それは長大な石段参道にありまして、勢の山(波野スフィンクス)から移した石段参道

になります。そうした大工事をやったことから形見と表現しています。






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48番歌です。48と49は人物を表現しています。東の野とは35番歌で説明した茅野の東の山を意味しています。

だから、「かぎろひ」という表現で怒りを表わしています。そして振り返れば般若姫(半如姫)を意味する月があります。

月は小山(香山)から波野スフィンクスへと上げられました。それらを実にユーモアたっぷりな表現をしています。この歌は

からと水道の中間地点辺りで詠まれたことはわかります。そうすると、三山歌が詠まれた地点とほぼ同地点になるのです。



49番歌です。日並皇子(ひなみしのみこ)とは、聖徳太子を意味しています。だから歌中に馬が出てきます。

聖徳太子はいろんな名で登場していて、古事記では鵜葦草葦不合命(うがやふきあへずのみこと)としても記してもあります。

正式名称が、天津日高日子波限建鵜葦草葦不合命(アマツヒコウヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト)です。

石城山最高峰の高日ヶ峰に高日神社がありまして、そこが太子最初の山頂古墳であり、そこから納蔵原古墳へと降ろしています。

納蔵原古墳の前方部は推古天皇の阿多田古墳へと向いています。やがて納蔵原古墳から近畿へと改葬されたようです。

内部リンク  石城山高日ヶ峰・高日神社   石城神社・方位分析   納蔵原古墳-1   納蔵原古墳-2  








矢印の向こう側になります。
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