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日本紀・日本書・日本書紀の研究


日本書紀を語る時、必ず出てくるのが日本紀という書物です。

日本書紀と日本紀は、どちらかが参考にして書かれている可能性があります。

なぜ書き変える必要があったのか、また、日本紀はなぜ残らなかったのでしょうか。

日本紀が存在していたことは続日本紀に記してあります。下写真の記述です。







赤ラインの部分が問題の記述です。「続日本紀」の巻第八、日本根子高瑞浄足姫天皇(元正天皇)

養老四年五月癸酉(みずのとのとり)の条にあります。訳しますと、「これより先、一品舎人親王、勅を

うけたまわりて、日本紀を修めたまう。ここに至りて功成り、紀三十巻、系図一巻を奏上したまう。」

とあります。日本紀として作成しています。日本書紀とは書いてありません。



日本紀の「紀」の文字の持つ意味は、糸が意符になって、「もつれた糸の一端を見出して整理する」という意味を持っています。

こうした史書には紀伝体と編年体とがありまして、紀伝体という書式は都合によって書かれ、必ずしも年代順になってはいません。

古事記などはその紀伝体の書式を採っています。対する編年体は文字通り年代順に編纂していく書式です。

日本書紀は編年体になっています。また、中国の「漢紀」や「後漢紀」などは編年体の書式を採っているため、

「紀」が付いていれば中国色の濃い書式と考えられて来ました。



日本紀を作った理由を推察してみますと、いろいろ考えられます。

日本紀の継続版である続日本紀が高天原廣野姫天皇(持統天皇)の後の文武天皇へと

連結していることにより、日本紀は日本書紀と同じ編年区切りを持っていたことになります。

つまり、続日本紀が文武天皇から始まっていることは、日本紀も日本書紀と同じように

持統天皇で終っていたことになります。ひいては日本書紀か日本紀のどちらが先に

あったかが焦点になります。



日本書紀は正倉院文書に保存されている書籍に記載してあります。

「正倉院文書続修後集」第十七巻中「更可請章疏等」と首書した文書の

天平二十年六月十日に漢籍扱いで 帝紀二巻 日本書 と記してあり、

その文書が日本書紀の神代上下の二巻でありましょう。



なぜ、日本書が日本書紀になるのかと申しますと、下の写真を見てください。

日本書紀原典のコピーですが。^^。神代上は明らかに日本書となっています。

神代下の方は紀の文字が窮屈です。紀の文字は後から書き加えられています。

この事実を見ても日本書紀は本来、日本書として出発していることの証明です。

つまり、日本書紀が日本書なのです。




雅久本
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では、日本書紀と日本紀はどちらが先にあったか追及してみます。

今まで見て来たことから、養老四年(720)五月に日本紀三十巻と系図一巻が完成しています。

対する日本書(日本書紀)の方は、天平二十年(748)六月に、二巻しか存在していません。

そこで特筆しておきたいのは、天平二十年四月二十一日に元正天皇が亡くなっています。

元正天皇は女性であり、日本紀作成にかかわった人です(前述)。四月に亡くなって、

あたかも待っていたかのごとく六月には日本書二巻が出来ています。

この事実をどう受け取るか。作る必要はないことを思うと、書き変えられたのでしょう。

もともとあった日本紀を基にして日本書(日本書紀)へと書き変えているのです。



日本紀を基にして書き変えたと証明できることとして、日本書(日本書紀)の

最終の天皇(持統天皇・女性)から続日本紀の天皇への繋がりがピタリと合っています。

続日本紀の巻第一には「高天原廣野姫天皇十一年に皇太子(文武天皇)を立てた」と記してあります。

皇太子とだけあって名前は記してありません、それもまた問題になるのですが、ここでは一応「文武天皇」に繋いで信用します。

続日本紀との連結は日本書紀の最終が高天原廣野姫天皇十一年で終っているので合います。

日本紀なくして単独で日本書を編纂したとしたなら、繋がりが合うわけがないです。

以上の事実を見ましても、日本紀を書き変えたものが日本書紀でありましょう。



では、なぜ書き変える必要があったのかは、天皇の繋ぎ(連結)から見ればおよそわかります。

重要な部分を図にしてみます。


天智天皇 ⇒ 天武天皇 ⇒ 持統天皇 ⇒ 文武天皇 ⇒ 元明天皇 ⇒ 元正天皇 ⇒ 聖武天皇


内、黄色文字の持統・元明・元正は女性の天皇です。

よーく見てください。面白い連結でしょう。武の字が付いている天皇が問題なんです。神武で武でしょう。

日本書紀は持統天皇で終っています。その日本書紀の基である日本紀を完成させたのは元正天皇の代です。

日本紀三十巻という膨大な量から推察して元明天皇の代から作成にとりかかり、元正天皇で完成したのでしょう。

その日本紀を作るにあたって古事記を参考にしていることは、古事記の紀伝体がそっくり入っていることからわかります。

そして、元正天皇が亡くなったら、待っていたかのごとく聖武天皇の代ですぐに書き変えを始めています。


日本書紀を全部読んでみましたところ、全部が全部書き変えられたのではなく、部分的に合っているところもあります。

おそらく書き変えた人物が気づかずに問題無しとしてそのまま写したのでしょう。だから捨てられないもどかしさがあります。

日本紀と一緒に有った系図一巻は破棄したのでしょうか?。


古事記が推古天皇で女性で終っていて、日本書紀も持統天皇で女性で終っています。

持統天皇は歌好きであるのに日本書紀には一首も入っていないということ自体おかしいんです(削除?)。



あとは各々方におまかせします 。^^。




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