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 大野   所在地 山口県熊毛郡平生町大野
                               



 箕山(みやま)中腹からの眺め。

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 防長風土注進案より熊毛郡上関御宰判
 
熊毛郡大野村
 
当村は大昔、用明帝豊後国満野長者の娘玉譽姫入内の宣旨を賜り、御迎として勅使ならびに供奉の人々彼の地に参向し、御船を粧ひ御供船多く押しならべて御出帆ありしか。俄に海上あらくなりしゆへ姫をはじめ供奉の人々恐れをなし、中つ国の地に押し寄せよと下知す。これによって水主梶取御船を周防の地に押し寄せ、祝ひ嶋に繋ぎ、また島々を伝ひて笠捧嶋にしばらく御滞船あり。(御供船ことごとく破船し御守護佛海中に沈め玉ふ譯あれども長ければ略之)しかるに或る日の引き潮につれて、とも綱おのづから解、鳴戸の瀬戸に至り渦に巻かれて御船も覆らんとす。姫君御気色かわらせたまひ勅使に向ひて曰、しては船も危ふからむ、願わくは吾骸を海神に奉りて平波を祈らんと思ふ也、此の手箱は姥に取らせよ、楊枝は天皇に奉るべし、亡骸は向の山の頂に埋むべし、と言ひ終りて侍女共に海底に飛び入り玉ふ。尊骸日あらずして瀬戸の地にあがりぬ。則遺命に任じ向の山の頂に葬る(般若寺陵これ也)此の由帝都に奏聞に及びしかば、帝深く歎かせ給ひ般若皇后の宣旨を賜はり、供奉の人々も此の地に足を留め御跡を念頃に弔ひ玉ひしと也。此の人々の住居せし所なれば後にその家名をとりて名とはしける。則、大野帯刀宗包が居住せし所なるにより大野村とよべるとかや。




 大野八幡宮。 ここから長い参道が延びている。今は右側の道を使うため、本参道を通ることは少ない。

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 大野八幡宮参道。

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 大野八幡宮。

 防長寺社由来より
 熊毛郡 大野八幡宮 
 祭日毎年八月十二日より十三日まで、但縁記棟札等無御座候ニ付、勧請の年号月日相分り不申候事 


 防長風土注進案より
 大野八幡宮    南村に在り
 祭神 仲哀天皇 応神天皇 神功皇后  
 玉殿 応神天皇木像安置  御本地無量壽佛安置  
 鎮座 當社往古豊前国宇佐八幡宮勧請し奉ると申傳候得共年號彼是不詳候   


 山口県風土誌より
 八幡宮(大野南村の宮原、旧除高壱石八斗五升)
 祭神 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 天照皇太神  
 豊前国宇佐宮より霊を分ち祀る。明治六年十月郷社に列せらる。
 (旧号神明宮。もと神明宮なりしが後に八幡宮を祀りそへ、いつとなく専ら八幡宮と唱ふることとなれり。
 神明の旧地は中村に在りし由にて瓦・陶器の欠など出つ。また神免田・神所田・東神田・流銅馬などいふ穂名あり。
 往古常春寺といふ社坊ありしが、廃して御前正改までは松蓮寺社僧を勤仕せり)   


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 大野八幡宮 方位 

 拝礼方向 ⇒ 阿曾社 ⇒ 松蓮寺(現・神護寺・巨岩遺跡) ⇒ 箕山(神武祠) ⇒ 大星山(初代・熊毛神社) ⇒ 鳩ヶ峰(阿曾山大権現) ⇒ 皇座山(イザナギ・イザナミ・現・白雲稲荷) ⇒ 池ノ浦・黒崎鼻付近 ⇒ 〜  

 社殿前面方向 ⇒ 竪ヶ浜(二社の堂宇あり) ⇒ 荒木(現・熊毛南高校) ⇒ 蓮台寺山西麓 ⇒ 波野・林松坊(現・専福寺) ⇒ 木地(波野スフィンクス) ⇒ 石城山(神籠石の西端付近) ⇒ 伊賀 ⇒ 小倉(山頂遺跡) ⇒ 光市黒杭 ⇒ 〜  

 社殿に向いて右手方向 ⇒ 曽根八幡宮(阿曾山大権現に関連) ⇒ 神花山古墳 ⇒ 〜  

 社殿に向いて左手方向 ⇒ 伊保庄厳島神社(巨岩遺跡・跡) ⇒ 柳井市遠崎・松堂八幡宮 ⇒ 城山(山頂遺跡の古記録) ⇒ 岩尾の滝 ⇒ 由宇・舟木・着神社の巨岩遺跡 ⇒ 天神 ⇒ 〜  




 大野八幡宮参道からの眺め。 ここから見える山々が極めて重要な意味をもってくる。
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 平生町大野は大星山系のふもとに開けている平野です。古代にタイムトリップして船で九州方面から来ますと、麻里府ノ浦から唐戸水道へ進入して、右手に大野があるという位置になります。大野はよく開けた低地平野で、今でも広い田園が大部分を占めています。
 周囲の丘や山には日向平遺跡や吹越遺跡などといった高地性弥生遺跡が多く散在しています。また、古墳も多くあります。町史によると、そうした遺跡は標高5メートル以上の所にあり、それより低い所には無いそうです。
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 大野を率直に語っている記録として万葉集が上げられます。ただ、万葉集は歌ですから、由来記のようなわけにはいきません。それにも増して、現状の万葉歌は詠まれた場所がほぼ決めてあり、周防地方で取り付くシマなどありません。
 万葉集で大野を詠んだ歌は巻一の四番歌にあります。数多い歌の最初のほうにあります。最初の辺りっていうのは何でもそうですが、全体を表す大事な要素を持っています。
 では、その歌を分析する前に先ず、万葉集は膨大な数の歌で成り立っています。その歌も本来は万葉仮名と呼ばれる漢字で記録されています。その読み方は日本独特なものであり、隣国の漢文表記とは一線を画するということを頭に置いておく必要があると思います。
 万葉集の膨大な数の歌の解読は、昔から多くの先人達が取り組んできました。そうした研究があるおかげで、我々はこうして万葉集を語ることができるんだということを忘れてはなりません。今もなお、取り組んでおられる諸々の先生方に敬意を表したいと思います。
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 万葉集 巻一 第四番歌
 玉剋春内乃大野尓馬數而朝布麻須等六其草深野

 たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野  (日本古典文学全集などを参照してください。)

 この歌は三番の長歌の反歌(かえし歌)として詠まれたものです。だから長歌ともセットになっていなくちゃなりません。このかえし歌の短歌だけを取り出して語ることは邪道です。長歌の方は「大王の弓」を詠んでいます。

 万葉集 巻一 第三〜四番歌
 「やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし みとらしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 朝狩に 今立たすらし 夕狩に 今立たすらし みとらしの 梓の弓の 中弭の 音すなり     (反歌)たまきはる 宇智の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野」  (日本古典文学全集などを参照してください)

 こうなっています。文法的なことを私が申し上げる資格はありませんが、大事なことは「梓の弓」が二つ入っていることです。平生町大野の脇には玖珂島と野島があります。その由来は弓で固めてあります。
 そうすると、奈良県と山口県とで歌の取り合いになってしまうわけです。宇智とは、現在の奈良県五條市大野町の一帯です。なぜ二ヵ所になるのか、その理由は二番歌にしっかりと説明してあります。

 万葉集 巻一 第二番歌
 「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は」 (日本古典文学全集などを参照してください。)

 原典の文字は「山常」と「八間跡」で、「やまと」が二つ入れてあります。この歌は、そもそもおかしい歌なんです。香具山(香久山)に登って国見をしたら海原をカモメが群れ飛んでいる、というんです。香具山って奈良県橿原市ですから、海原をカモメ・・・・・・と詠むには、かなり苦しいわけです。それでも今まではなんとかやってきました。
 この歌は二つのヤマト(国)を一首の歌で同期させたものです。
 だから実際にはカモメは飛んでいないんです。カモメは作者の心のなかを飛んでいるんです。あきづ島もそうです。作者は奈良県橿原市の香具山に登って、懐かしい故郷を同期させて歌を詠んでいるんです。
 万葉集はこの歌を冒頭に入れることによって、以下の膨大な数の歌の性質をも浮き彫りにしています。

 こうした同期性は万葉歌だけに限らず、古墳や地形、地名といったものにまで及んでおり、初代の地を離れて遷都したのですから、共通性のある似た地形の場所に定めています。改葬古墳にしても同じです。早い話しが、播磨灘や紀伊水道は、唐戸水道の拡大版なんです(極めて重要)。
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 大野八幡宮。
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 複数の国の存在は古事記にも記載してあります。ただ現状の解読ではわかりません。
 私が原典に忠実に解読してみましたので載せておきます。なぜ都を移す必要があったのか、少し長文になりますが、「隠し文」の醍醐味を堪能してください。
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 古事記 通称「神功皇后の新羅征討」の段より  (解読・管理人)
 ・・・・・(途中より)・・・・・
 軍勢、船を並べて門を行きし時、貝腹の巣など大小問わず悉く。温泉負けて明け渡すのみ。順風多く発ちゆく。温泉乱れるままに。故、その温泉の波乱、新羅の国、押し上がり、もはや中つ国に到る。ここにおいて、箕の国の王移行。宋言う。「今より以後、天皇命は隋にて、身を馬韓となす。」
 年ごとに戦争。船腹の乾くことなし、梶櫂の乾くことなし。天地の友よ退くことなく仕え奉れ。
 故、これをもって新羅の国は御馬甘と定め、百済の国は綿の屯家と定む。
 難事その怨情をもって、新羅の国主の門に築き立て、すなはち墨江大神の荒御魂を国守る神とし、祀り沈めて(鎮めて)遷都なり。


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 ( 祀り沈めて 「沈める」ということの意味は船のことです。エジプトと同じように船を地下深く埋めて、地下水で保存してあるようです。現状では推測段階ですが、その場所は正確にわかっています。地下およそ15メートル付近。詳しいことは次の機会にします。)

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 古事記 仲哀天皇 気比の大神

 故、建内宿禰の命、その太子を率い禊せむとす。淡海および若狭の国を経歴の時、香を知るさきの角鹿に於いて

 仮宮を造りて坐す。汝その地に坐す伊奢沙和気の大神の命、親の夢を見て言う。「我が名を以って御子の御名換えて欲し」

 ここに言ほぎて申しし、「かしこし、命に従い換え奉る」またその神詔る。明日の朝、濱に幸でませ、まさに名を換えし幣立て待つ。

 故、その朝、濱干りし時、幸行く。花滅ぼすイルカすでに一浦に寄る。ここに於いて御子、神に申さしめて云う。「我に意祁の名給う」

 故、またその御名を称えて御食津大神と名付ける。故、今に於いても気比大神と謂う也。地震(なゐ)の地の花の名貸し人、そもまた。

 故、その浦をたけりの血の浦と謂う。今、都八つが謂れ也。

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 原典では「八つ」の文字は「奴」となっています。この文字には考え込みました。奴の文字は双と極めて似ているからです。毛筆書道や写経をやったことのある人ならわかるだろうと思いますが、双の字に少し筆を加えれば奴になってしまいます。疑えばキリが無いわけです。もしも本来の文字が「双」であったなら、「都二つが謂れなり」となります。

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 古事記 「神功皇后の新羅征討」の段(通称)より    (隠し文解読・管理人)

 (途中より) 
今まことにその国へ求める思いは、天神地祇また山の神および河海の諸神に、ことごとく幣帛たてまつり、和の御魂、鵜を戦場(船上)に坐せて、神木の灰を瓠(ひさご)に納め、また、著におよぶ比羅伝を多に作り、皆々、近江に散らし浮かしをもって託す由。 ・・・・・





 箕山の頂上には神武天皇が祀ってある。 この写真ではわからないが、大星山の方が少し高い。
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 大野も一歩山手に入ると美しい棚田が多い。 この上の辺りには弥生高地性集落の吹越遺跡などが散在する。 「日向平丘陵(ひなたびら)」と呼んでいる。
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 我が国では地震のことを「ない」と言いまして、今でも和歌や俳句などでは使われている言葉です。
 日本書紀の天武天皇の段には地震の記述が多く出てきます。
 どのくらいの頻度か書き出してみますと、次のようになります。

 天武天皇
 四年十一月・・・・・地震
 六年六月・・・・・・・地震
 七年十二月・・・・・地震
 八年十一月・・・・・地震
 九年六月・・・・・・・灰が降った
 九年十一月壬申・・・日食があった
 十年九月幸丑・・・・周芳、赤い亀を奉る
 十一年三月・・・・・地震
 十一年八月十二日・・・地震
         十七日・・・地震
 十三年十月・・・・・大地震
 十四年三月・・・・・灰が降る
 十四年十二月・・・・・・・西の方から地震

 ごらんのように、ほとんど毎年地震が起きています。少しおかしいと思いませんか?。
 これを先ほどの古事記の解読文に当てはめてみますと、地震のナゾが解けます。
 地震(ない)とは、戦乱を意味しているんです。
 倭国大乱なんて誰が言い始めたんでしょうね・・・。攻めて来ておいて大乱はないでしょう。
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 箕山からの眺め。 画面には入っていないが、左方向が麻里府になる。
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 解読不可能とされてきた万葉歌。
 古代にどこかの国が攻めて来たらしいことはおよそ見えてきました。
 では、どこの国だったのか、ということについては推測するしかありませんでした。
 そのナゾは万葉集が解決してくれます。今までは解読不可能として保留してあった歌。その歌がいちばん大事なんです。

 万葉集 巻一 第9番歌
 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立為兼五可新何本

 解読著者
 母郷 まどかとなりし たいそう萎え 宋へ付き 我が急こし い建てせりけむ 厳し賀茂と
 ( ぼきょう まどかとなりし たいそうなえ そうへつき わがせこし いたてせりけむ いつかしがもと )

 この歌は、ヤマトの子どもたちを引率して九州方面に疎開していた一人の女性が詠んだ歌だと思われます。
 戦乱が終って、国へ帰ってみると廃墟になっていたというものです。「いつかしい賀茂」とは、賀茂神社のことですが、子どもたちに言いつけて建てらせたようですから、子どもたちの成長を思うと、疎開は相当な年数の経過があります。
 歌はいろんなことを伝えています。たぶん、莫大な数の兵が押し寄せて来たのでしょう。
 なぜ九州方面に疎開したのか長いことわかりませんでした。九州の方が危険に思えたからです。実はそのほうが九州は守りが強固で安全だったんじゃないかと思います。なぜ九州は守りが強固だったのか、それは神籠石遺跡と密接な連係を持っています。つまり、神籠石遺跡の大部分が福岡県に集中しています。綿花の栽培です。

 よくナゾかけられる一つとして、ケシを栽培してアヘンなどの麻薬を作っていたんじゃないかと言われたりもします。もちろんそういう物も嗜好品として、また医薬品として平然と作られていたと思います。しかし、神籠石遺跡は綿花の遺跡です。麻薬を言われる方は、もう一度記紀をじっくりと時間をかけてお読みになるとよろしいかと思います。記紀には麻から始まって綿花、そして養蚕に至るまでのそれぞれの迷いや葛藤までも記してあります。

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 結論として、万葉歌の大野の歌は、地震(ない)としても読めることになります。

  玉剋春内乃大野尓馬數而朝布麻須等六其草深野
 たまきはる 地震(ない)の大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野
   この解読は、まだ認定されておりませんので、学校の試験などでは通用しません。



 大野にて。
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 さて、古事記にある「温泉」という場所があいまいです。
 私は当初、島根県の温泉津かと考えてみたこともありますが、少し距離があり過ぎます。この件については、まだ明確ではない、と前置きをした上で、五万分の一程度の詳しい山口県地図を開いてみます。そして、室津半島から日本海側の萩市まで神社を直線的に繋いでみます。神社を繋いでみますと、萩市から点々と足跡のように室津半島に向けて神社が連なっているのがわかります。萩市の中洲を始発として、点々と中国山地を直線的に横断し、やがて大野の箕山神武堂で終っています。
 もしかして、この足跡は敵の進入経路を神社にして記録したものではないかと思うのです。九州方面は強固に固めてありますから、そんな危険な所をわざわざ攻めたりはしません。それにも増して、海戦に持ち込むとハヤトは強いですから、内陸部へ進入して、山側から都心を攻撃する陸戦重視の戦法です。
 日本書紀を見ますと、先ほどの大地震が起きたのは午後十時頃です。もし、この記録が戦乱をあらわしているなら、誰も皆、寝てしまっている時間です。闇夜だったなら、敵がどちらの方向から来たかわかりません。

 この進入経路から導き出せる遺跡として、豊北町の土井ヶ浜遺跡があります。そこからですと、俵山温泉なんか古い温泉です。美祢の長登銅山もあります。進入はたぶんその土井ヶ浜付近から長門や萩にかけての一帯からあったのだろうと思います。


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 通称、「神功皇后の新羅征討」の段より    (隠し文解読・管理人)

 (途中より) 
今まことにその国へ求める思いは、天神地祇また山の神および河海の諸神に、ことごとく幣帛たてまつり、和の御魂、鵜を戦場(船上)に坐せて、神木の灰を瓠(ひさご)に納め、また、著におよぶ比羅伝を多に作り、皆々、近江に散らし浮かしをもって託す由。 ・・・・・


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