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幻影の神域


幻の熊毛神社







 延喜式神社名帳が編纂される以前を遡ること何百年もの昔、この地には熊毛神社と呼ばれた幻の神社が存在していました。

その所在については、あまりにもナゾが多く、さらには後世の延喜式の記録と混ざり合い、

式内熊毛神社と呼ばれて迷走を続けて来ました。この章では「式内制」以前の根本を研究してみたいと思います。



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 防長風土注進案より

 伊保庄賀茂神社の由来記 (途中より引用)

 往古、当社は熊毛の神社と申し候。

御坐山或は大座山(皇座山)或は御熊毛(尾熊毛)等の舊跡もありし。

岩城山(石城山)の神社より辰巳に当って熊毛の神社有りと彼の山の舊記にも相見。

そのほか、舊記も年序相隔たり候こと故、申し伝へのみに御座候事。

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 上記は伊保庄賀茂神社の由来記にある記述ですが、石城山の由来記には熊毛神社の記述は見当たりません。

伊保庄賀茂神社は、中央の賀茂神社が創建される以前の初代の賀茂神社であり、熊毛神社にはなりません。

 由来記にある「石城山の神社」とある表記があいまいなんですが、それを今の石城神社とするなら、

石城神社は石城五峰の谷間にありまして、周囲のほとんどは山(石城五峰)に遮られて遠望は効きません。


 辰巳の方向とは南東を言います。記録当時は方位を測る際にコンパス片手で記録したとは思えず、目測値でしょう。

石城山に昔からある神社で辰巳の方向を遠望できる神社を調べてみますと、高日神社か、またはウワナリ社です。

由来記にある「石城山の神社」とはそのどちらかを言っていることになります。


熊毛神社の祭神は御毛沼命(男神)であることを思うと、木花の佐久夜姫との繋がりが疑われます。

石城山で木花の佐久夜姫を祀ってあるのはウワナリ社であり、昔から存続して来た神社です。

記録の「石城山の神社」をウワナリ社と仮定して辰巳の方向を見ますと、

そこには大星山と皇座山があります。







 石城山、宇和奈理社の前にて。画面左方向が南東。

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写真では見えませんが、大星山の向こうには皇座山があります。

石城山から見えたということで大星山を研究してみます。





展望台の建物が建っている所が大星山の頂上です。

平成になるまでは、ここには何も無く、植林もされていなかったので視界360度の絶景でした。






山頂の東側です。

平成になるまで、木は生えていなくて、まさに高天原と言える絶景でした。

岩盤質なので大きい木は生えなかったのです。

杉やヒノキは平成になって植えた物です。






山頂の地形は、工事前とほぼ同じです。巨大な風車を建てることができるほどの岩盤質なのです。

今の駐車場の所も昔と同じ地形ですが、昔は道は無くて、風車の柱の所から急勾配で下っていました。

この地形を見ても普通の山頂とはだいぶ異なり、かってここに何かが存在していた、と思わせるに充分な雰囲気があります。







 上下二枚の写真は大星山頂から東の方向を見たものです。

 ここに登ったら、古事記の通称「天孫降臨」の段を直感します。




大星山の頂上から見た朝日 六月下旬頃。

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古事記 通称「天孫降臨」の段より

ホームページビルダーの関係で返り点を省いています、諸本を参照してください。

(途中より) 此地者 向韓國 眞來通 笠紗之御前 而 朝日之直刺國 夕日之日照國也 

故 此地甚吉地 詔 而 於底津石根 宮柱布斗斯理 於高天原 氷椽多迦斯理而坐 也


ここは 辛国に向かい 笠佐の御前を真来通りて 朝日のただ射す国 夕日の日照る国なり

故 ここはいとよき地と詔りて 底つ岩根に宮柱ふとしり 高天原に氷木高しりて坐すなり



この記述は、この山頂に何かの神殿が存在していたことを語っています。

神殿だとわかる根拠は、文中に『氷椽(ひぎ)』という言葉が出てくるからです。

氷木とは、神社(神殿)の屋根に突き出ている木のことです。

なぜ木の文字を使わなかったのだろうと疑問に思い、原典にある椽の文字を

調べてみますと、テン、デン、たるき、と読みます。そうすると氷伝(ひでん)とか、

秘伝とも受けとれる訳です。そうした訳で、原典の氷椽は意味深いものがあります。





大星山頂にて、五月頃。

東側の笠佐島から昇った朝日は、やがて西側の笠戸島へと沈んでいきます。

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 カラ国の「カラ」とは、塩から来た言葉です。からと水道では遠浅の地形を利用して塩田が営まれていたようです。

それは今でも「塩坪(しおつぼ)」という地名となって残っており、その塩坪の隣りは「東浦(ひがしうら)」という地名です。

塩坪も東浦も今は海浜から約 3キロも離れた陸地です。そうした訳で、記述の『韓國』を塩の意味を持つ「辛国」だとすると、

 室津半島の前方部は「からと水道」に向いていますので、「から国に向かい」とある一節の通りの事実があります。


ちなみに「からと」という言葉は古事記の仁徳天皇の段で歌に記載してあり、「加良怒」 とあります。しかし、物語には

「枯野」とあるため、「からの」と読んでいます。歌がまず先にあって、物語は歌から派生されたものであることを思うと、

仁徳天皇の船の名である「加良怒」は水道の名を意味する「からと」です。そもそも枯野ではなく「辛野」でありましょう。


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二等三角点のある頂上の段差は昔からありました。たぶんここに神殿があったのでしょう。

戦時中の高射砲を据え付けた跡という説もありますが、こんな見通しの良い山頂に据えたら

敵機の標的にされて、上からも横からも下からも攻撃されてひとたまりも無いです。

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この大星山の山頂には、かって何かの神殿が存在していたことはおよそ推測できました。

では、何の神殿だったのだろうと推察しますに、どうもこれこそ幻の熊毛神社の前身だった可能性が

浮上してきました。もっと明確になる記述はないかと万葉集を見ますと記載してあります。







万葉集 巻第二 160 161 番歌

160 燃火物 取而(果に衣)而 福路庭 入登不言八面 智男雲

161 向南山 陳雲之 青雲之 星離去 月矣離而


160 燃ゆる火も 取りて包みて 袋には 入ると言はずやも 砂糖雲

161 南山へ たなびく雲の 青雲の 星離れゆき 月も離れて


歌の説明

この二首の前にある 159番歌は長歌になっています。

明けても暮れても王は山のことを問われるという内容です。

その159番の長歌と、ここに挙げた二首は連携しています。


では160番歌の説明です。「砂糖雲」とは木花の佐久夜姫を意味しています。

古事記原典にも「佐冬毘賣」(内部リンク)という一節があります。サトウキビを意味しており南方系です。

現状の普及本では佐冬毘賣を佐久夜姫と訳しているので、古事記原典を見ないとわかりません。

古事記 = 佐冬毘賣

万葉集 = 智男雲

歌の意味は、『燃える火を取って包んで袋に入れようか、入るとは言わないだろうな』 という内容です。

これはまさに古事記の木花の佐久夜姫の段にある産屋に火をつけて出産したという物語から来ています。

木花の佐久夜姫の陵墓は神花山古墳です。その古墳は大星山の頂上から西側のふもとによく見えます。

そうした事実を見ますと、この万葉歌は大星山の幻の神社が廃社される時の様子を詠んでいるものであり、

なぜ袋に火を入れるという思考が働いたのかは、佐久夜姫のご神体を袋に入れている時の様子でありましょう。

火を包んで一緒に袋へ入れたなら、姫は入るとは言わないだろうな、という戯笑歌にも似た内容の歌なのです。

では、袋に入れて引っ越したご神体がどういう末路をたどったのかは、続く 161番歌でさらに明瞭になります。



161番歌 ・ 歌の最初の部分、原典では『 向南山 』とありますので南山へ向かうという意味で、『 南山へ 』と

訳しました。南山とは、柳井市南山地区のことです。 大星山から見て北北東の方向にあります。

柳井市南山は、かって仏教で栄えた所です。古記録の「小南寺伝来記」には、「豊後国清水山に大南寺、

防州伊陸に小南寺、日本国中王坊の司たり。赤間関より西は大南寺、東は小南寺支配せり。」

と記してあったことが享和年中編纂の玖珂郡志に見えます。その南山には今も南山神社があります。

25年に1回ごとに13本の松を立て、八関神楽を奉納して盛大な祭事を執り行います。次は平成40年です。

万葉歌は、その南山へとありますから、大星山から降ろされたご神体は南山神社へ向かったことがわかります。

ところが、一度に南山へ行った訳ではなく、持ち回りの形で社寺を転々とします。歌には転々としたことが

詠んであります。まず、月も離れて、とある一節、これは今も残存している般若寺のことを言っています。

般若寺は南山とほぼ同じ方向にあり、大星山から見て北北東の方向にあります(写真参照)。

その般若寺と阿月の無動寺は、当時は相当な勢力を持っており、周辺の社寺の祭祀に多くかかわって

いたことが伊保庄賀茂神社の祭事記録に記してあります。そうしたことから、熊毛神社のご神体は一時期、

伊保庄賀茂神社にも滞在されていたのでしょう。だから賀茂神社でありながら熊毛神社の由来を持っているのです。


玖珂と祖生の岩隈八幡宮にも熊毛神社の由来があることについても同じことで、ご神体を持ち回りで祭事して

さしあげた訳です。一時期といえどもご神霊が鎮座されたのですから、熊毛神社の由来も当然残ります。


最終的には、御毛沼命と天竺毘首羯磨は同神であることによって、勝間の羯磨八幡宮(現、熊毛神社)に落ち着きます。

 羯磨について調べてみますと、防長風土注進案や有智山略縁記には天竺とあります。天竺毘首羯磨です。

インド人だったことがわかります。羯磨という名は地名の勝間(旧・熊毛町勝間)と連係していて、

防長寺社由来・第二巻・熊毛宰判・呼坂村の条には太閤(豊臣秀吉)に問われて「羯磨村、勝八幡宮と申す」

という一節があります。勝間(かつま)ではなく『 勝 』です。現在の勝間の地名文字は、

本来「羯磨」と書いていたものを太閤(豊臣秀吉)が縁で今の勝間に書き改めたとあります。


現・熊毛神社には『厨子八幡宮来暦』という由来がありまして、次のように記してあります。

『厨子八幡という御厨子来現の神変を忘れなきし尊号なり』

とあります。しかし、なぜその大事なことが置き去りになったのかと申しますと、寺との関係があります。

前述した般若寺や無動寺などの大勢力と同じことです。この勝八幡宮の由来も亀井山・羯磨寺が書いています。

つまり、寺の由来のほうに吸収される傾向なのです。だから読んでも何がどうなっているのか訳がわからないでしょう。

防長寺社由来には現・熊毛神社(勝八幡宮)の由来の中に羯磨寺が入り込み、寺の由来と思しき記述にこうあります。

『周防国本部熊毛神社厨子八幡宮来暦縁記写』・・・・・と。

すべては式内制が施行されるより何百年も前の出来事なのです。延喜式内社と言って騒がれる傾向にありますが、

延喜式の年代など、ものともしない古い由来です。延喜式の問題点については、こちらのページを参照してください(内部リンク)。



幻の古代熊毛神社のたどった過程を、もう一度、簡単にまとめておきます。


熊毛神社の前身は大星山の山頂に在った。

ある時期に廃社され、ご神体は近隣の社寺で持ち回りで祭事されていた。

それらの神社はご神体がとどまられたことにより、すべて熊毛神社の由来を持つ。

最終的に天竺毘首羯磨と縁のある羯磨村(現・勝間)の勝八幡宮へ合祀される。

勝八幡宮は熊毛神社のご神体を祀ってあることにより、熊毛神社と呼ぶようになる。


以上がことのあらすじです。



 羯磨は仏像彫刻に長けていた人物で、羯磨作の仏像は多くの記録に残っています。

今でも現存している物はたくさんあるようです。

その価値は中央を基準にして算出するため、年代が下り、価値観も下っています。

大物主命が天竺毘首羯磨であり、御毛沼命、そしてダイコクさまなのです。

ダイコクさまはなぜ打ち出の小づちを振り上げておられるのかが鮮明になります。

つまり、羯磨作の仏像はダイコクさまが彫られた仏像であり、その価値たるや計り知れません。




(すべて内部リンクです)


大星山の現状

般若寺

南山神社(妙見宮)

岩隈八幡宮  岩国市玖珂町

岩隈八幡宮  岩国市周東町祖生

熊毛神社  周南市大字呼坂

大歳神社  周南市大字樋口


延喜式の記録について。





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