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万葉集 巻第二 185番歌 関連写真


水傳磯乃浦廻乃石乍自木丘開道乎又将見鴨


見ず伝ふ 磯の浦廻の 石つつじ 気球開く道を またも見むかも


ここでは歌の解釈を上のように解読した場合の説明をします。





室津半島には五社の賀茂神社があります。

それらの五社は、すべて神武侵攻地を追悼しています。

その中で、185番歌に詠まれていると思われるのは伊保庄賀茂神社です。

伊保庄賀茂神社の前面方位線を伸ばしていきますと、下の図のようになります。





方位線の特徴は、東京湾を渡って千葉県の九十九里浜へ到達していることです。

千葉県は天然ガスの産地です。そして九十九里浜は、一度に多くの熱気球を上げるのに好適な所です。

うまく偏西風に乗れば、カナダへ渡れます。そうしたことは別ページで説明しています。

古代にそんなことができたのかと疑いたくなりますが、方位線は忠実に歌の内容の通りです。


 伊保庄賀茂神社の詳しいことは下記の内部リンクページをご覧ください。

 伊保庄賀茂神社 第1部     伊保庄賀茂神社 第2部     


では、歌にある『石つつじ』とは何を意味しているのかということについては、石 (いわ) という言葉に

集積されており、石とは、方位線を意味しているのです。つまり、比喩としての石です。

室津半島には五社の賀茂神社があり、それらは神武侵攻地を追悼して建っています。

さらには、伊保庄だけを見ましても実に多くの神社がひしめき合っています。

それらを『石つつじ』と表現して、再び見れることがあるだろうかと名残り惜しんでいるのです。




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歌の説明は以上ですが、以下、参考までに室津半島の

柳井市伊保庄にある主な神社を載せておきます。




伊保庄菅原神社




 伊保庄・菅原神社は、伊保庄賀茂神社の数百メートル北側にあります。


 伊保庄地域の神社は古記録に記載の無い社があり、

この菅原神社と、後で載せる厳島神社は古記録に記載がありません。

私の閲覧不足かと何度も調べてみましたが、やはり記載はありません。

岩国藩の記録に載っていないかとそちらも調べてみましたがありません。


 通常ですと、記載が無ければ当時は無かったか、それとも別の名で存在していたのか、

比較的新しい社か、と解釈します。ところが、方位線などを分析してみますと、どちらの神社も

古代史に於いて極めて重要な神社であるという事実に直面します。

古記録に記載の無い件については、いつの時代にか削除されてしまった可能性があります。



この菅原神社の場合は山を隔てた向こう側の平生町・阿多田古墳を拝礼しています。

ということは、この菅原神社は阿多田古墳の築造や改葬と時期を同じくして建立されている、ということになります。

阿多田古墳は玉依姫(推古天皇)の初代陵墓であることは前にも考察しました。玉依姫は賀茂神社の主祭神でもあります。


この神社は阿多田古墳の改葬前後と時を同じくして建立されていることになります。

この神社を建てておくことによって、わからなくなるのを防いだのでしょう。





参道からの眺めは、記紀にある笠沙の御前で麗しい乙女に出会ったとある一節とも一致します






 境内は特に目立った物はなく、重要なのは見えない方位線です。










 伊保庄・菅原神社の脇の道を奥へと入って行きますと、やがては大星山と鳩ヶ峰の中間地点に登れます。

大星山や鳩ヶ峰の山頂には、古代には神社が存在していました。

それらの祭事に、この道を登り下りしたのでしょう。

 今の道は昔からの道を拡幅したものです。 軽四なら通れます。



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黒島神社
くろしまじんじゃ












黒島神社は、昔には海浜の島だった丘の中腹に建っています。

丘のふもとは黒島海水浴場として整備されています。

海浜には多くの石祠があり、イザナギが海水で禊ぎをした所です。





 黒島神社神殿





 黒島神社は黒島の丘の中腹にあり、そこからさらに登って行くと、

想像以上に広い頂上が開けます。

 頂上には戦没者慰霊の招魂碑が立っています。

(上の 1枚・平成十年頃)






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伊保庄・厳島神社




 この丘の頂上に伊保庄・厳島神社が祀られています。

 近隣の黒島などの諸記録を参照しますと、ここも古代は海中の小島だったようです。

 この島の古代の状態を知りたいと、私は散々古記録を調べてみましたが、

記録に記されていません。・・・たぶん、記録から消されてしまったのでしょう。



 では、まず平成11年(1999)に撮影した写真から見ていきます。



 海側から撮影した写真です。左側の丘が厳島神社の丘です。

美しい砂浜に、丸いマユ形の大岩が絶妙なコンビネーションで存在していました。

 画面中央の赤白の鉄塔の辺りが、からと水道の東側進入口です。





 白い貝殻のたくさん混じった砂浜はロマンチックでさえありました。

まさに「慈しむ島」・・・慈島でした。

 巨石群は太陽の昇って来る東を向いて大喜びしています。その表情のいいこと。

 腕で指している方向に厳島神社の参道昇り口がありました。

 大岩の高さ・推定約5メートル位。





 島の周囲には直径1〜2メートル位の丸い形の大岩が島を取り囲むようにたくさん存在していました。

 防長風土注進案に絵図で記載してある「三連珠石」とあるのは、この事だと思います。



ところが、





 真っ白い貝殻がたくさんあった美しい砂浜です。

 私が必死で本を書いていた頃はまだ大丈夫だったんです。

悔しいです。




 砂浜から見上げていた大岩も、今ではコンクリートの底に沈み込んでしまいました。





 この惨状を見た時は、愕然として信じられませんでした。

 美しかった砂浜はコンクリートの下です。

 手前に残っている防波堤が平成11年の写真にも写っている昔の防波堤です。





 不要になった防波扉が何か言いたげに残っていました。





 完全に埋まってしまった大岩がいくつもあるようです。





 対岸は埋立地になっているので、こんな大規模な防波堤なんて必要ないですよね。

 このホームページを始めた頃はまだ大丈夫だったんです。

悔しいです。 遺跡はもう元には戻せません。






 1999年撮影。海浜(東側)から昇っている本参道です。

 ここは今も変わっていません。 





 1999年撮影。今は回りの木々が成長しています。

 ここからクルリと後ろを振り返ってみたのが下の写真です。




 1999年撮影。右方向に下りて行ったら先ほどの砂浜です。





 社殿と境内に変化はありません。

 平成11年(1999)撮影の写真は以上です。


 これより下は、9年後の平成20年(2008)2月に撮影した写真です。





 この小さな御社が初代の厳島神社だと言っても、たぶん誰も信じてくれないことでしょう。

 それを証明するポイントはたくさんありますが、そのなかの一つが下の写真です。




 証明するには純粋な日本陰陽道を研究しなくてはなりません。

 まだ日本の神道が中国の風水の影響を受けていない頃の古い神道です。

日本と中国とでどう違うかと申しますと、鬼門方位が 22.5度違います。


 陰陽道といいますと「おんみょうどう」と発音しているためか怨霊の「おん」と重なって、

オドロオドロしい印象がありますが、純粋な陰陽道はそういうオドロオドロしいものではなく、

読んで字のごとく、磁石の陰と陽であり北と南を意味します。つまり、方位であり、

社寺の正確な方位線が日本陰陽道を単直に現わしていると言えましょう。


 上の写真は伊保庄厳島神社の境内から柳井市方向を遠望したものです。

画面矢印の白茶色の台形の丘は、柳井市水口茶臼山古墳です。その方位を分析しますと、

この厳島神社は茶臼山古墳の鬼門を守護する意味において祀られた神社であることがわかります。


つまり、古墳に悪霊が入らないように守護しているわけです。鬼門と申しますと、すぐにあんまり

良い場所じゃない、と感じるかもしれませんが、それは陰陽道をよく理解していれば良いも悪いもありません。

鬼門というものは中心によって自在に変化します。例えば、自分自身を中心にしますと、

鬼門は自分の移動によって無限大に存在します。ですから、鬼門の場所というものは中心を何処に定めるかによって

地上の全てに存在し、無限大であるのです。だから良い場所とか悪い場所というものは存在しません。


 さて、水口茶臼山古墳の発見は明治時代です。中世の頃には古墳の存在すら忘れ去られていました。という事は、

この厳島神社が鬼門守護として祀られたのは古墳の存在が明確であった時代(古墳時代)であるという事になります。

 そのことは、この神社は厳島神社の前身である、ということの一つの証明です。

本来は慈島神社と書いていたのでは?と推測したりします。慈しみたいですね。





陰陽道の古い記録。

すでに中国の影響を受けている。






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小烏神社


 伊保庄の地名の発端ともなった小烏神社です。

 防長風土注進案では烏(カラス)の文字ですが、それより約百年古いとされる防長寺社由来では

鳥(トリ)の文字で記してあります。「小鳥(ことり)神社」でもあるのです。





 小烏神社の参道は県道脇から昇っていますが、悲しくも車の駐車場がありません。

あれこれ考えた末、私は近年からここの旧旭橋の所にとめています。

この旧旭橋は近年まで伊保庄に入る道だったんですが、橋の老衰化のため、

西側に新旭橋が造られました。車はここで通行止めなので通る車も無く、特に邪魔にもならず、

私はここにとめて歩いて参詣しています。画面の矢印の辺りに小烏神社はあります。





 旧旭橋から西北の方向を見た写真です。






 橋を渡ってすぐの所にある交差点を左に進みます。






 進んで行くと道の右側に慈徳地蔵尊があります。そこが小烏神社への入り口です。

 六字名号の彫ってある石は高さ約2メートル位の大きな物です。

 奇麗によく手入れしてある堂宇は地域の人々の信仰心の深さを表わしています。




 こんな感じで並んであります。






 鳥居には小烏社とあります。






 鳥居をくぐって進んで行くと、県道に出ます。

正面の石段を登って行きます。

 通行量が多いので横断には気をつけてください。







 参道石段の中腹からは柳井水道(からと水道)東側出入り口がよく見渡せます(下の写真)。





 琴石山の下にある水口茶臼山古墳がよく見えます。

 下の写真は同一地点から拡大してみた写真です。




 矢印が水口茶臼山古墳です。

 からと水道を航行していた船からもよく仰げていたことでしょう。






 今、歩いて来た方向を参道から見おろしてみました。

 赤矢印の所に私の車がとまっています。点々印の所を歩いて来ました。






 この石段が凄いんです。ふもとから数えてみましたところ、三百三十段と少々ありました。

 今は雑木林になっていますが、もしそれらが無かったら、見晴らしが凄いだろうなと思います。






 右側側面には「明治三十年十二月吉日」の刻印があります。











 この磐座の大きさ、高さ約3メートル。こちら側から見た横幅約2・5メートル。全長約8〜9メートル位。

まるで巨大なナマズがいるような感じの巨石です。

 やはり小烏ですから子供的感覚をもって鑑賞する必要がありそうです。








 防長寺社由来より

 小烏大明神   伊保庄高洲に有之

 但、由来無之、御帳面に小鳥(ことり)と有之候分え相当申候。



 防長風土注進案より 

 伊保庄

 當村を伊保庄と申事は往昔三足の赤烏當郷に生し、里人是を志賀の都に捧け奉りければ叡感ありしよし、

よって始めて烏王庄(又烏雄庄トモ)と呼ひ候を、いつの頃より歟伊保庄・・・(ここ「海王庄」かいおうしょう・・と思われる。)と革め候よし、

稍古き事に候得は慥なる事は相知かたく古老の申傳に御坐候。


 小烏社 在高洲

 祭神 保食神  天武天皇御歌モ祭り候由申傳



この神社は歌に関係しているため、方位の分析結果を見ますと、

現状の正確な計測値は 273度です。しかし、その方位では合いません。

日本の建物は礎石の上に柱を据える方法ですから、再建後の方位が

2度や3度のズレはすぐに出てしまいます。その欠点を補うために指標となる

社寺が置いてあるわけですが、この小烏神社には東西南北の四点もの

指標の神社が置いてあります。それを見ましても方位が重要であることは

推察されます。その指標の神社に合わせますと、本来の方位は270度という

結果になりました。拝礼方位線上には万葉歌で解説した波野府天満宮

拝礼しています。そのことは、この小烏神社の由来にある天武天皇の歌を

祭っているとある記述と繋がっていきます。小烏神社に歌は残っておらず、どんな

歌だったのか不明とされて来ました。その歌のナゾが波野府天満宮にあるのです。





 竹薮が無かったら東向きのため日の出がよく見えるはずです。






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