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  神花  阿多田   所在地・・・山口県熊毛郡平生町田名
   じんが   あたた



 田名は阿多田半島の付け根に位置している。現在は少しずつ公園化されている。
 この付近一帯は平成初期頃まで一般人の立ち入りはできなかった所でもある。

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 (防長風土注進案・佐賀村より)  

 田名村の由来並びに野稲嶋 
 田名とは種の古名なるよし、昔、前の嶋の根の白濱に秋の頃鶴の群れおびただしく稲穂をくわへ来る。里人これを得て蒔き作り、諸方へ種を配りなせしより種村と云いなせり。その白濱を鶴濱と云ふ。のちに塩濱となりても今にその名を失わず。又前の嶋に捨たりたる籾種の生れしより野稲嶋と名付くるよし。此の嶋、麻里布外八嶋の一つなり。

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 神花山古墳から見る阿多田半島。工場の向こうの饅頭形の島が阿多田島。
 古代にはこちら側から順に、神花島、歌ヶ小島、野稲島、阿多田島と連なっていた。

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 (防長風土注進案・佐賀村より)   

 神火山
 月の下弦の頃闇夜に風波ある折節、燐火出て風に向ひて浮かみ行く事、馬嶋の外海までにおよぶ、はなはだしく奇怪なり、火の数の多少は時々不同あり、それ故に此の山を神火山と云いしをその後音読にて神火山と云い付す。又、後に文字を誤りて神花山と書けり。付けり、此の浜辺に種の俵石といへる全形備わりし名石あり、誠天工自然の奇物也。

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 神花山から見た馬島。 
 記録にある「馬島の外海」には牛島(うしま)がある。神花山から見ると、馬島の影に隠れてしまう島である。

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 神花島(山)。山の頂上に神花山古墳がある。 
 この写真は南側から撮影したもの。ここは平成になって埋め立てられた所。本来は海だった。

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 (防長風土注進案・佐賀村より)   

 歌か小嶋
 元暦の始めの頃、平家方の軍船西海へ落越へたまへる時、此の所へ暫く係船ありて、帝この嶋に上がらせ給ひ四方を御覧したまへるに、洲濱多くありて、又波よせる嶋の松根に貝の付きているを何なるぞと問いたまふゆへに、蠣と申す貝にて候と答へ上げ奉れば 御製  『波の筆 洲摺りの濱に うちたてて 嶋の松根に かきつけしかも』 此の御歌より嶋の名となれりと言ふ。


 阿太多嶋
 古へ此の嶋に海士住居て、小船にて沖遠く出て釣するあり、網するあり、嶋の囲屋に妻女を残し置き生魚を桶に入れ、遠方近邊へ商ひ行きて入用の品を代替歸る。海士の妻女をたたと云ふゆへにあまたたと言ふ、あまたと言ふ、あたたと言ふ、その居所ゆへに嶋名となり来たる。此の嶋、麻里布外八嶋の一つ也。付けり、あたた嶋、あまた嶋、所々に多し。此の渚、熊毛郡の際限なり、此の沖の嶋々は大嶋郡の西端なり。


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 (平生町教育委員会編集発行「大むかしの平生」より)

 古墳 
 平生湾の入口には二つの前方後円墳があります。阿多田島の頂上の阿多田古墳は全長 40メートル、後円部は直径 24メートル、高さ 3.5メートルで細長い竪穴式石室で、捩り文鏡のほか、玉がはいっていました。
 この東側の丘の上にあるのが神花山古墳で、全長 30メートル、後円部直径 15メートル、高さ 2.5メートルで埋葬施設は箱式石棺です。二つの古墳とも五世紀に相次いで作られたもので、白鳥古墳の墓主のあとを継いだ豪族の墓と考えられ、海上からよく見えるところにあるのも共通した特徴です。     (以上、原文のまま引用した。)

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 神花山古墳。後円部より前方部方向を望む。

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 神花山古墳の南側は、かって土採りをしていたらしく、崩れて崖になっている。あと何年もつか心配になるほどだ。
 ところが、阿多田古墳も同じように墳丘の片面が浸食され、崩れている。どちらの古墳も片面は傷付いているわけである。
 その共通性を見ると、もしかして、古代からわざとそうしてあるのかとも思う。



 復元図、平生町教育委員会編集資料より引用しました。
 現在、神花山古墳の南側半分は崩れて崖になっています(下の写真)。



 神花山古墳。 前方部先端より後円部方向を見たもの。

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 復元図は平生町教育委員会編集の資料よりお借りしました。
 阿多田古墳は、現在、現地踏査が難しい状況にあり、取材不可能なため何とも言えません。


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 以下の写真は神花山古墳の解説板です。








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 神花山古墳、墳丘上から北方向を望む。人物設定の上で主要な山々が連なっている。

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 神花山古墳。



 神花山古墳。



 神花山古墳より東北方向を望む。

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 神花山古墳より南方向を望む。
 つい最近まで一面が海だったが、平成九年に突然始まった埋め立てによって風景は一変してしまった。

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 神花社。 神花山古墳のすぐ下にある神社。祭神は「木花の佐久夜姫」。 左側の祠は稲荷。
 現在わかっているだけでも、この神社と古墳を遠近多くの神社が指し示している。

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 (防長風土注進案・佐賀村より)    

 神花大明神     田名に在り
 祭神 木花開耶姫命  ニニギノミコト
 祭日 八月二十四日 神主出張 注連を曳きはへ供え物神酒を捧げ、夜九ッ時神楽の大事執行、二十五日地下中参詣す。此の御神は霊験殊に新にして当社の土を取り、田園の四方に振り置けば此の中へ土竜の入る事なしとて遠近へ取り帰り。又、蛭田地に出し候へ共、田名の内に生せしは人を吸ひ申さず候とて皆神霊の奇瑞と申し伝え候。此の山のふもとは海辺にて岩径数丁相続き候内に俵石と申す奇石ありし候、汐の満干上がりよりおよそ四間ほど沖にありし候、全く俵の形にして竪三尺八寸、幅一尺八寸ありし候。


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 古事記の記述
 木花の佐久夜毘売 (このはなのさくやひめ)   (解読・管理人)
 ここに天津日高日子番能邇邇藝能命、笠沙の御前に麗しき美人に遇う。誰の女かと問うに、答え申しし、大山津見の神の女、名は神阿多津比賣、またの名を木花の佐久夜毘賣という。また、汝の兄弟はあるかと問う、我が姉、石長比賣ありと答え申しし。吾は汝と目合わむと欲すがいかに、と告げし。しもべは、えー申さず。しもべを見る大山津見の神の申さむと答え申す。故、その件、大山津見の神に乞い遣わしし時、大喜びて、その姉、石長比賣を副え、百取の机代の物を持たして奉り出す。故にその姉は、はなはだ凶醜により、見かしこみて返し送る。ただその弟、木花の佐久夜毘賣を留め以って、一宿の婚す。かくして大山津見の神、石長比賣を返しによりて大く恥、申し言い送る。我の女二人並べ立て奉りし由は、石長比賣を使えば、天神御子の命、雪降り風吹くといえども、つねに石の如くにて常磐堅磐に動かず坐す。また、木花の佐久夜比賣を使えば、木の花の栄える如く栄え坐すと誓約て貢進。子の石長比賣を返礼して、ひとり木花の
砂糖毘賣( 原典・佐冬毘賣とあり )を留めし。故、天神御子の、みことほぎは木花貸し、あまひのみ坐す。・・・(この部分の原文・・・「 天神御子之御壽者木花花之阿麻比能微(此五字以音)坐 」・・・とあり、実際には花が二つ記してある。)・・・故、今に至るとぞ。天皇命らの御命長からずなり。
 故、後に木花の佐久夜毘賣、参出て申す、わらわは、やっこの身、命を産む時をのぞむ。これ天つ神の御子、ひそかに産むこと良からず、故、請う。ここに詔る、佐久夜毘賣一宿に妊むかな、これ我の子にあらず、必ず国つ神の子。ここに答え申し、吾の妊みし子、もし国つ神の子ならば産む時に幸くあらず、もし天つ神の御子なら幸。すなわち、戸無き八尋殿を作りて入る。御殿の内を土をもって塗り塞ぎて、まさに産む時をもってその殿に火をつけて座すなり。故、その火、焼け盛る時、所に生れし子の名は火照命(此は隼人、河多の君の祖)、次に生れし子の名は火須勢理命(須勢理の三字は音)、次に生れし子の御名は火遠理命、名を天津日高日子穂穂手見命(三柱)。
 故、火照命は海佐知毘古(此四字以音、以下、子の功績なり。)となして、鰭(はた)の狭物(さもの)を取り、火遠理命は山狭知毘古となして、毛の麁物(あらもの)毛の柔物(やわもの)を取る。ここに、火遠理命その兄の火照命に言う。各さち相い換えて用いむことを欲す。三度乞うといえども許さず。しかし、ついになんとか相い換えることを得る。ここに火遠理命、海さちを以って魚釣ると、魚ひとつも得ず。また、その釣り針を海に失う。ここにその兄、火照命その釣り針を乞い申す。山さち母のさちさち、海さち母飲み飲みさちさち(原典極めて重要・・・山佐知母之佐知佐知海佐知母已已佐知佐知 )。今、各さち返さむと言いし時(佐知二字は音を以て)、その弟、火遠理命、申す。汝の釣り針は魚釣れども一つの魚も得ず、遂に海に失うと答える。しかしその兄、こび強いる。故、その弟、御佩の十拳剣を破りて五百の釣り針を作って償えども取らず、また一千の釣り針を作って償えども受けず・・・・・・・・・・(以下、別の項目にて解読します。)



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 日本書紀の記述

 ・・・・・先ず始めに・・・・・・
 【日本書紀の初めは本来、「日本書」というタイトルだったろうことは、雅久本の書き出しが「日本書」で始まっていることから見ても、中国の漢書や後漢書などの書物が底辺にあることがうかがえます。読む我々は中国色の濃い書物であることを考えに入れて読む必要があります。日本書紀の本となった書物は「日本紀」であることは、なぜ書き変えが必要だったのかという問題に至ります。その日本紀は残存していませんが、周防の由来には登場しています。
 現存する日本書紀は「一書曰」という手法でいろんなパターンの物語を集めています。しかし、その「一書」も発見されてはいないようです。結局、我々はたくさんのパターンのなかから、最も本来の物語に近いと思われるものを見い出すという大変な作業を強いられます。方法など無いと思われるその作業ですが、古事記に照らし合わせるのが一番いいようです。古事記は推古天皇で完結し、日本書紀は持統天皇で完結しています。どちらも女性であることは、女王国の終えんを知るうえで重要なことではないでしょうか。】

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 以下の解読文は 「中央公論社 日本書紀」 より抜粋した。
 天津彦火瓊瓊杵尊は、日向の?日の高千穂峯に降下されて、そししの胸副国を、ずっと丘続きのところを、国を求めながら通過して、なぎさに接した平地に降り立たれて、そこでその国の首長事勝国勝長狭を召しよせて尋ねられた。すると彼は、「ここに国がございます。勅のままに、どうぞよろしいようにお取り計らいくださいますように」と申し上げた。そこで皇孫は宮殿を建てて、ここに御滞在になった。その後海浜においでになったとき、一人の美人を見かけられた。皇孫が「おまえは誰の子か」と尋ねられると、お答えして、「私は大山祇神の子で神吾田鹿葦津姫、別名木花開耶姫と申す者でございます」と申し上げた。また、「また私の姉に磐長姫がおります」と申し上げた。皇孫が「余はおまえを妻にしようと思うが、どうか」と仰せられると、「私の父大山祇神がおります。どうか父に御下問くださいますように」と答えられた。皇孫はそこでこんどは大山祇神に向かって、「余はおまえの女子に会ったところだ。余の妻にしようと思うが、どうか」と仰せられた。そこで大山祇神は二人の女に百机の飲食物をもたせてたてまつった。ところが皇孫は、姉の磐長姫の方を醜いと思われて、お召しにならずに返してしまわれた。他方、妹の木花開耶姫の方は一番の美人と思し召されて、お召しになって幸されたのだが、その結果姫は一夜にして妊娠された。ところで磐長姫の方は、皇孫がお召しにならなかったことを非常に恥じて皇孫にのろいをかけられ、「もしも天孫が私をお退けにならないで、お召しになっておられたら、生まれた御子は寿命が長くて、磐石のようにいつまでもこの世に長らえることがおできになったであろうに、いま、そうなさらないでただ妹だけをお召し上げになった。だから妹の生む御子の生命はかならず木の花のように散り落ちることだろう」と申された。一説では磐長姫が恥じ恨んで、唾をはき、泣いて申されるには、「この世の青人草は、木の花のようにうつろいやすく、生命おとろえよう」と言ったので、これが世の人の短命の由緒であると伝えている。こののち、神吾田鹿葦津姫は皇孫にお目にかかって、「私はいま天孫の御子をみごもっておりますが、勝手に生みまつってはならないと思い、おうかがいいたします」と申し上げた。皇孫は、「いくら天神の子でも、どうして一晩で妊娠させることができようか。それは私の子ではないのではないか」と仰せられた。そこで木花開耶姫はいたく恥じ恨んで、出入口のない部屋(産室)を作って誓いをして言うには、「私のみごもった御子が、もし他の神様の子であったら、かならず死産になりましょう。もし本当に天孫の御子であったら、かならず丈夫にお生まれになりましょう」とて、その産室の中に入って火をつけて産室を焼いてしまわれた。その炎の出はじめのときに生まれた御子を火酢芹命と申し上ぐる。つぎに火の盛んなときに生まれた御子を火明命と申し上げる。つぎに生まれた御子を彦火火出見尊、別名火折尊と申し上げる。
 
 一書(第三の一書)にはつぎのように伝えている。
 ・・・・・(途中同文のため省略する)・・・・・ところで竹の刀でその生まれた子の臍緒を切ったのだが、その棄てた竹の刀がついに竹やぶになった。それでその地を竹屋というのである。また神吾田鹿葦津姫は卜定田(神に供える稲をつくるために吉凶を卜して決められた田)をつくられたが、この田の名を狭名田といった。この田の稲で天甜酒を醸しておあがりになり、また渟浪田の稲で御飯をたいておあがりになった。
 
 一書(第六の一書)にはつぎのように伝えている。
 ・・・・・(途中大幅に省略する)・・・・・さて、皇孫火瓊瓊杵尊を葦原中国に降したてまつるときになって、高皇産霊尊は神々に勅して、「葦原中国は磐の根、木の根、草の葉もものを言うし、夜は?火(火の子)がとぶように喧響い(うるさく)昼は五月蠅のようにわきあがる野蛮な国である」と仰せられた。云々。・・・・・(途中大幅に省略する)・・・・・瓊瓊杵尊は吾田の笠狭の御碕に着かれた。そしてついに長屋の竹嶋にのぼられた。そこを巡幸しておられると一人の人に出会った。名を事勝国勝長狭と申し上げる。天孫はそこで、「この国は誰の国か」と尋ねられると、お答えして、「これは、私、長狭が住んでおります国でございます。しかしいま天孫に献上いたします」と申し上げた。天孫はまた、「あのさきたっている(波頭の)上に八尋殿をたてて手玉もさらさらと織る少女は誰の女か」と尋ねられると、「あれは大山祇神の女たちで、姉を磐長姫、妹を木花開耶姫、別名豊吾田津姫という者です」と申し上げた。云々。そこで皇孫はこのうちの豊吾田津姫をめされた。すると姫は一晩で妊娠された。このため皇孫は疑われた。云々。ついに火酢芹命を生まれた。つぎに火折尊、別名彦火火出見尊を生まれた。母の誓いは霊験あらたかであったわけである。これではっきり皇孫の胤であることが判明したのである。しかし豊吾田津姫は皇孫を恨んでことばを交そうともされなかった。・・・・・(以下省略する)・・・・・

 一書(第八の一書)にはつぎのように伝えている。
 ・・・・・(前半大幅に省略する)・・・・・兄の火闌降命(ほすそりのみこと)はもともと海幸(うみさち)をもっておられ、弟の彦火火出見尊はもともと山幸(やまさち)をもっておられた。事のはじまりは、この兄弟の神があるとき相談されて、「ためしに幸をとりかえてみよう」と仰せられて、海幸の火闌降命が山に狩猟に、山幸の彦火火出見尊が海の魚釣にというように、道具・持場を交換してごらんになったが、両方とも何の獲物もなかった。このため兄の火闌降命の方は後悔して、弟の弓矢を返してそのかわり自分の釣鉤(つりばり)を返してくれと要求された。ところが弟の彦火火出見尊の方は、そのときすでに兄神の釣鉤をなくしてしまっていて、いくらさがしても見つからない。そのため、やむなく別に新しい釣鉤を作って、兄神に渡そうとしたが、兄神は承知しないで、もとの自分の鉤を返せと責めた。弟神は困ってしまって、自分のおびている横刀をつぶして、新しい鉤を鍛え上げて、箕からこぼれるほどたくさん作って渡すと、兄神は怒って、「わしのもとの鉤でなければ、どんなにたくさんくれたってだめなんだ」と言って、ますます催促するばかりである。そこで彦火火出見尊は困りはてて憂苦に沈んで、海辺をさまよっておられた。すると、そこで塩土老翁に出会われた。・・・・・(以下省略する)・・・・・

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 記紀ともに神花阿多田のことを語っているのがよくわかります。
 日本書紀に「竹島」が登場していますが、現在の周南市の竹島には前方後円墳があります。その島より山手に上がって行きますと、国道2号線を横切って少し行くと、神上神社があり、神武天皇の由来を持っています。
 こうした古墳については築造年代がほぼ解明されています。その築造年代で人物を追求していきますと、年代設定が合わないということが出てきます。なぜ年代が合わないか、学界の設定が間違っているわけではありません。改葬されているんです。百年二百年という長い期間をおいて、もっと良い場所へとか、あそこを守護してもらおう、といった思いがあったのでしょう。あるいは、島に改葬しているあたりを見ますと、怨霊封じといったものも無視できません。
 どちらにしても古墳の築造年代がそのまま人物の亡くなった年代と考えるのは早計です。結局、人物設定をしようと思えば逆探査していかなくてはなりません。そうして最初に埋葬された所がわかれば、その人物の活躍した年代も明らかになりましょう。


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