目次に戻る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




幻の阿曾山大権現







阿曽社は今も大野から箕山へ登る道中に存在しています。

箕山といえば神武東征の章で登場した所です。

箕山は大野の丘でありますから、推古天皇とも繋がっています。


その箕山の中腹に阿曾社は今も存在しています。

存在していながら、なぜ「幻の阿曾山大権現」なのかと申しますと、

この阿曾社は大昔にここへ移転して来たことが由来記にあります。


しかし、どこから移転して来たのか、もとの神域はどこだったのかは明確に記してありません。

おそらく由来記の書かれた年代には、もうわからなくなっていたのでしょう。だから記述が曖昧です。

そうした移転は、古事記の天孫降臨と繋がっており、もしや大星山頂に在った幻の熊毛神社と

同じことではないかと考えますと、阿曾山大権現と呼称されている幻の神域を追究してみるのもロマンです。




では、まず阿曾という名の根源を、平生町曽根の古記録から見ていきましょう。

 天保年中編纂(1830〜1844)防長風土注進案には以下のように記してあります。


 曾根村

 當村は往古阿曾権現、尚阿曾山松蓮寺深山に有之候由社地寺屋敷等今に現存す、

夫故、阿曾根村と唱え候由のところ延宝年中寺社共大野村へ引地相成、

其後いつの比よりか阿の字を除き曾根村と唱来り候由申傅候。




延宝の年代を西暦にしてみますと、1670年代です。

 由来記の通りに考えてみますと、阿曾権現は1670年代に大野村の現在地に移された、ということになります。

ところが、松蓮寺(現・神護寺)の銅鐘には「周防国大野本郡阿曾社洪鐘  嘉暦二年丁卯三月八日」と彫ってあります。

つまり、嘉暦二年(1327年)には阿曾社はすでに大野(現在地)にあったのです。三百年以上も若く記してあります。

防長風土注進案の記述は大野村へ引地とある部分が大昔のことです。大昔とは、すなわち嘉暦二年(1327年)以前の遠い昔のことです。



 由来記で信じられる部分は、「寺社ともに阿曾根村から大野村に移された」とある部分です。それが元で「阿」の字を除いて「曾根村」と呼ばれるようになります。

その阿曾根という呼び方はほとんど信じられていないらしく、山口県風土誌においても、この説話を引用しながら「信じがたい」と結んであります。

 信じがたくはないです。この地名には方言が入っています。周防の方言に、何々のネト、という方言があります。根は「ネト」です。

「○○山のネト」と言えば「○○山のふもと」といった意味になりますし、「木のネト」と言えば「木の下の方」といった意味を持っています。

「ネト」は物の大小を問わず使われています。その方言を理解して阿曾根に当てはめてみますと、ナゾは解けてきます。

阿曾根を完全な方言に置き換えてみますと、「あそんねと」 と、なり、阿曾のふもとという意味です。


これと共通した表記をしている地名として、万葉歌の巻1の12番歌に「阿胡根」があります。

この場合も方言では「あこんねと」ですが、歌の発声では「あこね」で詠んでいます。

方言の入った文字を他所の人が使うとややこしくなります。


では、阿曾とはどの山を言ったのか、社寺を見ながら追究してみましょう。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



平生町大野 / 神護寺





本来の名 / 阿曾山 明星院 松蓮寺

 今の名 / 真言宗 御室派 石城山舎那院 神護寺

平成五年頃に撮影したものです(フイルム写真)。

この本堂は場所を移動して建て替えられ、今は存在しません。

茶室風の趣きが好きで、度々参詣しました。





石城山の神護寺が明治の廃仏毀釈で大野の松蓮寺に合寺され、

松蓮寺の今は 石城山 舎那院 神護寺 という名で存続しています。

 古記録では 阿曾山 明星院 松蓮寺 とあるのが、この寺です。

古記録には推古天皇の創建とあります。由来を見てみましょう。



 享保年中編纂の『防長寺社由来』より。

 周防国 熊毛郡 大野村 真言宗 阿曽山 松蓮寺 

 当寺建立は人王三拾四代推古天皇御宇唐僧恵窓和尚開基と申伝候、往古は末寺数々有之、

琳聖太子御代より寺領五百石被附置候処、大内家破滅の節知行捨り申候由、縁起等代々連綿仕候へ共、

四代已前秀山出奔の節より一向相見不申、世代旁の儀も委細ニ相分り不申候事。   



 釣鐘銘文 (経文の部分省略する) 

 周防国大野本郡阿曽社洪鐘  嘉暦二年丁卯三月八日 (年の字は禾に千)

 但、釣鐘銘文に有之通、往古は鎮守阿曽権現に有之候処、当寺え釣替相成候由、年暦相分り不申候事。







先述した由来は享保年中(1716〜1736)編纂の防長寺社由来でした。

こんどは天保年中(1830〜1844)編纂の防長風土注進案を見てみます。



 防長風土注進案より

 真言宗 阿曾山 松蓮寺  在神領

 御室御所下  熊毛郡伊保庄般若寺下

 建立年号未詳、開基恵窓より現住知心迄七拾五世、名前等委相分り不申候事。

 當寺は推古天皇御宇唐僧恵窓和尚之開基にして、往昔天より明星三體大星山へ遥降し玉ひ、

里人尊て阿曾山大権現と奉唱、于今當寺鎮守と敬仕候、即蓮臺之形なる松へ明星降玉ふを以

阿曾山明星院松蓮寺と相唱申候、依之大内家御先祖より社領五百石當寺へ御付被成候、

往古は末寺七拾弐坊有之候得共、大内家滅亡之節所領も捨り末寺等断絶仕候、

當寺数度火災に寶物證據物(しょうこぶつ)不残焼失仕候、委細は縁起に相見得候事。

 當寺焼已来未再建不相成に付借宅において御座候事



防長寺社由来も然ることながら、約百年新しいこの防長風土注進案のほうが詳しいです。

防長寺社由来は漢字など新字体が多いのはなぜか。私が読んでいるのは活字本なので原典の文字はどう

書かれているかは不明ですが、阿曾山においても防長寺社由来ではいちばん大事な部分が抜け落ちています。

その辺りを思うと、こちらの防長風土注進案に重きを置く所以です。



そのことを前置きしたうえで、由来には明星三体が大星山へ降ったので阿曾山大権現と呼ぶようになったとあります。

大星山は、前章の熊毛神社で解き明かしましたように熊毛神社の前身が在った山であり、阿曾山にはなりません。

もしや、この由来は大星山と阿曾山の由来がごちゃ混ぜになっているのかもしれません。そもそも大野から見上げれば

大星山に隠れて向こうの山は見えず、大星山と箕山しか見えません。では、本来の阿曾山はどこか。

阿曾山を探るために阿曾根と呼ばれていた今の曽根を見ますと、そこには曽根八幡宮があります。





 曽根八幡宮













 防長風土注進案に記してある由来を見ますと、特に重要なのが祭神です。

曾根八幡宮 祭神 三女神 応神天皇 神功皇后 


応神天皇や神功皇后は八幡宮の一般的な祭神です。

特筆されるのが、三女神を祀ってあることです。


 そこで、もう一度、松蓮寺由来記に残る阿曾山大権現の由来を振り返ってみます。

「往昔天より明星三體大星山へ遥降し玉ひ、里人尊て阿曾山大権現と奉唱、」。

明星三体、降った、とあります。明星とは金星のこと、英語では「ヴィーナス」です。

そのヴィーナスにも時代的な歴史がありまして、ローマ神話では「菜園の守護女神」、

後のギリシャ神話では「美と愛の女神」になります。つまり、明星とは女神です。

 曽根八幡宮は阿曾の麓(ねと)にある神社です。祭神を見ますと「三女神」が祀ってあります。

 曽根八幡宮が何かの手掛りを持っているようですから、その方位を分析してみます。






曽根八幡宮の位置(拝殿前の境内にて計測)

N 33度 55分 11.8

E 132度 04分 32.3

位置精度 +- 4m

拝礼方位は 130度です。





A 大見山  B 鳩ヶ峰

拝礼方位線は鳩ヶ峰の二峰の中間地点を指しています。

ここはイザナギイザナミ神話に出てくる場所と同一地点です。

イザナギイザナミ神話では千引の石(ちびきのいわ)がある所です。


神話のあらすじから簡単に説明します。

イザナギは、亡くなったイザナミに逢いたい一心で黄泉の国に行きます。

黄泉の国とは、すなわち自然葬の場所だった皇座山であり室津半島です。

黄泉の国を見たイザナギは、ヨモツシコメに追われて逃げます。

その逃げ行く道中は室津半島の諸々の場所が充てられています。

そして逃げる途中で、千引きの石(いわ)の場面になります。

それがここです。

千引きの石で道を塞いだイザナギは、千引きの石を中に置いて

イザナミと向かい合って離別を言い合います。


黄泉の国を見たイザナギはふもとの黒島の海浜で禊(みそぎ)をします。

今の黒島マリンパークであり、そこにはたくさんの石祠(禊で生まれた神々)が今も残存しています。

笠佐の日向の橘の小門の阿波岐原(かささの ひなたの たちばなの おどの あわぎはら)ですね。


以上がおおまかなあらすじです。



 問題の阿曾山大権現は、今も阿曾社として残存していますから、

阿曾社の祭神を見ますと、イザナギイザナミの両神が揃っています。


 そうすると、往古の阿曾山大権現のあった場所は曽根八幡宮が指し示しており、その場所をたどると、

鳩ヶ峰の二峰の中間地点である、ということになります。下の写真がおよそ、その場所です。




 中の峰林道にて。 通称阿曾山大権現は、この辺りに在ったはずです。

こんな所には誰も登っては来ないでしょうし、ふもとから徒歩ですと往復で 1日掛かりの行程です。

そうしたことから、在るや無きやの状態に陥ったのでしょう。やがてここから大野に移されます。

なぜ大野に移されたのかは、推古天皇に縁が深いからです。




 曽根八幡宮の方位

 拝礼方向 ⇒ 鳩ヶ峰の二峰の中間地点 ⇒ 相の浦 ⇒ 下荷内島 ⇒ 平郡島盛鼻 ⇒ 愛媛県日吉 

 社殿前面方向 ⇒ 麻郷・鳥越(おごう・とりごえ) ⇒ 岩戸八幡宮(岩戸石の祀ってある地点) ⇒ 光市三井 ⇒ 周南市譲羽 ⇒ 徳地町 ⇒ 川上村 ⇒ 萩市

 向かって右方向 ⇒ 馬島・牛島 ⇒ 大分県日出 ⇒ 九重山 ⇒ 阿蘇山 

 向かって左方向 ⇒ 栓見神社(平生町大野北) ⇒ 小烏神社(柳井市) ⇒ 日積大帯姫八幡宮 ⇒ 日野(鳥取県) ⇒ 北海道日高








・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




以下、参考資料として。





 平成18年(2006)、解体直前に撮影。

なんとか保存してほしかったです。











・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





 平成19年(2007)8月に撮影。

本堂は後方に移築されました。





 本堂内部は、旧堂宇と同じ作りになっています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



旧堂宇(松蓮寺)の方位分析

 堂宇前面方向 ⇒ 阿月(面影山) 

 堂宇背面方向 ⇒ 光市光井 ⇒ 光市熊野神社・大雲寺 ⇒ 豊北町(土井が浜遺跡) 

 堂宇に向かって右 ⇒ 岩国市・白崎八幡宮 ⇒ 島根県出雲 

 堂宇に向かって左 ⇒ 平生町佐賀・白鳥古墳 ⇒ 大分県三重町 


松蓮寺は土井ヶ浜遺跡を指し、曽根八幡宮が萩市を指しています。

初代ヤマトの国が滅びた直接の原因を記録し、そして伝えています。

推古天皇創建と伝わる所以でありましょう。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



現・神護寺境内の南側(前面)の森のなかには石彫遺跡がたくさん眠っています。

石彫物は彫られた年代を特定するのが困難であり、私は彫ってある部分の風化量などで

およそ推察していますが、それとて石質によって変わり、やはり、およそという曖昧な面はぬぐえません。

また彫ってある仏像の形態などから年代を推察する方法もありますが、それとて基準をどこに置くかで

新旧が入れ替わったりもするので、やはり石彫物の年代決定は難しいと言わざるを得ません。






 神護寺遺跡とは私がそう呼んでいるもので、実状はほとんど知られることもなく山中に眠っています。

 上の写真、高さ推定 7〜8メートルの大岩(花崗岩)に月光菩薩を彫り込んであります。

 月光を意味する円の中に観音仏を浮き立たせる独特の手法。






  千手観世音菩薩の名号とその梵字が彫り込んである大岩(長い方が約4メートル)。

 本来は、この上約3メートル位の土手っ淵に起立していたのですが、近年に脱落して横倒しになってしまいました。






  現地で見ると、巨大なクジラが横たわっているかのように見えます。

 巨岩の上には観音仏が安置してあります。






  巨岩の中腹に十一面観世音菩薩の名号が彫ってあります。






  鳥の形をした大岩。くちばしの下を人がくぐれます。

初めて見た時には、岩の大きさに唖然としました。






  高さ推定約3メートルの花崗岩に月光菩薩を彫り込んであります。

 こういう手法の彫り方はめずらしいと思います。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





阿曾社





 阿曾社 平成11年( 1999 )撮影。 旧社殿の写真です。中二階の造りが特徴でした。

 平成15年頃だったか建て替えられまして、今は平屋建てになっています(下の写真)。







 平成18年( 2006 )撮影。





 社殿の方位は昔のまま継続されています。




阿曾社の狛犬。

襲いかかってくるように立っている狛犬は特別な神社を意味しています。

特別だということが記録に記してある訳ではなく、私が見て歩いた多くの神社でそうなっています。


 この花崗岩の風化量は凄いです。百年や二百年程度ではこんなにはならないと思います。

何千年という気の遠くなるような歳月の風化量を感じます。


 日本は石彫作品が多い割りには遺跡にならないという、多すぎて平凡と言いましょうか、

外国なら石段でも遺跡として騒がれるような物でも、日本だと平凡に存在しています。

数が多すぎて遺跡という感覚がないのです。この論理わかってもらえるでしょうか?






 防長風土注進案より

 阿曾権現 在神領

 御殿祝詞屋拝殿壹棟

  桁行四間梁行弐間瓦葺

 勧請年號未詳

 祭神 イザナギ命 イザナミ命
 
玉殿  三神木像 安置

 御本地釈迦尊  安置

 祭日 九月九日  九日七ツ時濱殿へ御神幸相成候事 (中略)

八幡宮権現共に下遷宮上遷宮之節松蓮寺出勤之事 (以下略)





 境内から前面方向を見た写真です。

木が無ければ、からと水道の西側はほとんど見えるはずです。






地域の集会所と一緒になっているので、この表札が無ければ一般家屋と同じです。






 御神体の石です。

 すぐ後ろにある赤茶色の石が不思議なんですが、じっと見ていると観音さまに見えてきます。

また、時によっては女体にも見えてきます。

見える姿は人の心を現わしている、と申しますが本当にそう思います。









阿曾社の方位分析

位置

N 33度 55分 17.6

E 132度 05分 19.3

位置精度 +- 6m

拝礼方位 130度


 拝礼方向 ⇒ 阿月宇積 ⇒ 愛媛県・内子・五十崎 ⇒ 高知県窪川


 社殿前面方向 ⇒ 長田(おさだ) ⇒ 後井古墳 ⇒ 光市三井 ⇒ 周南市譲羽 ⇒ 萩市玉江


 社殿に向かって右 ⇒ 祝島 ⇒ 大分県国東 ⇒ 阿蘇山高岳頂上 


 社殿に向かって左 ⇒ 大野日向平 ⇒ 柳井市水口茶臼山古墳の東南側登山口 ⇒ 柳井市日積中山 ⇒ 

由宇 榊八幡宮 ⇒ 広島県三次と庄原の中間辺り ⇒ 三国山と道後山の中間辺り ⇒ 鳥取県日南・日野 ⇒ 

赤崎 ⇒ 日本海 ⇒ 北海道日高 ⇒ 十勝 




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





大見山林道

古代の阿曾山大権現の在ったと思われる場所へ行ける林道です。










 頂上に着きました。結構広いでしょう。昔からこんな感じです。

この頂上へ着く直前に左へ行く道があります。

その道が古代の阿曾山大権現の在った地点へ行ける林道です。

季節によっては茂っているかもしれません。




 この建物の屋上を展望台にすると見晴らしがいいでしょうね。







・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





松蓮寺に関する資料として。


旧松蓮寺は箕山の中腹に在りながら、今は石城山の神護寺になっています。

松蓮寺で続けたほうが良かったのですが、明治のことゆえ国の働きかけも少なからずあったのでしょう。

参考までに神護寺が石城山に在った時の由来を載せておきます。

 石城山神護寺の由来記は異例な長文になっています。それほど重要だったという証しです。



防長風土注進案

長文の前半部を部分引用

 (途中より) 其後熊野山に御幸なり、彦山に拾穴、熊野山に九穴、日光山に七穴、踰鶴羽に八穴、出羽国石城に四穴、當山に四穴あり、委敷は古記如し。


長文の最終部を部分引用

 (途中より) 誠に昌栄書端の理は天地の常にして、千草萬花の四季に順ふが如し、

實にゃ此大神は(石城神社のこと)上朝廷より百官宰相国主郡司、下萬民に至迄崇敬信仰し奉るにや、

往古より神徳霊威あらたして世の知る所なれは擧て記するに暇有す、

御社も世々ふりて物さびたる霊地東西にむかひて陽を司とれは栄ふ

大木緑りあざやかに天下泰平の擁護きみがよの久しかるべき験しを顕はす、

豈尊(けのみこと・・・)さらんや、四方百里民家安全詣の拍手願ひ成就のひびきを傳ふ、

常盤(常磐?)のまつのかわらぬ神慮仰き再拝するものならし。






 防長寺社由来

塩田村  神護寺

石城山由来書 熊毛郡塩田村 真言宗 神護寺

 縁起伝書

 仰当山は人王第二すいぜい(漢字が出ない)天皇即位五年初春日金輪際より涌出せる霊地なり、

人王第三代安寧帝臨幸の由、当山麓に其旧跡御座候、其後摩(言に可)陀国の天王慈悲大験王大日本仏法東漸の霊地を考、

崇神天皇即位元年に有縁の地に留るべしとて西天より五剣を降し給ふ、一つは豊前国彦山に留る、一つは周防国石城山留る、

一つは紀伊国牟婁の郡に留る、一つは淡路国喩鶴羽の峰に留る、一つは下野国日光山に留る、其後験主本国を去り五剣を尋来り給はんと言て、

釈迦、普賢、文珠の三尊、毘首羯磨天(羯の字が違うも、この字で記す)の作れる木像を持て百済国至石城山、多々羅王

相対し日本の風俗を聞給ひける所に、仏法いまだ東漸なき由を聞給ひて彼仏菩薩の像を百済国石城山にをき給へり、

帝供奉の人々入朝有、先彦山に住居有、夫より東国え御幸の砥、竜頭鷁首此山え寄懸り給ふ比、三方海原俄に皆平地となりぬ、

竜頭鷁首走事あたはす、此山に四穴を構て家とす、其後熊野え御幸有、人王十四代仲哀天王百済国聖明王と相親て琳聖太子をこふて

太子来朝の時、百済国より彼仏菩薩の像を請来し防州山口に鎮座砥、国内臨幸の序当山に駕し、故国百済国の石城山に不異言て

件の釈迦、普賢、文殊の三尊を当山に移し、三社大権現と祝し給ふより已来九月九日祭祀の行事相勤来候事、

人王三十一代敏達天皇叡聞有て勅して石城山顕額せり、其後人王四十八代称徳帝天平神護元年長州臨幸の時被勅、

舎那院神護寺との由縁起伝書御座候、縁記の儀は天正比焼失仕に付、住持宥諦古老の伝説を以、為後代如是調置候事。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


上記由来記は難解だと思いますので説明を少ししておきます。

 ○ 百済国至石城山、多々羅王 これは国内のことを言っています。富登多多良伊須須岐比賣命です。

 ○ 竜頭鷁首 (りゅうとうげきす) 竜と鷁(げき)を彫刻した船のこと。双胴船という説もあります。

石城山のふもと波野スフィンクスの前面にその船は埋められ、地下水によって守られています。

また、そこが出雲大社の高層神殿の前身が在ったと推察する所です。

○ 三社大権現  今の石城神社の古称だと言われています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 石城山大坊

 (相当略す)

 当山東の弥山に妙見の古跡、下に鳥居沓石御座候事。

 先年は当山脇坊十八ヶ寺御座候由申伝候、以今寺地坊号御座候事。

    但、追々十ヶ寺致破滅、慶長十五年迄は八ヶ寺有之候委は寺領御打渡帳に相見候事。

(中略)

 当山本寺 萩満願寺にて御座候事。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 目次に戻る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・