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 イザナギイザナミ・第3部


 イザナギとイザナミは多くの神々を生みます。しかし、やがては火の神を生んだことにより、亡くなります。

 イザナミを死に追いやったのは火の迦具土神(ひのかぐつちのかみ)です。




上関・四代原発で長年に渡り揺れてきた長島の上盛山頂上の溶岩。

周辺一帯の山々は古代の火山活動によって形成された山です。

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 イザナギは憎いその子(神)の首を斬ります。



 上関の長島。雑石瀬戸 (ぞうしせと) の岬。 首を斬り落としたカンガルーみたいです。

私は雑石スフィンクスと呼んでいます。平生町佐賀の辺りから見ると、この形になります。

前足に見える部分を小山と言いまして、波野スフィンクスの小山 (万葉・香山) と同じ名です。

前足が同じ名 (地名) であることは、根本からスフィンクスを意識していることが明白です。

 雑石スフィンクスの標高は151.6メートルです。




 雑石スフィンクスの東側。

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 雑石スフィンクスの西側。 佐合島は「さごうじま」。

これも英語が残っています。

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 首を切った際に流れた血から多くの神々が生まれます。



 南側の白井田八幡宮(しらいだ)から見た雑石スフィンクス。

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 白井田の新宮大明神(矢印の所)。真っ赤な社殿が特徴。 (撮影 平成9年頃)

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 上2枚の写真は、ほんの一例です。

 雑石スフィンクス後部の上関には多くの神社が連なっています。

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 上関には「神明祭」と呼ばれる祭りが今もなお存続しています。

 こうした祭りの起源を探っていきますと、歴史の記録でもあります。

 昔は物事を文字で記録しても、それを読める人は、ごく限られた一部の人々でしかありませんでした。

 それ以上に、そこを支配する国によって言語が変わります。文字は現在ほど役に立ちません。

それならどうするかと申しますと、史実を歌や祭りにして後代に伝え残します。

 歌や祭りなら、文字の読めない一般庶民でも伝え残すことができます。

歌や祭りは歴史の記録でもあるのです。


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 イザナギイザナミ神話では火の神という部分が重要な意味を持っています。

 上関と阿月に残る火の祭りを防長風土注進案から口語訳にして載せておきます。


 神明宮 上関東西にあり

 祭神二座

 イザナギノミコト
 イザナミノミコト


 祭日 正月十四日浦方東西に二ヶ所仮宮を建てる (途中略す) 高さ約三丈、丸さ約八尺の御神体。

 松竹を縄で結わえ、これを神木として杭を三段に打ち、椎の葉松雙葉などをもって丸く結い調える。

祭りの日中は神主が祝詞や幣を奉納する。夜に入ると多人数が罷り出て、これを浜辺に持ち出し、

古風の囃子唄などをあげながら火をかけ焼き捨てること古くからの慣わし。

元来、浦家の軍神だったというものの、今はイザナギイザナミの二柱の神を祭っている。

いつの頃より始まったものか定かではない。 (口語訳/私)

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 上関と共通している祭りとして室津半島の阿月神明祭があります。



 東神明土蔵  阿月にあり

 祭神 伊勢両宮勧請(アマテラス)

 祭日 正月十四日 御日並みにつき、文化七年午より十五日に改められた

 西神明土蔵  同所にあり

 祭神 同じく伊勢(トヨウケヒメ)

 祭日 同じく

 当神明の慣わしは東西二ヵ所に在りて、長け五六丈ほどの大鉾を立てる。それを神明という。

十三日に造り置くなり。その形は、三四間ほどの松の木を五本切りそろえ縄にて結う。

(途中、飾り付けの記述、長文にて省略します)

 鉾が飾り調えば、東西その鉾を建てる事の前後の遅速を争う。立てた鉾の前にいささかの神楽殿を設け、

幣帛神供をそなえ、参詣通路の左右に垣を結い、そこに幟(のぼり)を立て、提燈などをかける。

神飾りの調った後は造り酒など飲み、人々拝礼して帰るなり。

 その夜は暮れ方より参詣人多く、夜に入れば社人来て神事が始まる。

 とどこおりなく神事が終れば東西ともに頭取の者、新燧火(点けたばかりの新しい火という意味)をロウソクに移し、

波打ち際に出て潮にて身を清め、その火をもって鉾の前後左右に点け廻る。

 その時、年齢二十歳前後の若者達2〜30人、身を軽く出で立ち、腰に斧を指し、手には幣を持って

鯨聲(大声のこと。嬌声。)をつくり、波打ち際に出て潮で身を清め、燃え上がる鉾の下を廻ること数遍。

 火も移って、いよいよ盛れば一同に大声をあげて渚の方に曳き倒し、猛火のなかに飛び入り、

結い束ねた縄竹を切り分け、五本の松の木を曳き出して群集の見物の方に投げ廻る。

 ようやく火の鎮まれば一同に大声をあげて帰る。これを神明をハヤスという。

その後は世話方の者ども打ち寄って取り片付けるなり。

 この火にて餅を焼いて食えばその年の厄難を除き、小児に食わせれば疳疾なし。

また、その灰を取り置きて田畠の蟲をも払うことができる。

 この祭り、熱くなることはあれども、怪我をした人はいない。まれに怪我をした人をたずねると、皆忌服で来た人である。

このゆえに忌服の人は近寄ってはならない。奇瑞は世に知れるところである。 (口語訳/私)


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 柳井市史 総論編 809ページ〜にも図入りで詳しく載っていますので、そちらも参照ください。

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 防長風土注進案には、阿月神明祭の由来が記してあります。

それによると、豊臣秀吉や小早川隆景などの戦勝祈願がクローズアップしてあります。

 しかし、よく読んでみますと、戦勝祈願が祭りの起源であるとはどこにも記してありません。

秀吉や隆景は、あくまでも戦勝祈願をしたわけです。そして、こうあります。



これより御本領藝州忠海に於いてこの祭事あり、今も彼の地に連綿たり。

その後、上関に御居住ありしより又、彼の地もこの祭事始まり、

今に至るまでいずれも正月十四日なるは異国の御戦いこの日なるべし。」



 秀吉や隆景は、祈願をしただけで、祭事を始めたわけではありません。

 何れの地の祭事も、始まりは古代の古墳時代。殆ど同時期です。

藝州 (広島) の祭事はヤマトタケルの陵墓の改葬に伴っています。

万葉集には広島に改葬したことが明瞭に詠んであります。

したがって、芸州の祭事の起源は阿月や上関よりも少し遅かったくらいでしょう。

ほとんど同時期と見ていいと思います。


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 柳井市史を見ますと、祭事の時の「ジョウゲ」のことが書いてあります。

「ジョウゲ」とは、たぶん「上ゲ」を意味しているのだろうと思います。

 波野スフィンクスのふもと、小山(香山)の在る所です。 

 古事記の物語にはイザナミが亡くなる時の事をこう記しています。



 古事記より (口語訳/私)

途中より 『またの名を火の迦具土神(ひのかぐつちのかみ)という。この子生(あ)れしよりミホト炙(あぶ)みて病み伏する。

たぐりに生(あ)れし神の名は、カナヤマヒコノカミ、次に、カナヤマヒメノカミ。次に、屎に於いて成る神の名は、

ハニヤスヒコノカミ、次に、ハニヤスヒメノカミ。次に、尿に於いて成る神の名は、ミツハノメノカミ、次に、ワクムスヒノカミ、

この神の子を、トヨウケヒメノカミ、と謂う。故、イザナミノカミは火の神生(あ)れしにより、ついに神避り(かむさり)ますなり。』



 特に目を向けたいのが、ミツハノメノカミです。

「ハノメ」ですから、波野 (はの) であり、波野スフィンクスのふもとです。

 「ミツ」とは、主に「糖蜜」を表わし、サトウキビ(南国)とのつながりがあります。

南国 (琉球) とのつながりに関して、このページの末尾に載せました。


さらに「ミツ」は、三女神をも意味しています。女王国です。

その証拠として男神と女神の順序が逆に記してあります。


 ワクムスヒノカミの「ワク」とは水の湧き出る意味を持っています。水神です。

 「たぐり」とは鉱山から出る泥流のこと。「屎」とは火山を意味して溶岩のことです。



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 初代伊勢、琴石山の頂上直下にある巨石。高さ約5メートル位。

 周囲を見渡してもこんな石はこれしかありません。

 エジプトスフィンクスの胴体と共通した意味を持っているかもしれない。



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 イザナギは、イザナミに逢いたい一心で黄泉の国に追って行きます。




 室津半島・皇座山の噴火口跡。(撮影・1994) 今は池になっています。

 黄泉(よみ)の国という文字を見ても、黄色いイオウの噴き出す火山を連想します。

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 皇座山の山中に数多く存在する石積み遺跡。(撮影・1994)


 皇座山は、かって戦後開拓団の人々が手を加えたり、又、牧場が営まれていたりしたこともあって、

古代本来の姿は知る由もありません。山中を分け入ると写真のような石積み遺跡を多数発見できます。

しかし、それが古代につながっているのかどうかは開拓団の手が入っているため見分けが付きません。

推察してみますに、戦後の開拓団は、かっての遺跡の石材を再利用したのだろうという結論に至りました。


皇座山頂上の地名は現在の字名には使われていないけれども、俗称として「祀場」「御幣開き」「祈の壇」

という地名の所もあるそうです。また、ふもとでは皇座山全域を「神山」とも呼ばれていたそうです。


遺跡の中で特筆されるのは常香盤と呼ばれてきた石畳の遺跡です。

近代の資料は常盤の文字で記しているのもありますが、天保の記録には「常盤」とあります。

いずれにしても、昔からその名で呼ばれて来ており、「じょうこうばん」 と呼ぶのが正しいようです。


イザナギイザナミ神話の起点として最も重要になる地点です。

常香盤へ行ってみましょう。



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皇座山 常香盤への道

(以下、2007年1月に撮影。)




 皇座山室津分技地点にて。

 画面、左に下りると室津の町に下ります。向こうへ直進すると尾国や伊保庄。車の向いている方向が皇座山頂上になります。

 向こうの稜線、やけに平坦だと思いませんか?この辺りの山中、石垣遺跡がたくさんあります。

 昭和時代に牧場が営まれていたのは知っていますが・・・。

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 皇座山頂の白雲稲荷の大鳥居にて。 右方向に広い駐車場があります。

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 大鳥居の駐車場に車をとめて徒歩で入ります。

車でも入れますが、道路脇の草木の枝で車のボディーがキズだらけになります。

常香盤までの道は比較的平坦なので、自転車があるとラクです。

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 このヘアピンカーブの所が重要です。

 撮影者の背後方向に細い道がのびています。私はまだ通ったことがないのですが、相ノ浦方面に下っている道だとか。

 もしそうだとしたら、黄泉比良坂のモデルになった道の一つなんです。いつか通ってみたいと思っています。

 下の写真がその道です。





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 ふたたび常香盤への本道路に戻りまして。



 初めは舗装された道ですが、途中から車一台が通れるくらいの地道になります。

 地道でも平坦なので自転車でも大丈夫です。

 夏季はここに草が生い茂って、道がどこにあるのかわからなくなりますのでご注意ください。

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 大鳥居の所からゆっくり歩いて約30分、やっと常香盤の広場が見えてきました。

 火山性の土質だからでしょうか、周囲に大きい木は見られません。

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 皇座山、常香盤全景。

 防長風土注進案にも 常香盤 と記してありますので、昔からそう呼ばれて来たようです。

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 上関町史より引用。

 (途中より)〜現在も残っている常香盤の石畳は、神聖な古代の神域と見られている。

 しかも、これに使用されている石は海の石であって、古代の人々はこの大きな数十の石を、

どのようにして高いこの地に運搬したのであろうか。しかし、この石畳もここ数年の間に、

心ない人々によって、庭石使用の目的で盗みとられ、せっかくの石畳は破壊されて

かっての面影を失い、今は当初の五分の二程度を残すのみとなっている。



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 口ばしの無い鳥。

 現地では何でもないただの大岩にしか見えません。

ところが、じっくり観察すると、この岩は鳥として置かれています。

 高さ 1・5メートル、長さ 2メートル少々。東に向いています。

 上の写真は横方向から見たもの。

 下の写真は前面から見たもの。




小首をかしげている鳥のイメージが実によく表現されています。

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鳥の口ばし








 鳥の口ばし

長さ 1・4メートル(最長部)

胴体の前、約 3メートルくらいの所に落ちています。

 胴体と口ばしの長さを比較すると、この鳥は日本にいないはずのインコ(オウム)に似ています。


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 常香盤のほぼ真ん中に据えてある円形の巨石。

 直径1・6メートル、高さ50〜60センチの岩。

 先ほどの鳥インコは、この円形の巨石を見ています。


 この場所は前方後円墳の基となった室津半島の後円部に相当する地点です。

 後円部であることを思うと、この巨石は太古の自然葬の安置場所だったのでしょう。

 現代は亡くなった人の遺体は火葬しますが、古代の自然葬は遺体を鳥や獣に与えます。

 この岩の上に亡くなった人を横たえて葬送したのでしょう。

だから鳥の形をした岩が見ています(下写真参照)。


 ここは草木が無かったら視界360度の絶景になります。

 以前は、この奥にも入って行けましたが、今はもう草木が成長して、入るのは困難です。

ここから先の石畳がまだ相当に広いのですが・・・。

 世界的に見ても極めて重要な遺跡が半ば放置された状態になっているのです。










 私はこの円形の大岩を太陽の玉座と呼んでみました。

 大自然のなかに身を横たえて自然にゆだねる。

自然のなかより生まれ出で、自然に帰する。

 実に自然の定理に叶っていて、合理的です。

だからこそ「鳥」が神格化したのでしょう。なにぶんにも太古のことです。


 古事記の物語が進行していた時代には、すでに自然葬は廃止されていたようです。

 それは古墳があることで証明されます。自然葬に墓はありません。

 遺骨などが残らないからです。それが廃れた一番の理由でしょう。

 遺骨などが残らないため、おのずと山そのものや、鳥を慕うことになります。


 当時はわずかに、ごく一部の高貴な人々の伝統的な葬送として残っていたのかもしれません。

前方後円墳は、この自然葬の場所を縮小したものであり、形にして伝統を引き継いだのです。


そうした訳で、イザナギイザナミ神話では特に重要地点になります。




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以下、余談ですが、琉球に関係したことです。





 上関の上盛山(かみさかりやま)頂上にて。

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 四代(しだい)の集落のなかに巨大墓(きょだいぼ)と呼ばれている石碑があります。

 琉球の「イシガンドウ」と同じです。道祖神(どうそじん)の種類であり、塞の神(さえのかみ)に相当します。

行路 (航路) の安全を守る神、ということになります。勿論、墓であるということを否定する気はありません。



 琉球と交流があったことは風土注進案に以下のように記してあります。

「琉球人等通船之節は、かねてより御沙汰相成候につき、狼煙の請繼仕候事」

・・・その他、いくつも見ることができます。

天保時代の記録には朝鮮通信使なんて記録は無い。琉球通信使なんです。ここ大事。



現在は朝鮮通信使の方が脚光を浴びています。

 四代の御番所が閉鎖されたのが宝永4年(1707)のことです。

その一年前、宝永三年に上関に在った通称鐘撞堂が石垣にいたるまで徹底的に取り除かれたとあります。

それはなぜか、なぜ徹底的に取り除く必要があったのか、琉球との交流の痕跡を消すためでしょう。

私は古代史専門なので近代史は遠慮しますが、このあたりの年代に何かがあったようです。


話が大幅に反れましたが、参考までに書きました。





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