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土井ヶ浜遺跡
どいがはまいせき

所在地・山口県下関市豊北町神田上

2010年4月 見学/掲載

2017年 2月 再編集


土井ヶ浜遺跡からは中国や朝鮮半島の土器、およびその系譜を引く遺物はまったく出土していません。

したがって、考古学的にみるかぎりにおいて、土井ヶ浜遺跡に埋葬された人びとが、中国大陸や

朝鮮半島から直接渡来してきた人びとであるという証拠は存在せず、
(以下略)。




土井ヶ浜

画面右手に土井ヶ浜遺跡があります。


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土井ヶ浜遺跡へは特牛から国道191号線を南下すると大きな標識があります。

上の写真は国道191号線から一歩入った所で撮影したものです。

南から西にかけて半島状の丘が伸びていて、ここら辺りを「土井ヶ浜南遺跡」というようです。


土井ヶ浜では墓地遺跡の発見と同時に人々の生活の場である集落遺跡の発見に力を入れたそうです。

しかし、墓地遺跡に見合うほどの大規模集落は未だ発見されていません。

南遺跡の規模も、現状では東西に約50メートル、南北に100メートルの範囲であり、存在したであろう住居も

10軒以内の規模だということです。そしてそれらの集落の成立年代は弥生時代前期後半であり、

墓地遺跡の成立のほうがやや古いそうです。つまり、発掘された約三百体の人数に見合うほどの

集落が見つかっていません。


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土井ヶ浜遺跡の駐車場です。

画面右側の芝生の所が「土井ヶ浜ドーム」と言って、発掘された現場に屋根を被せて保存してあります。

画面左側の建物は「土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム」と呼ばれている資料館です。


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土井ヶ浜人が身に付けていたのは「ゴホウラ貝」「イモ貝」といった南西諸島の貝を加工した物です。

この2つの貝は貝の交易ルートによって北海道に到達しています。

解説書には「日本列島縦断記録保持貝」とあります。

弥生時代にすでにこれほど長大な交易ルートがあったわけです。

小さな国に分かれて戦争していた、なんて書いていた国の記録はいい加減なものです。


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豊北町史より引用してみます。

この砂丘の砂には多量の微細な貝粉が含まれている。墓地が形成されて以降、

海退期を経るたびに北西の強い季節風にあおられて、海岸から吹き飛ばされてきた貝粉は、

砂とともに墓地を覆いつくした。 (中略) 貝粉のカルシウム成分が雨水によって溶融し

人骨に浸透するなどして、その保存に大きく作用したわけである。


約三百体のうち性別や年齢の判明しているもの237体について内訳をみると、成人は男性107体、女性87体、

不明4体の計198体(83.5%)で、未成人は39体(16.5%)である。 (中略) このことは、ごく限られた子供たちや

特殊事情のある場合を除いて、大半の幼少児たちは成人とは別の扱いをされていたことを示している。

埋葬された遺体のほとんどすべては、頭を東南の方向に向けている。

あたかも西北の海の方に顔が向くように意識して葬られたかのようである。

(以上、豊北町史より引用)

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土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム編集・発行

「土井ヶ浜遺跡と弥生人」 より引用

(土井ヶ浜と蒙古伝説)より

山口県の日本海から響灘にいたる海沿いの地域には、蒙古来襲(元寇)の伝承が残っています。

十三世紀後半、「文永・弘安の役」のときに、神風(暴風雨)にあおられて、蒙古軍の船や蒙古兵たちが

北浦一帯の海岸にも打ち上げられたというもので、萩市の大井の浦には「元寇の碇石」が今も残っていたりします。

ここ土井ヶ浜の海岸にも、「蒙古の船つなぎ石」といわれる伝承石があることなどから、

土井ヶ浜遺跡のある砂丘一帯から見つかる人骨も長いあいだ「蒙古人の骨」だと思われていました。

後の調査でわかったことですが、この土井ヶ浜遺跡には中世の埋葬遺構が重なっているのです。

しかしそれらは元寇よりも後の室町時代の墓でありました。

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土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム編集・発行

「土井ヶ浜遺跡の弥生人たち」より抜粋

(葬送の器)

 (土器から何がわかるか)

(中略)〜その点、土器は多量につくられましたので、たいていの遺跡から出土します。

このことは、遺跡どうしの時期的な比較をするのにもたいへん都合がよいのです。

(中略)したがって、土器は地域や時期によってさまざまな種類のものがつくられました。

この種類をこまかく調べることによって、土器の時間的な前後関係や分布状況を知ることができます。

(中略)土井ヶ浜遺跡が弥生時代の遺跡だとわかったのも、この土器を調べたからです。



(墓に供えられた土器)

(中略)〜土井ヶ浜遺跡から出土した土器には壷がおおく、ついで高坏が少量あり、甕はほとんどありません。

(中略)出土する土器のおおくは、墓に供えられた副葬品であったと考えられます。

したがって、儀式にもちいられた壷や高坏がおおく出土するのです。

これらの土器のおおくは墓の側から出土し、直接墓穴のなかに入れたものはほとんどありません。

(中略)また供えられた土器のなかには、わざと穴があけられたものがあります。なぜ故意に穴を

あけるのか、くわしいことはわかっていませんが、実用品をわざと破損させ、これを神や霊が使う

儀器に変化させたのだと説明されることがおおいようです。



(土器からみた地域交流)

(中略)〜残念ながら土井ヶ浜遺跡からは中国や朝鮮半島の土器、およびその系譜を引く遺物はまったく出土していません。

したがって、考古学的にみるかぎりにおいて、土井ヶ浜遺跡に埋葬された人びとが、中国大陸や朝鮮半島から直接渡来

してきた人びとであるという証拠は存在せず、むしろかれらは北部九州から移住してきたと考えたほうがいいかもしれません。


以上、『土井ヶ浜遺跡の弥生人たち』より引用。


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(私の考察)

供えられてすぐに破損させたものではなくて、何年も過ぎた後、祭祀者とは無関係な人によって、破損されてしまったのかもしれません。

また、土器に水が入っていたら冬季には凍りますから自然に破損します。祭祀土器は一つの墓に2個前後の土器が供えられてあったようです。

そのことから考えて、今の花器と同じように考えることもできます。壷には花がいけてあったのかもしれないと思うのです。







写真の解説文が小さくて少し見え難いので引用しておきます。

「これは第11次調査で出土した熟年男女の合葬例です。合葬は、ほぼ同時に死亡した人たちに

おこなわれた埋葬方法ですから、この男女は同時に亡くなったと考えられています。一度に二人もの

人が亡くなるという事態は、ただごとではありません。おそらく、何らかの事故死か、食中毒によって

死亡したものと思われます。だとすると、この二人も普段から行動をともにすることが多かったのでしょう。

ともに暮らしていた夫婦だったのかも知れません。」

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写真の解説文が小さくて少し見え難いので引用しておきます。

「これは第10次調査で出土した、20歳くらいの女性です。この人骨の両ひざの間からは、お腹の中にいれば

8ヶ月頃の赤ちゃんの骨が見つかりました。いっしょに埋葬されていたことから、おそらくこの二人は母と子で

あり、早産など出産時の事故で亡くなったものと考えられています。この女性人骨をよく見ると、足首から下の

部分が切断されて、そこに石が置いてあったことがわかりました。これはどうしてでしょうか。世界中の民俗の

風習をさがしてみると、出産時の事故によって亡くなった女性の足首を切断したり、きつく縛りつけたりしてから

埋葬する場合のあることがわかりました。これは、亡くなった女性の霊が迷い出て来ないようにする「おまじない」

だそうです。弥生時代の人も、同じことを考えていたのかも知れません。」


(私の考察)

子供を疎開させたことは歌にして記録してあります。子供たちは主に九州や岡山方面に疎開させていたようです。

疎開先は多方面に渡っていたようです。子供たちを疎開させる時の親の心境を万葉集は鮮明に詠んでいます。

土井ヶ浜遺跡の出土人骨の状態を見ますと、「子供をどこに隠したか」という敵側の悲惨な拷問であり、

大衆への見せしめだったのではないかと推察できる部分が多大です。子供たちの疎開先は伝えられて

いないはずですから、拷問されても知らないとしか言いようがありません。








「埋葬された遺体のほとんどすべては頭を東南の方向に向けています。

あたかも西北の海の方に顔が向くように葬られたかのようにも見えます。」

(以上・「土井ヶ浜遺跡と弥生人」より引用)

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(私の考察)

人間の体で一番大事なところは頭です。例えば、床の間のある部屋に寝るとしますと、

床の間の方には足を避けて寝ます。足で踏みつける、という失礼な感じを避けるためです。

普通は頭を床の間の方に向けて寝ると思います。顔の向きではありません。頭の方向です。

そうした昔からのならわし風習を土井ヶ浜に当てはめますと、頭の方向が大事な方向である、

ということになります。山口県地図で土井ヶ浜から東南の方向に線を引いてみますと、

私が海風想で説明している初代ヤマトの地に到達します。



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「土井ヶ浜遺跡の弥生人たち」より引用

土井ヶ浜遺跡の学術調査で最初に発掘された人骨がこの鵜を抱く女性骨で、正式には

一号人骨と番号がつけられています。埋葬姿勢は仰臥(ぎょうが)ですが、下腿は大腿骨の

下にあり、膝の関節を強く曲げています。ちょうど正座した状態で上半身が押し倒されたような

格好で埋葬されています。性別は女性で、年齢は壮年の後半期(三十代)に属するものと推定

されています。残存している人骨をよく観察してみると、左側胸部に小さな骨が乗っていました。

この骨はもちろん人骨ではなく、鑑定の結果、鵜の骨であることがわかりました。

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「土井ヶ浜遺跡と弥生人」より引用

(中略)〜この土井ヶ浜の女性が鵜を抱かされて葬られたのも、こうした鳥の霊力を信じて、

死後の魂を鵜に託すムラ人の願いがこめられていたからなのでしょう。このような例は

土井ヶ浜遺跡でもこの女性だけに認められます。女性の左腕の側には、元々の形は

定かではありませんが、鉄製品が副葬されていました。鉄製品が副葬されていたのは、

土井ヶ浜遺跡ではこの女性のみであり、ムラのなかでも特別な性格を備えた人物とみられます。

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(私の考察)

この「鵜を抱く女」も不自然な姿勢で埋葬されていることを見ましても、拷問の犠牲になった女性だと

推察します。左腕の側で発見されたという鉄製品がどんな物だったのかは推測するしかありません。

「鵜」ということに関連することとして、万葉集は漢詩にして伝えています。その詩を載せてみます。





万葉集 巻第五 七九三番歌の後に記してある七言の漢詩です。

愛河波浪已先滅 苦海煩悩亦無結 従来(冐に犬)離此穢土 本願託生彼淨刹


愛河(あいが)の波浪(なみ)・・・波浪(なみ)は戦乱を意味しており、愛河は味方側を意味します。

退き先ず滅ぶ・・・已の漢字は「退く」意味を含んでいます。解読当初は「愛河の波浪や先ず滅ぶ」と

訳したこともあるのですが、「退く」と解釈すべきだと思います。

苦海の煩悩また結ばるること無し・・・諸々の怨念を意味します。そして再び海の向こうの国と、こちらの国同士が

結ばれることは無い、と断定しています。怨みが如何に強かったかを意味しています。

従来より離れしこの穢土の縁・・・穢土(えど)とは、三界六道の苦しみのある世界を意味しており、すなわち

我々のいる世界であり、この土井ヶ浜遺跡の地を比喩的に表現しています。

従来より疎遠になっていた縁だが、というふうに解釈すればいいと思います。

(冐に犬)の漢字は「エン・あきる」と読みます。私のホームページビルダーでは使えない漢字です。

本願の鵜を彼の淨刹に託す・・・この部分、現在は「本願生(ほんがんしょう)」と訳していますが、もし本願生なら

原典の並びは「本願生託彼淨刹 」となるはずです。しかし原典では本願で一旦切っていますから、

生の字が生きて来ます。生は、「う」と読みますから、鳥の鵜(う)を言っています。

ストレートに鵜と書きますと敵側に知られてしまうので隠し文にしたのでしょう。


では、鵜を託す、とは何を意味しているのか説明します。

鵜は鳥です。古代には死者の霊は鳥になるという信仰がありまして、なぜ鳥になるのかと申しますと、

太古の自然葬に行き着きます。室津半島の皇座山などはその自然葬の祭祀場遺跡です。自然葬は

死者の亡骸を自然の懐に横たえて鳥や獣が葬送の一助を担います。そうしたことから鳥は死者の

魂を意味します。それらの鳥でもとりわけ鵜は戦死者を弔う時の比喩に用いられているようです。

その根拠は、激戦地と思しき地名にあります。その鵜を彼の淨刹に託すわけですから、

犠牲者の弔いを彼の淨刹に託した訳です。


彼の淨刹、という部分が何処の寺なのか、わからないだろうと思います。

それは社寺が拝礼している方位線を引いてみることによって明確に現われます。

土井ヶ浜遺跡から遥かに離れた岩国市岩国の錦帯橋の近くにある椎尾八幡宮です。

岩国・椎尾八幡宮の前面方位線は正確に長登銅山跡と、土井ヶ浜遺跡を指しています。

前面方位ということについては、このホームページの冒頭で説明しました仏教色の濃い方位です。

また、錦帯橋の鵜飼いは今でも伝統漁法として引き継がれています。その歴史は古いことでしょう。


さらに、岩国市には椎尾八幡宮という同じ名の神社が二社ありまして、岩国市という所にもあります。

そちらの椎尾八幡宮は福岡県宇島(うのしま)を拝礼しています。そこは神武遠征のウサツヒコ・ウサツヒメの

地のすぐ隣り町になります。そこも侵攻の犠牲になった地です。岩国市角、という地名で関連性が持たせてあり、

土井ヶ浜遺跡の近くには角島があります。さらには角の椎尾八幡宮は、久留米市の高良山神籠石を指しています。



以上の一連の繋がりを見ましても、近畿の中央から土井ヶ浜遺跡への出向祭祀は、やがて岩国市の椎尾八幡宮に

委ねられたことがわかります。 ずっと後の世代に於いても、九州方面へ向かう朝廷の船は、一旦周防に停泊し、

椎尾八幡宮に於いて祭祀を行なっていたであろうことは、周防の地で空白になっている古記録からも推察されます。

土井ヶ浜の地は瀬戸内海からだと遙かに遠いです。

さらには先祖の怨念の籠る土井ヶ浜の地へ祭祀に行くのは敬遠されたのでしょう。

恐ろしい所だぞという先入観に、さわらぬ神に祟り無し、の心境だったのです。

やがて何世代かの後には奈良の東大寺大仏に於いての祭祀へと移行します(後述する)。ここで初代との接点は切れます。

今ではそんなことは忘却の彼方かもしれませんが、だから長登銅山は大仏鋳造に重要な役割りを持ったのです(後述する)。



鵜に関しては、古事記にも書いてあります。


古事記 通称「神功皇后の新羅征討」の段より (解読・磐富一馬)


 
(途中より) 軍勢、船を並べて門を行きし時、貝腹の巣など大小問わず悉く。温泉負けて明け渡すのみ。

順風多く発ちゆく。温泉乱れるままに。故、その温泉の波乱、新羅の国、押し上がり、もはや中つ国に到る。

ここにおいて、箕の国の王移行。宋言う。「今より以後、天皇命は隋にて、身を馬韓となす。」

年ごとに戦争。船腹の乾くことなし、梶櫂の乾くことなし、天地の友よ退くことなく仕え奉れ。


 
(途中略す) 難事その怨情をもって、五の女官が主の門に築き立て、すなはち墨江大神の荒御魂を国守る神とし、

祀り沈めて(鎮めて)遷都なり。 
(途中略す) 今まことにその国へ求める思いは、天神地祇また山の神および河海の諸神に、

ことごとく幣帛たてまつり、
和の御魂、を戦場(線上)に坐せて、神木の灰を瓠(ひさご)に納め、また、

著におよぶ比羅伝を多(さわ)に作り、皆々、近江に散らし浮かしをもって託す由。
(以下略す)

(以上、解読・磐富一馬)






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「土井ヶ浜遺跡と弥生人」より引用

(英雄の死の謎)

土井ヶ浜遺跡の埋葬のなかには、特異な死因をうかがわせるものがいくつかあります。

第124号と呼ばれる人骨もその一例です。人骨の胸から腰にかけて、石の矢じり11本と

サメの歯でつくった矢じり2本の計13本もの矢じりが出土しました。(中略)この人骨は

男性で、右腕にはゴホウラ製の貝輪2個をはめていました。



「土井ヶ浜遺跡の弥生人たち」より引用

(制裁をうけたシャーマン)

四肢骨の保存状態はきわめて良好ですが、それに引き替え頭蓋の保存状態がよくありません。

とくに顔面の骨が破砕しており、顔面を構成する個々の骨も不足しているのです。それだけではなく、

破砕面を調べてみるとあきらかに、まだ骨が新鮮な状態のときに人為的に破砕されていることが

わかります。すなわち顔面は骨になってから砕かれたのではなく、まだ肉など軟部組織がついていた

ときに顔面を破壊されたのです。おそらくそれは死後直後のことでしょう。

(以上、引用)

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(私の考察)

侵略が如何に残酷で悲惨だったのかが明確になる遺骨です。その残酷さには言葉を無くします。

生き残った人々により、その残酷さを後世に伝え残したのです。カルシウムを含む砂に埋葬すれば残ります。

そして何年もの歳月が過ぎ、疎開した子たちが大人に成長した頃、帰郷して供養を続けていたようです。

しかし、二代三代と年数が経過しますと、怒りは風化し、自分たちの先祖という考えは薄らぎますから、

祟りやさわりのほうばかりを恐れるようになります。祟りやさわりを恐れていたことは万葉歌にあります。

そうなると、もう廃れる一方です。今でさえ初代の中心地から土井ヶ浜へ行くにはたいへんな距離です。

ましてや京都や奈良方面からの出向祭祀ですと想像を絶する道のりです。生きて帰れるか、というほど遠く、

おまけに祟りやさわりの恐怖が常に付きまといます。誰も行きたくはないです。やがては遠方の社寺から

そちら方向へ向いて拝んでそれで良しとするようになり、最後には現地の砂を持ち帰って・・・という祭祀になります。



そうした事情を表わしているかのごとく、土井ヶ浜遺跡を遠方から拝礼している神社があります。岩国市岩国の錦帯橋の

そばにある椎尾八幡宮はその代表的な神社です。その前面方位線は、長登銅山跡を経由して土井ヶ浜遺跡に到達します。

長登銅山は奈良の大仏鋳造に中心的な役割りをはたしています。それこそが、先述した現地の砂を・・・という経過なのです。

奈良の大仏は初代ヤマトの鎮魂供養の意味を主目的として築造されています。そのことをさらに証明していることとして、

大仏殿の用材に徳地町の木材が使われています。わざわざこんな遠距離の木材を使わなくとも、奈良近辺にはもっと良い

木材はたくさん採れます。鎮魂供養をするためには初代ヤマトの魂の籠った用材を使う必要があったのです。


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「土井ヶ浜遺跡の弥生人たち」より抜粋

(奇妙な遺体処理)

土井ヶ浜遺跡での埋葬の方法には、遺体を入れるための穴を掘るだけの土壙(どこう)墓、

やや大きな板石を箱型に組み、遺体を収納する石棺墓、遺体の周囲や両側あるいは一部を

石で囲った配石墓、あるいは遺体の四隅に石を配置する墓といったいくつかの形式がみられますが、

そのほかに、施設のちがいではなく、奇妙な遺体の処理方法が認められます。



(足元に頭蓋を添える) ある人骨の足元には2個の頭蓋が置かれていました。このような例が

三例認められます。足元に置かれた頭蓋には下顎骨が関節によってつながった状態のものが

あります。このことから、骨になってから頭蓋だけを抜き取られ、べつの個体の足元に置かれたのではなく、

肉がまだついた状態の時に、首から頭が切断されて、足元に置かれたことがわかります。


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(私の考察)

足元に置かれているその頭蓋骨こそ、憎い敵の頭でありましょう。



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遺跡の上に立って西を見た風景です。集落の向こう側が海浜です。

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出土人骨の密集していた地点に屋根を被せて遺跡を保存してあります。

これだけ良くしてもらっていれば、埋葬された人々も、思い残すことは無いでしょう。

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土井ヶ浜遺跡のある所の地名を「神田上 」と言います。

防長風土注進案の「神田上村」の記録には蒙古襲来のことが大々的に記してあります。

しかし、そこに記されている年代はどれも皆、正確とは言えない年代です。

多くの文献を引用しなくてはならなかったのも、わからない点が多かったからでしょう。

遥かに遠い弥生時代のことですから、わからないまま記したのも無理はありません。



防長風土注進案より引用

「(途中より) 〜右の諸書を合考ふるに其趣大同小異あり、但し襲来を天地根元歴代圖日蓮註書讃に

弘安三年至元十七年とし、又日蓮註書讃に兵の数を三百七十萬といへるなと大きに異なり、

恐らくは誤ならむか、また九代記にいへること右の諸書と合考ふるに、これも亦大同小異にて

取わけてわきまふへきことなけれとも、後世の軍記の類はすべて元史を本にして書る故に

彼史の誤を襲ひたることあり (中略) 見林か神国の盛なることを云るも、又大日本史の

論讃、馭戒慨言なとに北條氏を讃美せしも、しかしなから神威のしからしむる處にして、

永く覬覦の意を絶ちしは實に盛なりと云ふへきにや」 (以上、防長風土注進案より引用)


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敵の侵入経路は、この土井ヶ浜ではなく、ここから約 50キロ離れた萩市だったようです。

萩市がメインの侵入地点になります。その根拠はたくさんありまして、まず萩市には中州があります。

中州は天然の堀に囲まれ、ベース基地とするには格好の場所なのです。そのことは九州の宇佐でも

中州をベース基地としていることから明瞭になります。さらに、萩市から初代ヤマトへ向けて線を

ひいてみますと、まるで足あとのごとく神社群が連なっていることを発見しました。

偶然かと思い、他の地域も見てみましたが、これほど神社群が連なっている所は他にありません。

考えてみますに、まだ文字が充分に確立されていなかった時代です。後世に伝え残すには

こうする方法が有効であり、文字は解読不能になった後世でも、地図さえあれば一目瞭然です。

それはあたかも足あとのごとく点々と連なります。陸戦を得意とする民族特有の侵入経路です。

それらの神社群を巡拝しているのが「足あとの神社群」のページです。
(内部リンク)







下記リンクの長登銅山跡もどうぞご覧ください。



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