トップページ    181番歌の解説ページ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




万葉集 巻第二 181番歌 関連写真





 画面中央のグラウンドは熊毛南高等学校。 その向こうの平野が、からと水道跡です。



 荒木神社の前身は塩生産の神であり、そのことを暗示している記録として、

平生町の玖珂島神社の塩生産の神は、ここから勧請されています。

 海が遠ざかるにつれ、塩の神もだんだん沖へと移転していったのでしょう。





画面左に少し見えている白い建物は熊毛南高等学校の校舎です。









 「往古は大社の由」と由来にあります。


















荒木神社縁記 (玖珂郡志より)

 そもこの太神をいつき祭り奉るは、荒木隼人助光家、(途中略す)

大已貴命は、元禄十二年七月廿五日、玖珂島へ勧請あり。

少彦名命は、常世の国へ行かよひ給ひて、素尊のみ御鎮座也。

慶長・元和の頃までは大社にして、中昔までは神幸ありけるよし。今に桜馬場とてあり。

神徳のおほへる事は、荒木の笠松にひとしく、三神の感応、三本松にいちじるしく、

動ぎなきためしは立岩の如く、栄へ久しき事は、夫婦岩とはなれず。

千代万代と、亀石の神のちかひぞたのもしき。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 竪ヶ浜  玖珂島大明神 由来

 祭神  大已貴命  塩土神  

 当社は元禄十二年七月廿五日、荒木村より勧請して塩浜の守護神とす。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




鉛筆は場所を指しているだけです関係ありません 。^^。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



荒木神社の方位は、柳井市伊陸の 「こんこん神社」 を拝礼していることにより、生産した塩は

氷を保存するための需要だったと思われます。また、梶取岬を指していることにより、

由来の記述 「亀石」 と関連してきます。 方位図の写真は掲載予定です。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





塩田の研究

 古代の塩の生産は、歌などを見ると「藻塩焼く」と言って海藻に海水をかけて乾燥をくり返し、濃縮する方法がよくとられています。

その方法だと、主に食卓塩としての少量の使用が大部分を占めていたと思われます。

 なぜ塩田が必要なのか、ということは氷に関係しており、氷を長期保存するには氷を覆えるだけの大量の塩が必要になります。

氷を温度変化の少ない洞穴などに入れ、塩で覆っておきますと、塩が大気中の水分を吸って固まり、天然の冷蔵庫になります。

氷は柳井市伊陸で保存されていたことが古記録に残っています(神武遠征・ウカシのページ参照)。氷の需用がある限り、大量の塩も必要だったわけです。

 大量の塩を生産するには塩田が必要です。塩田を大別しますと、「揚げ浜式塩田」「入浜式塩田」「流下式塩田」と分けられます。



 揚げ浜式

土の上に砂を厚く敷き詰め、夏期シーズンなど砂のよく焼けた時期、その砂に海水を散布して砂に塩の結晶を付けます。

結晶塩の付いた砂を集めて海水で洗いながら濾過させ、濃い塩水を採り、それを塩釜で煮詰め焼いて塩にする方法です。



 入浜式

揚げ浜式とほとんど同じですが、どこが違うかと申しますと、揚げ浜式では海水を汲んで来て柄杓などで散布していましたが、

入浜式では塩田に海水の溝を引きまして、潮の干満を利用して砂の毛細管現象を利用して自動的に海水が砂に行き渡るようにした方法です。

散布する手間が省ける利点がありますが、反面、自然現象 (台風や潮の干満) に左右される欠点もあります。



 流下式

高い櫓を組み、櫓に無数の竹を組んだ物を下げ、その上から濃縮海水を散布して水分を蒸発させ、下側で濃い塩水を採る方法です。

天候に左右されない利点があります。この流下式の出現により入浜式は姿を消すことになります。

流下式の高い櫓はつい近代まで残っていて、私くらいの年齢の方なら見た事のある人は多いと思います。



 これらのなかで古代の塩田というと、今の伊勢神宮でも継続されているように「揚げ浜式塩田」ということになります。

揚げ浜式は極端な話し、海水を運べさえすれば場所を問いません。



 からと水道は潮の干満によって浮沈する所ですから、塩田を造るには好都合だったと思われます。

どのくらいの規模だったのかと現地に立って見渡しておりますと、一つ重要な事に気付きました。

塩田は海に沿って営まれるものですから台風などの災害に極めて弱いという欠点があります。

 ここに周防大島の小松塩田の台風による被害の資料がありますので、どのくらいの頻度か抜粋してみます。



 昭和 17年8月27日・・・台風による高潮のため外堤が決壊、塩田は瞬時にして外海と化す。

 昭和18年6月・・・復旧工事の完成。

 昭和20年9月・・・台風により塩田地盤損害。

 昭和21年4月・・・復旧工事の完成。

 昭和 21年8月・・・台風に伴う豪雨のため濁水が塩田に入り、土砂が流入、大損害。

 昭和25年9月・・・台風によって大損害。

 昭和26年10月・・・台風によって大損害。

 昭和 29年9月・・・台風により堤防決壊、土砂多量流入、大損害。



 この資料を見ましても、塩田が如何に台風に弱いかわかります。

昭和の近代でさえこの有り様ですから、古代にしても同じことだったと思われます。

台風や高潮の被害を防ぐには防波堤を造る必要があります。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





堤防跡を探る

 あまりにも太古のことなので、現地に堰跡としての記録などは残っていませんが、その跡ではないかと思われる土手が今も残っています。

現状は川の土手(堤)として併用されているので、気付き難いことですが、つい近世まで海が進入していた事を思うと(絵図などにあります)、

やはり堰の跡と思わずにはおれません。その推定する堰の跡は唐戸水道を横断して数キロにも及びます。





 平生町竪ヶ浜の沖にて北の方向を望む。


竪ヶ浜の古記録は、玖珂郡志という岩国藩の書物に記してあります。

通常なら上関宰判になるはずなのですが、岩国宰判だったようです。

以下のように記してあります。


 与田の西南、荒木邑の続也。南は熊毛郡の内、大野村に隣、西も亦熊毛郡内、多布施村に接す。入海也。当浜、塩浜あり。

是、広紀公御代、新に築開給ふ地也。其後、広達公御代、元禄十一年成就也。塩浜三十六枚となる。 



 しかし、竪ヶ浜まで海だったのは近世のことであり、

万葉歌の詠まれた古代の堰というと、もっと奥地にあったはずです。

その堰を探るべく、それらしき跡を歩いてみました。




八幡の瀬戸に近い所にあるこの道など相当に古く、大昔の幹線道です。

くねくねと蛇行して、からと水道跡を渡り、画面右手方向に荒木があります。


下の写真は逆方向を向いて撮影したものです。







・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トップページ    181番歌の解説ページ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・