トップページに戻る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




我が国最古の漢詩集

懐風藻


懐風藻(かいふうそう)は我が国最古の漢詩集です。

序文によると孝謙天皇(女性)三年(751)の冬に成るとあります。

特筆したいのは女性の天皇の時に書かれていることです。

まず日本書紀から見まして、記録は持統天皇(女性)で完結しており、

元明・元正天皇(女性)の時に書かれています。(日本書紀の考察はこちら

その経過を示してみますと下図のようになります。黄色文字が女性です。


天智天皇 ⇒ 天武天皇 ⇒ 持統天皇 ⇒ 文武天皇 ⇒ 元明天皇 ⇒ 元正天皇 ⇒ 聖武天皇 ⇒ 孝謙天皇 


男性のほうを見ますと、名前に『武』が付いています。それは渡来の天皇を意味しています。

そうすると、元明・元正天皇で書かれた日本書紀は聖武天皇で書き換えられた可能性があります。

孝謙天皇は、頻繁な書き換えにサジを投げたのかもしれません。そう見ますと、新しく懐風藻を

作った(書いた)訳は理解できます。日本書紀を元に戻しても、先でまた書き換えられてしまう、

そう思ったのでしょう。新しく極秘に作れば書き換えの難は逃れられます。孝謙天皇はその

地位からも、それまでの各天皇の漢詩作品を収集することなどたやすいことだったと思われます。



さて、懐風藻も記紀などと同じく書写する方法で今に伝わっています。

こういう時に全ての書写本を写真にした本があればよくわかるのですが、

我々凡人には残念ながら活字本で見るしかありません。歴史を解明するには活字本ではダメです。

それでも何か内容的に確証が得られないかと、懐風藻を読んでみますと、番外詩に

ほぼ決定打の打てる内容が有ることに気付きました。道融(どうゆう)の五首です。



実際には五首とありながら番外詩の二首を入れて三首しか存在していません。その番外詩の

二首が決定打の打てる漢詩です。その二首が、なぜ番外詩として扱われているのかと申しますと、

その二首が載せてある本と載せてない本とがありまして、現状の解釈は、その二首は時代を下って

いると解釈されています。その訳は、中国の漢詩を手本にしているということからです。

つまり、その二首は後の時代に書き加えられているという解釈です。ところが、もし、日本のほうが

早くに有って、それを中国が持ち帰り手本にして熟成させ、逆輸入という形だったらどうでしょう。



懐風藻の漢詩のほとんどは五言です。七言などに対して表現力が乏しい欠点があります。

その欠点こそが漢詩の生まれて間もない成長過程だとしたらどうでしょう。

行きつ戻りつする漢詩は英語と、まったく同じです。英語圏から始発しています。

This is a Pen / This a Pen is とはなりません。漢詩の読み方と同じでしょう。





日本は自国を見下げて考える悪い習慣が根付いておりまして、

歴史学者は朝鮮半島や中国などの信奉者が大多数を占めています。

なにがなんでも、日本の文化は中国から朝鮮半島を渡って入って来た、という思考です。


さて、懐風藻を研究する前に、仏教の経典に関することから知っておく必要があります。

仏教の経典は日本で訳出して作成されています。そのことについては、このホームページで今まで何度も説明しました。

ここで、重複しますが、もう一度載せてみます。


伝説の西遊記に出てくる人の名を玄奘(げんじょう)と言います。単身でインドへ旅をして仏教の経典を持ち帰って漢訳したという人です。

 玄奘(げんじょう)の年代や年数の特徴を導き出して逆算していきますと、玄奘は推古天皇が亡くなった年に修行旅に出発しています。

 玄奘の旅の様子を知るには、「大唐西域記」という記録があります。大唐西域記を書かなければならなかった背景には、玄奘が時の朝廷に

西域事情をくわしく報告しなかったからでもあります。朝廷としては、西域にくわしい玄奘を側近に置き、西域の事情をいつでも聞けるようにしておきたかったようです。

ところが、玄奘はそれに応じませんでした。「大唐西域記」にはそうした事情があります。現存している記録が玄奘の書になるものかと言うと、どうもそうではないらしく、

宋代以後の版本という事です。それを読んで不思議に思うのは、あれほどの経典を持ち帰りながら、経典のことについては、まったく触れていないことです。

いくら朝廷に差し出す本と言えども、経典入手にまつわる苦労話しなど一つや二つは有ってもいいはずです。ところが、意に反して経典の話しは、まったく有りません。

「大唐西域記」を読んで個人的に感じたことは、あの有名な隋書の文体とそっくりであるということ。漢文の記録というものは、ああいう体になるのかもしれませんが、実によく似ています。

私が読んだ本が翻訳本だったからそう思ったのかもしれませんが・・・。その隋書にも「大隋翻経婆羅門法師外国伝(だいずいぼんきょうばらもんほうしがいこくでん)

というのがあったようですが、有るや無きや、私はまだ見ていません。



経典について特徴的な年代をわかりやすいように西暦であらわしてみますと、

611〜615年の間に聖徳太子が経典の義疏を完成させています。

玄奘が旅から帰国して経典の翻訳を始めたのが644年からです。


という事は、仏教は日本の方が先行しています。



そもそも天竺毘首羯磨(ミケヌノミコト)をはじめとするインド人たちとの交流は仏教の先進国であることの証しでもあります。

そうしたインド人たちは、海を渡って来たのです。日本書紀にもインド人が漂着したなどの交流が記してあります。

それらの記述を、中国信奉な日本の歴史学者たちが採りあげることはほとんどありません。

なにがなんでも中国から朝鮮半島を経て我が国に入ったのです。



中国の仏教伝記にこんな書物があります。

「唐大和上東征伝」この題名の読み方は「だいわじょう」としてありますが、「東征伝」ですね。

その本に登場する地名に「阿児奈波」という所があります。阿児山のふもとの難波ではないですか?

その周辺には数多くの仏教寺院があったであろうことは、伝説の濡田廃寺など万葉三山歌などと照らしても明らかです。



般若姫物語と合わせて説明したページです(内部リンク)



仏教の経典は日本で作成されたのですから、漢詩集である懐風藻もあって不思議はありません。


ここからは詩文を見ながら進めていきます。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






(懐風藻・序文・後半部より) (口語訳・私)

我、薄官の余暇を利用して、心を文学に遊ばす。昔の人の残した遺跡(遺稿)を閲読して

いにしえの風月の遊びを偲ぶ。遙かに遠い昔のことといえども、残された詩文はここにある。

遺稿を撫でて遙かな昔を偲び、涙が流れてやまない。

豊かな詩文に心を遊ばせ、遙かに訪ねると、風声の空しく堕ちていくことを惜しむ。

ついに隠された詩文を集め、焼け残った記録を整えた。

遠くは淡海より、ここに平都に及ぶまでの全て、一百二十編、録して一巻と成す。

作者六十四人、つぶさに姓名を記し、合わせて地位を記し、詩の冠とする。

我、この文を編纂する意は、まさに先哲の残した詩風を忘れずにいたいためである。

故、詩風を思い起こす心を以って懐風と名づける由ぞ。

時、天平勝宝三年(751)辛卯(かのとう)の歳、冬十一月なり。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




諸本によりますと、詩作品の選者は誰かということが取りざたされます。

序文にちゃんと書いてあっても、なおかつ疑っているのが現状です。

上記の序文に書いてある通りだと思います。

「薄官」とは、すなわち孝謙天皇のことでしょう。だから天平勝宝三年です。


本来収録されていた作品は百二十あったことがわかりますが、現在の写本は

数首が欠落しています。つまり、削除されたと見るのが妥当だと思います。


削除されたことがよくわかる詩として、先述した道融(どうゆう)の五首があります。

詩番号は 111番から 114番までの四首が欠落しています。なぜ欠落していると

わかるかと申しますと、詩の説明題目に五首と記してあるからです。

五首と記してありながら、一首しかありません。そのことからわかることとして、

書写した筆記人は文字が読めなかった可能性があります。上から指示された通りに

四首を除けますが、文字が読めないので題目を一首に変更する機転は効かなかった。

私はそう見ています。書写は絵画ができれば文字が読めなくともできますから。



そこで問題となるのが、欠落している四首の内の二首が記してある写本もあることです。

群書類従本 / 紀州家本(東京大学図書館蔵) / 渋江本(天理図書館蔵) この三本に記載があります。

しかし、記載されている二首の解釈は、中国の寒山詩などを参考にした拾得詩だとされています。つまり、

寒山詩を真似て作っているという訳です。では、その寒山詩はいつごろ成立したのかと調べてみますと、

詩を作った人は一応「寒山」とはいうものの、伝説的な人物であり、成立年代も明確ではない、

九世紀頃の人とすれば大きな間違いはないであろう、ということです。


したがって、寒山詩を真似ている懐風藻の欠落二首が寒山詩以前の作であろうはずがない、

という見解です。つまり、懐風藻の欠落二首が記してある詩は後世の付け足し(補作)である、

ということにされています。こういう時に、その写本を見ると明解なのですが・・・。


ほんとうに後世の付け足しかどうか、道融にある記載を私の口語訳で載せてみます。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



釋道融  五首


伝記 (口語訳・私)

釋道融は俗姓波多氏 (はたし・幡氏・秦氏ローマを意味) 幼少より市に遊ぶ。博学多才。特に文筆に長ける。

性格はことさらに正直。昔、母を亡くした憂えにあたり、山寺に住まう。たまたま法華経を見て、

感動していわく、「私は長い間貧苦で、未だ仏の教えが我が胸中にあることを知らないでいた。

周や孔子のつまらない酒のかすのようなものはどうしても心を留めるに足りない。」と言う。

ついに俗世のわずらいを離れ、落飾出家、精進苦行。心を戒律に留める。


時に宣律師の六帖抄あり。辞義隠密(ことばの意味を隠しているという意味)のため、

当時の徒も絶え、閲覧すること無し。法師(道融のこと)周を見て、未だ年功を踏まずして

講義をするに到達せずということなし。世にこの書物を読むこと融(道融のこと)より始まる。

時に皇后喜びて、絹織物四丈を施す。法師(道融のこと)いわく、我、菩提の法施を修得する。

これに因る報いを望むは市井のことぞと言い、かくて杖をついてお隠れになる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「市」と「市井」がポイントになり、それは初代の地を意味しています。

市の説明はこちら(内部リンク)

井の説明はこちら(内部リンク)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






110番

我が思ふ所は室にあり、往きて従はまく欲っすれば呑神(どんじん)難し。

路の険易は己にある由、壯士去りて再びは還らず。


我所思兮在無漏  欲往従兮貪瞋難

路険易兮在由己  壯士去兮不復還


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 伊陸のことを言っており、神武東征のウカシ兄弟のことを語っています。

呑神の説明はこちら(内部リンク)

ウカシ兄弟の説明はこちら(内部リンク)






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






番外 1

我が思ふ所は楽土にあり、往きて従はまく欲っすれば痴害(ちがい)難し、

まさに老いて行きつも なんぞ黽勉(びんべん)せぬ、日月逝きて再びは還らず。


我所思兮在楽土  欲往従兮痴がい(馬に矣)難

行且老兮盍黽勉  日月逝兮不再還


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 初代ヤマトは女王国でした。日神、月神、などは女神として敬われていました。

女神に仕えているのは女性や子供たちです。それらの人々は侵略の犠牲になります。

侵略戦争を悲しんでいる詩です。万葉集にも老いを嘆く歌として入れてあります。

日はこちら(内部リンク)

月はこちら(内部リンク)


『 まさに老いて行きつも 』 の部分の共通項は万葉集にあります。

万葉集、巻第五、896番歌の後に「沈痾自哀文(ぢんあじあいぶん)」という長大な漢詩文があります。

万葉集という歌集としては異例なその長い漢詩文の中に次の一節があります。

『 歳月競流 晝夜不息 老疾相催 朝夕侵動 一代懽樂 未盡席前 千年愁苦 更継坐後 』

(ホームページビルダーの関係で返り点は省略、諸本を参照してください。)

共通項から見て、番外 1 の漢詩を作った人が誰かおよそ推定できます。

伝記には杖が出ています。上記の沈痾自哀文にも同じように杖が書いてあります。

これもまた女性でしょうか。まあ考えてみれば男たちは外仕事が忙しいですから。







・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






番外 2

山中いまいずくに在る。疲れた鳥たちが日暮れに還る所。

草葺きの廬は湿気を帯びた風の裏。桂月は水と石の間。

残った果実はよろしく老いに遇う。衣をつくろいて寒さを免れる。

この地に伴侶無き。 杖をたずさえて峰らんにのぼる。


山中今何在  倦禽日暮還  草廬風濕裏  桂月水石間

残果宜遇老  衲衣且免寒  (玄と玄)地無伴侶  携杖上峰巒


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この詩は、石城山を舞台に展開しています。

「山中」、石城山の北側中腹に在る「山中稲荷」のことです。佐田から登って行くルートです。

「湿気を帯びた風の裏」、山中稲荷の場所的なヒントを詠みながら、なおかつ「裏」という文字の

意味は、衣服のうら地に、たてよこのすじがあることから、引いてうらの意味に用いています。

つまり、山中稲荷のたてよこ方位線をも語っており、その方位線は納蔵原古墳を指しています。

納蔵原古墳は、石城山の高日ヶ峰から降ろされた聖徳太子の陵墓です。後に近畿へと改葬されます。


「桂月は水と石の間」 ここでの桂月は般若姫(般如姫)を意味します。水は、からと水道を意味。

石は、石城山のことです。すなわち、般若姫は水と石の間に居ますよ、という意味です。

般若姫陵墓は香山(現・小山)で殯をして波野行者山へ上げられていますから、

桂月とは般若姫を意味して、波野行者山(波野スフィンクス)のことです。


「残った果実」、果実は橘を意味して橘の豊日の命。それが残っているわけですから、従者たちのことです。

橘の豊日の命に仕えていた従者たちも老いてしまいました、と受け取ればいいでしょう。


「衣をつくろいて寒さを免れる」、衣は綿花を意味します。石城山神籠石遺跡は綿花栽培の農園跡です。

衣が入れてあることにより詩の作者は今、石城山に居るんだとわかります。石城山はなだらかな丘状地であり、

この詩が詠まれた頃は禿山で風あたりが強くて寒かったことでしょう。


「この地に伴侶無き」、これは詩の作者個人に対する伴侶ではなく、高日ヶ峰に葬られていた聖徳太子のことを

言っています。改葬された後のことだとわかります。高日ヶ峰は石城山を形成している峰々の中で

いちばん高い峰です。だから石城山に登っても、高日ヶ峰頂上まではさらに登る必要があります。

距離的には近くて、健脚者が歩いて五分程度です。距離はないのですが、急傾斜です。

すなわち「杖をたずさえて峰らんにのぼる」 訳です。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



以上の内容を見ても、番外詩が後人の付加とはなりません。

もともとあった番外詩は都合が悪いから後人によって削除されたのです。

そして、削除を免れた書写本の詩が番外として扱われるようになったのです。

歴史を特定する上で、番外詩が最も重要な詩であることを見ても明らかです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






あふみのかみ うねめのあそみ ひらふ

 みちをいへばとうとひとしく、とくをかたればぐとならぶ。しゅうがかばねをうめしあいにひで、

いんがあみをときしじんをしのぎたまふ。しゅくけいそうてんにうるはしく、かきへきくうにつららく。

ははみどりなりゑんりゅうのつき、はなはくれなゐなりさんおうのはる。

うんかんこうたくをほめ、じつかほうじんにゆあみす。

よろしくなんざんのよごとをたてまつりて、とこしへにほくしんをまもるべし。

(推古天皇詠詩)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






こうたいしのがくし 従五位下 いよべのうまかひ

 ていぎょうじんちにかなひ、せんひつさんせんをめでたまふ。じょうりょうふかくしてきはまらず、

きょうはたえてまたつららく。あめはれてくもはうすものをまき、きりつきてみねははちすをひらく。

にわにまひてかきんをちらし、はやしにうたひてしゅうせんをおどろかす。せんさえいこうをうかべ、

ほうしょうしょうえんをおぶ。あにひとりようちのあげのみならめや、まさにうたはむびゃくうんのてん。

(聖徳太子詠詩)





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トップページに戻る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・