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ホルアクティとホル・エン・アケト


このページではホルアクティを歌や古事記から検証してみます。


翔泳社発行・創世の守護神・上 P-209 より引用。

ヘリオポリスの「二つの地平線」

現存する「ホル・エン・アケト」に関する記述は、新王国時代の紀元前1440年頃に建てられたアメンテプ二世の

石灰岩の石碑にある。このファラオがスフィンクスの囲みの北側に建造した小さな神殿は、現在でも残っている。

アメンテプはこの石碑に、「ホル・エン・アケトのピラミッド」と書き残した。セリム・ハッサンは、「彼はスフィンクスが

ピラミッドよりも古いと考えていた」と、これを理解した。ハッサンはさらに、この石碑が大スフィンクスのことをホル・

エン・アケトと呼び、ホルアクティとも呼んでいると指摘している。スフィンクスの前脚の間にあるトトメス四世の

花崗岩の石碑を見てみよう。碑文の第九行目で、スフィンクスのことを「ホル・エン・アケト・ケプリ・ラー・アトゥム」

とし、十三行目では「アトゥム・ホル・エン・アケト」と書いている。さらに、トトメス四世が「ホルアクティを保護する者」

だとも言っている。 (中略) さらに古代エジプトの年代誌によると、トトメス四世の息子、アメンテプ三世は、「ラー

=ホルアクティ」を祭る神殿を建てたとされている。またアメンテプ三世の息子で、謎に包まれたファラオ、アクエンアテン

もまた「ラー = ホル・エン・アケト」を祭り、ルクソールに巨大なオベリスクを建立している。アクエンアテンは、自ら

造った太陽の都の名前を「アケト・アテン」とした。 (中略) そして、アクエンアテンがエジプトの王位についたとき、

自分自身を呼ぶ最高の称号として「ラー = ホルアクティの高位の神官」を選んだことも忘れてはならない。つまり、

ホル・エン・アケトやホルアクティという名前で「地平線」(アケト)が表されているのだが、これが何を意味するのかを

まず探るべきだろう。 (中略・以下 P-212) ホル・エン・アケトが記載されたテキストのうち、残存する最古のものは

新王国時代に書かれたものだ。 (中略・以下 P-213) すでに見たように、新王国時代においてスフィンクスは、

ホル・エン・アケトだけでなくホルアクティとしても知られていた。確かにホル・エン・アケトという名前は、ピラミッドテキストの

中には出てこない。だが、ホルアクティの方は繰り返し登場する。古代の碑文は、数百回も「ホルアクティ = 地平線の

ホルス」について語っている。それらはすべて「夜明けに東の空に昇る神」として現れる。それは学者たちも認めている。

だが彼らは、そこで古代エジプトの二重性に直面していることに気づいていない。つまり、ホルアクティという言葉が、

天界の双子である地上の片割れをも表現している可能性があるということに。


著者 グラハム・ハンコック氏とロバート・ボーバル氏に感謝します。
また、発行元である翔泳社さんに感謝します。



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冒頭から長くなりましたが、ここで私が言いたいのは、それぞれの名前が記録に登場してくる年代です。

古王朝のヒエログリフには「ホルアクティ」として出てきます。

新王朝になると「ホル・エン・アケト」が出てきます。

ホルアクティもホル・エン・アケトも同一地点なのですが、年代的な開きがあります。

その年代的開きと名前の意味は、日本の万葉集で証明されます。

ただ、万葉集の歌も現状訳では意味が通じず、解読する必要があります。

その有名な歌を解読すると次のようになります。




万葉集 巻第一 13・14・15番歌

高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉

 高山は うね日雄々しと 耳無しよ 愛想競ひき 神代より 獅子にあるらし 小昔も 膳にあれこそ 鬱蝉も 図をそう描くらしき
 たかやまは うねびおおしと みみなしよ あいそうきそいき かみよより ししにあるらし こむかしも ぜんにあれこそ うつせみも ずをそうかくらしき


反歌

高山与耳梨山与相之時立見尓来之伊奈美國波良

 香山と 耳無し山と 合わし時 立ち見に来して 稲美国原
 こうやまと みみなしやまと あわしとき たちみにきして いなびくにはら


渡津海乃豊旗雲尓伊理比紗之今夜乃月夜清明己曽

 綿摘みの 豊旗雲に 入り日さし 今宵の月夜 さや明れこそ
 わたつみの とよはたくもに いりひさし こよいのつくよ さやあかれこそ




こう解読できるということの説明はこちらのページをご覧ください(内部リンク)。

上記の歌で特に大事な意味を持つのは真ん中の14番歌です。内容を説明します。

香山の現在は小山と呼ばれています。丘の頂上には徳吉稲荷(とくよしいなり)が

祀ってあります。特筆したいのは東側から登ると参道左側に古墳の築石と思われる

2メートル位の大きな石がありまして、大正・昭和頃に掘ってみたという古老の話に

よりますと、四角い箱型をしていたと聞きました。その被葬者を波野スフィンクスの頂上へ

上げた(改葬した)ので、地名が「上ゲ」と呼ばれるようになったわけですが、その改葬

する時の様子が上記の真ん中の歌に入れてあります。香山は今の小山です。耳無し山と

あるのが波野スフィンクスのことです。それらを合わせた(改葬で上げた)時に

立ち見に来たよ、という歌です。ふもとから仰いでもよく見えますから、田園の中に立って

仰ぎ見たんでしょう、稲美国原です。たぶん双胴船の埋納地点辺りから仰ぎ見たサマを

後で思い出して歌に詠んだのでしょう。以上のことから、ホル・エン・アケトが新王朝でしか

出て来ないのは、アケト(上ゲ)の名が付いていますから、上げてから(改葬してから)

ということになり、当然ホル・エン・アケトが新王朝でしか出て来ないのも納得されます。

また、古王朝に出て来るホルアクティの名は双胴船の埋納地点を意味していますから、

改葬(上げた)時期よりも先にその名があったわけで、これも古王朝で一致しています。


そうすると、いつ頃の年代になるのだろうか、という部分に言及しますと、最初の歌(13番歌)に

「猪子にあるらし小昔も」とありますことから、この歌が詠まれた時代にはすでに「いにしえ」に

なっていたということになります。正確な年代は双胴船の発掘をして放射性炭素年代測定を

してみればわかるかもしれません。現状の推測年代としては、青森県の三内丸山遺跡を指している

方位線もあることから、紀元前3千年頃より以前に波野スフィンクスは造られていると推察します。

信じられないことですが、日本ではいわゆる俗に縄文時代になります。こうした年代もエジプトギザの

ピラミッド建設年代とほぼ一致します。



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「うねる水の道の曲がり角」に関係してくる歌。

万葉集・巻第一 19番歌





万葉集 巻第一 19番歌

綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓著成目尓都久和我勢


上記19番歌の現状訳は「林の前(さき)の」としてあります。原文字は「林始乃」となっています。

始の文字を「さき」と解読するのは少し苦しいところがあるのですが、そう読んでも現地では

通用するというところに捨てきれない部分があります。まるで古事記と日本書紀です。

よって、始の文字があることから、「はやしはじめの」と解読するのが正しいということになります。





狭野榛(さのはり)とは、出雲大社の前身を意味しており、船(双胴船)の

埋納地点には高い神殿が築いてあったようです。それを狭野榛と詠んだようです。

そうした部分が全て見える(一致する)所が19番歌の詠まれた地点であるという

ことになります。正確な緯度経度をを検証してみますと、以下のようになります。

N 33度57分53秒

E 132度03分51秒

緯度は多少移動しますが、経度は132度03分50秒〜132度03分52秒の間になります。

そこは当然からと水道跡の真っただ中であり、舟に乗って詠んだということになります。

現在の風景で説明すると、余田のJAがある周辺になります。



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万葉集 巻第二 170番歌

嶋宮勾乃池之放鳥人目尓戀而池尓不潜


「勾乃池(まがりのいけ)」とは、からと水道の曲がり角であり、この歌が詠まれた時代には

水道は閉塞して池になっていたようです。勾乃池の後に続く「放鳥(はなちどり)」とは、

鳥は神を表しますので、流れエビス堂のこと。つまり、池のなかに放たれた鳥のごとくに、

という表現です。この歌は二十三首の前に入れてあり、一連の歌と連動しています。





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古事記との接点。

エジプトの大ピラミッド(クフ王のピラミッド)にあるスターシャフトのことは別ページでも採り上げました。

ここでは、そのシャフトから発見された遺物について研究してみます。先ずは「創世の守護神」から引用してみます。


翔泳社発行・創世の守護神・上 P-142〜144 より引用。

未知の暗闇の果て

王の間のシャフトと異なり、女王の間のシャフトには、(1)建造物の外に出口がなく、(2)部屋の石灰岩の壁にも、

もともと開口部がなかった。建造者は二つのシャフトの最後のブロックに、十二センチほど壁を残していた。そのため、

女王の間にただ侵入しただけでは、シャフトは見えず、存在すらわからなかったのだ。 (中略) ウェインマン・ディクソン

は、王の間のシャフトに好奇心をかき立てられ、女王の間にも似たような特徴があるのではないかと考えた。調査は、

1872年はじめに開始されたが、ピアジ・スミスにはすべてが報告され、その著書に調査内容が詳しく書かれている。

その記述によると、女王の間の南壁にひびが入っているのを見つけると、ウェインマン・ディクソンは「大工でありよろず屋」

のビル・グランディに「ハンマーと鉄のノミで穴を開けさせた。すると、すぐに柔らかい石が見つかった。驚いたことに、数回

叩いたところでノミがすっと中に入っていったのだ」 鉄のノミが「入っていった」ところとは、「四角い横向きのトンネルだった。

幅二十二センチ、高さ二十センチ。壁の中を二メートルほど進むと、急な角度で未知の暗闇に向かって果てしなく上昇していた」

これが南シャフトだった。 次にウェインマン・ディクソンは、北壁でも同じ位置を探った。「貴重なパートナー、ビル・グランディに

ハンマーと鉄のノミで働いてもらった。作業を始めるとすぐに、鉄のノミが中に入った。その場所には、南壁と同じように水平の筒、

もしくは横向きの導管があった。壁の中に二メートルほど入り、似たような角度で、反対方向に昇っていた。それは、遠くどこまでも

のびていた」 兄弟ジョンとともに、南北のシャフトを探査しようとしたウェインマン・ディクソンは、煙突掃除に使うようなつなぎ合わせた棒

を使った。十九世紀末の技術力では、この探査は手に余るものだった。現在でも、棒の一部が北シャフトの途中に引っ掛かったまま

である。だが、棒が引っ掛かる前に彼らは、三つの小さな遺品、仕上げの済んでいない石の球、金属製の小さなフォーク状のフック、

奇妙な切り込みのある十二センチの杉の木片、をシャフトの中で発見した。  これらの遺品は、1872年夏にエジプトを離れ、数週間後、

無事イングランドに到着した。その後数年間は、書物で紹介されたり、「ネイチャー」や「ロンドン・グラフィック」などの雑誌にも掲載された。

だが、二十世紀になる頃には、どこかに消えてしまった。  結び付き  次の事柄の間には、いくつかの奇妙な結び付きが見られる。

● 女王の間のシャフトと内部にあった遺品の発見。  ● エジプト探検協会(EES・英国におけるエジプト学の権威ある組織)の創立。

● ロンドンのユニバーシティ・カレッジにおける権威あるエジプト学講座の開始。  ●英国フリーメーソン。 


著者 グラハム・ハンコック氏とロバート・ボーバル氏に感謝します。
また、発行元である翔泳社さんに感謝します。



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上の引用文で重要なのは、シャフト内で発見された三つの遺品です。

「石の球、フック、杉の木片」

この遺品に関しては古事記に抽象的な神話にして「火遠理命」の段に記述してあります。

長文なので引用はしませんが、神話では石の球を「鹽盈珠(しおみつたま)・鹽乾珠(しおふるたま)」として記述しています。

金属製のフックは「鉤(つりばり)」として記述してあり、その釣り針を海で失くしてしまった。

散々探して赤海(ここ漢字変換出来ず)魚(タイ)の喉で見つかった。

では、杉の木片は何を意味しているのかと申しますと、井戸の上に湯津香木があって、そこにいれば海神の女神

に出逢える、という部分に凝縮してあります。湯津香木とあるのは先の三山歌でも登場した香山のことです。香山の

頂上には徳吉稲荷社があり、祭神はウカノミタマという女神です。その稲荷の神木は杉でありまして、今でも伏見稲荷大社の

御神札には杉の枝を付けた物もあります。対する伊勢神宮の神木はヒノキです。よってシャフトで発見された杉の木片と

古事記の神話とは意味が繋がっています。さらに言及しますと、ツタンカーメンの墓室から青銅製の菊の紋章が発見されています。

それは日本の菊の御紋章と同じです。初代ヤマトの紋章は菊の紋章とよく似ているのですが、細部が異なり、

太陽光線をモチーフにした紋章です。下の写真はその紋章を背負わせてもらっている私の名刺です。

類似品を防ぐため多少差し引く形でデフォルメしていますが、ベースはこの形です。

菊の紋章と細部が異なるのがわかると思います。







なぜ突然、紋章の話にしたかと申しますと、先で説明した古事記の神話にその紋章のことが記載してあるからです。

火遠理命は井戸の上の湯津香木に登って海神の女神を待っていると、玉器(水の器・おみずたまと言います)を持った女神が来た。

火遠理命が水を欲すると、女神は水を玉器に入れてたてまつった。ところが、その玉器に唾(つばき)を入れた、という内容です。

唾を入れたとは、香山の頂上にある稲荷のお水玉に入れてある紋章のことを語っています。

香山は波野スフィンクスの前脚の先端部に相当する所です。

シャフトから出てきたという杉の木片は、香山にある稲荷の神木である杉を意味しているようです。

下の写真は神話に出て来る玉器です。向こう側に紋章のレリーフが入れてあります。

もしこれが古代から伝わって来た物であり、途中で作り替えられていないなら、

凄く精密に水滴型の曲線を出しているのに驚きます。

現代の玉器と比べると、フタの部分のデザインが異なっています。

さらに、土にも興味があるところです。

なお、玉器の紋章の部分は類似品を防ぐためご勘弁ください。












撮影 2014-5/4  神話の井戸

・・・・・・「人ありて、我が井の上の香木の上に坐す。いと麗しき男ぞ。我が王に増していと貴し。〜」・・・・・(古事記より)

大内公園は初代上宮跡地推定です。聖徳太子の時代に近畿方面に

移したことは古事記にある陵墓の記述と合わせれば解明できます。

この井戸は戦時中、潜水学校の生活用水として掘った井戸、と語り伝えられています。

その伝承もまた腑に落ちない点が多く、潜水学校は遥か向こうの丘の上に在ったそうです。

井戸から校舎までの距離があり過ぎるのです。

この辺は湧水が多く、なにも離れた所に井戸を掘らなくても校舎脇に井戸を掘ることも可能だったはずです。

としたら、この井戸は戦時中に掘った井戸ではなく、昔から存在していた井戸を戦時中に利用しただけ、ということになります。

この井戸周辺約十メートル程度のわずかな土地は「国の所有」になっていると聞きました。

井戸の水面は地面と同じ高さにあるものの深さは不明です。伝承では相当な深さがあるそうです。




井戸の位置

N 33度57分35.3秒
E 132度03分02.6秒
位置精度 +− 3m

井戸より 香山 345度方向
波野スフィンクス頭頂部 3度方向


この井戸と香山を結んだ線上に双胴船の埋納地点があります。つまり、高い塔(神殿)があったはずです。

井戸に関係したことは、防長風土注進案の上関宰判・波野村に記載してあります。

七月七日氏神旦那寺そのほか神仏へ参り、また井戸替とて近所打ち寄り水をかへ申し候。

昔は定期的に水を替え出して底に溜まった泥砂を取り除いて今に伝えられたのでしょう。

井戸替の記述は他の地区にはありません。波野村だけ井戸替を記述してあり、特別な井戸だったことがわかります。


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さて、シャフトから出てきた三つの遺品は発見者であるディクソン家に約百年保管された後、今は大英博物館古代エジプト室に

保存されているようです。ところが、その三つの遺品の内、杉の木片は行方不明になっており、年代測定ができないようです。

そうした現存する遺品を発見するまでの不可解なことが創世の守護神に記載してあります。

私が個人的に推測するに、テムズ河畔通りに建っているという通称「クレオパトラの針」のオベリスク落成式の時に

ディクソンが台座下に埋めたという「大きなシガーボックス」に秘密が隠されているのかもしれないと思うのであります。



オベリスク(通称クレオパトラの針)

高さ 20.87メートル  重さ推定 187トン  石材 赤色花崗岩  創建王 トトメス三世(新王国第18王朝・紀元前15世紀)

トトメス三世は、オベリスクを少なくとも九本建てたといわれている。ヘリオポリスに二本、カルナックに七本。

ローマ人が紀元前12年頃にヘリオポリスの二本をアレキサンドリアに移設した。一本は1301年の地震で倒れて海没しそうに

なっていた。その一本をロンドンに運んだ。1877年9月21日、オベリスクはアレキサンドリアを発ち、ロンドンへ向かう。

1878年9月12日に現在地のテムズ河畔の台座の上に建てられた。台座の中には、当時の新聞や大英帝国の記念品が収納されているという。

なお、もう一本の立っていた方はニューヨークに移された。よって、現在のアレキサンドリアには一本も残っていない。

参考文献・岡本正二氏著作「世界のオベリスク」 (感謝します。)



あくまでも私の疑問ですが、ピラミッドから出てきた遺品は全部が公になったのだろうか?と思うのです。

古代の重量物運搬方法などを記した機械の設計図などが出て来ていたとしたら、公にはせずに自分たちの

収穫にしていたら、そう思って諸々の年表などと照合してみたこともあります。関係ないとは思います・・・。

そもそも、近代になぜわざわざヨーロッパの方からこの小さな島国の日本に来たのでしょう?





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