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イザナギイザナミ・第2部


泣澤


 イザナギイザナミ神話を読みますと、古事記と万葉歌とで一致している部分があります。

その一致している部分を見ています。第 1部では香山を見ました。

この第 2部では『 泣澤 』を見てみましょう。


古事記の記述

・・・・・「香山の畝尾の木のもとに坐し、泣澤女神(なきさわめのかみ)と名づく。

故、その神去りしところのイザナミの神は、出雲国と伯伎国の堺、比婆の山に葬るなり。」


万葉集の歌

巻第2  202番歌

 哭澤の 神社に三輪すえ 祈れども 我が王君は 高日知らしぬ
 なきさわの かみにみわすえ いのれども わがおおきみは たかひしらしぬ





 旧大和町三輪にて(現在、光市)


歌中の『三輪』と『高日』について。

泣澤を研究する前に、まず三輪を明確にしておきます。

 歌中の「三輪」を現状では神酒と解釈しています。ところが、歌の原典は『 三輪 』の文字です。

202 哭澤之神社尓三輪須恵雖祷祈我王者高日所知奴(一部、新字体を使用)

では、三輪とは何かと申しますと、糸巻きの糸を意味しています。その根拠は古事記にあります。

古事記の三輪山伝説の段です。

娘のもとに毎夜通って来る男がいた。何処の人か知ろうとして

帰っていく男の裾に糸を結び付けておいた。糸は三巻き(三輪)ほど残った。

糸をたどっていくと美和山の社に着き、神だったと知る。という物語です。

 したがって、万葉歌の三輪とは「糸」の事になります。糸をお供えして祈った、という意味です。


石城山の西麓を今でも三輪と呼んでいます。

三輪の地名は天保十三〜十四年(1842〜1843)に編纂された防長風土注進案の熊毛宰判に

「三輪村」と記載しています。また、美和もあり、美和は、三輪の周辺広域を言っていたらしく、

三輪村の近隣にある岩田村、塩田村、川西村、などは美和庄であると記載しています。


三輪村には三輪神社があります。

三輪神社は、コンピラ山の頂上にありまして、防長風土注進案には次のように記載しています。


『 大昔は三輪三郎居城の跡と申し候。山の尾続き桜の馬場山の腰に土井、中土井、

下土井など地名有りし、右の三郎当村領地の由、申し伝え候へども年暦相知れず申し候。

古城山当時金毘羅山と相唱え候事 』


以上が三輪村の記述です。防長寺社由来のほうには寺院だけ記し、三輪神社の記載はありません

三輪神社は上の写真を見てもわかりますように、石城山に近接した位置にあります。石城山の

神籠石遺跡は綿花農園の跡ですから、糸に関係した伝説があるのも納得します。

すなわち、万葉歌の『三輪』とは、糸巻きの糸を意味しており、泣澤の神とは、三輪神社です。

よって、歌は三輪神社に糸を供えて祈れども、という意味になります。


なぜ三輪神社が『泣澤』になるのかと申しますと、澤の俗字は沢であり、水の流れる浅い清流を意味しています。

三輪神社の祭神は大物主の神です。大物主の神話は丹塗矢になって沢を流れ下って結婚したという物語です。

三輪神社のコンピラ山のふもとには田布施川の源流が流れており、川が海に接する所に神花山古墳や阿多田古墳があります。

泣澤の神(大物主)が流れ下って結婚したのが古事記にある香山の泣澤女神ということになります。


歌中の『高日』について。

以上で三輪は見えて来ました。こんどは高日についてです。

証明するには万葉歌を理解している必要があり、難解になるので先に結論を出しておきます。

高日とは、石城山の最高峰、高日ヶ峰のことです。冒頭の写真を見ても近接しています。

高日ヶ峰は古代の山頂古墳であり、神話では、ウガヤフキアヘズノミコトの陵墓です。

ウガヤフキアヘズノミコトを追究していきますと、聖徳太子になります。

高日ヶ峰の山頂古墳は古代に東麓の納蔵原古墳へ降ろされます。

高日ヶ峰の空になった山頂古墳の跡地には高日神社が祀られます。

古記録では妙見社とあるのが高日神社のことです。


防長風土注進案 / 妙見社 祭神・北辰尊星宮 人王参拾四代推古天皇御宇

防長寺社由来 / 当山東の弥山に妙見の古跡、下に鳥井沓石御座候事


高日ヶ峰に葬ってあった聖徳太子の亡骸は、納蔵原古墳に改葬された後に今の近畿へと改葬されたようです。

万葉歌には『高日知らしぬ』とありますから、まだ高日ヶ峰の山頂に葬ってあった時に詠まれた歌でしょう。




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以下は石城山や高日ヶ峰を万葉歌などから証明した記事です。

現地を理解していないと難解だと思います。

万葉歌のページへ移そうかともおもったのですが、

各ページから途中リンクを繋いでいるため、このページに残します。



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 三輪神社の東側には石城山があります。近接して隣同士のような山であり、どちらの山からもよく見えます。

 石城山は五つの峰で一つの山が形成されており、それぞれの峰に名前が付けられています。

 その五峰のなかで一番高い峰を「高日ヶ峰(たかひがみね)」と申しまして、頂上に高日神社が祀ってあります。




 高日神社・拝殿。

防長風土注進案 / 妙見社 祭神・北辰尊星宮 人王参拾四代推古天皇御宇

前方部は上画面の右斜め方向に伸びています。ここは後円部に相当します。

後円部を削り取った跡地に高日神社を祀ったのでしょう。

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 高日神社・神殿祠。
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 高日神社裏手の森。

画面の右側と左側どちらも斜面です。

地形が前方後円墳の前方部の痕跡を残しています。

 規模的には神花山古墳と同じくらいの大きさです。

 方位はおよその計測で北5度を指しています。



 高日神社を研究していくと、天津日高日子波限建鵜葦草葦不合命になります。

これは聖徳太子と同一人物になります。



万葉集の184番歌にこんな歌があります。 「東の 荻の御門に さもらへど 昨日も今日も 召す言もなし」

 この歌は23首のなかにある1首です。23首すべての繋がりを思うと、ある時期に山頂から麓に降ろされています。

降ろされた場所は石城山東麓にある納蔵原古墳です。それを証明しているのが高日ヶ峰の北側中腹にある山中稲荷です。

山中稲荷は方位線で納蔵原古墳を指し示しています。 さらに、石城神社が拝礼している方位線聖徳寺です。

そして、高日ヶ峰の頂上は前方後円墳であり、前方部の方位は北 5度だと言いましたが、その 5度も中心線の定まらない

大雑把な計測での 5度です。 もしそれが 0度だとすると、石城神社と同じであり、その前方部の指している所も聖徳寺です。


そうした訳で、高日ヶ峰の頂上に在った聖徳太子の墓は、東側ふもとの納蔵原古墳へ改葬されています。改葬理由は不明です。

その納蔵原古墳で詠まれたのが184番歌だと考えられます。後に現在地である大阪府へと改葬されたことになります。

さらには、父と子の関係で、水口茶臼山古墳も浮上してきます。そのあたりの歌事情はこちらをどうぞ(内部リンク)。





石城神社




 石城神社の境内。 






普通、一般的な神社の参道は社殿の前面に向って入って行きますが、ここは違います。

上画面の左右ともに谷間です。なぜ建立する時にこちら向きで建てなかったのかです。

私の個人的な推察で言いますなら、昔の再建時に九十度方向変換している可能性。

本来は高日ヶ峰を拝礼する形で(下写真)、こちら向きで建てられていたものを、いつの時代にか

九十度方向変換をしている可能性を捨てきれません。隠そうとした痕跡が見え隠れします。

周防大島の下田八幡宮のように裏手からが本参道の例もありますが、特異な形態です。




 石城神社より高日ヶ峰を望む。

谷間一つ隔てて向こうに見える森が高日ヶ峰。高日ヶ峰の方が少し高い。

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 石城山は、かって神護寺を中心に仏教で栄えた山です。

神護寺跡地には近年に石仏が安置されました。上写真に見えている石仏です。

きいたところによると、般若寺の住職さんの力添えで建立された石仏だそうです。

石城山には多くの坊舎遺跡が残っており、空海もここを訪れたと古記録にあります。

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では、万葉集から石城山の由来に関係してくる歌を考察してみます。



 万葉集 巻第2  199番歌

 高市皇子尊、城の上の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作った歌一首。並びに短歌。

(歌中の一云は歌のリズムが止まってしまうので省略しています。諸本を参照してください。)


199 かけまくも ゆゆしけれども 言はまくも あやに恐き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を 恐くも 定めたまひて 

神さぶと 岩隠ります やすみしし 我が大王の 聞こしめす 背友の国の 真木立つ 不破山越えて 狛剣 和射見が原の 行宮に 

天降りいまして 天の下 治めたまひ 食す国を 定めたまふと 鶏の鳴く 吾妻の国の 御軍士を まねきたまひて ちはやぶる 人を和せと 

まつろはぬ 国を治めと 皇子ながら あたりたまへば 大御身に 太刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ 整ふる 

鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹きなせる 小角の音も 敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 指揮したる 旗のなびきは 

冬木なす 春さりくれば 野ごとに 著(つ)けてある火の 風のむた なびかふごとく 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に つむじかも 

い巻き渡ると 思ふまで 効きの恐く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ まつろはず 立ち向かひしも 露霜の 消なば消ぬべく 

去る鳥の 相競ふ端に(あいきそうはに) 渡会の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見れず 常闇に 覆ひたまひて 定めてし 

瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大王の 天の下 申したまへば 萬代に 獅子もあらむと 木綿花の 栄ゆる時に 

我が大王 皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白たへの 麻衣つけ 埴安の 御門の原に 茜さす 日のことごと 

獅子じもの 祝ひ伏しつつ ぬばたまの 夕に至れば 大殿を 振りさけ見つつ 鶉(うずら)なす 祝ひもとほり 侍へど 侍ひ得ねば 春鳥の 

さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済のもとゆ 神葬り 葬りいませて 朝もよし 城の上の宮を 

常宮と 高し祀りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大王の 萬代と 思ほしめして 造らしし 香具山の宮 萬代に 過ぎむと祈るや 

天のごと 振りさけ見つつ 玉だすき かけて偲はむ 恐くあれども 



 短歌 二首

200 ひさかたの 天知らしぬる 君故に 日月も知らず 恋ひ渡るかも

201 埴安の 池の堤の 隠り沼の 去るへを知らず 舎人は 惑ふ

 ある書の反歌一首

202 哭澤の 神社に三輪すゑ 祈れども 我が王きみは 高日知らしぬ

 右の一首は類聚歌林に曰く、檜隈の女王、泣き澤の神社を怨みし歌なり。

 日本紀を調べて曰く、十年丙申の秋七月、辛丑の朔の庚戌、後の皇子の尊、薨ず。


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 さすが柿本人麻呂さん、と言いたくなるような長歌です。この長歌一首だけでも史実の多くがわかります。

 神として祀ってあることから始まり、戦いの激しさを朗々と詠みあげ、やがて露霜と消えていく。初代の地を隠したことが触れてあります。

皇子の御門(陵墓)を神社に替えたことも触れてあります。そして、奈良県の香具山が萬代に伝わるようにと祈りを込めて結んでいます。



 ここで特に重要な部分は黄色文字の部分です。「〜皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて〜」この一節は、高日神社のことを語っていると思われます。

「皇子の御門」とは陵墓を意味しています。それは先に上げた184番歌を見てもわかります。そうすると、やはり高日ヶ峰の頂上は前方後円墳だったことになります。

現状で残っている前方部の痕跡は北5度へ向いています。 さらに、防長風土注進案には、高日神社は推古天皇の創建と記してあります。


防長風土注進案の記述で問題になるのが、高日の嶺を西の嶺ともいう、とあります。高日ヶ峰は東側に位置しており、西にはなりません。

この一文によって惑わされますが、これは高日ヶ峰の位置としての西ではなく、西の意味するところは西方極楽浄土、すなわち仏教です。

読み方としては、たぶん「さいのみね」とか「さぁーのみね」だろうと思います。今は廃れてしまった呼び名です。



 さて、「ウガヤフキアヘズノミコト」は「袁祁命(の命)」であり、それは「聖徳太子」のことです。

太子の陵墓は高日ヶ峰頂上から、麓の大波野(おおはの)という所に降ろされます。納蔵原古墳(なぐらばらこふん)です。







納蔵原古墳 (なぐらばらこふん)






 納蔵原古墳の発掘調査の記録を部分的に引用させてもらいます。



 直径約10メートルの後円部に、長さ約10メートルの前方部を持つ前方後円墳である。

後円部の段築成は二段であり、前方部と同高度に一段、さらにもう一段が古墳の頂上部まである。

前方部は2回に分けて造られている。追葬が行われているため、その際に前方部を延ばした可能性がある。


 埋葬施設は、両袖型の横穴式石室である。羨道部は西側のくびれ部(前方部の根元)に開口する。

羨道部の規模については、崩れているため不明である。墳丘の規模から推測すると、長さは2メートル程度で、

やや西側に曲がりながら、少し開き気味に延びるものと思われる。古いタイプの横穴式石室である。


 副葬品の遺存状況からみると、第一次埋葬で供献された須恵器群が、第二次埋葬が行われる際に、

玄室南東隅に片寄せられた形跡が明らかであること、また、第二次埋葬の須恵器の時期が微妙に

遅れることなどにより、2回の埋葬が行われたと思われる。盗掘坑も歴然と残るなど、盗掘された痕跡は著しい。


 出土遺物については、ほとんどが須恵器で22点、土師器の破片が若干ある。鉄鏃が60本以上、奥壁部に3ケ所に

分れてまとまった状態で検出された。鉄刀が二振、細かい断片となって出土した。全体形は知り得ない。


特に、内面に木質を残した鍍銀(銀メッキ)鉄地柄縁金具の出土は注目される。

他に刀子1本。槍先およびその下端の袋状石突の出土などは山口県では珍しい例である。

馬具、鉄地金銅貼り辻金具1点、ホ具(鞍などを縛る革帯のバックル)3点がある。装身具は銅心金巻耳環が1個。

玉類は全く出土しなかった。玄室奥の西側に不整形で浅い盗掘坑があることから、この付近が被葬者の頭部から胸部にあたり、

かなりの装身具その他の宝物があったと推定されるが、残念ながらすべて持ち去られていた。


 墳丘裾部から埴輪片が出土した。ほとんどの破片は東側のくびれ部からの出土である。埴輪はほとんど円筒埴輪で、

朝顔形埴輪も一部検出された。埴輪の出土した方向には、東側低地に弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡明地遺跡がある。

さらに、古柳井水道(からと水道)から仰ぎ見ることを意識して、埴輪を設置されていたのだろう。こうしたことを分析すると、

この古墳は6世紀の中頃(550年頃)に築造されたものと考えられる。



 発掘調査の記録から引用させていただきました。調査にかかわった方々の労をねぎらうと共に感謝します。





 納蔵原古墳。 前方部より後円部を見る。





 北側から見た納蔵原遠景。 画面向こう側が南になります。 矢印の辺りに納蔵原古墳。

雑木が無ければ、からと水道の八幡の瀬戸から柳井に至るまで良く展望できる所です。

また逆に、水道からも良く仰げる場所です。

 画面には入っていませんが、撮影者の右後方に石城山があります。




 長歌に戻りまして、こんどは黄色文字の長い方です。


199末部 百済のもとゆ 神葬り 葬りいませて 朝もよし 城の上の宮を 常宮と 高し祀りて 神ながら 鎮まりましぬ 

しかれども 我が大王の 萬代と 思ほしめして 造らしし 香具山の宮 萬代に 過ぎむと祈るや 


天のごと 振りさけ見つつ 玉だすき かけて偲はむ 恐くあれども 



これは木花の佐久夜姫を語っています。

平生町の神花山古墳は田名(たな)という所にありますが、すぐ隣りは百済部(くたなべ)という地域です。


 「朝もよし」とは、東向きを表しており、神花山古墳は前方部が東向きですから、一致します。

 「城の上の宮(きのへのみや)」とは、原典の文字は「木の上の宮」です。綿花の木の意味も持っています。

そして、さらには石城山にある神社を総称してもいるようです。宇和奈利社の祭神は木花の佐久夜姫であり、

前面方位は神花山古墳を指しています。(宇和奈利社の写真と解説は下方に入れてあります。)


 歌はそこで「しかれども」という言葉を挟んで、奈良県の香具山へと飛びます。

初代の香山と同じように奈良県の香具山に稲荷を祀って偲ぶ、という意味です。

そして、最初は親子合葬でしたから、

「玉だすき」をかけて偲ぶわけです。「玉だすき」とは、玉依姫を意味しています。


 古事記の名で言うと、玉依姫は石長姫であり、後の「意祁命」です。この読み方は、「おき」とか「いき」になると思います。

いつも聖徳太子と一緒にいる「意祁命」は「おきのみこと(沖の命)」と読んで推古天皇です。

推古天皇の改葬前の陵墓は、麻里府の沖に浮かぶ阿多田古墳です。納蔵原古墳からですと沖になります。




 波野スフィンクス頂上から遠望した麻里府ノ浦。

 どちらの陵墓も山の陰に隠れて、見えそうで見えません。



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 石城山 宇和奈利社














 (旧大和町史より引用)

 石城神社の参道のそばに、後妻社(ウワナリシャ)という小さい祠がある。昔、石城神社の御神幸が山麓の宿院(今の宿井)

まで来ると必ずけんかや口論がおこって、けが人が出たものである。これはきっと後妻の妬によるものであるということになり、

それからは今日まで、御神幸の前に「宮子之者」が白衣を着て、白木の杖をたてて祠の神に向かい、「御神幸はまだでござるぞ、

まだでござるぞ」と、くりかえしくりかえし唱え、その間に本社の神輿がその祠の前をこっそりと通り抜ける。そして通り抜けてしまうと、

こんどは、「おぬかれごすん、おぬかれごすん」(お抜かれ御損の意味か)と唱えながら足早に立ち退くのである。


以上、旧大和町史より引用しました。



記録にある「宮子之者」が問題なんですけれど、それはたぶん、「都の者」でしょう。

遷都後に何年間か里帰りに詣でていた頃の名残りが祭事になって残ったと考えられます。

延喜式の記録にも、周防では船を下りて陸行した、ということがあるようです。

 宿井でのケンカは、「ケンカ」そのものが祭事なんです。今で言うと三角関係みたいなものでしょう。

取り合いのケンカを見せての愛情表現・・・といったところでしょうか。

ウワナリの妬み、というのは後世の付会です。前妻後妻のことを古語で「コナミ」「ウワナリ」と申しますが、

後妻の妬み、は少しチグハグな気がしませんか?普通、妬むのは前妻の方です。



 なぜ前妻後妻になったかと申しますと、一人はヤマトの子供達を戦災から守るために、多くの子供達を引率して疎開します。

そういうことは古事記にも万葉集にも歌によって記してあります。「さ蝿なす」という言葉が見られますから、相当な人数は居ただろうと推察されます。

そして、もう一人は残ってヤマトを守るわけです。しかし・・・結果的には地獄が待っていたようです・・・。結局、前妻後妻は出ると残るで、

チームワーク良くヤマトの子供達を守っているわけです。行くも残るも、どちらも決死行ですから、やはり妬みというのは後世の付会だと思います。




子供たちを引率して疎開することに関しては、神武東征(通称)と関連していきます。

 古事記は「子事記」として、ヤマトの子供達の記録でもあります。特にわかりやすいのが「アマテラスの岩屋戸隠れ」でしょう。

「スサノオの物語」もわかりやすいです。田の畦を決壊させたり、台所にウンチを撒き散らしたりするんですから。子供達は、みんな神々です。

それをよく証明している祭事として、現在も伊勢神宮で「心の御柱」を祭ることができるのは、子供です。オトナが子供を兼ねることはできません。






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