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万葉集 巻第二 182番歌 関連写真




波野天神から見た大星山。





 大星山ふもとの平生町野島や玖珂島の由来は弓で固めてあります。

 大星山を、からと水道から見ますと、天上に向かって射る弓の形です。

 弓の弦に相当するところに神武天皇遥拝所(穂土社)があります(写真・赤点の辺り)。

 182番歌の「檀」を真弓と解釈すれば、波野天神の境内からよく見える大星山こそ真弓の岡になります。



182 鳥垣立て 飼ひし雁の子 巣立ちなば 真弓の岡に 飛び帰り来ぃね



では、飼ひし雁の子、とは何を意味するのかと申しますと、以下のようになります。



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 伝承歌と万葉歌との考察  

波野天神の由来には雁を詠んだ歌が未完成で残されています。



波野府天満宮 由来 防長風土注進案より引用

(前文略) 海人の苫屋塩竃の煙り斜めに靡(なび)き、折柄一行の雁、波野府の浦邊より

立ち去りゆく風景を御感吟ありて、「こかれよる波野府の浦に居る雁の」といふ一首を詠じ給ふ。(中略)

此邊はすべて麻里府の浦傳ひなれば、波野府といひける由にて、當宮を波野府天満宮と唱へ奉ると縁記に相見へ候。



 S70

この辺りを波野の市といいます。

万葉集には「市原王」の作った歌があります。それは巻第六・1042 にあります。

万葉集の目録を見ますと 「大伴宿祢家持 市原王」 と二行で記してありまして、

不思議なことに1042番歌の目録はあるのに1043番歌の目録が無いんです。

1042番歌を市原王が詠んで、1043番歌を大伴宿祢家持が詠んだことは

歌の注釈に記してありますから当然目録になくてはなりません。にもかかわらず、

1043番歌の目録がありません。無いという部分において波野天神の伝承歌の

後半が無いのとそっくりです。

もしかして後半部の無い伝承歌は万葉集の1042番歌と合わせ歌になっている

のではないかと気付きました。試しに合わせにしてみると、ピタリと合います。


先ず万葉集の1042番歌をそのまま引用してみます。

一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも

そして伝承歌と市原王の歌とを合わせると次のようになります。


こかれよる 波野府の浦に 居る雁の 声の清きは 歳深みかも
 こかれよる はのふのうらに いるかりの こえのきよきは としふかみかも


実にピタリと合います。 さらにこの合わせ歌を、巻第二 182番歌と並べてみますと。

とがき立て 飼ひし雁の児 巣立ちなば 檀の岡に 飛び帰り来ぃね

こかれよる 波野府の浦に 居る雁の 声の清きは 歳深みかも

こうして並べてみますと、実に物語性に満ちています。182番歌で巣立って行った雁達が、

長い歳月を経た後に帰郷して来たようです。その歳月は万葉集の 182 と 1042 の歌の

隔たりでもあります。だからこそ歳深みなんでしょうね。

万葉集の目録に1043番歌が欠落させてあるのは、伝承歌との連係を意味しているのです。



 波野天神の伝承歌は今まで菅原道真の作品とされてきました。

 この神社が菅原社である以上、仕方の無いことですが、実際には、

はるか昔へとさかのぼるようです。










 さらに、万葉集の1042・1043番歌を並び合わせにした場合、次のようになりました。


万葉集 巻第六 1042

一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 笙の清きは 歳深みかも
 ひとつまつ いくよかへぬる ふくかぜの しょうのきよきは としふかみかも

右一首 市原王作



万葉集 巻第六 1043

御霊良く 齢は知らず 松が枝 結ぶ心は 永くとそ思ふ
 みたまよく よはひはしらず まつがえだ むすぶこころは ながくとそおもふ

右一首 大伴宿祢家持作



 松とは神域の比喩であり、神社のことです。歌の意味は、「一(市)の神社は世の風にもまれながら

何代を経過してきたのだろう、笙の音が清らかなのは永い年月を経てきたからか」という内容です。



 笙の部分の原文字は「聲」になっています。そのことから、今までは「こえ」とか「おと」と解釈されて来ました。

 声とすると、誰か祝詞でも唱えているのだろうかとなり、音と読むには少し苦しいところがあります。

 この歌では「しょう」と解読して楽器の「笙」をあらわしています。



 「笙」 しょうのふえ。形は(う)に似て、十九管、または十三管ある。

 「(う)」 ふえの一種。笙の類で、昔は三十六管あり、後世は十九管となった。

竹の管の短いものと長いものを並べ、鳥の翼の形にかたどった楽器。



すなわち、歌の並べ合わせによって「声」と「笙」の二種類の読み方があることになります。

かなりややこしいとは思いますが、そうなります。












この波野天神の数百メートル北西側に今でも 「塩坪」(しおつぼ) という地名が残っています。

そうしたことを見ても、波野天神の創建当初は、塩の神として祀られた、と考えられるのです。

やがて、海の後退と共に塩の神は沖へと移転します。そして、空になった元の神社には菅原道真

という新しい神を迎えて地域の守り神として崇められるのです。






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波野府天満宮 方位線分析


計測値
北緯 33度57分20.6秒
東経 132度03分13.4秒
位置精度 +− 3m

拝礼方位 20度




島根県出雲の広域図です。赤ラインが拝礼方位線です。





同じく「神西湖」の辺りの拡大図です。




同じく拡大図。 赤ラインの左側に平行して走っている線は女体社の線です。






出雲大社周辺の拡大図です。 もっと拡大したのが下の図です。








猪目洞窟遺跡の近くを通過します。 猪目洞窟を正確に指しているのは女体社の線です。

猪目洞窟遺跡からは南方の「ゴホウラ貝」を付けた遺骨が出土しています。

その事は山口県の土井ヶ浜遺跡と連携していることの証しでもあります。

それを証明しているように波野天神の左方位線は土井ヶ浜遺跡を指しています(後述)。





猪目町を通過した方位線は図の地点を指しています。





こんどは波野天神の社殿に向かって左手方位線です。 土井ヶ浜を指しています。


以上の方位線を見て、波野府天満宮は、出雲大社と、土井ヶ浜遺跡を指していることになります。

それは、遺跡から出土した南方産 「 ゴホウラ貝の腕輪 」 とも合致することを付しておきます。




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