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  般若皇大后宮  (第1回)          



 般若寺駐車場から眺める大畠瀬戸。    
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 山口県平生町宇佐木(うさなぎ)という所の山中に般若寺という真言宗の寺があります。
 聖徳太子の父、用明天皇の勅願(ちょくがん)により、恵慈和尚を開山として創建された古刹です。
 恵慈和尚より今に至るまで八十九代を過ぎ、千四百年になろうとしています。

 寺の由来は、ふもとの海域で水難に遭った般若姫の菩提をとむらうために、
 般若姫の父である豊後の満野長者が建てた寺だと伝えられています。

 寺は室津半島の付け根辺り山中の高台に在り、大畠瀬戸の展望はもとより、
 往古の「からと水道」を経て麻里府に至るまでをも見渡せる位置に在ります。

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 般若寺へ通じる本来の道。 昔はこの道を通って参詣していたそうです。
 今は室津半島スカイラインが寺の境内を通過していて、車で参詣できます。
 この旧道を真っ先に載せたのは、この本来の道から考えてこそ、複雑な境内が理解できるからです。

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 般若姫物語を地元では口伝によって語り伝えてきました。
 しかし、口伝というものは語り伝える時々によって変化するという欠点があります。
 そうしたことを物語っているかのように、周辺地域でも所によって内容に変化が見られます。
 近年になって、そうした諸々を払拭するかのように、般若寺から一冊の本が公開されました。
 その本は永い間、寺の秘蔵本として一般の目にふれることなく、大切に保存されてきた物です。
 その本の名を「満野長者旧記」と申します。




 今までの考え方としては、般若姫物語は全国的に見られる伝承であり、
 単なる架空の物語であろうと思われてきました。
 どうして同じような物語が全国的に散らばっているのでしょう。

 全国的に散らばっている理由を考える時に重要になるのが、仏教書でもあるという事です。
 般若姫物語は、ひとつの物語に仏教の教えを絡ませた仏教経典でもあるのです。
 仏教経典はありがたいもので、お経には人の生き方がすべて解かれてある、と言ってもいいでしょう。
 そして、その経典を伝え残し、広めてきたものが写経です。経典の原本を書写して頂いて帰り、広める訳です。

 般若姫物語はそうして仏教の広がりとともに全国的に広まっていったと考えられます。
 物語はやがて、それぞれの地域の風物や伝承とも混ざり合い、それぞれの地域に定着していくのです。




 ここで参考までに平生町教育委員会出版の「般若姫物語」より、資料編「各地伝説の特徴」を引用させていただきます。
 引用許可は頂いていますので書き添えておきます。(引用許可番号・平教委第1527号)


 般若姫物語・資料編より「各地伝説の特徴」      

 (1) 関西方面に於けるこの伝説が多く仏閣に伴い、また竜神伝説と混交するのが、東北地方では神社と結び白鳥伝説が入っていることは面白い対象である。
 (2) 姫は絶世の美人であったことはこの伝説の重要な点で、各地の伝説に通ずるが、皇子との間に出来た御子は東北では王子であり、九州では姫(玉絵姫)となっている。 古くは東北地方、九州地方共に聖徳太子がその御子であったと信じられた形跡がある。 
 (3) 姫は主要人物の1人であるが、その名は東北地方では玉依姫、九州地方では玉世姫、姫島及び周東地方では般若姫と称せられている。 

 日本各地の神社、仏閣の縁起や事物地名にからまって、真野地伝説は甚だ広く分布されている。これらの伝説は時代的に見て内容に変遷の跡が認められると共に、その土地の都合により、話の一部を強調する関係上それぞれ変化が認められる。炭焼長者伝説と言うのが色々あるが、その一種は真野長者伝説と同系統のものであり、般若姫伝説、草刈山路の話と称せられるのもその変型の一つである。そして寺社の縁起をお互いに伝写し合って交流し、一番面白く書かれたものに統一された形跡がある。例えば中国地方、四国地方の寺々の縁起は九州の三重蓮城寺のものが多くその原典になっていることは各縁起の奥書を見れば判る。何と言ってもこの伝説の本場は大分県で、三重町の地名起源、蓮城寺の縁起を始めとして多くの遺跡が伝えられている。一般に名高い臼杵の深田石仏、今は無いが紫雲山満月寺、次いで国東半島の前にある姫島に残る般若寺、四国では高浜の太山寺が中心となる。山口県下では萩玉江の観音堂にも及ぶが、柳井の地名起源は古くから氏伝説によって裏付けられ、平生町の般若寺はもとより大畠瀬戸及びその周辺には至る所に、この伝説に結ばれた遺跡や地名が数えられる。元よりこの伝説により柳井などの名称起源を信じるものではないが、数百年来地方の人達の心の中に根強く伝えられたこの伝説を、無下に排除することには反対で、民族的な立場から一層興味を持って追求してみたいと考える。それは「古事記」や「風土記」に数々の地名起源の記事があり、それが荒唐無稽であっても別な立場から見て貴重な資料であると考えるのと同じである。
 こうした伝説を紹介したり、小説などに書かれたものは数多くあるが、伝説そのものの内容を追求した研究は多く知らない。吉田東伍氏の「日韓古史断」や柳田国男氏の研究は非常に参考になる。江戸時代の学者伊勢貞丈、鶴峯戌申等にも教えられる所がある。又この伝説を骨子として有名な浄るり「用明天皇職人鑑」を書いた近松門左衛門の作品も興味ある研究題材である。
 この伝説が潤色されて委しく書かれたのは、恐らく江戸時代に入って完成されたように思われる。その代表的なものは蓮城寺の縁起三巻「真野長者由来記」と考えられる。平生町の般若寺の「満野長者旧記」はその奥書にある如く、明らかかに蓮城寺縁起を元としてこれを写したものであるが、蓮城寺のものは漢文調で仮名は片仮名、これに対して般若寺のは平仮名である。これらを基にして重点的に省略されて伝えられたものに太山寺、明顕寺、湘江庵等のものがある。
 さて私共の周辺には炭焼小五朗、草刈山路、般若姫、竜灯と説話が多い。数百年に亘って伝えられてきた民族的の美しい夢を郷土史から捨て去ることは余りに潤いを失うものがある。史学的の解釈も重要であるが、民俗の歩み来った姿を静かに眺めんとする時、我々の立場から見て、この伝説のもつ価値を相当高く認めたい。  


 (以上、平生町教育委員会発行・般若姫物語資料編より引用させていただきました。) 




 物語は長大な文章のため、ここで部分引用するよりも、本を読んでいただくのがいちばんです。
 平生町教育委員会発行の「般若姫物語」を全部読んでいただいたとして進みます。
 本の購入は、一般書店にはありません。平生町歴史民俗資料館に問い合わせてみてください。




 現在、般若姫の陵墓は般若寺境内にあり、大畠瀬戸を見おろしてひっそりとたたずんでいます。
 聖徳太子・鞭の池と呼ばれている龍神池も、陵墓のすぐ下にあります。
 初めて参詣しますと、物語ではあれほど栄耀栄華を誇った般若姫の陵墓にしては、あまりにも小さ過ぎるというのが第一印象です。
 般若姫の遺言では、「我死後は向うに見えたる高山の頂に埋め置くべし」とあります。山の頂です。
 この般若寺に参拝される人々は現実と物語との狭間で、やはり架空の伝説かと思われることでしょう。




 そこで、もう一度物語を読んでみますと、巻の四、通称題名「般若姫薨去・付たり贈官のこと」の段。
 そこには、こうあります。

 「〜今の世までもその墳墓あり、これ即ち魚の庄般若寺、かの姫の御菩提所なり。後世の人参詣し拝み給うなり。」

 この文の意味していることは、書写する段階において原典のまま書写したのではなく、加筆、改変されているということです。
 加筆された部分があれば、削除された部分もある可能性があります。
 そうして調べていって、特に重要だと思われる文献を見つけました。
 般若姫物語の本の資料編にもありますように「陰徳太平記 第二十九巻」です。
 引用してみます。



 陰徳太平記 第二十九巻より引用

 「〜隆景ハ由宇ヨリ上ノ関迄舟漕廻シ、近郷ノ一揆並ビニ大嶋ノ桑原等ガ人質取堅メ、既ニ帰ラントシ給所ニ、折節北風頻リニ吹キケレバ、伊保ノ庄ト云フ所ニ少時船ヲ駐メラル、其ワタリ、西北ノ間ニ当ッテ白雲カカリ、青松茂シテ高ク天ニ倚レル峯有ツテ、本間ヨリ甍ノ見エケレバ、イカナル所ニヤト問ハセ給ヒケルニ、アレハ般若寺ト申ス寺ニテ候。昔用明天皇筑紫ノ摩野ノ長者ガ娘ト契ヲコメサセ給ヒ、皇女一人儲ケ給ヒシガ、天皇ハ帝都ヘ帰ラセ給ヒテ後、長者ノ娘並ニ三歳ニ成ラセ給フ皇女ヲ都ヘ迎ヘサセ給ヒケルニ、アレナル鳴門ノ海門ニテ御船覆リ、皇女浪ニ溺レテ失セ給ヒ候、御門深ク嘆カセ給ヒテ、山作リニ課セテ、アノ峯ニ御陵ヲ築カセ給ヒ、観世音ヲ本尊トシテ一宇ノ伽藍ヲ建立シ、般若寺ト云フ額ヲ親ラ宸翰テ染メラレ候、所コソ多キニ、彼ノ山上ニ建立遊バサレ候ヒツル事ハ、永世鳴門ノ迫門(せと)ヲ越エン船ノ、乗ルベキ塩路ヲ知ランシメンタメニ、アノ峯ニ寺ヲ立テラレ、彼ノ寺ニ船ノ舳先ヲ向ケ、右楫左楫少シモ偏ラズシテ乗リ候ヘバ、海中ニ在ル所ノ太鼓岩、没体ナドイヘル巌ニ船ノ砕カルル事モナク、盤渦逆浪ニモ覆ラズシテ安穏ニ通ル事ニテ候、アノ寺即チ鳴門ヲ越エン船ノ水標トナシテ、末世ノ人ヲ助ケ給ハントノ御恵、何ボウ有リ難キ御事ニ候、門前ナル仁王殊ニ勝レテ利生深シトテ、衆生ノ渇仰他ニ異ニ候、〜」 


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 この文に登場する小早川隆景という人物は、時代的に豊臣秀吉の時代です。
 中国地方の戦国大名・毛利元就と繋がりのあった人物でもあります。

 文章のなかで特に重要なのが「西北ノ間ニ当ッテ」とある部分です。
 伊保庄から西北の方向に般若寺が見えたと語っています。  







 しかし、西北の方向と申しましても、伊保庄は広いです。
 さらに文献を読み進みますと、次のように記してあります。
 「彼ノ山上ニ建立遊バサレ候ヒツル事ハ、永世鳴門ノ迫戸(せと)ヲ越エン船ノ乗ルベキ塩路ヲ知ランシメンタメニ・・・」
 以後要約しますと、山頂にある寺に船を真っ直ぐに向けて進んで行けば海中の岩礁に当たることはない、と言っています。

 それを現在の般若寺の位置で考えますと、西進する時には確かに指標になりますが、
 現代の大型船舶ならともかく、それほど大袈裟でもありません。
 室津方面から北進して来る場合には、現在の般若寺は山の陰に入ってしまいます。

 そうして考えてみると、伊保庄の特徴として、からと水道の東側出入口に位置しています。
 もし、隆景が船をとめた所をその水道出入口付近だったと仮定してみますと、
 西北の方向には波野行者山(波野スフィンクス)が見えます。
 「高ク天ニ倚レル峯有ッテ」と、文献にある通りの山です。(下の写真) 



 広角にしているため小さく見えますが、実際にはもっと大きく見えます。 
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 次に、こんどは波野行者山と仮定して海路を見てみましょう。(下の写真)  




 大畠瀬戸にある笠佐島から「からと水道」進入口を見た写真です。
 画面の真ん中辺りが水道跡の進入口になります。
 進入口から水道の海路は波野行者山の方向に進んで行きます。
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 柳井市側から水道に進入すると、全体の構成は上の写真のようになります。


 さらに、本来の水道跡の最深部(海路)を探ってみますと、
 現代では、いちばん低い場所(海路跡)は道路になっています。(下の写真)



 この県道22号・柳井〜田布施線が水道跡の最深部あたりになります。
 今でも道路は波野行者山の方向に向かって進んでいます。
 この写真は実際に現地で見える大きさです。
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 こんどは、水道の西側・麻里府進入口(九州方面からの進入口)から入った場合を見てみます。




 平生町側(麻里府側)から水道に進入すると、上の写真のようになります。
 からと水道は波野行者山のふもとで右方向へほぼ直角に曲がります。その直角に曲がる所が八幡の瀬戸です。
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 水道のどちら側から進入しても波野行者山は海路の指標になることが証明されます。    

 この地に行者山という名の山は2峰あり、我々は頭に地名を付けて呼び分けています。
 「波野(はの)行者山」 と 「小行司(こぎょうじ)行者山」 の2峰です。
 波野行者山については今まで何度も説明して来ました。 本来、頂上は陵墓だった山です。

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 今まで載せた記事で波野行者山が含まれているページを抜粋しておきます。

 (海風想・第1巻)
 神籠石紀行 より 神籠石に見る万葉歌      

 イザナギ・イザナミ より 古事記と万葉歌に見る「泣澤女神」 その1   

 イザナギ・イザナミ より 古事記と万葉歌に見る「泣澤女神」 その2   

 神武東征 より 神武天皇・初代陵墓跡      

 万葉歌と共に より 万葉集雑考     

 万葉歌と共に より 23首を歩く・佐田の岡辺 188番歌      

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 波野行者山になぜ般若寺の前身が在ったのかを知るには、
 まず、現在の般若寺から理解する必要があります。




 現在の般若寺は、谷間を挟んで本堂と観音堂とが向かい合う形で建っています。
 上の絵図では左側が本堂、右側が観音堂です。
 どちらも丘の上に在りまして、本堂と観音堂の谷間に仁王門(山門)が在ります。
 観音堂のほうが般若姫と深い繋がりがあり、姫が崇拝した聖観世音菩薩は観音堂の方に安置してあります。
 そして、観音堂の脇に満野長者夫婦の墓があり、般若姫の墓は観音堂から石段で下ったずっと下の方にあります。
 つまり、姫の墓は境内の土手下に在ります。
 物語では「我死後は向うに見えたる高山の頂に埋めおくべし」の遺言とはだいぶ様相が違います。

 架空の物語だと言われるのも、こうした不自然な部分が多いからです。
 多くのナゾを解明するには、根本から研究してみる必要が出てきます。
 そうすることによって、現在の般若寺陵墓は本物であると証明できることに繋がります。

 では、しばらく般若寺を見て歩きましょう。




 聖徳太子・鞭の池と呼ばれていた池です。今は龍神池と呼ばれています。
 右上に見える玉垣(石囲い)が般若・用明陵墓です。
 赤矢印の所に龍神社と呼ばれる石祠堂がありますが、以前は白矢印の所に祀ってありました。

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 龍神池のほとりから観音堂の方を見たものです。
 赤丸印の所、土手の向こう側に山門があります

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 石段を登って行きまして、妙見堂の前です。
 ここで、参詣は石段を登って行きますが、歴史研究ですから矢印の方に行ってみます。
 矢印の小路の向こうに、わずかに鳥居が見えています。それが次のページの鳥居です。

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