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 伊保庄賀茂神社 第2部

 第1部からの続きです。




 室津半島の大星山より周防大島を望む。

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登由宇気神
とゆうけのかみ

こは外宮の渡相(わたらひ)に坐す神なり。


 この神は本来なら「由」が「よ」になって「トヨウケ」になるはずの神ですが、意に反して

「トユウケ」になっています。これには「由宇(ゆう)」という地名が織り込んであります。

今の岩国市由宇です。由宇(ゆう)はその地名通りに温泉の湯を地名の発端としています。


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 享和年中編纂「玖珂郡志」より

 須和名抄     由宇

 磐国府志     油宇

 熊野帳(寛永三)   由宇

 岩邑実記     湯村

 西遊旅譚     由

 「この名目、湊村道後に温泉湧き出す。いま慈雲院の下に薬師あり、湯の薬師と云う。

いまは山田の薬師と云う。そのほか、出合湯の尻の源左エ門居宅の下に湯のありしに、

不浄の杓をつけしより湯が出なくなる。その年、山口湯田の湯、湧き出す故、

この辺の者、彼の処へ湯抜けたりと云う。いまその在りし所、畠中に温かなる所あり。

寛政六年(1794)に出合の川端、岩の間に温泉出れども、川の入り隅故、取り立てガタシ。」


欄外・・・「道後ノ五右エ門 ト申者ノやしき、今ハやしき、尓べえ。慈雲院ノ山バナノ向ハ道前ト云。」

同じく欄外・・・伊与ニテモ道後・道前ト云。湯尻ノ湯ノ町ト云畠有之。湯気アリテ雪霜消ル也。」)


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上記の慈雲院という寺は今も存在しています。 しかし、古事記にはトユウケの神とあり、『神社』です。

神社としてみると、由宇には榊八幡宮という大きな神社があります。先述した慈雲院のすぐ近くです。



 榊八幡宮

 祭神 比淘蜷_ 仁徳天皇 八幡三神

 創建年代 不明

 記録では鎌倉時代の初期、建永年間(1207〜)が初見。



以下、私が現地取材をして特徴をまとめてみました。


 境内に七つの祠堂あり。さらに参道脇に一つの祠堂あり。森に椎の大樹。山麓からは縄文時代の石斧などが出土している(縄文遺跡)。


 かって明暦四年(1658)に建造されたと謂う巨大な楼門(ドウアトの門の可能性)があったが、2002年2月に不審火によって全焼した。

再建の予定を訊ねるに、「錦帯橋の名匠が建てた楼門だったので価値があった。再建の予定は無い。神事としても必要無い。」との説明だった。

ドウアトの門があれば、ドウマエの門もあります。名指しはしませんが、西の方に大きな楼門を持つ神社がいくつかあります。


 現在、東南北の三本の参道が昇っています。西側もあるにはありますが、本来の参道かは不明です。


 境内稲荷社の石鳥居に「 従五位下 佐伯朝臣則通 」という名が見えます。佐伯は万葉集にもあり、大伴と繋がりがあります。

万葉集で佐伯絡みの歌を挙げてみますと、404、405、406、627、628、630番歌です。この数は大島伊勢と同じ数です。また、

629番歌の大伴の歌を数に入れると、浮島伊勢(磐尾神社)を入れた数と同じになります。

万葉歌には、神の社が無ければ粟を蒔けるのに、と憂いています。そこには春日が出てきますから、やはり伊勢と関連しています。

榊八幡宮の沖合いには伊勢小島と呼ばれる無人島があることからも、鳥居の佐伯朝臣は伊勢に関係していることが推察されます。

なお、627番歌の白髪は、綿を意味しています。綿を栽培するには多量の水を必要としますから「をち水」を求めています。


 由来記特筆、玖珂郡志より欄外「往古、文明十三年五月三日、神幸、西方海辺之由。天保三年五月、鳥井田ト云ヨリ鳥居掘出ス。」とあり。

そのほか、周防大島神領にある大歳神社や木原延命院との関係を強調してあります。西方と記述してある意味は、周防大島の西方を言っています。

西方の沖合いは海上大三角のある場所であり、森ピラミッド(神山)に連係しています。榊八幡宮は、エジプト・ロシア直結大三角を形成している神社であり、

榊八幡宮は西方の海上大三角と繋がっているということの証明であり、さらには、エジプトの三大ピラミッドとも直結していることも証明されます。


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 以上の諸々の内容を総合すると、古事記に記載の「外宮の度相に坐す神(とつみやのわたらいにますかみ)」登由受気神とは、「由宇の榊八幡宮」だということになります。

ひいては、エジプトピラミッドの壁画文章に記載してある「ドウアト」とは、道後のことであり、由宇はドウアトに相当します。

そして、「ドウアトの門」というのが出てくるわけですが、それが下の写真の楼門だということになります。何度も再建されて来たのでしょう。




 榊八幡宮、楼門。 (今はもうありません。)

 境内側から撮影したもので、門の向こう側が石段になっています。

 再建の予定は無いというも、再度建てるなら、現代アートの感覚を盛り込んで千年先の人々をも魅了するような楼門にするといいでしょう。

また、そうする事がふさわしい門でもあります。古代エジプト人達が訪れる事を夢に見た「ドウアトの門」です。

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 楼門が焼けて後、約一年後に同じ位置から撮影した写真です。さびしくなりました。

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 豊石窓神
とよいはまどのかみ


 伊保庄賀茂神社縁起由来より (わかりやすいように簡略化してまとめました。)

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 天保十余年附出の盤窓神の小像と大像について触れておく。

 盤窓神 小像 弐神 勧請年号不分明

      大像 弐神 奉再興 呑神主

 元禄御根帳写には「盤窓神小像二神、余程古代の物と相見へ候得共、銘文不分明」とある。

問題は大像の盤窓神で銘記が明瞭でない。(以上、縁起由来より)


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 古事記には次のようにあります。


「〜次に天石戸別神、亦の名は櫛石窓神と謂ひ、

亦の名は豊石窓神と謂ふ。この神は御門の神なり。」


この文章からもわかるように、天石戸別神が石窓神(磐窓神)です。

 しかし、賀茂神社の由来では「盤(ばん)」の文字が使ってあり、当初これは「磐(いわ)」の間違いではないかと思っていました。

間違いかあるいは、盤を「伴」とするなら、伴奏神と読んで、三人の天女が舞い降りて琴を奏でたという由来を持つ琴石山を

意味しているのかとも考えたことがあります。ところが、拝礼方位線上にある雷山神護石へ行って、その意味が見えてきました。





 雷山神護石、北水門。

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 神護石紀行の章で書くと少し意味が薄れるかと後まわしにしていたのですが、取材中不思議な体験をしました。

 私が北水門の沢まで下りて写真撮影をしておりますと、水門の穴(窓)から人のウメキ声がするんです。

「ウゥーッ、ウーッ、ンォーン」というような幽かなウメキ声です。

そりゃあビックリしましたよ。深い井戸の底からウメクような声です。

私はもう全身鳥肌が立ちまして、飛んで逃げようかと思いました。

この穴から音が出る、という事を少しでも知っていれば、それほど驚かなかったと思いますが、

そういう話しは無かったですから腰が抜けそうなほど、びっくりしました。

それでも、中に誰かケガ人でも居たら見捨てることになると思い、恐る恐る覗き込んでみました。

当然誰も居ません。


 私は生まれつき少し難聴な体質なんですが、それでも聞こえたくらいですから、皆さんなら良く聞こえるはずです。

しばらくして、その状況が理解できてきました。  ああ、これはもしかして風のいたずらかなと。

 私はもう逃げ出したい気持ち半分で、バッグからタバコと携帯灰皿を出しまして、しばらくその不思議な音を聴いてみることにしました。

 「ピチャピチャバチャバチャフゥーゥー、ゥオーォーン、ふぅぅぅーぅーぅーんぉぉおおーーーん、

ピチャバチャピチャピチャ、チャポーン、ぼちょぼちょぼちょぼちょ、チャパチャパチャパチャパ、ヒューーーん、

んぉーーんおーーんーーーんおおーーーおーん

ちゃぱちゃぱちゃぱちゃぱ、ぼちょぼちょぼちょぼちょぼちょぼちょ・・・・・・永久に続く・・・・・・」

 水門の内部を流れ落ちる水音が大部分を占めているんですが、その水音をバックのリズムにして時折り

「フゥゥーウーンオォォーーン」というような風音が混じります。

風が水門内部を通り抜ける時にあの不思議な声を出していたんです。

これは音響効果まで考えて造ってあるようです。凄いです。

文字で音を表現するのは、なかなか臨場感が出せないんですが、

こんど行った時にはあの不思議な音色を録音してきたいものだと思っています。





 雷山神護石、北水門。

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 本題に戻りまして、

盤窓神(伴奏神)の意味を考えてみますと、盤窓神と石(磐)窓神は同一神だということになります。

伊保庄賀茂神社は雷山神籠石を指し示しています。そして伊保庄賀茂神社の祭神は盤窓神です。

上の雷山神籠石の北水門を見ましても、盤窓神は石(磐)窓神であるということになります。


以上の内容を、さらに重複させて証明している歌が万葉集にありまして、先述した佐伯朝臣と繋がっています。

巻第四の 627〜630 番歌です。それらの歌に「白髪」が出てきます。白髪の意味するところは綿花です。

白髪に関する余談として、有名な吉野ケ里遺跡の近くに帯隈山神籠石がありますが、そこには白鬚神社と

いう社がありまして、それを見ても、綿は白髪とか白鬚などと呼ばれていたことがわかります。そして先述した

万葉歌は綿花を意味する歌であり、石城山と雷山を繋いでいるのは佐伯であることになります。すなわち、

古事記にある石窓神とは雷山神籠石のことであると立証されます。


雷山神籠石遺跡を分析してみますと、神籠石築造の初期の列石加工方法と、後期の加工方法とが混在しています。

神籠石の初期の遺跡は石城山神籠石であり、欠陥だらけであることから証明されますが、雷山神籠石も同じように

欠陥だらけな部分と、欠陥型から改良型へ移行する段階での加工する設計に迷いがあります。

そうした部分が半々ぐらいで混在しています。ということは、石城山についで古い遺跡であります。

よって、万葉集の佐伯関連の歌の順は神籠石築造順になっていると言えるのです。

404番歌〜のが周防を詠み、627番歌〜のが福岡県を詠んでいます。

ちなみに、630番歌の「初花」とは、綿花の花を言っており、綿は花が散った後に綿が出ますので、

花が早く散ってくれたほうがいいわけです。それを散ることをよどんでいる、と風流に詠んでいます。



 石窓神である雷山神籠石の北水門の上には、筒城神社跡があります。

近世まで存続していた神社ですが、古事記には「筒城の宮」の歌というのがあります。

「山白の 筒城の宮に もの申す 吾が背の君は 涙ぐましも」。

夜麻志呂能都都紀能美夜迩母能麻袁須阿賀勢能岐美波那美多具麻志母


意味は、ねえ筒城神社さん聞いてくださいな、といった感じでしょうか。

特筆は「吾が背の君」です。万葉集にも「吾が勢」と詠んでいる歌があります。

波野行者山(波野スフィンクス)と石城山の関係を眺めて詠んでいるのですが、

そうすると、古事記の歌は筒城の宮が雷山であり、吾が背が石城山だということになります。


 歌が定型で完成の域に達しており、古事記の歌中でも最終歌の部類に入る歌だと思います。



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 伊保庄賀茂神社由来記に戻りまして。

 由来記にある「呑神主」とは、「神(神武)を恐れない主」といった意味を持っており、五十鈴姫のことです。

呑(のむ)の文字は酒を連想します。酒と言えば古事記にこんな歌があります。


 須須許理が 醸みし御酒に 我酔ひにけり 事無酒 笑酒に 我酔ひにけり
 すすこりが かみしみきに われえいにけり ことなぐし えぐしに われえいにけり

 道の後 小機乙女は 争はず 出し日を子女は 麗しみ想ふ
 みちのしり こはたおとめは あらそわず でしひをしじょは うるわしみおもう

 道の後 小機乙女を 神の児と 聞こえしかども 相枕まく
 みちのしり こはたおとめを かみのこと きこえしかども あいまくらまく

 品陀の 日の皇子 大鷦鷯 大雀 佩かせる太刀 歯の剣 末婦よ 布記載す カラァが塩記の さやさや
 ほむたの ひのみこ おおさざき おおさざき はかせるたち はのつるぎ すえふ ふきのす からがしおきの さやさや

 樫の上に 横臼を造り 横臼に 醸みし大御酒 うまらに 聞こしもち食せ まろが父
 かしのふに よくすをつくり よくすに かみしおおみき うまらに きこしもちおせ まろがち





 柳井市水口茶臼山古墳

 大巳貴命と書いて「おおあなむち」と読んでいますが、「おおみき」とも読めます。

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 記紀にある歌は、現代の57577という形式に完成する前の、言わば我が国の歌の原点とも言えるものです。

 本来は歌だけ記した木簡(竹簡)のような物が残っていて、その歌から物語が派生されたのだろうと思います。

その歌の解読は困難を極め、物語と現地の内容を相当に理解してこそ初めて解読が可能になります。


上の五首の歌は、時間的な経過順に並べ替えて引用したものです。

これは木花の佐久夜姫の神話と共通しています。

ということは、古事記の上中下巻は全て同一年代の出来事であるということになります。

おそらく初代ヤマトが滅びた重大な出来事を、各天皇に背負わせる形で記したと思われます。



 そんな有り様で、わからなくしてしまおうとした感じもあり、

どうして、わからなくしようとしたのかと思いめぐらしてみますと、

この歌の五十鈴姫という女性は初代ヤマトの子供達を戦乱から守るため、

子供たちを引率して安全な地域(国)へ疎開させた女性です。

そうした事は万葉集にも長大な漢詩文として記録してあります。

末裔をわからなくして守ろうとした形跡が伺えます。

古事記は子事記でもあるのですから。


しかし、そうして守られた末裔たちも、享保十七年に害虫のウンカによって起こった飢饉によって全滅したそうです。

大恩寺という寺にはその時の飢民の供養塔があり、今でも慰霊供養されています。

そうした訳で、現在の人々は、後継ぎで入って来た人々だそうです。 つまり、末裔ではありません。





 伊保庄賀茂神社の前面にある「烏島」。

 賀茂神社は右手方向にあり、鳥の後頭部を見て立っている形になります。

 これは烏の形が明瞭な時の写真です。今は鼻の部分の木が成長して、少し人相(鳥相)が変わってきました。

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五十鈴姫が詠んだ可能性のある歌が古事記にあります。

古事記・上巻の最終歌になっています。

歌の体裁が現代の歌と同じ57577になっています。

完成の域に達していることを見ると、五十鈴姫が晩年に

詠んだのかもしれないと、想像は膨らみます。





沖つ鳥 賀茂づく島に 我が帰し 妹は忘れじ 世のことごとに
おきつとり かもづくしまに わがいねし いもはわすれじ よのことごとに

(口語訳) 沖で群れ飛ぶ鳥たちよ、賀茂づく島に私は帰依した、女たちは忘れないよ、後の世のことごとまでも



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万葉集では二十三首のなかに織り込んであります。

 万葉人達は神殿の在った所にツツジを植えてかたどり、その方位を後代に伝え残しました。


見ず伝ふ 磯の浦廻の 石つつじ 茂く咲く道を 又も見むかも
みずつたう いそのうらみの いわつつじ もくさくみちを またもみむかも

(口語訳) 無いままに伝える石つつじが咲き茂っている、ここにあったという五十(いそ)の宮をまた見たいものだ

諸本によっては「石上乍自」とあるものもあります。しかし、本の書写された年代から見ると、「石乍自」が古いです。


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 室津半島賀茂五社、正真正銘初代の賀茂神社です。

 しかしそうは申しましても、初代の賀茂神社は人々の大移住(遷都)と共に解体処分されたのかもしれません。

そして、ふたたび再建されるまでにはどのくらいの年月がかかったことでしょう。数年程度かもしれないし、

数十年、あるいは百年以上かかったかもしれません。神代人達は社殿の方位を伝え残すために

礎石をかたどってツツジを植え、その方位を後代に伝え残しました。そうしたことを思うにつけ、

神代人達の選んだ道です。賀茂本宮は、やはり今まで通り京都の上下賀茂神社でなくてはならないと思います。


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初め天皇、難に遭ひて逃げし時、その御陵を奪ひし、いかん老人を求め、

是を求め得、勧請にて飛鳥河の河原にて参会、その族の膝元の筋を絶つ。

是をもちて今に至り、その子孫を置いて倭に上りし日は、必ず自ずから傾くなり。

もとより良くその労ある所を見しめき。故、その地を示す謂れなり。 (隠し文解読・私)





からと水道跡の余田・新庄の辺りから見て、波野スフィンクスに日が沈むのは夏至の頃です。


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 波野スフィンクス頂上の桜を撮影。





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