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神武天皇暗殺と最初の陵墓


神武天皇という名は物語上の仮の名であり、実際には初代ヤマトを滅ぼした渡来の人物であることは

前章からここまでの経緯をたどっていただければ明確です。では、その死因について、今までは架空の

人物とされて来たために根拠となるものがありませんでした。古事記では百三十七歳まで生きたことが

記してありますが、それは陵墓か又は神霊を祀る神社の存続年数を言っていると思われます。つまり、

墓の改葬や、神霊を祀る神社の移転をするまでの年数です。では、死因についてはどうなんだろうと

記紀を読みましても記述に触れてなく、老いて自然に亡くなったのだろうか?という疑問が出てきます。


記紀の記述については、今まで何度も書きましたように、現代のような言論出版の自由などというものは

無い時代です。変な事を書けば即刻捕らえられて刑罰が待っています。ですから、真実を書くには敵に

気付かれない裏読みの手法で書く必要があります。記事の表面上は、服従しているように読ませ、実は、

ある点を繋ぎ合わせると事実が浮かび上がってくる、という文章手法です。その繋ぎ合わせる最初の基となる

点を見つけ出さない限り永遠にわかりません。書いた人は命懸けで書くのですから易しいものではないです。


そうした当時の事情を前置きした上で、最初に気付く基となる記述は、古事記の神武天皇の終りの辺りに

書いてあります。誰が暗殺したのかは当然書いてはありませんから、諸々の断片を繋ぎ合わせて、読む人が

見つけ出す必要があります。古事記には、暗殺しようとしたけれども手足がわなないて(震えて)一度目は失敗

したことが書いてあります。その時の言葉に「吾は仇を殺すこと能はず(できない)」とあります。仇討ちです。

『 仇 』とあるその一文字こそ暗殺されたことに気付く最初の基となります。


では暗殺したのは誰になるのだろうかと古事記を熟読しますと、倭建命(ヤマトタケル)の章に記してあることが

わかってきました。熊曾建(クマソタケル)の背をつかんで剣を尻より刺し通した、という記述です。その熊曾建こそ

神武天皇の事です。その訳は、熊曾にありまして、神武天皇が亡くなって葬られた所は、波野スフィンクスの頂です。

自分専用の墓ではなく、ぶん盗った墓ですが、その山は熊が伏している形をしています。だから熊曾なのです。


物語では、熊曾には兄と弟がいますが、それは殺されたウカシ兄弟に代わっての仇討ちを意味しています。

そして、ヤマトタケルの物語にこんな歌があります。「乙女の 床の辺に 我が置きし 剣の太刀 その太刀わや」

そして歌は続きます 「懐きの田の 居ながらに 稲殻に 這ひもとふろふ 所づら」 この歌こそ暗殺の場面です。


歌は神武天皇になり代わって詠んでいます。歌には「乙女の床の辺に」とありますから、暗殺したのは女性です。

夜床で共寝をしていたのでしょう。油断したすきを突いて尻から剣を突き通します。なぜ尻からなのかという訳は、

暗殺を隠すためです。「這ひもとふろふ」方言が入っており、「だらしなく這いまわる」というような意味です。

半死の状態で家屋に火を放ちます。そうすれば古代のことですから、検分は焼死で片づきます。

火を放つということについては、佐久夜姫の仇討ちの意味もあったと思われます。


火を放った時の状況は履中天皇の章に歌にして入れてあります。

@ 「多遅比怒迩 寝むと知りせば 立つ(焚く)薦も 持ちて来ましもの 寝むと知りせば」

A 「波迩布坂 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群 夫が家の辺り」

B 「大坂に 会ふや乙女へ 道問へば 直には告らず とぎ待ちを告る」


@ の歌、「たぢひのに」 と読んでいます。これはたぶん「遅いのに」ではないかと思います。

時間的に夜遅い、という意味だろうと思います。それをストレートに書くと、バレてしまいますから、

多遅比怒迩、と書いて野原を思わせてカモフラージュしたのではないかと思います。「立つ薦」も同じ理屈で、

ほんとは火を焚きつけるための薦を言っており、「焚く薦も」と書きたかったのではないかと思います。


A の歌、「はにふざか」 は存在しない仮称の坂道であり、その丘に逃げて来て振り返ると夫の家群が燃えている。

歌では夫の部分を「都麻」とあります。古代の「つま」は配偶者の一方をさす言葉であり、現代のように男性から

女性を指しての妻ではありません。ですから、古代には女性側から男性を「つま」と呼ぶこともあります。

この歌の場所を特定できるのが 「かぎろひ」 とある言葉です。万葉集の巻第一の 48番歌に同じ言葉があります。


B 大坂、これも仮称の坂道であり、実在の名ではありません。続いて「会ふや乙女へ」 の、「へ」の部分。

原典文字は 「袁」 の字を用いています。読み方は「オン」と「エン」とがあります。歌の流れに相応しいのは

「エン」の方です。したがって 「乙女え」となり 「乙女へ」です。続いて、「とぎ待ちを告る」の部分。

「とぎ」とは方言でありまして、「仲間内」というような意味があります。したがって、仲間内での合い言葉を告げる、

ということになります。たとえば、片方が山と言えば、片方が川と言う、合い言葉で仲間内を知る訳です。

大坂で乙女に会ったら道を尋ねよ、ならば、「とぎ待ち」と答えるだろう、と、まあ、そんな感じでしょうか。

そこからは味方のお供が引き連れて証拠作りの逃避行が始まったと推察できます。



では、最終的に暗殺を決行したのは誰かということに言及します。

上記の歌が入れてある物語の段落は石上神宮で完結しています。そして、その後に続いている章も石上神宮で

ほぼ完結します。それは物語が同じ意味を持っていることを暗示しています。なぜ同じ内容であるかを説明します。


履中天皇の段。通称 「水歯別命と曾婆訶理」 の物語です。 「ここに曾婆訶理、己が王の厠に入るをひそかに伺い、

矛を以って刺し殺す也」 この部分は大物主が川を流れ下って結婚した物語と共通性があります。物語は続いて

「曾婆訶理、吾がためには大き功あれども、すでに己が君を殺す、これ義ならず。然れどもその功に報復せずは

信無しと謂ふか。すでにその信を行なふ、かへりてその情賢し。故、その功に報復せども、その正身を滅す。」

この部分、これは顕宗天皇の「置目老媼(おきめのおみな)」の段から「御陵の土」にかけての段と同じです。


御陵の土に登場する人物は意祁命と袁祁命です。意祁命は「沖の命」と読みます。袁祁命は「荻の命」と読みます。

沖の命は推古天皇のことです。そして、荻の命は聖徳太子のことです。荻の命の古墳は最初に石城山の

高日ヶ峰の頂上でしたが、後にふもとの納蔵原古墳に降ろされ、やがては近畿へと改葬されます。

万葉歌にも「東の荻の御門にさもらへど」という歌がありますから、荻と読んだので良いと思います。

その納蔵原古墳の前方部は麻里府の阿多田古墳へ向いています。納蔵原古墳から見て沖になります。

阿多田古墳は、大野の丘の上(箕山)で殯をした後に麻里府沖の阿多田島に埋葬されます。推古天皇です。


さらに、推古天皇の名を「豊御食炊屋姫の命(トヨミケカシキヤヒメノミコト)」と言います。この名はあまり良い名

ではなく、飯炊き女という意味です。万葉歌にも「膳にあれこそ鬱蝉も」とありまして、やはり給仕に繋がります。

記録では天皇でありながら、なぜ飯炊き女なのかは、仇を暗殺するまで人質代わりの扱いだったからです。

日本書紀には、二人は寵愛(ちょうあい)されたとしてありますが、飯炊き女の扱いだったようです。

二人が天皇になったのは、仇を暗殺して後のことです。

これらの一連の繋がりを見まして、神武天皇を暗殺したのは女性である推古天皇だという結論になります。



しかし、神武暗殺も薄々敵側に知られていたらしく、まず最初に荻の命が暗殺されたようです。

そうした事は、古事記に歌にして入れてあります。崇神天皇の章です。


古事記 崇神天皇 (通称・建波邇安王の反逆)

いにしへは夜  ミマキイリヒコわや ミマキイリヒコはよ 己が弟を 盗び死せむと 知りっとよ

 い逝き違ひ まえっとよ い行き違ひ 窺はく 知らにと ミマキイリヒコわや


「いにしへは夜」の部分、諸本によっては書いてない本もあります。原典では「古波夜」とあります。

これは語り調子の頭に付ける枕詞であり、今でも「むかしむかし」と語り始めるあの調子です。

「古波夜」、この歌が聖徳太子の暗殺を語っているのだということを証明する大事な前置きです。

省いてはならない一節なんです。そのことは日本書紀の記述が伝えています。

私は日本書紀はあまり信用しないのですが、それでも、全編が書き変えられている訳ではなく、

部分的な書き変えや加筆なので、書き変えの必要性に気付かない記述はそのまま転写されます。

だから、重要な記述も残っていて、全部が虚偽だと言えないもどかしさがあります。

日本書紀・推古天皇二十九年にはこうあります。「廿九年春二月己丑朔癸巳半夜厩戸豊聰耳皇子命薨 」

訳しますと、「二十九年の春二月の己丑(つちのとうし)の朔(ついたち)癸巳(みずのとのみ)の

夜半に厩戸豊聰耳皇子命が薨ず。」 実際には返り点があって、「〜斑鳩宮で薨ず」となりますが、

原典では記述の間隔が不自然に開けてありまして、たぶん「〜是の時、斑鳩宮の諸々の王〜」と読むのが

本来だったのではないかと思います。返り点など後で加筆できますから。とにかく「夜半」で繋がっており、

古事記の歌の「古波夜」と日本書紀・聖徳太子の記述「夜半」は繋がっていることの証明です。



さて、歌に戻りまして、「ミマキイリヒコわや」、「波夜(わや)」とは無茶苦茶だという意味の方言です。

今でも使われている言葉です。「わやじゃー わやじゃー」と言えば無茶苦茶なことを意味します。



「己が弟を」の部分、原典は「意能賀袁袁」です。「袁袁」をどう解釈するかになります。

「わや」が多く入っていますから尋常ではない状況です。何か物を盗まれた程度なら

これほど「わやだわやだ」と騒ぎはしませんから、そうした状況を鑑みると

「意能賀袁袁」の「袁袁」は弟と解釈すべきだと思います。


歌全体を口語訳にしてみますと以下のようになります。


「ミマキイリヒコは無茶苦茶なやつ、私の弟をさらって殺した、知っているぞ、逝き違いになって、まいったぞ、

行き違いになって、おかしいと窺っていた、知らんとは言わせないぞ、ミマキイリヒコは無茶苦茶なやつ。」


こんな感じになるはずです。この歌こそ荻の命(聖徳太子)が暗殺された場面でしょう。

暗殺されたことを暗示しているかのごとく、顕宗天皇(御陵の土)の物語のすぐ後の仁賢天皇の冒頭には荻の命は

いません。記述には「荻の命の兄(いろせ)沖の命、石上の廣高の宮に坐して天の下治む也」とあります。

沖の命だけしかいません。廣高の宮も豪華なものではなく、そこに住んでいた、程度でしょう。


その沖の命も、最後はどうだったのか古事記には記してなく、わからないということになります。ところが、

日本書紀には、三十六年の春に病にかかり、それがもとで亡くなったとあります。南庭に殯の宮をもうけた。

そして遺言により竹田皇子の陵に葬ったとあります。古事記の記述とは全然違う内容です。

そもそも竹田皇子からして曖昧な人物で、敏達天皇と推古天皇が結婚してもうけた子、とありますが、

古事記の敏達天皇に記してある豊御食炊屋姫と、貝が付く名はすべて同一人物になります。

そうすると、竹田皇子という人物は虚偽の人物であり、実在していない、ということになります。


ただひとつ日本書紀の記述に接点があるのは、近畿の推古天皇陵は四角い方墳であることです。

なぜ前方後円墳にせずに方墳なのかは、大物主の最初の陵墓を見つければ、そのナゾが解けます。

大物主に関係している神社は光市三輪(旧称・美和)の三輪神社です。そこにある祠堂は田布施町の

国森古墳を指しています。国森古墳は四角い方墳です。つまり、その方墳こそ大物主の最初の陵墓です。

そこがわかれば、大阪府南河内郡にある山田高塚古墳(推古天皇陵)はなぜ四角い方墳をしているのか、

そのナゾが解けます。つまり、大物主と合葬なのです。そして、それらは麻里府の阿多田古墳から近畿へ

改葬した時の事情でそうした、ということになりましょう。よって、古事記がヤマトの初代(周防)を書き、

日本書紀は近畿へ移転してからの事情が記してあったと考えられます。そうした記述に手を加えています。

日本書紀の記述の多くは後世の創作であることがわかります。


では、推古天皇が亡くなった原因について研究してみることにします。


推古天皇は三十七年(日本書紀では三十六年)もの長い年月続いているにもかかわらず、

古事記の記述は異常とも言えるほどの短文です。古事記は推古天皇で終っています。それは

初代の地が推古天皇で終焉をむかえたことを意味します。最後まで初代の地で頑張った訳です。

だから出て行った人々が帰って来るのを待つという意味において松の木は神木になったのですが、

その頑張りは中央にとっては反逆行為にもなり得る訳です。推古天皇が亡くなった原因を日本書紀

には病気の悪化としてあります。それを信用すれば、どうと言うことの無い死因です。しかし、古事記

にはそうした事は一言も触れてありません。だいたい古事記は天皇の死因は書いてないのですが、

それにしても古事記の推古天皇の由来は短文過ぎです。どう考えても何か臭うものをぬぐえません。


そうして万葉集に何か詠んでないかと調べてみますと、姫島の松原に乙女の屍を見た、という歌が

あるのですが、その辺りの歌が事情の多くを語っていることがわかって来ました。その歌を説明します。

まず、中心となる歌から入ります。その中心となる歌から左右に振り分けて推古天皇と聖徳太子の事を

詠んでいます。歌の解説が長くなりますが、歌を理解してこそ姫島の乙女は誰になるのか見えて来ます。

中心となる歌は神武天皇の事を遠回しに詠んでいます。長歌ですが、全部載せてみます。


万葉集 巻第二 230番歌

霊亀元年、歳次乙卯の秋九月に志貴親王の薨ずる時に作る歌一首 并せて短歌

梓弓 手に取り持ちて ますらをの 鞆矢手挟み 立ち向かふ 高圓山に 春野焼く 野火と見るまで かがり火を 何かと問へば 玉桙の

道来る人の 泣く涙 地震に落ちれば 白妙の 衣丹つけて 立ちどまり 吾に語らく 何しかも もとな弔ふ 訊ねれば 泣きじし泣かゆ

語らせば 心ぞ痛き すめろきの 神の御子の 岡より 手火の光そ 幾ばく照りてふ



従来の訳とは異なりますが、原典に忠実に変えています。

この歌が神武天皇を詠んでいる事が明瞭に出ている部分として「〜 玉桙の 道来る人の 泣く涙 〜」

これは前で説明した古事記の歌を底辺にして詠んでいます。暗殺が成功して、お供と落ち合う場面 、B番の歌です。

万葉歌の作者は、暗殺当時を偲んで想像して詠んでいます。


長歌の解読について少し説明しておきます。特に難解なのが「〜地震に落ちれば〜」だろうと思います。

なぜ地震になるのかは、原典の漢字の二文字は存在しない漢字です。だから「無い」イコール「地震」です。

さらに、日本書紀・推古天皇七年に地震が起きて家屋がことごとく壊れた、とあります。そうしたことから地震です。

もっと追究しますと、地震は歌の白妙にかかっており、それは大野です。万葉集・巻第一 の 4番歌にあります。

その歌を解読歌で載せてみます。「 たまきはる なゐの大野に 馬並めて 朝踏ますらむ その草深野 」

平生町大野にある大野八幡宮の境内からは、綿花の石城山と、波野行者山(波野スフィンクス)がよく見えます。

230番歌の長歌の白妙は綿花の石城山をも意味し、さらに、手火の光は波野行者山をも意味しています。

そうした諸々数多の内容を見ますと、230番歌の長歌は神武天皇を意味していると解釈するものです。



次に、230番の長歌には短歌二首が付属しています。実際には四首ですが、それらの歌は、

「ウガヤフキアヘズノミコト(聖徳太子)」と、木花の佐久夜姫を意味しており、総じて聖徳太子を意味しています。

歌を載せてみます。


万葉集 巻第二 231番 232番歌

短歌二首

231 高圓の 野辺の秋芽子 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人無しに

232 御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに

右(上)の歌は、笠朝臣金村の歌集に出


或る本の歌にいわく

233 高圓の 野辺の秋芽子 な散りそね 君が形見に 見つつ偲はむ

234 三笠山 野辺ゆ行く道 こきだくも 荒れにけるかも 久にあらなくに



芽子と書いて萩(はぎ)と読むのだそうです。萩(はぎ)と荻(おぎ)とでは植物が異なります。

そもそも、高圓からして不可解なのですが、本来なら高日となるべきところです。

しかし、「たかひ」とすると言葉数が合いませんから、やはり最初から高圓だったのでしょう。

もしかして最初の字は高園(たかぞの)だったかもしれないと推測したりします。

この短歌の特徴としまして、別の本から引用している歌であるということです。


御笠山、石城山にこの名の山はありませんが、古来より続いているウワナリ社の祭神は

木花の佐久夜姫ですから母になります。そしてウワナリ社の方位は神花山古墳です。

そうした事実を合わせますと、御笠山とは、石城山の高日ヶ峰に並ぶ(少し低い)ウワナリ社の

山を仮称して言っていると考えられます。さらに、石城山からは大畠瀬戸の笠佐島がよく見えます。

いずれにしても、231〜234の短歌四首は石城山の高日ヶ峰の頂上にあったと思われる「ウガヤ

フキアヘズノミコト(聖徳太子)」の最初の陵墓を意識して詠んでいます。この四首が歌番号を見ても

わかりますように、中心の230番歌に対して左側に位置しています。



次に、中心の右側に位置している姫島の乙女の歌に移ります。まず、その歌を載せてみます。



万葉集 巻第二 228番〜229番歌

和銅四年、歳次辛亥、河辺宮人、姫嶋の松原に嬢子(をとめ)の屍を見、悲嘆して作る歌二首

228 妹が名は 千代に流れむ 姫嶋の 小松が末に つた生すまでに

229 難波 塩干なありそね 沈みにし 妹が姿を 見まく苦しも


黄色文字の部分は従来の訳を変えて載せました。そこから説明します。

「つた」ですが、「小松が末に」の部分、「小松が枝に」としてある写本もあるそうです。

もし従来の訳の「苔生すまでに」とするなら、松の枝に苔が生すまでに、といった意味になり、

普通、よほどの湿地帯でもない限り、枝に苔は生えません。抽象的に言っているのかなと原典の漢字を

調べてみますと、「蘿」「つた」になっています。「つた」なら枝に巻き付きますから意味が合います。


この歌の「姫嶋」は、大分県東国東郡の姫島を言っています。なぜそこなのかと申しますと、戦乱を逃れて

九州方面に疎開して行った子供たちが帰って来るのを待つ意味だからです。国東半島から山口県周防の地へ

渡るには島沿いを飛び石伝いに渡って行きます。姫島はその寄港地だったのです。その姫島で待っていれば

必ず寄りますから、会えます。それなら九州まで渡って行けばいいではないかと思うかもしれませんが、

九州の何処へ疎開して行ったのかは、それぞれのグループで分散していますから、わからないです。


さらに、疎開は何十年もの長期に渡ったようですから、疎開当時には幼少だった子供たちも成人しています。

引率者が健在ならいいですが、もし引率者が亡くなっていたら、子供たちは周防の何処へ帰ればいいのか

わからないです。だから寄港地である姫島で待つのです。姫島で待っていれば必ず会える、そういう意味です。

そうして歌を見ますと、「小松」は「子待つ」を掛け合わせていることが見えて来ます。



続いて 229番歌に移りまして、「難波方」の「方」は原典の文字です。ここは従来の「潟」ではなく、どこそこの方、

と言う方向性の意味を持っているのではないかと思います。難波の方、という意味です。この歌が推古天皇の

亡くなった時の状況を表わしているようです。この歌で推察すると水死したかと思われるのですが、歌の解読を

少し変えてみますと、また別の一面が現われて来ます。「潮干なありそね」の部分です。原典文字で載せてみます。

「潮干勿有曽祢」となっています。「勿 」は、ブツ・モチ・なかれ・です。「な」で読めますから、歌は「なあそね」とも読めます。

「潮干無ぁそね」、方言が入っており、「潮干は無いそうですね」という意味になります。潮の干満が無いのに沈んだ

というのは少し変ですね。そのことに関して、日本書紀の仁徳天皇十一年の十月にこんなことが書いてあります。



冬十月に宮の北の野原を掘って、南の水を引き、西の海へ入れた。その水を名付けて堀江という。

又、北の河のたまり水があふれるのを防ごうとして、茨田の堤を築いた。その時、築いてもすぐ壊れて、

塞ぐことの難しい所が二か所あった。その時、天皇の夢にありて、教えていわく。武蔵の人、コワクビ、

河内の人、茨田連コロモノコ、二人を以って河を祭れば必ず塞ぐことができる。そこで二人を探し出し、

に祈祷をする。ここにコワクビ泣き悲しみて水に没して死ぬ。その堤は完成した。ただ、コロモノコは

瓢(ひさご)二個を取りて塞ぐことの難しい水に臨む。二個の瓢を取りて水の中に投げ入れ、請いていわく。

「河神の祟りて吾を以って幣(まつり)をなす。これを以って吾を来らせるなり。我を得むと欲せばこの瓢を

沈めて浮かばずにしてみよ、ならば吾は真の神と知り、神水の中に入る。もし、瓢をえぇ沈めなば自ら偽りの

神と知らむ。何ぞ吾が身を無駄に亡ぼさむや。そのとき、つむじ風が俄に起こる。瓢を引いて水に沈めんとする。

瓢は浪の上を転がりて沈まず。こうこうと浮き、遠くへ流れて行った。これを以ってコロモノコは死なずて、その

堤は完成する。これは、コロモノコの勘によりてその身を亡ぼさずと聞く。故に時の人その二つの所を名付けて

コワクビのたつま、コロモノコのたつまと謂うなり。



この記述から人柱(ひとばしら)にしたという推察もあるようですが、ご覧のように祈祷です。特に黄色文字三つに注目。

黄色文字は原典の文字をそのまま引用しています。河伯とは、神であるということにに変わりありませんが、

「かはく」と読み、原義は中国の「黄河の神」にあります。ここでこの文字を使っている意味は大事です。

記述の他の部分は河神と書いていながら、ここだけ黄河の神「河伯 」の文字を使った意味は何だったのかと

推測してみますと、水を堰き止めているのは侵略国側であり、現地人の捕虜を使って難工事をしていることが

見えてきます。からと水道の難波は八幡の瀬戸になります。八幡の瀬戸から北へ少し登れば佐田です。

佐田から土石を運び降ろしたなら、佐田の不可解な、お尻がポコポコ飛び出ている形をした山跡のナゾが

明確になります。からと水道を堰き止める土石を佐田で採取して、不可解な山(丘)を形成していったのです。


それらの難工事を侵略国側がやったと解明できる記述として、コワクビとコロモノコの二人があります。

この二人は聖徳太子と推古天皇と受けとれます。そう仮定してみると、片方は死んで居ないですから、

神武暗殺の直前か、又は直後ということになります。やがては、瓢(ひさご)が大々的な意味を持ってきます。

瓢の意味するところは、土井が浜遺跡の万葉漢文で挙げました通りです。そうすると、この記述は被っている

ということにもなります。つまり、仁徳天皇の代で河川の工事をした、侵略された後に、水道を閉塞させるために

工事をした、そして中世に水道跡の荒れ野を開墾して田園にした。大きく分類してこの三つに大別されます。

古事記は事実を書き、日本書紀では古事記の記述を利用して被らせている、という結論になります。



では、最終的に推古天皇は何が元で亡くなったのか、それは般若姫物語が挙げられるのですが、これは母親と

混在しているので、こうだと明確にならないもどかしさがあります。ひとつだけ言えることは般若姫のことを

玉絵姫(タマエヒメ)と記していることです。玉絵姫は古事記の玉依姫(タマヨリヒメ)に相当します。そして、

タマヨリヒメが推古天皇です。そうすると、玉絵姫である般若姫は推古天皇であるということになります。


何が混迷の元になっているのかは、埋葬された墓です。般若姫は小山(万葉・香山)の頂に殯埋葬されます。

その記述で、すでに母親と混在しています。推古天皇は大野の丘の上であり、今の箕山です。箕山で殯を

した後に科長、つまり、箕山ふもとの阿多田古墳に本埋葬されます。そうした矛盾点を解消してくれるのが、

先に挙げた万葉歌です。「 難波方 潮干なありそね 沈みにし 妹が姿を 見まく苦しも 」 この歌こそ

推古天皇は何が元で亡くなったのかを明確に語っています。すなわち、水死です。しかし、泳ぎに長けた

海女は入水したぐらいでは死ねません。入水自殺を装おって暗殺されている、ということが疑われます。

敵方は神武暗殺を薄々感づいていて、その報復として暗殺された可能性はぬぐえません。


万葉歌の二首は片方に姫嶋があるので、迷わされますが、姫嶋の歌は大分県の姫島です。難波方の歌は

周防、からと水道の八幡の瀬戸です。八幡の瀬戸は今では山陽本線が通っていますが、海だった頃は

直角にカーブした狭い海峡だったことから航行の難所として「難ば所」と九州方言で語られていました。

その言葉がやがて「難ば」という地名になったのです。今は民謡の詞でしか存在しない地名です。


日本書紀、敏達天皇十四年春二月の記述。「 塔を大野の岡の北に建てて柱頭に仏舎利を奉納して祭りをした 」

この記述こそ推古天皇が亡くなった(暗殺された)場所であり、大野の岡とは今の赤子山(阿児山とも)を言い、

その北ですから、からと水道であることになります。般若姫の入水地点と同一地点になります。そこには海上に

浮かぶ仏塔が建てられていました。今でも俗に言う「 幻の濡れ田廃寺 」です。その幻の寺院こそ推古天皇(般若姫)

の霊を鎮めるために建立された海上に浮かぶ巨大仏塔だったのです。今の宮島のような体裁をしていたのでしょう。

ちなみに、古事記の敏達天皇の章には仏塔の記述はありません。日本書紀は後で都合良く加筆されていますから

記述の内容は年代順になってはいません。



神武暗殺のナゾ解明のまとめとして、暗殺の悲劇を万葉歌にしてありますので載せておきます。

注釈文は後の時代に記紀などを参考に推測して加筆されたものですからあてになりません。歌だけを見ます。


万葉集 巻第二 194〜195

柿本朝臣人麻呂が泊瀬部皇女と忍坂部皇子とに献る歌一首 并せて短歌

194 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 生ふる玉藻は 下つ瀬に 流れ触らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り なびかひし

嬬の命の たたなづく 柔肌すらを 剣太刀 身に副へ寝ねば 烏玉の 夜床も荒るらむ そこ故に 慰めかねて けだしくも

逢ふやと思ひて 玉垂の 越の大野の 朝露に 玉裳はひづち 夕霧に 衣は濡れて 草枕 旅寝かもする 逢へぬ君故


反歌一首

195 しきたへの 袖交はし君 玉垂の 越野過ぎ行く またも逢はめやも



憎い敵といえども育ての親を暗殺しなくてはならなかった悲しい出来事を後世の歌人が歌にしたのです。





 神武天皇・最初の陵墓跡

歴史の常識として神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイハレヒコノミコト)が神武天皇だということになっています。

ところが、その名は取り換えた名です。名を取り換える行為をしたことは、ヤマトタケルの神話でも明瞭です。

ヤマトタケルの神話は抽象的な物語にしてあるので、誰と誰の名を取り換えたのかは神話の名(仮称名)

を信ずるしかありません。つまり、ヤマトヲグナと、クマソタケルの名を取り換えてヤマトタケルになります。


この場面は先述した推古天皇が神武天皇を暗殺した場面を抽象的に書いたものであり、古事記の著者は

ヤマトヲンナ(倭女)と書きたかったのだろうと私は思っています。そして、クマソタケルは九州の人物として

ありますが、クマソ(熊曾)です。つまり、陵墓の形態が熊のようであることから採った名です。そういうふうに

物語は抽象的に書いてあります。 敵中において記録を残すにはそうするのがベストだったのでしょう。

その西征神話の末尾には原典文字で「参上覆奏」これを訳しますと「まいのぼりておおいごともうす」となります。

すなわち、隠しごと、なのです。


では、イワレヒコは誰の名を取り換えているのか、ということになります。それも古事記に抽象的に記してあります。

古事記の仲哀天皇、通称「気比の大神」の段にも名を取り換えた場面があります。

別ページと重複しますが、もう一度私の解読で載せてみます。



古事記 仲哀天皇 気比の大神

故、建内宿禰の命、その太子を率い禊せむとす。淡海および若狭の国を経歴の時、香を知るさきの角鹿に於いて

仮宮を造りて坐す。汝その地に坐す伊奢沙和気の大神の命、親の夢を見て言う。「我が名を以って御子の御名換えて欲し」

ここに言ほぎて申しし、「かしこし、命に従い換え奉る」またその神詔る。明日の朝、濱に幸でませ、まさに名を換えし幣立て待つ。

故、その朝、濱干りし時、幸行く。花滅ぼすイルカすでに一浦に寄る。ここに於いて御子、神に申さしめて云う。「我に意祁の名給う」

故、またその御名を称えて御食津大神と名付ける。故、今に於いても気比大神と謂う也。地震(なゐ)の地の花の名貸し人、そもまた。

故、その浦をたけりの血の浦と謂う。今、都八つが謂れ也。



この一節が、イワレヒコの名とどう関係しているのかと申しますと、意祁命の名が出ています。

意祁命の父親は古事記の顕宗天皇・置目老媼にありますように、市辺の忍歯王であり、それは仁徳天皇です。


仁徳天皇であることを証明する記述として、日本書紀にも名を取り換えたことが記してあります。

仁徳天皇即位前紀にあります。仁徳天皇が生まれる時、ミミズクが産殿に飛び込んで来た。そのことを

武内大臣に話すと、武内大臣の妻のお産の時にもサザキ(みそさざい)が飛び込んで来たという。

そこで互いに名を換えて、仁徳天皇のことをオオサザキ天皇と呼ぶようになった、とあります。

根本が絵空事な内容であり、この一節だけでは何を言いたいのかわからないですが、こうして

合わせてみると、記紀は連携しており、名を取り換えていることが明確になってきます。


古事記・仁徳天皇・女鳥王とハヤブサ別の段に、こんな歌があります。

多迦由久夜 波夜夫佐和気能 美淤須比賀泥

たかゆくや はやぶさわけの みおすひがね


おすひ(襲)とは、着衣の上に頭からかぶり、全身をおおうように裾まで長く垂らす上着。ということですが、

本文には、『女鳥王、機(はた)に坐して服を織る 』とありまして、『おすひ』とはありません。しかし、その前の

歌には 『女鳥の 我が王の 織ろす機 誰がたねろかも』 とあり、機織りになっているので迷わされます。

歌の『おすひ』とは、水のことであり、汚水を意味して、歌のハヤブサワケが誰であるのか確定させています。

仁徳天皇は水を運んでいました。人物の確定は、この歌に続く『ひばり』の歌に及びます。その歌を載せてみます。


比婆理波 阿米迩迦気流 多迦由玖夜 波夜夫佐和気 佐耶岐登良佐泥

ひばりは あめにかける たかゆくや はやぶさわけ さざきとらんさぁね


ハヤブサワケが仁徳天皇ですから、サザキは別人です。そのサザキをやっつけなさいと言っています。

サザキとは、初代を滅ぼした神武天皇のことです。この後に続く二首の歌が語っています。


はしたての くらわし山を 探しみと 岩描きかねて 我が手とらすも

はしたての くらわし山は 探しけど 妹と登れば 探しくもあらず


『岩を描く』の意味は方位線のことです。記紀や万葉歌で岩が出て来たら、社寺の方位線を疑うといいです。

この歌で、サザキが誰なのか明瞭に出ています。『妹と登れば』の部分です。

その意味は万葉三山歌・巻一 第 14番歌です。『 香山と 耳無し山と 合わし時 立ち見に来して 稲美国原 』

波野スフィンクスのふもとの香山に眠る姫の遺骨を波野スフィンクス(耳無し山)に上げたのを立ち見に来たという歌です。

この見物人が見た時にはまだ仁徳天皇(市辺の押歯王)の遺骨は頂上にあったと思います。

神武天皇は、その遺骨を東麓の天王原古墳に降ろして、自分がそこへ収まります。

はしたての歌は、そうした事情を皮肉って歌っています。


物語は歌から派生されたものが多くを占めますから、先ず歌を見るほうが有効です。

よって、大サザキ命が神武天皇であり、神倭伊波禮毘古命が仁徳天皇である、ということになります。そのことは、

とても大事で、なぜ私がこうも執拗に追い込むのかと申しますと、現在の神社の祭神にかかってくるからです。


神武天皇を祀る神社の祭神は、カムヤマトイワレヒコの名が古来からの祭神名になっているはずです。

古来からの祭神名が神武天皇の名になっているのはほとんど無いと思います。

もし、現状の祭神名が神武天皇なら、それは後世に記紀などを見て、イワレヒコだから神武天皇と

呼ぶようになったのでしょう。本来の祭神は神武天皇ではなく、カムヤマトイハレヒコのはずです。


ちなみに、古来から神武天皇を祀る神社は伊保庄賀茂神社です。古記録に明確にあります。

なぜ悪神を祀っているのかは、初代熊毛神社と密接な繋がりがありまして、初代熊毛神社は

大星山に在りました。大星山の箕山には神武天皇を祀る祠があり、そこは推古天皇の殯の宮跡です。

神武天皇は殯の宮の番をしている形です。そうした事情があり、初代熊毛神社の祭神をふもとに降ろす時に

殯の宮の番神も一緒に降ろしたのでしょう。伊保庄賀茂神社は古記録では本祭神でもある五十鈴姫が

邪悪な神を抑える形の祭神になっています。女王です。



では、渡来の侵略者である神武天皇の最初の陵墓は何処にあったのか、ということに入ります。

陵墓に関しては記紀に記してあり、その通りです。しかし、それは近畿方面に改葬されてからの記述です。

私見ですが、古事記に記してある天皇の記録の順番は改葬順が含まれているかもしれないなと思ったりもします。

もしそうだとしたら、なぜ最初に改葬したのかと申しますと、侵略者の陵墓は、他の天皇よりみすぼらしく造るためです。


近畿の神武陵は奈良県橿原市大久保町に在ります。町内の二か所の地点で考察が分かれているようです。

というのも、今の神武陵は中世に拡大造成をしているそうです。本来は平地に小規模な墳墓だったようです。

そして、墳墓よりも高い所に集落が築いてあったことから、天皇の陵墓を見おろす所に生活集落があっては

おかしいということで、論争にさらなる拍車をかけてきたようです。侵略者ですから見おろして正しいのです。


では、改葬前の陵墓はと申しますと、自分専用に造られた陵墓ではなく、元から在った他人の陵墓の遺骨を出して、

そこへ収まっていました。そうした事は古事記や万葉集にある記述の断片を繋ぎ合わせると見えてきます。

特に挙げておかなくてはならない記述として、顕宗天皇の段にある通称「御陵の土」があります。

陵墓の傍らを崩して仇をとっています。顕宗天皇は袁祁命であり、荻の命、それは聖徳太子の事です。

その時に崩した跡は今でも残っており、その場所にお堂を建てて役小角の木像が安置してあります。

考えますに、その崩した時に奈良県橿原市大久保へ改葬したのかもしれません。特筆は、その地名にありまして、

最初の陵墓は波野行者山(波野スフィンクス)の頂上ですが、その山の南側ふもとの小字を久保と謂います。




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波野行者山(波野スフィンクス)関連写真





南側の平生町人島付近から見たもの。

雲影で黒っぽくなっている山が波野行者山です。

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北側の、石城山・七合目付近から見たもの。


下の写真は同じ位置から広角撮影したもの。





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東側の柳井市水口茶臼山古墳から遠望。


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西側の光市三輪(古称・美和)にある三輪神社から遠望。

今は樹が茂って見えません。


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航空写真で見る現地

グーグルマップ撮影。




画面中央の小山には徳吉稲荷があります。

大内公園の東側の小字を今でも「東浦」と呼んでいます。山陽本線が通っています。

また、大内公園の南東側の小字を「塩坪」と言い、製塩に関係した地名です。


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行者山の南側ふもとを拡大した図です。

行者山に登るときは、上ゲ橋の東側の道から登ってください。図の登山口と書いた所です。

上ゲ橋の西側(図左側)の十字交差点の所にもあるのですが、それは古代の道で、迷いますから、

図の登山口と書いた所から登ることをおすすめします。乗用車は十字交差点の所に置けます。


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左下に白い小さな字が入れてある所が行者山の山頂です。

右上の辺りの田園には弥生・明地遺跡が広がっています。


ところで、画面中央の少し右側の森は巨大な前方後円墳に見えませんか?スフィンクスの尾のふもと・・・。


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波野行者山の遺跡


登山道脇の遺跡は別ページをご覧ください。(内部リンク)



頂上遺跡




上図は右が北です。

赤ラインが今の登山道です。

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北を上にしてみました。

左下が鼻先方向。 上右方向が胴体や尾の方向。 赤ラインは今の登山道。

黄緑色は、中腹に残る参道遺跡から、およそで導き出した古代の参道(石段)跡です。

石段は古代に取り払われ、別の神社に再利用されています。周防大島の北辰妙見宮の可能性があります。


この山頂遺跡が古代にはどんな様相をしていたのかを知る手掛かりとして、光市三輪の三輪神社があります。

下の写真は、その三輪神社のある「コンピラ山」を撮影したものです。行者山を少し縮小した感じの造りです。

電柱の先に鳥居が見えています。参道は頂上から真っ直ぐに下っています。波野行者山もこんな感じだったのでしょう。




コンピラ山。 頂上に三輪神社。




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波野行者山・頂上風景




登山道を登りきった所から見たもの。

コンクリートブロックの建物は行者堂です。木造だった物を昭和時代に建替えました。

 土を掘り崩した所に建ててあります。

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頂上から境内を見おろしたもの。

画面左に登山道があります。

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燈籠の石柱には「明和」(1764〜1772)の年号が見えます。

明和時代以降の年代、日本にはシーボルトとかペリーとか、有名人が多数来航しています。

オランダ、アメリカ、ソ連も来ています。なんで、わざわざ取るに足らないこのせせこましい日本にやって来たのか、

他にもいい所はたくさんあるじゃないですか。それを考えると、エジプトのピラミッドからの出土品の類いが浮上してきます。

彼らもまた、ナゾのホルアクティやドゥアトを目指していたのです。

明和の頃の、この山のふもとの地域は貧乏村で、石燈籠をあげられるほどの余裕はありませんでした。

そうしたことを考えると、外国からの来賓者に対して国をあげての装飾・荘厳をした、ことが見えて来るのです。



波野行者山関連は以下のリンクもご覧ください。

万葉歌のページに内部リンクです。

般若姫物語のページに内部リンクです。





古事記に見る戦乱の記述・その他。


古事記が隠し文で書いてあることは、これまで何度も触れました。

現状の解読は表面的な解読であり、歴史の真実を知るには裏読みをする必要があります。

 私が原典に忠実に解読してみましたので載せておきます。

なぜ都を移す必要があったのか、少し長文になりますが、「隠し文」の醍醐味を堪能してください。



古事記 仲哀天皇 神功皇后の新羅征討

(途中より) 軍勢、船を並べて門を行きし時、貝腹の巣など大小問わず悉く。温泉負けて明け渡すのみ。

順風多く発ちゆく。温泉乱れるままに。故、その温泉の波乱、新羅の国、押し上がり、もはや中つ国に到る。

ここにおいて箕の国の王移行。宋言う、「今より以後、天皇の命は随にて、身を馬韓となす。」 年ごとに戦争。

船腹の乾くことなし、梶櫂の乾くことなし。天地の友よ退くことなく仕え奉れ。故、これをもって新羅の国は

御馬甘と定め、百済の国は綿の屯家と定む。難事その怨情をもって新羅の国主の門に築き建て、

すなはち墨江大神の荒御魂を国守る神とし、祀り鎮めて(沈めて)遷都なり。



説明 「貝腹の巣など」ここは原典には「海原之魚」とあります。これを普通に訳すと、「うなばらのうお」となります。

しかし、後に続く記述を見ますと、海原の魚が船を担いで渡った、とあるのは何か空想事で冗長な気がします。

それで、この部分を飛ばして、後の記述から先に訳してみますと、海原は貝腹を表わしていることがわかります。

貝とは、猿女の君に出て来る「比良夫貝(ひらふがい)」のことです。その比良夫貝は、木花の佐久夜姫の記述の

少し前にあります。そうすると、木花の佐久夜姫は妊婦で腹に関係しますから、合わせて「貝腹」です。そして「魚」

魚の漢字は「ギョ うお さかな」と読みますが、もうひとつ、「 すなど  」とも読みまして、魚をとる意味があります。

合わせて「貝腹の巣など」、巣とは国のことです。少し苦しい解読かもしれませんが、後に出て来る戦乱の記述に

合わせると、この読み方しか無いです。


さて、日本の綿の歴史は 14〜15世紀頃が始まりであろうかと言われていますが、日本最古の歴史書でもある

古事記にはちゃんと綿があったことが書いてあります。原典文字で載せてみます。「百済國者定渡屯家」 返り点は

諸本を参照してください。訳しますと、「くだらのくには、わたのみやけとさだむ」 です。ここで大事なのは、それまでは

百済は綿の屯家ではなかった、ということです。日本の綿はインドから直接入って来ていますから当然なことです。


そもそも、インドからの仏教伝来と共に綿も入っていなくてはおかしいのです。

それを大陸からの伝来とするから歴史が新しくなってしまうわけです。考えてみてください、今でも古来の陸路での

シルクロードは大変な行程です。水は乏しいし、食料も乏しい。それを海路で往行すれば、比較的容易にできるはずです。

水は河口を探せば心配はありませんし、食料も魚介類でまかなえます。近代に日本にやって来たオランダにしても陸路は

使っていません海路です。歴史学者は大陸信奉者が多くて、なにがなんでも中国朝鮮で、海路など見向きもしないのです。

日本書紀には、インドからの渡来があったことがいくつも書いてあります。その記述は無視して大陸から伝来しているのです。

私は逆だと思います。先ず、インドから日本に直接入って来ています。神社のコンピラはインドなんです。





古事記 仲哀天皇 気比の大神

故、建内宿禰の命、その太子を率い禊せむとす。淡海および若狭の国を経歴の時、香を知るさきの角鹿に於いて

仮宮を造りて坐す。汝その地に坐す伊奢沙和気の大神の命、親の夢を見て言う。「我が名を以って御子の御名換えて欲し」

ここに言ほぎて申しし、「かしこし、命に従い換え奉る」またその神詔る。明日の朝、濱に幸でませ、まさに名を換えし幣立て待つ。

故、その朝、濱干りし時、幸行く。花滅ぼすイルカすでに一浦に寄る。ここに於いて御子、神に申さしめて云う。「我に意祁の名給う」

故、またその御名を称えて御食津大神と名付ける。故、今に於いても気比大神と謂う也。地震(なゐ)の地の花の名貸し人、そもまた。

故、その浦をたけりの血の浦と謂う。今、都八つが謂れ也。



説明 『 地震の地の花の名貸し人 』のところ、原典には『 亦其入鹿魚之鼻血● 』とあります。記述のここまでは返り点で占められ、

ここの部分だけ返り点がありません。ここだけ逆読みです。逆さに読んでみると史実が出て来ます。「周の地の〜」ともとれますが、

無い漢字ですから「なゐの地の〜」と訳してみました。

次に、『 都八つが謂れ也 』のところ、原典では「八つ」の文字は「奴」となっています。この文字には考え込みました。

奴の文字は双と極めて似ているからです。毛筆書道や写経をやったことのある人ならわかるだろうと思いますが、

双の字に少し筆を加えれば奴になってしまいます。もしも本来の文字が「双」であったなら、「都二つが謂れなり」となります。





古事記 仲哀天皇 神功皇后の新羅征討 (諸本によっては「天皇の崩御と神託」)

〜 是は天照大神の御心ぞ、また、底筒男、中筒男、上筒男、三柱の大神ば成る、この時、その三柱の大神の御名は現われる也。

今まことにその国へ求める思いは、天神地祇また山の神および河海の諸神に、ことごとく幣帛たてまつり、倭の御霊、鵜を戦場(船上)に

坐せて、神木の灰を瓢(ひさご)に納め、また、著におよぶ比羅伝を多に作り、皆々近江に散らし浮かしを以って託すよし。



説明 この記述の前文は省略していますが、琴が度々登場しています。その意味は初代伊勢を表わしており、琴石山です。

琴石山の中腹には愛宕神社跡と伝わる石積み遺跡が存在します。その遺跡は箕山の通夜堂跡と呼ばれている石積み遺跡と

ウリ2つです。箕山は大野の丘であり、それは推古天皇の殯の宮跡でもあります。そうすると、同じ形態をしている琴石山の

愛宕神社跡の石積み遺跡は近親者の殯の宮跡ではないかという推察が成り立ちます。それを暗示しているように古事記には

殯の宮という記述があります。そして、記述は筒男(つつのを)三神に至ります。それは周防大島を表わしており、祭神としての

代表を挙げるなら、旧東和町の海辺に在る筏八幡宮が挙げられます。その祭神は古事記の記述通りに、アマテラスと筒男三神です。

ちなみに、筒男三神は地震神でもあります。大地をつかさどる神、というふうにとらえればいいでしょう。

「今まことにその国へ求める思い」その国とは、人々が移住して行った近畿を指しています。そして、「著におよぶ比羅伝」とは

古事記のことです。神官や僧侶たちに書写させて広める方法です。だから「近江に散らし浮かしを以って託すよし」なのです。




古事記 顕宗天皇 御陵の土より

天皇、深くその父王を殺したまひし大長谷天皇を怨む。その御霊に報いむと欲す。

故、その大長谷天皇の御陵をこぼたむと欲して人を遣わす時(以下略)


説明 ここでの掘り崩す御陵とは、神武天皇の初代陵墓を語っています。

 「大長谷」という名が問題視されてくるわけです。

「おおはつせ」と読んでいる背景には日本書紀の文字があります。

日本書紀では「大泊瀬」と書いています。だから「はつせ」と読んでいるわけです。

 実際には新と旧の名の年数的隔たりを物語の上で同期させています。

 では本来は何なのか、と申しますと、大長谷を知る上で一番大事な部分は、市辺の忍歯王の段に記してあります。

「歌って物を言う王子ぞ」とある一節です。万葉集に精通している方ならわかると思いますが、

長屋王のことなんです。「長谷大」と順序立てて記してあれば、わかりやすかったかもしれません。

 しかし、そうとしても年数が合わないでしょう。神武天皇とも関係ない人です。

だからこそ、年数的隔たりを物語の上で同期させているんです。なぜそんなややこしいことをしたのかは、

当時の世相と密接に関連しています。全部を身内の内輪もめにしておかないと、書物そのものを消されてしまうからなんです。

今の時代のように出版の自由なんて無い時代のことです。大陸からやって来た神武という侵略者が・・・なんて書こうものなら、

その日のうちに斬首です。古記録を解読する場合、その辺の緊張した部分を充分に考慮してかからないと、

現代の自由な時代とは違いますから、そうした感覚に心を置いて解読すると、案外スムーズに理解できるものです。



 波野スフィンクス頭頂部の本来は陵墓(古墳)です。最初に埋葬されていたのは「市辺の忍歯王」です。

この人は仁徳天皇と同一人物になります。神武天皇は、その遺骨を馬のカイバ桶に入れて、平地同然の場所に下ろして埋葬します。

天王原古墳です。そして自分が頭頂部に納まったわけです。もっとも、亡くなってできるわけはありませんから、神武天皇の側近達がそうしたのでしょう。

そうしたことは光市冠天満宮の方位線によって記録してあります。ところで、女性は下ろさずに一緒に納まったようです(^★^))。


 やがて年数は過ぎ、沖天皇と荻天皇は天王原古墳を開いて茅野の東に葬ります。

改葬した場所は今の柳井市水口茶臼山古墳です。やがて近畿方面に改葬されたことも古事記に記してあります。

大阪府堺市の大仙古墳です。

 物語のこの辺りは少し年代の曖昧な面がありまして、沖天皇(推古天皇)と荻天皇(聖徳太子)だと物語の順序として合わなくなります。

その頃には両者共に亡くなっているはずなんですが、(両者共に暗殺されたようです) まぁそもそも、物語は歌から派生されたものです。

合わないのも理解はできます。歌こそ真実を語っていると思います。

 最終的に神武天皇の出発した宮崎県はどうなるのかと申しますと、名を換えているでしょう。

そこがポイントになります。カムヤマトイワレヒコの出身地。この人は私の研究した限りでは仁徳天皇と同一人物になります。

諸々の神社ではカムヤマトイワレヒコが本当の祭神になっているはずです。

最初から神武天皇表記の神社は極めて少ないと思います。





 波野スフィンクス頭部の頂上。石積み遺跡。





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