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尾国賀茂神社
尾国と小郡は隣り同士です。
小郡 ⇒ おぐに
尾国 ⇒ おくに
尾国バス停から山手に歩いて数分くらいの所に尾国賀茂神社があります。
道案内はこちら(内部リンク)
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尾国、周囲の景観
上の写真は尾国賀茂神社の森を横方向から見たものです。
現在は木々が茂って丘の形状はわかりませんが、もし、木々を伐採したなら
下の図、赤ラインのような丘が現れます。
前方後円墳の形をしています。
この尾国の近くには佐賀の白鳥古墳や、田名の神花山古墳があることを思うと、
この丘も、元は古墳だった可能性を捨てきれませんが、今のところ出土品などの類いは
見つかっていないらしく、何とも断定できません。私の推察では、鳥の頭を模した丘です。
そう推察する根拠として、室津半島周辺には鳥の頭を模した丘がたくさん見られるからです。
もっと大きい鳥の頭がもう一つ、小郡と尾国の境界地点にあります(下の写真)。
小郡側から撮影しました。
道路の建設によって少し削られてしまったようですが、鳥の頭であることは明瞭です。
これらの鳥(カモ)の向いている方向には雑石(ぞうし)スフィンクスや牛島(うしま)があります。
鳥の夫婦か・・・。地域の伝説に登場する夫婦石とは、このことかもしれません。
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鳩ヶ峰
尾国賀茂神社前の道から北北西の方向を仰ぐと鳩ヶ峰(はとがみね)があります。
仰向けに横たわった女性の乳房の形をしています。
鳩であり、ハートでもあり・・・現地で見ると惚れぼれします。
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では、尾国賀茂神社に行ってみます。
車をとめた辺りから山手を見ると、鳥居の見える丘が尾国賀茂神社です。
社叢(しゃそう・神社の森のこと)は天然記念物に指定してあり、自由に伐採できません。
尾国賀茂神社、前面方向。 画面右手を雑石瀬戸(ぞうしせと)と呼んでいます。
カンガルーが伏せたような形をしているので、私は雑石(ぞうし)スフィンクスと呼んでいます。
前脚の部分を小山と申しまして、その名称は波野スフィンクスと同じ名であることから、
この山もスフィンクスを意識していることが証明されます。
尾国賀茂神社
尾国賀茂神社
防長風土注進案の記述
鎮座年月不知。京都より勧請
神名 御祖神 別雷神
神座之後に弘長四年有之、作名損シ知れ不申候事
(欄外)寺社由来書に永正二年の棟札を載す
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尾国賀茂神社の方位分析
N 33度52分22.8
E 132度07分24.2
位置精度 +- 7m
現状拝礼方位 82〜83度
再建前の方位補正 80度
指標点から導き、80度を採ります。
拝礼方位線分析
戸田(へた)という地名は、周防大島は蜜柑郷ですから蜜柑の「へた」を意味しています。
方位線は戸田神社の西側にある源空寺を通っています。戸田神社と源空寺は近接しており、隣り同士の関係です。
天保年中(1830〜1844)編纂の防長風土注進案に、戸田神社は新宮大明神として記してあります。
祭神三座 天児屋根命 天照皇大神宮 少彦名命
源空寺は、浄土宗映海山源空寺 としてあり、開基年については、一向記録無御座故相知レ不申候事 とあります。
特徴として、黒衣の阿弥陀如来 (木刻立像・長三尺三寸・雲慶作)が存在しています。
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方位線は西安下庄で長尾八幡宮を通ります。
長尾八幡宮は、神武東征では秋国の多祁理宮跡に相当します。万葉集では橘の嶋の宮です。
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油良では、油良稲荷 ⇒ 油良八幡宮 ⇒ 寿源寺(黄色丸印)と通ります。
油良八幡宮は古記録では正八幡宮と記してあり、それが今の油良八幡宮です。
寿源寺は、往古に教徳寺というのが在って大破に及び、その古跡へ今の寿源寺を建てたとあります。
油良に関する詳しい内容は、こちらのページに載せています(内部リンク)。
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なんにも無いように見えますが、ここが最重要地点です。
カーキ色の道路は国道437号線ですが、赤ラインの方位線と交差している地点。
その地点から北東の神山(こうのやま)を見ますと、エジプトの三大ピラミッドとそっくりなシルエットです。
ピラミッドに関しては、こちらのページに載せています(内部リンク)。
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愛媛県です。方位線の指標となる神社が多くあります。
この方位線はそれほど重要という意味でもあります。
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徳島県鳴門市鳴門町高島
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A 車駕之古址古墳 大谷古墳
B 隅田八幡神社
車駕之古址古墳 (しゃかのこしこふん) 和歌山県和歌山市木ノ本 前方後円墳 全長約 86m 5世紀
大谷古墳 (おおたにこふん) 和歌山県和歌山市大谷 前方後円墳 全長約 67m 5世紀
隅田八幡神社 (すだはちまんじんじゃ) 和歌山県橋本市隅田 人物画像鏡有り
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緑色マーク地点 奈良県吉野山 縄文宮滝遺跡 後醍醐天皇陵墓
宮滝遺跡 奈良県吉野郡吉野町宮滝 縄文時代からの複合遺跡
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A 三重県・出張遺跡
B 伊勢内宮
出張遺跡 (でばりいせき) 三重県多気郡多気町相可(おうか) 古墳時代以前の遺跡
出張遺跡周辺には 明気古墳群 石塚谷古墳 式内・伊蘇上神社
古代には辰砂 (しんしゃ・水銀の原石) を採掘していたという。
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社殿の前面方位線分析
福岡県
A 御所ヶ谷神籠石
B 陵塚古墳 (あやつかこふん) 福岡県京都郡みやこ町勝山黒田
甲塚古墳 (かぶとつかこふん) 福岡県京都郡みやこ町国作
その他、B地点付近には古墳が多くあります。
C 鹿毛馬神籠石
D 立岩遺跡群 福岡県飯塚市立岩 甕棺墓から多数の出土品
出土品のひとつ『ゴホウラ貝の腕輪』 これは山口県の土井が浜遺跡や、出雲の猪目洞窟遺跡などと連鎖します。
鉄剣や鉄鉾に絹の繊維が付着。弥生時代の絹とされています。絹は生産されていたとするより絹布の輸入品だと推測。
立岩遺跡群からは前漢式鏡が 10面出土しています。
鏡は判読可能な良い状態で出土しています。判読不能な部分はないそうです。
その鏡には『楚辞』という詩文が鋳出されています。
ところが、前漢式鏡でありながら詩文にたいへんな脱落があるそうです。その内容を
「あいうえお」で説明しますと、「あえおかくけこさしせそたつてと」まあこんな感じと思えばいいでしょう。
詩文の体を成していないのです。もし簡略化するのなら、「起承転結」の「起承結」とか「起結」とかなら
話はわかりますが、間の文字を抜かすと文章になりません。前漢は楚辞を知らなかったのかと、なります。
その意味は、土井が浜遺跡などと繋がっており、神武東征(通称)の侵略と関連してくるのです。
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福岡県・糸島半島。
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佐賀県・東松浦半島。
ピタリと玄海原発。
社殿に向かって右手方位線
八島は子鴨の形をしており、そのくちばしの辺りです。
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愛媛県西宇和郡伊方町の佐田岬半島の中間地点辺りです。
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社殿に向かって左手方位線
室津半島の太古庵という所を通り、山陽本線の柳井駅を通過します。
こうした駅や学校は方位線の通過地点になっていることが多いです。
もとはどんなものがあったのか気になるところです。
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玖珂町の瀬田という所を通り、鞍掛山のふもと。そこは古戦場跡です。
弘治元年(1555)の大内と毛利との戦が主眼点となっています。
ところが、それ以前の古代にも乱があったと推察できるのです。
もしや、古代の乱を隠蔽するために大内と毛利との戦にされたのでは
ないかと、私などはすぐに疑ってかかる有り様です。戦は陰徳記という
書物に記されており、なぜ弘治年にここで戦をする必要があったのか、
という部分は不明瞭です。
それを古代の乱にしますと、二鹿鉱山が浮上してくるのです。
銅や灰重石の鉱石です。
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尾国賀茂神社の現状での拝礼方位は 82〜83度です。
しかしそれは再建されての方位です。
本来の方位は何度だったのか、という指標になるのが丸印で示した神社群です。
最終的な極め付けが下の図で示した丸印の所にも指標となる神社があります。
島根県三隅港の所、山陰本線の「みほみすみ」駅と「おかみ」駅との中間地点に
第一松原トンネルがありまして、そこの所にある神社です。
これらを総合的に見まして、本来の方位は 80度であるという結論に至りました。
結論としまして、拝礼方位が周防大島(秋国)の多祁理宮(橘の嶋の宮)を拝礼しており、
その方位線は、やがて三重県の伊勢内宮へ到達する、という部分が特筆されます。
通称の神武侵攻に関しては、左手に玖珂町の鞍掛山古戦場跡を指し、そこを追悼しています。
さらには、前面に福岡県の神籠石遺跡群を指しており、そこも侵略の犠牲になった地点でありましょう。
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