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 岡田の宮


古事記 中巻 通称「神武天皇」の段より 解読著者

神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれひこのみこと)、その伊呂兄五瀬命(いつせのみこと)と二柱、

高千穂宮に坐し、議りて云う。いずくの地に坐せば、平らく天の下の政りを聞かん。なお東行(投降)を

思う。すなわち日向より発ち竺紫に行幸。故、豊国の宇沙に至りし時、そこの土着民、名を宇沙津比古

(うさつひこ)、宇沙津比賣(うさつひめ)の二人、足ひとつの騰(あがり)の宮を造りて大御饗(おおみあえ)

たてまつる。その地より遷移(うつり)て竺紫の岡田の宮に於いて一年坐す。

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岡田の宮とは古事記にある記述です。日本書紀には「筑紫國岡水門」とあります。

今までは、筑紫国の岡水門(おかのみなと)と読まれて、どこかの港だろうと考えられてきました。

しかし、古事記と合わせて解読すると、これは「みなと」ではなく「みかど(御門)」と読むのだと思います。

「岡の御門(おかのみかど)」として解読すれば古事記の「岡田の宮」と共通します。

それを前置きして、岡田の宮の所在を追究する前に、先ず日本書紀そのものを研究してみたいと思います。



別ページの「日本紀・日本書・日本書紀の研究」と重複します。


日本書紀を語る時、必ず出てくるのが日本紀という書物です。

日本書紀と日本紀は、どちらかが参考にして書かれている可能性があります。

なぜ書き変える必要があったのか、また、日本紀はなぜ残らなかったのでしょうか。

日本紀が存在していたことは続日本紀に記してあります。下写真の記述です。







赤ラインの部分が問題の記述です。「続日本紀」の巻第八、日本根子高瑞浄足姫天皇(元正天皇)

養老四年五月癸酉(みずのとのとり)の条にあります。訳しますと、「これより先、一品舎人親王、勅を

うけたまわりて、日本紀を修めたまう。ここに至りて功成り、紀三十巻、系図一巻を奏上したまう。」

とあります。日本紀として作成しています。日本書紀とは書いてありません。



日本紀の「紀」の文字の持つ意味は、糸が意符になって、「もつれた糸の一端を見出して整理する」という意味を持っています。

こうした史書には紀伝体と編年体とがありまして、紀伝体という書式は都合によって書かれ、必ずしも年代順になってはいません。

古事記などはその紀伝体の書式を採っています。対する編年体は文字通り年代順に編纂していく書式です。

日本書紀は編年体になっています。また、中国の「漢紀」や「後漢紀」などは編年体の書式を採っているため、

「紀」が付いていれば中国色の濃い書式と考えられて来ました。



日本紀を作った理由を推察してみますと、いろいろ考えられます。

日本紀の継続版である続日本紀が高天原廣野姫天皇(持統天皇)の後の文武天皇へと

連結していることにより、日本紀は日本書紀と同じ編年区切りを持っていたことになります。

つまり、続日本紀が文武天皇から始まっていることは、日本紀も日本書紀と同じように

持統天皇で終っていたことになります。ひいては日本書紀か日本紀のどちらが先に

あったかが焦点になります。



日本書紀は正倉院文書に保存されている書籍に記載してあります。

「正倉院文書続修後集」第十七巻中「更可請章疏等」と首書した文書の

天平二十年六月十日に漢籍扱いで 帝紀二巻 日本書 と記してあり、

その文書が日本書紀の神代上下の二巻でありましょう。



なぜ、日本書が日本書紀になるのかと申しますと、下の写真を見てください。

日本書紀原典のコピーですが。^^。神代上は明らかに日本書となっています。

神代下の方は紀の文字が窮屈です。紀の文字は後から書き加えられています。

この事実を見ても日本書紀は本来、日本書として出発していることの証明です。

つまり、日本書紀が日本書なのです。




雅久本
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では、日本書紀と日本紀はどちらが先にあったか追及してみます。

今まで見て来たことから、養老四年(720)五月に日本紀三十巻と系図一巻が完成しています。

対する日本書(日本書紀)の方は、天平二十年(748)六月に、二巻しか存在していません。

そこで特筆しておきたいのは、天平二十年四月二十一日に元正天皇が亡くなっています。

元正天皇は女性であり、日本紀作成にかかわった人です(前述)。四月に亡くなって、

あたかも待っていたかのごとく六月には日本書二巻が出来ています。

この事実をどう受け取るか。作る必要はないことを思うと、書き変えられたのでしょう。

もともとあった日本紀を基にして日本書(日本書紀)へと書き変えているのです。



日本紀を基にして書き変えたと証明できることとして、日本書(日本書紀)の

最終の天皇(持統天皇・女性)から続日本紀の天皇への繋がりがピタリと合っています。

続日本紀の巻第一には「高天原廣野姫天皇十一年に皇太子(文武天皇)を立てた」と記してあります。

皇太子とだけあって名前は記してありません、それもまた問題になるのですが、ここでは一応「文武天皇」に繋いで信用します。

続日本紀との連結は日本書紀の最終が高天原廣野姫天皇十一年で終っているので合います。

日本紀なくして単独で日本書を編纂したとしたなら、繋がりが合うわけがないです。

以上の事実を見ましても、日本紀を書き変えたものが日本書紀でありましょう。



では、なぜ書き変える必要があったのかは、天皇の繋ぎ(連結)から見ればおよそわかります。

重要な部分を図にしてみます。


天智天皇 ⇒ 天武天皇 ⇒ 持統天皇 ⇒ 文武天皇 ⇒ 元明天皇 ⇒ 元正天皇 ⇒ 聖武天皇


内、黄色文字の持統・元明・元正は女性の天皇です。

よーく見てください。面白い連結でしょう。武の字が付いている天皇が問題なんです。神武で武でしょう。

日本書紀は持統天皇で終っています。その日本書紀の基である日本紀を完成させたのは元正天皇の代です。

日本紀三十巻という膨大な量から推察して元明天皇の代から作成にとりかかり、元正天皇で完成したのでしょう。

その日本紀を作るにあたって古事記を参考にしていることは、古事記の紀伝体がそっくり入っていることからわかります。

そして、元正天皇が亡くなったら、待っていたかのごとく聖武天皇の代ですぐに書き変えを始めています。


日本書紀を全部読んでみましたところ、全部が全部書き変えられたのではなく、部分的に合っているところもあります。

おそらく書き変えた人物が気づかずに問題無しとしてそのまま写したのでしょう。だから捨てられないもどかしさがあります。

日本紀と一緒に有った系図一巻は破棄したのでしょうか?。


古事記が推古天皇で女性で終っていて、日本書紀も持統天皇で女性で終っています。

持統天皇は歌好きであるのに日本書紀には一首も入っていないということ自体おかしいんです(削除?)。



あとは各々方におまかせします 。^^。



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 故、豊国の宇佐に至りし時、そこの土着民、名を宇沙都比古(うさつひこ)、宇沙都比賣(うさつひめ)の二人、
 足ひとつの騰がりの宮を造りて大御饗たてまつる。
その地より遷移りて、筑紫の岡田ノ宮に於いて一年坐す。


 岡田の宮を他所の遠征地と比較してみますと、一年という極めて短期間です。

「其の地より遷移て」とあります。其の地とは前章で解明した山国川の河口周辺です。

山国川の河口周辺には重要な3社がありました。 八幡古表神社、 闇無濱神社、そして

ナゾに包まれた豊日別宮の3社です。それらの内、豊日別宮は前章で考察したように中津城に

在った可能性が高く、その方位は御所ヶ谷神籠石を指していたであろうことは考察した通りです。


 神籠石遺跡を見て歩くと、部分的に破壊したうえで、土を被せてわからないように埋めてあります。

現状はその被せられた土を山城の土塁の址だとしてあります。土塁とすると不自然な点が多く出てきます。

まず第一に、わざわざ建築に手間のかかる土を盛るという工法にしなくとも、山の斜面を垂直に削り取れば

土塁以上の防御壁が出来ます。もし私ならそうします。削り取る方が簡単ですし、作業の面からも効率的です。

神籠石遺跡の現場を見ますと、その不可解な点を解決してくれる部分が随所に見られます。下の写真を見てください。





平成12年(2000)御所ヶ谷神籠石を訪ねた時の写真です。発掘調査の現場を見ることができました。

石積みを崩して土を被せているのがよくわかります。もし土塁なら石積みを崩す必要はないはずです。




ここでも、随所に崩した石が散乱したままになっています。




神籠石遺跡の築造当初の目的は綿花の樹園です。そのことに関しては神籠石紀行の章をご覧いただくとしまして、

綿花は国家機密で栽培されました。今で言うと社内秘、というところでしょうか。機密にしておかないと誰もかれもが

綿花を栽培し始めると価値が暴落してしまいますから。国家機密という点においては、彼のインカでも綿花は国秘で

栽培されていたようです。極秘裏に栽培されていたことについては、神籠石遺跡にまつわる伝承が物語っていまして、

神籠石遺跡には何処も共通して「鬼の住んでいた城」とか「山姥のいた所」などという少し怖い伝承が付いて回ります。

そのことを見ても一般人には遮断されていた場所であることが読み取れます。遮断されていて内部がわからないと

いうものは不気味なものです。おのずと幽霊屋敷みたいな話しができあがったのでしょう。


では、元の話しに戻りまして、神籠石遺跡を破壊して、さらには埋めているということが通称神武遠征と絡んできます。

国内に攻め込んで来た最初の地点から考えますと、萩から室津半島へ侵攻しています。そこには石城山神籠石

あります。そして山国川河口周辺を攻め落として御所ヶ谷神籠石です。重要拠点には必ず神籠石があり綿花があります。


御所ヶ谷神籠石を拠点として九州各地の神籠石を攻め落としていきます。鹿毛馬神籠石、高良山神籠石、女山神籠石、

そしてついには吉野ケ里遺跡近くの帯隈山神籠石を攻め落とし、雷山神籠石へと侵攻していきます。侵攻順は一考するとしても、

神武遠征はまさに綿花の掌握なのです。あるいは大集落は綿花の収益で豊かになっていたので、大集落を攻め落とすとそこに

綿花があったのかもしれません。いずれにしても侵攻して綿花を掌握した時点で綿花という植物を自国に送るはずです。


あとは列石に囲まれた樹園を後世にわからないように破壊して二度と使えないように埋めてしまえば収益を独占できます。

何処の神籠石遺跡も破壊して埋めてあるという共通した点を見ても、この推察はおおむね当たっていると思います。



では最終的に、岡田の宮は何処だったのかという点に言及しますと、今でも宮址が遺跡として残っています。

下の写真がそれなのですが、御所ヶ谷神籠石遺跡の真っただ中に位置して、周囲を見渡せる岡の上にあります。


この礎石群が岡田の宮址だと証明できる部分は幾つもありまして、まず、神籠石列石を礎石に使っているという点。

建物の規模に比較して礎石が少し大き過ぎるでしょう。この規模でしたらこんなに大きい礎石を使う必要はないです。

これらの礎石には神籠石特有の加工が施してあります。下の写真で説明しますと、画面左から2番目の石を見てください。

石の角に水平な切り欠き溝が見えるでしょう。それは神籠石列石特有の加工であり、何処の神籠石遺跡にも見られる加工です。


つまり、この礎石群は礎石として切り出された石ではなく、神籠石列石群の石を使っているという点です。

そのことは列石群を破壊した後のことになります。この建物址は侵攻時に破壊した列石を使って造られています。





次に、前章で研究した中津城に在った可能性の高い豊日別宮の方位線を見ますと、

御所ヶ谷神籠石を指しています。それが、面白いことに寸法が実によく合っています。

差し金の寸法を見ますと、穴ヶ葉山古墳まで10センチピタリ。御所ヶ谷神籠石まで

50センチピタリです。5万分の1の地図は2センチで1000メートルです。

計算すると、穴ヶ葉山古墳まで5キロメートル、御所ヶ谷神籠石まで25キロメートルピタリです。

ということは、穴ヶ葉山古墳までの距離を5倍した所に御所ヶ谷神籠石があることになります。







上図・中津城内です。




上図・丸印のところに穴ヶ葉山古墳。





距離を5倍するという数は北極星の位置を見る時に使いまして、下の図で説明します。





夜空を見上げて北極星を見つけ出すのは、よほど天体を見なれた人でないとたぶんわからないと思います。

北極星を探す時には先ず北斗七星を探します。ひしゃく型をした北斗七星は夜空でいちばん見つけやすい星座です。

その北斗七星のひしゃくの先端部にある2つの星の距離を5倍ほど伸ばした所に北極星があります。

星座は北極星を中心にして回っていますので、ひしゃくの2つの星はいつも北極星を指し示しています。

そうしたわけで、その2つの星は北極星を見つけ出す時の指針になっているので指極星とも呼ばれます。


余談になりますが、

よく言われることに、大海原を航海する時に昔の人は星座を見て進んだ、と言われます。

いかにも難しい感じがしますが、上述した方法で北極星を探し出し、北極星を左に見て進めば

東の方向に進めますし、又、北極星を右に見て進めば西へ進めます。そんなに難しくはないです(笑)。



さて、北斗七星のひしゃくの先端の2つの星は、いつも北極星を指し示しているということを理解すれば、

穴ヶ葉山古墳の距離を5倍した所に御所ヶ谷神籠石が在りますから、つまり、

豊日別宮と穴ヶ葉山古墳は北斗七星の指極星の意味を持っていたことがわかります。



豊日別宮は本来、御所ヶ谷神籠石を拝礼する形で建っていたはずです。

やがて侵略された後に御所ヶ谷神籠石を拝礼することは、

すなわち憎き岡田の宮を拝礼することにもなります。

そんな所を拝礼したくはないですから、廃社され、

闇無濱神社へと合祀された、と考えればナゾが解けるようです。



いずれにしても、この御所ヶ谷神籠石遺跡の真っ只中に在る礎石群は

通称神武東征の岡田の宮址として最有力候補に挙げられると思います。




礎石群のすぐ脇には神社が祀ってあります。

以上、御所ヶ谷神籠石関連の写真は2000年に撮影、大雨。




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