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万葉集 巻第二 193番歌 解説と関連写真
はた子らが 夜昼といはず 行く道を 吾はことごと 宮道にぞする
福岡県福津市 宮地嶽神社の駐車場にて宮地嶽。
山口県熊毛郡田布施町御蔵戸(みくろうど)にて波野行者山。
神籠石紀行で研究してきたように神籠石遺跡は綿花の農園跡です。
福岡県は神籠石遺跡のメッカです。綿花の栽培に適した気候だからです。
歌の「機織子(はたこ)」とは機織りに携わる人々のことです。
歌の意味は、栄えていた当時を思い出して詠んでいます。
栄えていた当時は綿花の機織り作業に従事する人々が相当数いたのでしょう。
「〜夜昼といはず 行った道を〜」・・・と過去形の解釈をすればイメージに合いそうです。
なぜ、福岡県と山口県なのか、ということについては、戦乱をのがれて疎開をした地だからです。
それも普通の疎開ではなく、初代ヤマトの子供たちを引率して福岡県に疎開したチームです。
疎開した地のひとつである福岡県の宮地嶽神社には古来からの伝統の大太鼓と大鈴があります。
ずっと後になって出てきますが、疎開の苦労と郷愁の思いが万葉集には延々と綴ってあります。
そして帰郷は、引率して疎開した子供たちが成長してからの長い年月になったようです。
宮地嶽神社の大鈴と大太鼓の写真です。
宮地嶽神社の公式ホームページ(外部リンク)
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以下、山口県田布施町御蔵戸(みくろうど)にて撮影。
撮影地点・ 北緯 33度57分52.3秒 東経 132度02分18.3秒 位置精度+−4m
写真・上下同じ地点から撮影です。
山口県風土誌より宿井村
注進案に伝説三つを挙ぐ。一は宿井村と申す事は古来よりの村名にはあらず。所の小名にして後に村の惣名となり候由、
当時、市と申す所にわずか幅二尺余り、竪は今流るる所およそ百四十四間あり、此の流れより宿井と唱へ、宿はやどる、
井は水のある所の謂れならんかな。二は此の市の後ろ一町余り東、上関御宰判、波野村の内なるが、是に泉光川とて
古は名水あり、近き所なれば此の井を名付けて宿井と云へるとも。三は石城の神社の行幸を此の地に奉り、仮殿を建営
して宝殿原、又は宿院原と云へり。院の字略してシュクイとも云へるかな。いずれも詳らかに相知れ申さず候と見ゆ。
調べるに一には当たらず、第三を取るべし。さて院の字略してと云ふは非なり。ンの韻の省かれたるにて井は仮字なり。
本村、石ノ口八幡宮所蔵応永十二年の大般若経に美和庄石ノ口。安芸国厳島大聖院の天文十一年の鐘銘に周防国
熊毛郡美和庄石口八幡宮。また本村某所蔵永禄十三年の文書、また年紀不知の文書に熊毛郡美和庄之内石城寺の事。
岩田村の岩戸八幡宮所蔵天正十七年の文書に熊毛郡美和庄之内と見ゆ。
御蔵戸の丘の上から見た風景です。
神籠石(綿花)のある石城山への昔の登山口は大きく分けて四ヶ所あります。
南側に宿井登山口。東側に大波野天神のある辺り。北側が佐田から山中稲荷を登るルート。
西側が塩田(しおた)から三鍛冶屋(みかじや)を通って登るルートです。今では廃れた道があります。
この写真で見ると、石城山まで距離があるように見えますが、足の速い人なら約30分もあれば神籠石の地点まで登れます。
黄色丸印が波野行者山を撮影した地点です。福岡県の宮地嶽と同じに見える地点です。
黄色丸印の前後数十メートルはだいたい同じに見えるのですが、黄色丸印の辺りが一番ピッタリきます。
大陸からの侵攻が激しさを増してきた時に子供達を集めて守りの強固な福岡県の方に疎開させます。
その疎開先と風景の共通性を持たせて記録してある、と言えばいいでしょうか。だから宿なんですね。
風景で疎開先を記録したのが地名の宿井という名の由来だろうと思います。
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