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うねる水の道の曲がり角


「うねる水の道の曲がり角」とは、エジプトの壁画文章(ヒエログリフ)に記してある場所です。
これまでは天上の世界(天の川)を表わす架空の場所であろうと思われてきました。
ところが、壁画文章を読み進むと、これは日本のことを書いているのではないかと思える部分が
数多く見つかりました。その文章のなかでも特徴的なのが「うねる水の道の曲がり角」です。
その場所を「初代ヤマトのからと水道」と特定して壁画文章を追究していくと、次々と共通点が出て来ました。
壁画文章は初代ヤマトの盛衰を克明に伝えています。やがて年月の経過と共に伝説化し、
壁画文章の描かれた頃には伝説の地、まぼろしの地となっていたのではないでしょうか。
では先ず「うねる水の道の曲がり角」から共通点を見ていくことにしましょう。






県埋蔵文化財センターの調査によると、大波野・明地遺跡調査区域から約百メートル南の
水路工事現場で、標高9メートル前後の地点から海だったことを証明する青灰色粘土層が
見つかり、海面はほぼ現在の標高10メートル地点と結論づけた。また、山口県教育委員会の
調査でも、弥生時代後期には現在の標高10メートル地点は水面下であったと考えられ、
現在の標高10〜13メートルの間に当時の海岸線を想定することが可能としています。

JR山陽本線の柳井駅〜田布施駅間は古代の水道の最深部を通っています。








では、なぜ陸になってしまったのかという部分に言及しますと、自然現象とは言えない面があります。
それは山を見るとわかるように、山を削り取って動物や人の形に造っています。だから山跡(やまと)
なのですが、その削った土を使って埋め立てたのではないかと推察します。
埋め立ては長期にわたっており、大きく分けて、前期前半・前期後半・中期・後期・と年代的に分けられます。
その段階の分類方法は、この地の歴史を左右した人物を明らかにすることによって見えてきます。








前期とは、分類上、埋め立て初期の頃を前期と仮称させていただきます。いわゆる最初の頃です。
その前期・中期・後期で、とりわけ大事なのが、前期前半と前期後半です。
その時代で大きく変化しています。その変化過程を知るには山を見ればわかります。
前期前半の頃には動物を主体とした山造りですが、前期後半になると人を主体とした山造りになっています。
問題は人の造形にあり、もし自分の土地なら絶対に造らないような形状もあります。
一例を挙げますと、人のお尻が並んでいる形に造っている山もあります。
それまでは子供が見ても喜ぶような動物主体だったのに、なぜ山造りが変化したのか、
そこに首長の交代を見ることができるのです。首長の交代とは、侵略を意味します。








前期前半では主に鉱物の探査を主体としていたのではないかと思われ、
そこから出る土石は塩田の造成に利用したのではないかと考えられます。

塩田は潮の満ち引きを利用しますから、塩田の高低調整が重要になります。潮の干満高に合わせて
土石を入れ、その上に砂を厚く敷き詰めます。砂田には潮が満ちて来た時の海水路を縦横に張り巡らせ、
その水路の海水を柄杓などですくって塩田の砂の上に散布します。散布・乾燥を何度も繰り返すと
砂に高濃度の塩の結晶が付着します。その砂を洗って出た塩水を釜で煮て、乾燥させて塩を作ります。

ですから、塩田が海水に浸かりっ放しではいけませんし、また海水が届かなくてもダメです。
潮の干満高の調整が大事なのです。しかし、ここの「からと水道」のように大潮の時くらいしか
航行できないような遠浅干潟の水道ですと、海水をストックしておくタンクの役目をする池が
必要になります。その海水池から塩田に水路を導くという方法です。

ここでやっている「うねる水の道の曲がり角」から数百メートル西側地点には
今でも塩坪(しおつぼ)と呼ばれている地名が残っています。さらにその
塩坪の隣り地域は東浦(ひがしうら)という小字地名です。砂田(すなだ)という
地名も残っており、まさに塩田主体であったことが地名からも読み取れます。

塩田は台風などの自然災害には極めて弱く、大波が来ると砂が流されてしまいますから、
再び土石や砂を入れて高さ調整をしなくてはなりません。波の荒い外海では塩田を造り難く、
ここのような外海から入り込んだ水道だと台風や大波などに強いというメリットがあります。

そうしたことを見ましても、前期前半の埋め立てはその塩田の造成が主体であったろうことは
明確です。塩田を造成しながらも、船の航路は確保されていたと考えられます。




塩の用途は様々あり、一般的には食物などの保存として使われます。
しかし、それだけなら多くの塩を必要とはしません。
古代の塩は主に氷の保存として使われていたようです。

氷塊を塩で厚く包み込むと、天然の冷蔵庫の役目をします。
この地の伊陸(いかち)などには氷大明神と呼ばれていた社もあったようです。
伊陸や日積(ひづみ)、柳井市諏訪(すわ)などの地は鍛冶場遺跡が多く出土しています。
氷は鍛冶にも必要だったのでしょう。氷ある限り、おのずと塩も必要としたのです。

猿田彦の神を祀る神社は多く見られます。その猿田彦は塩の神でもあります。
神名をよく見てください、「えんでん」でしょう。山村に猿田彦を祀る社があれば、
それは塩の流通ルートとして考えてみることが出来ます。

そういうふうに「からと水道」で生産された塩は広く流通し、初代ヤマトの重要な収益源となります。




ところが、ある時から事態は急変します。
大陸からの侵略によって首長が変わり、このからと水道は閉塞の運命を
たどることになります。その侵略ルートを証明するために10年計画で
探査しているのが「足あとの神社群」のページです。

その侵略された時期がここで言う前期後半になります。からと水道はもともと
遠浅干潟の水道ですから、両側に堤防を造って海水の流入を閉じてしまうと、
陸地化するのは早かったことでしょう。侵略戦争が起きた時点で人々の流出は
とどまるところを知らず、そうした事は古事記に裏記録として記してあります。

その時期に初代ヤマトの山々は大きく変化します。とんでもない形に造って
ある山はその時期に造成されたものです。初代ヤマトの人々を捕虜として使い、
山を削り、水道を閉塞させます。やがて年月が経ち、その侵略者である首長は
育ての子(捕虜としての子)の手によって暗殺されます。

そうした事情は古事記や万葉集などを解析することによって導き出せるようになっています。
日本書紀は書き変えられているので事実と虚偽が入り混じっています。日本書紀の基は
日本紀であり、なぜその日本紀を伝えずに書き変えたのか、という部分に闇を見るのです。

古事記が書き変えられずに残った訳は、仏教の写経と密接な連携性がありまして、
写経というものは仏の教えを正確に伝えるという意味から楷書で書くのが基本です。
そうした写経と一緒になって伝えられて来たからこそ事実を克明に伝えているのです。
それも書き変えられないように敵を立てつつ、裏で事実を伝えています。裏読みは
日本語をよく理解している人でなくては難しいですから、表で敵を立てていれば書き
変えられることはありません。弁論の自由のある現代ですと、記録そのものが
ストレートに正確性を持ちますが、弁論の自由など無かった古代の記録は
現代の正直な読み方とは別な視点で解読する必要があるのです。
つまり、記録そのものが二面性を持っています。







さて、侵略者である首長を暗殺した後に、初代ヤマトに残った人々は大畠瀬戸に
からと水道を再現させます。それがピラミッドテキストの描くところの「ロスタウ」
であり、また「ドウアト」でもあります。本では2つの場所の存在を挙げていますが、
その通りであり、からと水道と、その再現である大畠瀬戸とで2つの場所があります。
大畠瀬戸の水道が大きく曲がっているところなど共通しており、その新しい水道で
エジプトからの来賓者をもてなしたのでしょう。しかし、それも長くは続かず、
侵略された時に出て行った人々が戻って来ることはありませんでした。

神道では松の木が神木になりますが、それは出て行った人々を「待つ」という
意味において松の木が神木となったのです。ですから、古い万葉歌などでは松の
とらえ方としては神域を意味し、さらに「松の枝」というと社寺の方位線を意味します。
「松が枝を結ぶ」と言ったら「方位線を結ぶ」というふうにとらえることが出来ます。






うねる水の道の曲がり角には八幡八幡宮、そして灯台と一緒に「流れエビス堂」があります。
























万葉集の十九番歌(衣に付くなす)が詠まれた所ではないかと推察するとよく似ています。
経度としては同じ位置になりますが、緯度に違いがあり、ここから約1キロ東の余田になります。

万葉歌から「うねる水の道の曲がり角」を検証(内部リンク)





流れエビスと呼ばれている堂宇は、今となっては周辺よりも一段低い田のなかに在ります。





この小さな堂宇が何の意味を持つかということは、方位を分析すると、
ピラミッドテキストや、コフィンテキストの記述にあるホルエンアケトや、
ホルアクティに繋がっています。

流れエビス堂位置

N 33度57分47.9秒
E 132度03分34.7秒
位置精度 +−3m

拝礼方位 342度

方位線は主に寺院を主体としています。

拝礼方向 ⇒ 大波野・数合稲荷 ⇒ 天王原・誓立寺 ⇒ 大波野天神 ⇒ 佐田・正讃寺 ⇒ 稗田 ⇒ 坊ヶ原 ⇒ 広瀬

前面方向 ⇒ 蓮台寺山(四天王寺の前身) ⇒ 荒木神社 ⇒ 竪ヶ浜・智願寺 ⇒ 玖珂嶋神社(周囲に寺院) ⇒ 
平生町六枚・直指院 ⇒ 平生町佐賀・龍護禅寺 ⇒ 上関天神 ⇒ 上関・超専寺 ⇒ 上関・阿弥陀寺

堂宇に向かって右手方向 ⇒ 新庄・土穂石の北側(信比古(さねひこ)の石碑がある地点) ⇒ 柳井市諏訪・諏訪神社・正行寺

堂宇に向かって左手方向 ⇒ ホルアクティ・ホルエンアケト(出雲大社の前身が在ったと思われる所。双胴船埋没推察地点) ⇒
⇒ 田布施町長田(おさだ) ⇒ 千坊山・大峰峠(古代仏教寺院遺跡)


方位線の写真図はこちら。内部リンクです。

























































































































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