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周防解読万葉歌 第3部

巻第一 62番歌〜73番歌


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周防と関連してくる万葉歌の解読に少しずつ着手することにしました。今までの訓は可能な限り残して、変える必要性のある部分だけを変えていきます。

また、歌の意味や解釈にしても同じで、変える必要性のある部分だけを採りあげます。長い間人々の心に浸透してきた歌を今すぐに変えてしまうのは暴挙になります。

ここでは今すぐに変えることは考えずに、百年の歪みは百年を以って修正するという心で取り組みたいと思います。 必ずや後世の役に立つと信じて。 2014年10月。

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万葉集 巻第一 62番歌

周防は63番歌からですが、まず62番歌から先に説明する必要があります。

在根よし 対馬渡りの 綿なかに 幣取り向けて はや帰り来

ありねよし つしまわたりの わたなかに ぬさとりむけて はやかえりこをね




雷山神籠石・北水門・筒城神社跡
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対馬渡りとありますから、対馬へ渡るにはまず壱岐島へ渡ってそこから対馬へと渡ります。

壱岐島へ渡るには東松浦半島が最も近く、そこら辺りになりましょう。歌にある「わたなか」は

「渡中」の文字になっています。その「渡中」をどうとらえるかで歌が大きく変わってきます。

海としての「わた」ととらえれば、「渡中」は壱岐島になります。ところが、歌には「在根良」

「ありねよし」という枕詞(まくらことば)があります。文字通り「根がある」つまり良く根付いている

という意味です。それが何の植物かと言うと、東松浦半島にほど近い所、前原市という所に

雷山があります。雷山神籠石です。神籠石遺跡は綿花の農園跡であることは、このホームページ

では何度も採りあげてきました。そうすると歌の「在根良」は綿花のことを言っていることになり、

「渡中(わたなか)」とは「綿の中」を言っていることになります。つまり綿花の農園の中で祭事をする。

雷山神籠石の北水門の所には筒城神社跡が残っており、歌の「綿中で幣を供える」とは、その筒城神社

のことを言っていることになります。綿花の農園が侵略者達によって破壊された後の供養祭事です。

先人たちの苦労を祭事によって慰める、という意味があります。よって、歌全体の意味を考えると、

『対馬渡りの綿花で栄えた先人達の跡を供養して(祭事して)、早く帰って来ようね』という意味です。

出発直前の心情を詠んだ歌であり、たぶん、中央を出発する時の歌だろうと思われます。

後に続く63番歌からは、出向祭事へ向かう道中で詠まれた歌が連なっています。





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万葉集 巻第一 63番歌

山上臣憶良、大唐に在りし時に、本郷を憶ひて作る歌

いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津の浜松 待ち恋ひぬらむ

いざこども はやくやまとへ おおともの みつのはままつ まちこいぬらむ




周防大島・大玉根神社・一の鳥居
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先に説明した62番歌から旅は始まっています。何の目的を持った旅かと言うと出向祭事です。

今ふうに言えば盆と正月の里帰り、といったところでしょう。他国からの侵略による戦乱を

のがれて移住して行った人々の里帰りです。または、移住者たちの子孫による出向祭事です。

現代の解釈は遣唐使を意味していると言われています。その背景には、歌に添えてある注釈文があります。

注釈文は万葉集が編纂された時に諸々の記録を手掛かりに推測で記されたものです。だから、

合っているものもあれば間違っているものもあります。万葉集を掘り下げる時に、その注釈文が

邪魔をするんです。初代の地も忘れ去られた時代の推測文は無いほうが良かったと言えましょう。

解読する我々としては、注釈文に惑わされることなく、歌のみを見なくてはなりません。


この63番歌は、故郷を前にしたウキウキした感情を表わした歌です。

その故郷とは何処を言っているのかは、大伴とあることによって明瞭になります。


古事記の天孫降臨(通称)の段に天忍日命(アメノオシヒノミコト)は大伴連らの祖先であると記してあります。

記述は、やがて次の詞を以って完結します。「ここは辛国(からくに)に向かい笠沙の御前を真来通りて、朝日の

ただ射す国、夕日の日照る国なり、故、此地はいとよき地」。この詞は室津半島の大星山を語っていることは

前章の「幻影の神域・熊毛神社」のページで詳しく採りあげました。大星山を中に置いて東が大伴であり、

西が天津久米命(アマツクメノミコト)です。周南市の遠石八幡宮の辺りには今も久米という所が残っています。

大伴は大星山の東であるということは、周防大島です。万葉歌には「大伴の 御津の浜松」とあります。つまり、

周防大島の津(船着き場・港を意味)にある浜の松が待っているよ、という意味になります。万葉歌で「松」というと、

大部分が神域や神社を言います。その意味は、戦火を逃れて疎開(移住)して行った人々がふたたび帰ってくるのを

待つという意味において、松の木が神木とされるようになります。したがって「浜松」というと、浜辺にある神社(神域)

を意味しています。周防大島の浜辺には多くの神社がありますが、そのひとつとして、写真は大島大橋の所にある

大玉根神社の一の鳥居です。歌はこうした諸々の神社群を「御津の浜松」と詠んだのでしょう。

 また、「御津(みつ)」は麻里府にある尾津(おつ)とも、とれることを入記しておきます。

すなわち、歌の意味は、周防大島の神さま達がお待ちだよ、という意味です。



(参考)

 通称・天孫降臨の段より引用。

 「故ここに天忍日命、天津久米命の二人、天のいはゆぎを取り負ひ(中略)御前に立ちて

仕へ奉りき。故、その天忍日命・こは大伴連等の祖。天津久米命・こは久米直等の祖なり。」


 天孫降臨の段から大伴を研究していきますと、周防大島が根底にあることがわかります。

 だからこそ大伴の祖先は「日の命(伊勢)」なのです。





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万葉集 巻第一 64番歌

慶雲三年丙午、難波宮に幸せる時に、志貴皇子の作らす歌

葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕へは 倭し思ほゆ

あしべゆく かものはがいに しもふりて さむきゆうべは やまとしおもほゆ




柳井市伊保庄・賀茂神社・神殿
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62番歌と、63番歌は順序通りですが、以後の歌は順序がバラバラになっています。あっちへ行ったり、こっへ来たりです。

思うに、歌を記した木簡が一応束ねてはあったものの、その束の中でバラバラになっていたのだろうと推測します。

周防大島の西隣の対岸が室津半島です。室津半島には五社の賀茂神社があります。それだけでも尋常な数ではありません。

それらの五社の賀茂神社はすべて神武遠征物語の激戦地を追悼して建っています。歌は、京都の賀茂神社と、室津半島の

賀茂神社とを掛け合わせて詠んでいます。「羽がひ」とある一節でそれがわかります。京都の上下賀茂神社を「羽がひ」と

表現して雅に詠んでいます。温暖な瀬戸内に比較して、移住先の京都の冬はさぞかし寒いことだったでしょう。また「はがひ」は

「歯がゆい」をも連想させて、激戦地を追悼している室津半島の賀茂神社五社をも語っています。「倭」は京都から見た初代の

地を言っています。つまり、京都の上下賀茂神社に霜が降って寒い夕べは故郷の地が思われてならない、という歌です。


 またこの歌は、初代の地(周防)から中央を思っているともとれます。

 両面性がある訳ですが、私は「中央の思いを初代に捧げている」と受け取ります。





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万葉集 巻第一 65番歌

長皇子の御歌

霰打つ あられ松原 住吉の 弟日娘と 見れど飽かぬかも

あられうつ あられまつばら すみよしの おとひをとめと みれどあかぬかも




室津半島・皇座山・白雲稲荷の大鳥居
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「あられ」が二つ出てくるのが特徴です。「霰打つ」は文字通り雨霰のあられです。そして、「あられ松原」は

「あられもない」のあられです。あるはずもない、とか、ありえない、といった意味です。では説明します。

この辺りの歌は二地点の掛け合わせが多いのですが、この歌もそうです。まず「霰打つ」とは火山弾を

意味しています。火山弾が霰のように打ちつける、といった意味を持っており、実際には、詠歌された時点で

火山弾は降ってはおらず、景観を基にしています。まず詠歌地点を先に出すほうが説明し易いので、詠歌地点

を申し上げますと、上関町にある上盛山という山頂です。その山頂で考えるとピタリ合います。上盛山の頂上には

皇座山から降って来たのであろう溶岩の火山弾が無数に散在しています。皇座山は火山ですから、噴火した時に

霰のように火山弾が降って来たであろうことは容易に想像できます。歌では先ずその霰を出すことによって場所を

明確にしています。では「あられ松原」は何を意味しているのかと申しますと、それは「弟日娘(おとひをとめ)」と

あることによってわかります。弟日娘とは誰であるのかは橘です。倭建命(ヤマトタケルノミコト)の東伐にあります。

タケルが走水の海を渡る時、波が荒れて渡れなかったという物語。波が荒れて渡れないのを、タケルの后だった

弟橘比賣命が海神に身を捧げて波を鎮め、タケルの東伐を救った、という物語です。その走水の海とは何処である

のかは、前の64番歌で登場した賀茂神社が指し示しています。伊保庄賀茂神社の前面方位は東京湾を経て

房総半島の九十九里浜を指しています。房総半島は今でも天然ガスの産地です。九十九里浜から熱気球を一斉に

上げて太平洋を渡ると、バンクーバー島に着いたようです。バンクーバー島にはナナイモという所があり、伊保庄

賀茂神社の方位線はそこを指しています。歌に戻りまして、弟日娘とは弟橘比賣命を言っており、「あられ松原」とは

「ありえない松原」といった意味を持ち、一斉に飛び立って行った九十九里浜のことを言っています。では「住吉」は

何を意味しているかと申しますと、「霰打つ」に連携しており、今でも皇座山には住吉神社と呼ばれる大きな石祠が

あり、その方位は噴火口を拝礼しています。山のふもとには今でも千葉稲荷があります。また上関海峡の橋のふもと

にも住吉神社があります。つまり、住吉(すみよし)とはその字のごとく「住み心地の良い」といった意味でありましょう。

最終的に「弟日娘と見れど飽かぬかも」弟日娘として見ると飽きることがない、といった意味ですが、海神に身を捧げた

弟橘比賣命は上関町蒲井に巨大な神像となって残っています。下の写真は上盛山からその蒲井の神像(木崎)を見たものです。

余談になりますが、その神像の真ん前に原発の事務所を建てたのですから上手く行くはずもないです。

結論として、歌の意味は、神々の旅立った初代の地は見ていても飽きることがない、といったような意味になります。







上盛山の頂上に無数にある溶岩塊。対岸の皇座山から噴き出た溶岩塊。
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参考ページ・内部リンクです。


皇座山頂上に今も残る噴火口跡

常香盤に行く途中にあり、周辺には溶岩流の痕跡があちこちに見られます。終戦直後の開拓団によってだいぶ破壊されたようです。


皇座山頂上の古代祭祀場である常香盤

古代自然葬の場所だったと思われます。後に前方後円墳の後円部に埋葬するようになったのは、ここが原点です。


白雲稲荷の住吉大明神

皇座山には「住吉さぁ」と呼ばれて来た大きな石祠があります。その拝礼方位は皇座山の噴火口であり、常香盤です。

 すなわち、皇座山頂の住吉大明神は火山活動の沈静化と言いますか、再び活動しないように、「住みやすくあるように」との

願いから祀られた神です。ちなみに、大阪の住吉大社の祭神は筒男命(つつのおのみこと)であり、底、中、表、と三柱です。

それは大地を意味しています。大地の底、中、表です。地震神(地震を沈静化させる意味)と謂われるのもそのためです。





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万葉集 巻第一 66番歌

太上天皇、難波宮に幸せる時の歌

大伴の 高師の浜の 松が根を 枕き寝れど 家し偲はゆ

おおともの たかしのはまの まつがねを まくらきぬれど いえししのはゆ

右(上)の一首、置始東人




伊保庄賀茂神社から見た女性が仰向けに寝ている風景
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高師とある部分をどう受け取るかが難しい歌です。

「高師の浜」とは、現在の大阪府堺市の南の浜寺公園から高石市にかけての海岸、ということになっています。

堺市には世界最大の大仙古墳(仁徳天皇陵)があります。だから高師と詠んだと思われます。仁徳天皇陵は

改葬された終末の陵墓です。初代の陵墓は、このホームページでも度々載せています波野スフィンクス頂上です。

そして古事記の記述から導くと、天王原古墳そして柳井市水口茶臼山古墳、そこからの中継地点は、古事記の

記述だと見失ったという曖昧な表現になっています。そこからは万葉集の歌から導き出すことができます。

まず最初に広島。それは万葉歌に白波が打ち寄せてくるという歌がありまして、それらの歌の詠歌地点を明確に

置いてみますと、まず最初に広島になります。やがて何年かして岡山へ改葬されます。その根拠は、吉備津彦神社の

拝礼方位が最初の陵墓を拝礼しているからです。吉備津彦神社の拝礼方位は波野スフィンクスになっています。

岡山に何年か安置してあって、そこから姫路辺りに何年か安置して、それから今の堺市に改葬されたと推測します。

なぜそんなに改葬したかと申しますと、今と同じで、オリンピックの開催地と同じ理屈なんです。安置した地へは多くの

高貴な人々が参拝に訪れます。だから栄えます。その繁栄は現代までも都市となって永続しています。そうした訳で

各地へ中継安置しながら順々に東進していったと考えるのです。


さて、歌に戻りまして、問題の高師の浜ですが、この歌もまた二面性を持っていて、高師は皇子とも読め、また神子

にもなります。そう読んだ場合は別ページで説明していますので、そちらへ内部リンクしておきます。こちらです。

なぜ二面性を持たせたのか、という事については、初代の地を思う歌人の複雑な心情が表われていると言えましょう。






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次の67番歌は、歌の途中が脱落していたようです。

書写する段階が問題で、脱落していればそのまま脱落したままで書き写してくれれば問題は無かったのですが、

書写した人が当て推量で脱落部分を書き加えたものですから話がややこしくなります。つまり、写本の基となった本を

探り出す必要が出てきます。幾つもある万葉集の写本の中で最古の本は元暦校本・尼崎本・広瀬本です。その考察は

別ページで説きました。こちらです。そうして元暦校本の原文はどうあるかと見ますと、以下のようになっています。


旅尓之而物恋之   鳴毛不所聞有世者孤悲而死万思

右一首(上) 高安大嶋


元暦校本の原典が見たいところですが、脱落部分を見ますと、諸々の写本の中に「伎尓」と入れたのがありまして、伎尓の後に

鶴が続いています。「伎尓鶴之」(全注釈大成注釈本)それを参考にしますと、「旅にして もの恋しきに 鶴鳴くも」とすれば

文字数がピタリになります。とりあえず文字数はそれで良しとして、なぜ脱落したのか、そこに言及しますと、ある神社が浮上して来ます。

その神社は、からと水道の真っ只中にあり、波野天神と呼ばれています。伝承歌を持っていますが、その伝承歌も途中から脱落しています。

その伝承歌についての研究は別ページで明らかにしています。こちらです。 その伝承歌では雁になっています。雁はガンカモ科の鳥です。

そうしてこの67番歌の前後66・68の歌を見ますと、大伴です。つまり、この67番歌の前後は大伴で挟んであります。大伴が周防大島を意味

していることは先述しました。この67番歌の作者を見ますと、高安大嶋(たかやすのおほしま)になっています。この人は伝未詳の人であり、

どんな人だったのかわかっていません。大伴で挟んであることを思うと、周防大島に繋がります。周防大島には安下庄(あげのしょう)という

所がありまして、今の長尾八幡宮がある所です。そこは神武東征の秋国の多祁理宮であると別ページで説きました。安下庄は、元は甲ノ庄と

呼ばれていたのを安下庄に変えたことが由来に記してあります。その地名の「あげ」という名は、からと水道の波野スフィンクスの南側ふもと

付近を今でも「大字波野小字上ゲ」と呼んでいます。つまり、先ほどの波野天神に繋がって来ます。そういう訳で、この67番歌は、からと水道を

航行する際に波野天神(太古は砂州状の島)で詠まれたのであろうと考えられます。繋がる全ての歌を脱落させて結び付けているのです。

よって、脱落歌を総合的に見て、本来記されるはずであったろう歌を詠んでみますと、以下のようになりました。


旅にして もの恋ひしきに 雁鳴くも 聞こえざりせば 恋ひて死なまし



なお、波野天神については菅原道真に関係しており新しい神社だと言われるかもしれませんが、太古は塩の神として祀られていたものを

いつの時代にか新しく由緒ある菅原道真を祭神にしたようです。その根拠は、からと水道の後退と共に塩の神が沖へ沖へと移動して、

やがて今の平生町で終焉をむかえたようです。そのことからも波野天神は本来は塩田の神として祀られていたことは明確であります。






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万葉集 巻第一 68番歌

 大伴の 美津の浜なる 忘れ貝 家なる妹を 忘れて思へや

 おおともの みつのはまなる わすれがひ いへなるいもを わすれておもへや

右(上)の一首、身人部王




神花山古墳・遺骨から女性の陵墓と判明しています。
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大伴が周防大島に繋がることは先述したとおりです。そして原典の文字には上のとおりに美津の文字が用いてあります。

美津を三つと受け取ると、大島三郷になります。古代の周防大島は、屋代・美敢・務理 と三郷あり、平城京出土木簡にも

その地名はありますから和銅年中(708〜714)の頃にはそう呼ばれていたことがわかります。そうすると、歌の美津は大島三郷を

言っているとも考えられます。また御津とすれば津に対する接頭語になり、津に対して敬意を表している言葉にもなります。


では、美津の浜が何処だったのかを知るために「忘れ貝」を追究してみます。

「忘れ貝」は古事記の「猿女の君」の段に出て来る比良夫貝のことです。

比良夫とは今の平生町(ひらおちょう)一帯を言い、平生町の古地図に「日良府」と記した物があります。

その日良府には大野が含まれており、大野からは神武の箕山が仰がれます。古事記には、

猿田毘古神は比良夫貝にその手を咋ひ合はさえて、海に沈んで溺れた、とあります。


そうした訳で歌の忘れ貝とは、比良夫貝⇒日良府へと繋がっており、おのずと日良府の

圏内にある麻里府へと結び付きます。麻里府には神花山古墳と阿多田古墳があります。


その両古墳に関して、この歌の作者を見ますと、「身人部王(むとべのおほきみ)」とあります。

身人部の意味するところは日本書紀にあります。

日本書紀の雄略天皇二年十月の段に「身狭村主青(むさのすくりあお)」という人が登場します(以下・青と記す)。

その青は「檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)」という人と一緒に記してあります(以下・徳)。

これは青が推古天皇を意味し、徳が聖徳太子を意味しています。

そうすると、この歌は青の末裔が詠んだ歌ということになります。


歌には「美津の浜なる」とあり、浜辺にある忘れ貝、ですから、日良府にある神花山古墳と阿多田古墳です。

阿多田古墳は箕山から改葬された初代の推古天皇陵墓であることは別ページでも説明したとおりです。

なぜそれが忘れ貝なのかと考えてみますと、神花山古墳には女性の遺骨が残されていました。そして、

阿多田古墳は後に近畿方面へ改葬されていますから、初代の陵墓は忘れ去られてしまっていた、

ということに起因して忘れ貝の表現が生まれたと思われます。


 「家なる妹を 忘れて思へや」の大意は、「家の奥さんのことは忘れて慕いなさい」という意味でしょう。




 写真は平生町の神花山古墳を載せましたが、あちこちと改葬されているようです。

 改葬された順は研究中ですが、分骨の可能性がかなりあります。

 そのことは釈迦の遺骨を皆で分けて敬ったという仏教色の濃さをも意味しています。

 写真の神花山古墳は頭骨だけが残っており、それは周防大島の大友大権現の由来と一致します。

 由来記の年代も由緒も改ざんされたか、または新旧が合わさってひとつの由来になってしまったと考えられます。





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万葉集 巻第一 69番歌

 草枕 客去る君と 知ませば の埴布に にほはさましを

 くさまくら きゃくさるきみと しらませば きしのはにふに にほはさましを

右(上)の一首、清江娘子、長皇子に進る。 姓氏未詳。




八社客人大明神、北辰妙見宮とも、志度石神社とも。
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この歌は先ず原典文字から見ていきます。原典には以下の万葉仮名で記してあります。

草枕客去君跡知麻世婆崖乃埴布尓仁宝播散麻思乎

「客去る」という部分で場所を決定付けています(後述)。客去るは「隠さる」にも通じています。

「知りませば」の部分、現行訳は「知らませば」として「ら」にしてあるのですが、

なぜ「ら」で訳してあるのか不明で、ここでは「知りませば」と、「り」にしました。

崖の部分は元類紀には岸の文字が使ってあります。崖と岸、どちらでも通じます(後述)。



では、「客去る」から説明していきます。

周防大島の東屋代という所、その山奥に推古天皇創建の志度石神社があります。

もとは北辰妙見宮と呼ばれており、北極星を祀る神社です。万葉歌で重要になるのは

由来です。この神社は古くは「八社客人大明神」と呼ばれていました。

では、屋代村の由来記より、古文を読み易く直して引用してみます。


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屋代村
 
当地は人皇三十四代推古天皇三乙卯年、妙見宮志戸石の峯に降臨したまひし時、

 八人の異人
山戸に天降り、七人は黄衣を着し則七星、一人は赤衣を着し則南極星、

 夜陰は光明天に連なり近辺に耀事草木砂石白日の如くに見ゆ、昼は黄気天を貫く事

 柱の如く、地方の人民この異光を見て不思議の思ひをなし二人三人乃至数人で尋ね

 来たるといへども只大樹の山林にて其所をしらず、ようやくわけ入り今の八社に至り見

 れば異体の人八人ありて告げたまはく、もと此の地に人なきが故に北辰志戸石の峯に

 降誕したまふ、よって各此の地に降り田畠を開き村々を調へ北辰尊星を祭らん事を願ふ、

 なんじ等人力をつくし荷擔(かたん)せよとなり、すなはち人民その旨を仰ぎそれより

 大樹大石を片付ける事神の如くに開けり、珍味の飲食自在にして身体を養ふ、追々土地

 開けて産業を営む、農業の道具は妙見山において人知れずおのずから整ふ、今に至りて

 此の所を鍛冶屋敷と稱す、諸人皆知る所なり、時勢事足りて八人の異人天に上りて象を見ず、

 諸人慈しみ慕へども姿なし、
故に社を築きて八人の客人を八社客人大明神と唱祭す、

 此の時まで村々の名なし、八社の開きたまふが故に近辺を八社村(やしろむら)といふ、

 神領(地名)は妙見尊の社領なるが故に往古の棟札にも御神領村と記す、ややしろ村と

 いふはいつの時よりか言い誤りてやしろ村と云ふ字を改めて八代と云ふ、村の始めの人の

 始め、田畠開墾の初め、神の初め即ち当嶋初開の霊神なるが故に大嶋郡惣鎮守と号す、

 村の初め人の初めなるが故に諸人島元といふ、他国より八代嶋と唱ふ、嶋中開闢なりしより

 村々の名極まりて大嶋郡廿七ヶ村の内にて御座候、文字を屋代とは文政初年の頃より

 俗に書き来たり誤りにて只今屋代村と書き来たり申候事。

(付箋) △志駄
八幡宮、島の総鎮守たるに依りて社島と云ふ。

当所は島内にての大村ゆえ島名を以って村名とす。



以下 北辰妙見宮 由来記より

(本尊) 秘仏につき直拝禁。遷宮の節も晴夜にて相調え、尊体、金石木寸尺等に至るまで他言相成らず。

口外する時は蒙嚴罸之由。神殿の内は拝見ならず様、板釘付けにて御座候事。


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そのほか、ヲトグヒ神事という祭事がありまして、大岩の上に供物を供えて鳥が食うのを見て

占う神事があるのですが、今は貯水池が建設されたため、祭事の岩が昔とは変わったようです。


これで客去るの意味が見えてきました。次に「岸の埴布」を検証してみます。

岸の意味は上記の由来にありますように志駄岸八幡宮のことを言っています。

では「埴布」は何を意味するのかと調べてみますと、元類宮には「垣布」となっています。

私は元類宮という本がどんな書物なのかは見たことが無いのですが、一応、歌の「埴」が

「垣」になっている書写本もあるということです。「埴布」と、「垣布」これはどちらも合います。

ポイントは埴垣ではなく「布」にありまして、埴ではありません。埴です。綿の布を言っています。

つまり、埴布は「埴(はに)」で染めた布を意味します。また、垣布とすれば垣根(列石)で

囲った所で作られた綿布を意味します。垣は神籠石遺跡を意味しています。その証明として、

志駄岸八幡宮の方位線を見ますと、前面方位が石城山神籠石の東門跡付近を指しています。

さらに、石城山の高日ヶ峰には「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」の陵墓がありました。

それは聖徳太子のことですが、それが「客去る君」の「君」に相当します。由来の赤衣の人物であろうと思われます。 

石城山関連のベージ。 石城神社方位分析  高日ヶ峰  高日ヶ峰  (内部リンク)


次に「にほはさましを」を今ふうに言うと「におわす」であり、「それとなく思わせる」と言った意味です。

以上を口語訳にするのは意味多重につき難しく、歌のままで解釈したほうがいいです。

なお、八社客人大明神には、近世に天皇が参詣されていた痕跡が石に刻んで残っています。






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万葉集 巻第一 71番歌

大行天皇、難波宮に幸せる時の歌

倭恋ひ 身の宿れぬに 情無く この州崎廻に 鶴鳴くべしや

やまとこひ みのやどれぬに こころなく このすざきみに たづなくべしや

右(上)の一首、忍坂部乙麻呂



「倭恋ひ」とは、初代ヤマトの繁栄を恋い慕う、という意味です。


「身の宿れぬに」の部分を原典文字では「寐之不所宿尓」となっています。

」の文字は、    と読みます。ビでもミでもどちらでも通用します。

ここでは「ミ」を採りまして「身の宿れぬに」と解読しました。または、「ぬ」のところが

「ず」として「身の宿れずに」とも思いましたが、従来の解読に合わせました。


「宿れぬに」の意味はいろいろと解釈されます。子を宿すとも言いますし、また、

この歌の作者が旅人であることを思うと、我が身の宿無しを嘆いているとも取れます。


州崎廻は何処の州崎を言っているのかは、この歌だけでは不明ですが、注釈文から

推測すると、大波野がありますし、からと水道の八幡の瀬戸辺りかな?と思います。





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万葉集 巻第一 72番歌

玉藻刈る 奥へは漕がじ 敷妙の 枕の辺と 忘れかねつも

たまもかる おくへはこがじ しきたへの まくらのへんと わすれかねつも

右(上)の一首、作主未詳歌


黄色文字が変更した部分です。

「奥へは」の部分、原典では「奥敝波」とあります。今までは「沖へは」と解釈して来ました。

奥とは、からと水道に入って行くことを意味しています。ですから、歌の意味は、

「からと水道へは入らないけれど」といった意味になります。

「辺と」の部分、原典では「邊人」とあります。また、人の文字の無い写本もあるらしく、

従来の解読「あたり」でも通用します。「へんと」の解読にすれば方言で、「あたり」と同じ意味です。


「敷妙の枕の辺」とは、先に出てきた66番歌を見れば明瞭です。

枕の辺とは、笠佐島の辺りを言いまして、そこはからと水道への東側出入り口になります。

特に重要な事として、その海上からは水口茶臼山古墳が手に取るように仰げます。

近畿方面から来ますと、似たような所が多くありますから、ここだと忘れないように覚えて

おこうといった意味になりましょう。よって、歌の意味は以下のようになります。


(玉藻刈る)奥へは入らないけれど(敷妙の)枕の辺と忘れはしない。





歌の「枕の辺」に相当するのが笠佐島の辺りです。
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「奥」の意味するところが、からと水道です。





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万葉集 巻第一 73番歌

長皇子の御歌

我妹子を 早み浜風 倭なる 吾待つ椿 吹かざるなつと

わぎもこを はやみはまかぜ やまとなる われまつつばき ふかざるなつと


椿がポイントになります。

天保年中(1830〜1844)に編纂された防長風土注進案には山川の形勢という記述がありまして、

その大嶋郡小松村の条には次のように記してあります。「飯の山辰巳に起こり屋代村境にいたり、

北方平野山脈は屋代村観音山の一支椿か峰、三蒲においては文珠山と云ふ(以下略)」

方位は雑ですが、今の文珠山が「椿か峰」と呼ばれていたことは明確です。その文珠山には今も

龍岩寺という寺院があります。特筆はその龍岩寺境内の巨岩にあり、そこの穴は嵩山に通じており、

嵩山から吹きぬけたという謂れを持っています。ですから、歌の「吹かざるな」は謂れを基にして

詠んでいるのです。また、この歌の後には物部守屋の説話が出てくるのですが、それにも通じています。


「つと」は古語のつとです。今でも「つとに」と言うこともありますが意味が違いまして、古語の「つと」は、

そのままずっと。とか、じっと。そのままの状態が続くようすを表します。古典での使用例を挙げますと、

「君につと添ひたてまつりて」 「面影につと添ひておぼさるるにも」 等々あります。よって、73番歌の大意は。

愛する人へ逢いに行く時のように私は浜の風になる、倭の椿か峰よそのまま待っていておくれ。

こんな感じだろうかと思います。







文珠山の岩屋。
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文珠山の龍岩寺。





続く第4部はこちらです。



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