第2部に進む 賀茂五社の目次に戻る 目次に戻る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊保庄賀茂神社 第1部
室津半島賀茂五社巡りの締めは伊保庄賀茂神社です。
広い駐車場も整っており、半島内五社のうちでいちばん参詣しやすい神社です。
伊保庄賀茂神社全景
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「伊保庄」の地名を地元では「いほのしょう」とは殆ど言いません。主に「うおのしょう」とか「よのしょう」と呼んでいます。
私の知る限りでは「よのしょう」と呼んでいる人が大多数です。地名の伊保庄という文字は後世に付けられた文字であり、
本来は三足の赤鳥に源を発し、鳥の王「烏王の庄(うおうのしょう)」と書き、そう呼ぶのが本来の地名です。
今でも「うおのしょう」と呼ぶこともあるのはそうした名残りと言えましょう。
こうした地名に関しては、ここだけでなく、本来の呼び方に戻すと解決する地名が多くあります。
例を挙げてみますと、岩田は「岩戸」ですし、下松などは「降り松」が本来の地名です。
少しずつ本来の地名に戻すよう、少しでも定着させていくとよいと思います。
伊保庄賀茂神社 駐車場
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊保庄賀茂神社
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊保庄賀茂神社前面方向
まん前に烏島があり、「からすじま」と呼ばれていますが、「うしま」が本来かも。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊保庄賀茂神社、東南の方向を見たもの。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊保庄賀茂神社、東北の方向を見たもの。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊保庄賀茂神社
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊保庄賀茂神社(画面左側)と、貴船八幡宮(画面右側)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊保庄賀茂神社境内
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊保庄賀茂神社神殿
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊保庄賀茂神社神殿
肘木(矢印)の彫刻は、籠彫りという手法で彫刻されています。
周防大島の「門井宗吉」という名匠の作品だそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊保庄賀茂神社・拝礼方位 255度
拝礼方位線の分析
拝礼方位線は正確に雷山神籠石を指しています。
メルカトル図法の世界地図で方位線を伸ばして行くと、インドへと到ります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前面方位線の分析
神武東征の重要地点です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
淡路島を経て大阪から奈良です。
奈良を拡大してみたのが下の図です。
方位線は若草山を指しています。ふもとには平城京。
天皇の古墳群があり、さらには東大寺大仏殿。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前面方位線をどんどん伸ばして行きますと、東京湾を経て九十九里浜です。 さらに、
メルカトル図法の世界地図で方位線を伸ばして行くと、カナダのバンクーバー島ナナイモへと到ります。
この日本列島を縦断する大がかりな方位線は何を意味しているのかと考えてみますと、方位線が東京湾を渡っているので、
ヤマトタケル東伐の物語が浮上してきます。物語のうえでは、タケルの后「弟橘姫」が海神を鎮めるため入水する場面です。
この方位線は姫の供養の意味を持っているのでは、と考えられますが、研究していくと、もっと別の意味を持っているようです。
方位線のナゾを知るためには古代熱気球から研究してみる必要があります。古代熱気球のページはこちらへ移設しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天孫降臨と賀茂神社
天孫降臨は神代を語る時に必ず登場する物語です。天孫降臨という名称は現代人が付けた段落分けの名称です。
原典での物語は前章から続いており、天孫降臨という言葉は出てきません。それに伴う問題点もいくつかあります。
例えば、普及本で「〜御前に仕へ奉らむとして、参向へ侍ふぞ」となっている部分を原典通りに解読しますと、
「〜御前に仕へ奉りて参向ひし時、〜」となりまして、実際の文章は前章から続いています。つまり、解読の段階で段落分けを
するために文章をいったん切っているわけです。小さなことですが、一字変わると後に続く文章が変化してしまいます。
参考までに、古事記、天孫降臨の段より私の解読で載せておきます。
古事記、「猿田毘古神」の終末部分から「天孫降臨」にかけて。
〜吾は国つ神、名は猿田毘古の神なり。い出いる所以は、天つ神の御子天降りますと聞きし故、御前に仕へ奉りて参向ひし時、
天兒屋命、布刀玉命、天宇受賣命、伊斯許理度賣命、玉祖命、合わせて五伴緒を牟支加えて天降すなり。ここにその置きし八尺の勾玉、
鏡及び草那藝剣、また常世思金神、手力男神、天石門別神を副へ賜いて詔るは、「この鏡は、もはら我が魂として、吾が前を拝むが如く斎き奉れ。
次に、思金神は前の事を取り持ち政せよ。」この二柱の神は、朔日代伊須受の宮に拝し祭る。
次に、登由宇気神、こは外宮の度相に坐す神ぞ。次は天石戸別神、亦の名を櫛石窓神と謂い、亦の名を豊石窓神と謂う。
この神は御門の神なり。次に、手力男神は佐那那縣に坐すなり。〜
天孫降臨・内容解説
猿田毘古神 (さるたひこのかみ)
猿田と書いて「エンデン」とも読めます。塩田の意味を持っており、塩の神と共通です。
よく山深い所の神社に猿田毘古神が祀ってありますが、それは昔の塩の流通に関連
していると思われます。それは仁徳天皇と同一人物(説明は長くなるので割愛します)。
五伴緒 (いつとものお)
室津半島内の賀茂神社五社のことです。賀茂五社はすべて神武侵略地を拝礼しています。
追悼の意味を以って建てられたものです。そして、それは記録でもあります。だからこそ、
賀茂神社は伊勢神宮に次ぐ高い位を授かっているのです。
常世思金神 (とこよのおもいかねのかみ)
金神(こんじん)であり、神武天皇のこと。何処の国の人かは不明なるも、古歌に「宋」とあることから、
中国人の可能性が高い。ただし、名を換えているのですべてが神武ではありません。神武が神武。
手力男神 (たぢからおのかみ)
手力とは彫刻の意味を持っており、羯摩(かつま)のこと。天竺毘首羯摩(てんじくびしゅかつま)というのが正式名称。
それは大物主神であり、御毛沼命(みけぬのみこと)と同一人物。周防近隣には羯摩の彫刻作品が多く現存している。さらに、
御毛沼命は波の穂を踏んで常世の国に渡っている。常世とは室津半島を意味しており、鎮まった所は大星山山頂。
いわゆる幻の「熊毛神社」の前身である(幻影の神域本編を参照してください)。天竺ですから、インド人ですね。
天石門別神 (あめのいわとわけのかみ)
天の石門はアマテラスに関係しており、太陽神アマテラスの祭事をつかさどっていたのが五十鈴姫(いすずひめ)です。
本来の名を「富登多多良伊須須岐比賣命(とみとたたらいすすきひめのみこと)」と言い、のちに名を改めて
「比賣多多良伊須気余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)」になります。名の文字「富登」を現状では「ほと」と読んでいますが、
たぶん原典に朱色のカタカナ書きでルビがふってあるのだろうと思います。「とみとタタラ」ですよ〜。
思金神は前の事を取り持ち政(まつりごと)せよ
前の事とは、初代ヤマトを滅ぼした侵略の事を反省しろと言う意味を含んでおり、
伊保庄賀茂神社の前面方向をも言っています。前面方位線は香川県多度津町白方を指しており、
物語では楯を持って降り立った所、多度津です。青雲の白肩津は今もそのままの地名で残っており、白方です。
伊保庄賀茂神社の方位線を分析しますと、方位の前後とも侵略地(激戦地)を指していますことから、
文の意味は、前に起こした悪事を反省して追悼せよ、という意味が多くを占めていると思われます。
この二柱の神は、朔日代伊須受の宮(さくひしろ、いすずのみや)に拝し祭る
二柱の神とは御毛沼命と神武天皇のこと。
伊須受の宮とは伊須須岐姫(五十鈴姫)の宮(神社)という意味。
先に五十鈴姫を祀った神社があって、そこへ二柱の神を合祀した、という内容です。
つまり率直な話、初代ヤマトを滅ぼした主神を五十鈴姫に押さえ込ませておく、という意味。
合わせて三柱の神がいなくてはなりません。伊保庄賀茂神社はそれらのすべてをそなえています(以下)。
防長風土注進案より、伊保庄・賀茂大明神
本来の祭神 三毛入野命 神武天皇 姫蹈鞴五十鈴姫命
別の記録として。
明和(1768)の記録・・・祭神・三毛入野命・玉依媛命・別雷命
天保(1843)の記録(神祠之内仕出)・・・三毛入野命・別雷命・姫蹈鞴五十鈴姫命
伊保庄賀茂神社が五十鈴姫、相ノ浦賀茂神社が玉依姫であり、
この二社を二人の宮司さんが数年交代で祭事をしておられました。
そうしたこともあり、明和の記録に玉依姫が混在してしまったのでしょう
上記の祭神名を見ますと、「神武天皇」としてあります。正式な祭神名が神武天皇とあるのは、ここだけのはずです。
日本各地にある神武天皇を祀る神社の正式な祭神名は「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれひこのみこと)」となっているはずです。
物語で名を取り換えていますから、各地の神武天皇を祀る神社は憎い侵略者ではなく、イワレヒコです。問題はありません。
憎い侵略者は初代賀茂で五十鈴姫が押さえています。
この二柱の神は、朔日代伊須受の宮に拝し祭る
「朔日代」の部分、原典では「佐久久斯侶」とあります。現在の普及本の解釈では「裂く釧(さくくしろ)」としてあります。
「くしろ」とは古代の腕輪をいうらしいのですが、ここでは物語に五十鈴(いすず)が入っていますので、太陽や日に関連してきます。
「さく」とは、朔日(さくじつ)の朔を意味しており、月の第1日、最初の日を意味します。よって続く「久斯侶」は日に関係した解読になります。
久の読み方は、キュウ・ク・ひさ、であり、日に関係した解読ですから「ひさ」になり、久斯侶は「ひしろ」と解読し、日代です。
日代とは、太陽(日)の拠り所、太陽の光が降り注ぐ地、といった意味での日代です。
日代という言葉は日本書紀にも「日代の宮」というのが載っています。
伊保庄賀茂神社は太陽の昇って来る方向に向いていますから、日代という言葉がふさわしい神社です。
伊保庄賀茂神社、夏至の朝日。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊保庄賀茂神社脇にある貴船八幡宮。貴船が祀ってあるということが重要です。
貴船八幡宮・参道
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
余談になりますが、では、今までの解読「さくくしろ」は無意味かというと、そうでもなく、
「櫛(くし)」と解釈すればヤマトタケルの物語です。海神に身を捧げた弟橘姫の櫛です。
海岸に流れ着いた姫の櫛をとって御陵におさめた、という一節があります。
伊保庄賀茂神社の前面方位線は東京湾を通過して房総半島に至ります。
東京湾から九十九里浜です。
なぜ九十九里浜なのかは、千葉県は天然ガスの産地です。古代熱気球です。
気球は風まかせですから、一つずつなんて悠長なことは言っていられません。
大移住ですから、たくさんの数えきれないほどの熱気球を一度に上げる必要があります。
みんながいっせいに上がらなくちゃ取り残されてしまいます。だからこそ九十九里浜です。
それほどたくさんの気球を上げるのですから、慣れた人もいれば不慣れな人もいます。
空中での事故や、うまく上昇できなくて海に着水した気球もあったことでしょう。
もしそうだとしたら、海神に身を捧げた弟橘姫の櫛の意味するところは見えてくるようです。
残る人々と行く人々、さらには行こうとすれど無念な結果も待っている。
空を被うほど多くの熱気球だったとしたら(千葉・・・千羽)。
このシーンは想像すればするほど感動的なシーンとなって立ち上がってきます。
「天孫降臨」続く第2部はこちらです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第2部に進む 賀茂五社の目次に戻る 目次に戻る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・