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 見捨てられた遺跡  神籠石紀行 第三回

 雷山神籠石         

 平成18年12月、雷山神籠石の見学に行った時の記録です。

 神籠石については、もう一度簡単に説明しますと、
 神護石遺跡の築造された当初は綿花の樹園として存在していたようです。
 鹿や猪などの害獣避けの柵を廻らしていた基底部の列石が残っているものです。
 使わなくなった後も再利用として、いろんな使われ方をしてきたことがうかがえます。
 様々な説の、どの説も間違ってはいないと思います。




 雷山登山口の風景です。   

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 雷山には南北二ヶ所の水門があります。まずは北水門から。






 中央の池は現代に造られた人工池です。人工池ダムの北側に北水門があります。
 ダムができる前の地形はこの図ではわかりませんが、おそらく真ん中を南北に沢が流れていただけだろうと推察します。
 中央を沢が流れていることは農作物の栽培などに好条件でもあります。綿の木は水を必要とします。

 神籠石の囲いのなかは盆地になっており、山のふもとからは見えません。
 他所の神籠石遺跡の大部分がふもとから見えることを思うと、この雷山は異質でもあります。
 綿花は風に注意を払わないと、せっかくの豊作が風で飛ばされてしまいます。
 日本書紀にも綿が飛んできたという記述があります。
 そうしたことを思うと、盆地であることは風当たりが弱まる訳ですから、
 防風の意味においてもこの地形は好条件だったことでしょう。

 全体の形状が女陰を連想させます。
 女陰や男根というものは古代には神聖視されており、それを形作り、祀り崇めている物は全国各地に多く見られます。
 子孫を増やし繁栄させる大元でもあります。人が多いことは、それすなわち国力です。
 特に重要なことは、空中から見てこそ、その形がわかることです。
 現地に立って眺めてみても女陰であることはわかりません。
 空から見下ろしてこそわかるということは、急斜面の列石に結びつきます。
 列石はなぜ急斜面を上昇しているのか、という答えが空にあります。
 熱気球で空中から見おろしてわかるようにするために、急斜面を上昇させたわけです。

 綿花は綿の貿易価格を保持するためにも極秘で栽培されなくてはなりませんでした。
 さらには、熱気球を作るためにも極秘であり、なくてはならない産物だったはずです。
 この遺跡が築造された頃は世の中が平和の最盛期でもあったのでしょう。
 何が歴史を変えてしまったのか。そこに神武遠征が重なってくるのです。  
 土塁だと思われて来た土積みの層は、樹園を再起不能にするための敵側の破壊工作だった訳です。
 そうした事は万葉歌を分析研究することで、より明らかになります。

 室津半島の賀茂神社は、この雷山を指し示しています。

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 雷山・林道の北水門入り口からふもとを見おろした写真です。
 撮影地点は盆地地形の縁にあたる所です。
 撮影者の背後は盆地になるので、ふもとからは見えません。

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 北水門への入り口にて。
 案内板の所を画面左方向に入って行くと北水門に行き着きます。
 この林道を向こうに向けて進んで行くと、南水門です。

 雷山へ登る道は、ふもとからダート(地道)です。
 私はダートに慣れていますから楽しかったのですが、不慣れな人には少し荷が張るかもしれません。
 私の都車(みやこぐるま)でも底を擦らなかったから大丈夫だとは思いますが、底の低い車は無理です。
 四駆でなくとも二駆で充分登れます。   

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 北水門の真上にて。
 ここは水門の真上になります。
 水門の上には鳥居が立っており、鳥居の向かいには筒城神社跡の石碑が立っています。
 鳥居の地下には沢が画面左から右方向へと流れています。

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 残っている礎石をもとに神社の方位を出してみると、前面には遥か臼杵石仏を指しています。
 左右は、向かって右方向に志賀島を指し、向かって左方向に鹿島を指しています。

 志賀島はあの有名な金印の出た所です。
 「漢委奴國王」・・・(現在の読み「かんこくおう」)。

 ・・・歴史のドラマには隠された続きが残っているようです。極めて重要。

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 北水門の内側。
 画面の上右に先ほどの筒城神社の鳥居が見えています。
 沢は、こちらから向こうに向けて流れています。
 水流の真上にある横長の石にメジャーをあててみると、横160センチ、縦が60センチおよそありました。
 だいぶ土砂が堆積しているのか、向こうの外側とでは深さにかなりの高低差があります。
 また、この高低差は風音を出させるために(笛のような構造)、わざとそうしてあるのかもしれません。

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 北水門の外側から東側の列石を見たものです。
 列石の上昇角度は30度で、東に向かって上昇しています。
 西側列石の40度ほど急傾斜ではないものの、かなりの急角度で上昇しています。

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 少し視線を下げて沢を見たものです。水流は向こうからこちらへ流れています。
 右側にポッカリ開いている穴を何と解釈すればいいのでしょう。
 石の厚みを見れば自然に抜け落ちた物ではないことはわかります。
 いつの頃か故意に引き抜かれたか、または風音を出すために
 最初から組み付けられなかった空間なのかもしれません。

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 谷川に落下している整形石。
 寸法は上面の横方向が約1メートルくらい。
 水圧で転がるほどヤワな石とも思えない。

 (以下・追記)
 この落下石の元の位置は、水門上の東側列石に接続していたものと思われます。
 現在、そこは道になっていて、列石が道で切れていますから、
 たぶんそこから転がった(転がされた)石と思います。

 そうすると、水門の石穴は関連する石が見つかりませんから、
 最初から開いていた可能性が多大です。

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 北水門。水流の出口。
 穴の開口寸法は1穴が縦横ともに約1メートル30センチくらい。
 2穴の放出口があったことはわかりますが、斜めに傾いている石をどう見ればいいのでしょう。
 水圧で内部築石が出てきたとも思えません。

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 同じく北水門の外側全体図。

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 北水門の西側の列石。
 西へ向けて列石が昇っています。その上昇角度は、35度〜40度。
 40度の角度の斜面は見上げるほどの急斜面です。

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 西側の列石。上昇角度の計測。 35度〜最大地点で40度を計測しました。
 角度計は重り方式の物を使っています。
 角度計から手を離すと滑り落ちるので、撮影用に引っ掛けてあります。

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 西側列石。 岩盤を利用して列石の滑り落ちに歯止めをかけています。
 岩盤の上面が削ってあり、列石上部とツライチに合わせてあります。そのことは、
 この急斜面においても列石上部には横木のような物が置かれていたことが推察されます。

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 同じく岩盤利用部分。
 写真では平地のように見えますが、傾斜角35度以上の急傾斜地です。

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 横木のズレ防止の役目をしていたと思われる切り欠き溝のある石。
 ちなみに石城山の場合は、これが入っていないから横木がズレに対して弱い面があります。
 ここの雷山では、築石10個に対して1個くらいの割り合いで溝のある石が入れてあります。
 溝加工石の距離間隔は正確には計測していませんが、約7〜8メートルに1個というところでしょう。
 溝加工石の間にあるほかの石の上部は平面仕上げになっています。

 この次の溝石が下の写真。



 溝石の寸法をとってみますと、横木が置かれていたと思われる部分は約20センチくらいあります。
 このことから推察すると、横木はおよそ15〜20センチ角の物を寝せていたと考えられます。
 ちなみに高良山神護石の場合は、この溝が約30センチあります。

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 斜面から谷底を見おろしたものです。
 はるか下の谷川を見おろすと怖くなるほどの急斜面です。
 なぜこんな難しいことをわざわざやったんでしょうか。
 斜面を昇らずに水平方向に石を繋げば工事も楽だったろうにと思うと、何か職人気質のようなものさえ感じられます。

 なぜこんな厄介なことをしたのか考えてみますと、上空から見てこそ答えが出そうです。
 すなわち、熱気球で上空から見おろしたスタイルを重視しているからこそ、
 こんな急斜面でも列石を昇らせたのではないでしょうか。

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 こんどは水門より東側の列石を見てみましょう。
 傾斜角30度平均の斜面を東に向かって昇っています。

 この雷山神籠石は築造に対して、まだ初歩的段階にあった古い神籠石とみられ、
 斜面においても石は長方形をしています。

 それが、女山神籠石などになると、石の接合面のラインを垂直に保って繋いでいる所も見られます。
 つまり、石が長方形の連結ではなく、菱形(斜方形)の連結をしています。

 同じ神籠石遺跡といえども、石切りの技術や工法の進化、
 さらには築造に対する余裕や自信のようなものさえ出て来ます。
 そうした進化をする過程においての試行錯誤が感じられるのです。

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 見る位置を少し移動してみた写真。
 写真では平地に見えますが、こちらが低く向こうが高い傾斜角30度です。

 先ほどの谷川の落下石はここの接続だろうと思われます。   

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 この石の厚み・60センチ。高さ・75センチ。長さ・90センチ。
 長さはそれぞれ不規則で、最長は1メートル30センチを計測しました。
 列石の上部は水平に加工されています。

 石城山は外下がりの斜め加工になっています。
 そのことから推測できることとして、この雷山の柵組はほぼ垂直に立っていたと考えられます。
 石城山の場合は外に張り出すオーバーハング形式の柵だったと見ます。
 いずれも害獣を防ぐ苦心の跡です。   

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 私は遺跡を一周しようと登坂を開始しました。

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 ところが、ほんの数十メートルも登らないうちに列石は土のなかへと沈んで行ってしまいました。
 どこか石影は見えないかと、この急斜面を徘徊してみましたが、地上に現れている列石は見られませんでした。

 この雷山神籠石の大部分は未だ土のなかに眠ったままのようです。
 掘ることが許されるなら、発掘ボランティア方式の長期計画で掘り出したらいいかもしれないなと思ったりもしました。
 土掘りなど誰も来ないかもしれませんが・・・。

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 南水門周辺

 雷山には北と南に水門があります。
 これまで見てきたのは北水門の周辺です。 
 こんどは南側の水門を見てみましょう。  






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 山の盆地地形の縁になる林道を南水門に向かって歩きました。
 途中の林道脇に神籠石が露出している所がありました。
 解説板によると、林道を通す際に発掘調査されたものだということです。

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 同じく林道脇の列石です。
 石の厚さは約35センチでした。北側の60センチに比較すると約半分の厚さしかありません。
 ずいぶん薄いです。まるで石の屏風です。
 石の屏風という点では石城山神籠石に極めて似ています。築造初期的段階にある作りです。
 埋もれている列石も全て見ないと何とも言えませんが、この雷山だけでも築造工法の進歩する過程が見られます。
 たぶん、この南側から先に構築していったのだろうと考えます。

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 南水門の現状。
 沢のなかに基礎になる築石が残っています。築石の向こう側が外側になります。
 画面両側の土手は版築土の残っている部分に堆積土が合わさったものです。

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 少し視線をズラしてみます。
 この土手の向こう側にも沢があり、水流はこの版築土手を中に置いて二本になっています。

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 二本目の沢の上に列石が昇っていました(画面中央)。
 見上げるほどの斜面を昇っています。
 ここから見た限りだと、石の連結部分が台形になっているようです。
 この列石一個を見ただけでも築石の形状が進化していく過程が見えてくるようです。

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 南水門跡にて。まさに廃墟。 この石、左上の寸法が約1メートル位。

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 南水門跡にて内側方向を見たものです。
 沢の流れはこちらから向こうに流れています。
 木枝の隙間から人造湖の水面が見えています。
 現代のダム建設によって出来た人造湖です。
 本来は沢が流れていただけだろうと推測します。

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 南水門跡。
 自然に崩壊したのではなく、人の手によって破壊されたのであろうことは、
 石の散乱具合を見ればおよそわかります。

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 南水門跡。
 水門の版築土手の断面が露出しています。
 重さ数トンはあろうかと思われる石のほうが流されて、版築土手のほうが残っています。

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 後記
 遺跡を見て歩く私の脳裏に常にあったことは、古代人のメッセージを読み取ることでした。
 文字なんか通用しない時代ですし、話し言葉にしても地域ごとに異なる時代です。
 現代の日本全国共通文字なんて思考性は当てはまりません。たとえ記録を残したとしても、
 地域を移れば解読不可能であり、役に立ちません。
 ではどうするか、そのことを単直に表わしているのが社寺の方位線による記録でもあります。
 さらに、絵文字に等しいことを絵ではなく物で記録した、としたらどうでしょう。
 この雷山では、北の石が引き抜かれていました。南は崩されていました。
 東西南北の方位表記は古歌にありますから、当てはめることができます。
 とすると、このメッセージを皆さんはどう読まれるでしょうか?。

 室津半島賀茂神社はこの雷山を指し示しています。

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  綿花栽培のリンクです(外部リンク)



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