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白鳥の連鎖 第4回
本を出そうと書き溜めていた原稿です。少しチグハグな部分もありますが載せてみました。
写真は「デジタル写真」と表示のあるもの以外は全部フィルム写真です。大きな変更点はその都度記入します。
このページは再編集を予定しているページですが、記述内容に変更はありません。
油良
周防大島の油良は、和歌山県の由良と地名が同じという特徴があり、今までは「ゆら」と言えば和歌山県の由良を指してきました。
周防大島の油良は顧みられることもなく、今に至っています。
周防大島の油良は国道437号線沿いにあります。国道の海側が集落になっており、油良湾が見えづらいのが残念ですが、
そこは車をおりて歩いてみましょう。海岸まで出てみると、丸い感じの油良湾が広がっています。
海辺にたたずんで、じっと見ていると、あたかも大きな巨人の手が海水をすくっているような、そんな感じがしてきます。
沖を見ると、この辺りは大小様々な無人島があり、その美しい景観は宝であると言えるほどのものです。
油良湾
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さて、油良という地名は古事記の歌に出てきます。
古事記 仁徳天皇の段より
加良怒(からと)を琴に造り 描き引くや 由良(ゆら)の門(と)の 斗中(となか)の良い(いー)玉石(くり)に触れ立つ 菜(な)漬(づ)の記(き)のさやさや (史本にやし字が余り)
古事記の歌の現状では、和歌山県の由良に指定してあります。
からと水道は閉塞して航行不能になってから、いくつものコピーを生みました。
なぜこうもコピーを生んだか、それだけ人々の心に深く浸透していたからです。
ノスタルジー(郷愁)の思いは、さらなる「からと水道」を生み、何段階もの年代を経て、やがて近畿に落ち着きます。
近畿の大阪湾や紀伊水道は、「からと水道」の写しなんです。
この歌が詠まれた時には、すでに「からと水道」は航行不能になっていたと思われます。
なぜ、「からと水道」は機能しなくなったのか、ということについては意図的に機能しなくしています。
つまり、侵略国が何万という人材を使って水道に堰(せき)をかけ、埋め立てて水道を機能しなくしていることがうかがえます。
古事記の歌は唐戸水道の面影を大畠瀬戸に求めて移した、という内容です。
面影とする根拠は、水道の曲がりにあり、唐戸水道は八幡の瀬戸で九十度に曲がっています。
水道の全盛期にはその曲がっている周辺が栄えました。
その風景は大畠(おおばたけ)瀬戸と極めて似ており、大畠瀬戸もほぼ直角に曲がっています。そして、そこには琴石山があります。
さらには、近畿方面との比較になりますが、
唐戸水道の曲がっている周辺には天王原古墳や納(な)蔵原(ぐらばら)古墳などの極めて重要な古墳が点在しています。
近畿方面も同じような配置にしてあり、播磨灘と大阪湾、紀伊水道とで共通しています。
すなわち、近畿方面の古墳群には唐戸水道から改葬された古墳が数多く含まれていると思われます。
もっとも、いきなり近畿へ改葬された古墳は少なく、途中で何箇所かの中継点を置いて改葬されているようです。
大畠瀬戸
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歌に戻りまして、歌中の「描き引くや」とあるのは方位線を引くという意味です。
又、大畠瀬戸は琴石山を仰ぎ見る麓ですから「弾く」と解釈することも可能です。
両方の意味を持ち合わせていますが、どちらかというと「線を引く」という意味の方に重点があるようです。
と申しますのも、琴石山のふもとにある水口茶臼山古墳出土の銅鏡に変形神獣鏡というのがありまして、
直径44・8センチの国産大型鏡です。(東京国立博物館所蔵)
その鏡のレリーフに線引きの定規を口にくわえたハブ(さなぎ)の親子が浮き彫りにしてあります。
同じ絵柄がメキシコ石板にもあります。それは又あらためて考えるとして、
琴(こと)石山(いしやま)のふもとに線引きの定規をくわえたハブがいるということは、
今検証している古事記の歌、「加良怒(からと)を琴に造り 描き引くや ・・・」という内容と一致します。
線を引くということについて、
和歌山県の由良はよく知られていますが、ほかに京都府の日本海側、舞鶴と宮津の中間あたりにも由良があります。
この両地点を線で結んでみると発見があります。和歌山県由良と京都府由良を結んだ線上には、先ず神戸があります。
神戸と篠山(ささやま)の中間あたりに琴引峠があり、上青野、母子、という地名がほぼ線上に連なっています。
母子を考えると先ほどの琴石山の麓の定規をくわえたハブの親子です。
線を引くということが、大きな意味を持っていることの証明です。
よって、歌の「かきひくや」とある部分は「描き引くや」であり、線を引くという意味であることがわかります。
続きまして、歌の後半部、「斗中(となか)の良い(いー)玉石(くり)に触れ立つ菜(な)漬(づ)の記(き)のさやさや」。
斗中の斗の文字は原文の文字です。本来ならここを「門(と)」と訳して海峡といった意味になりますが、
斗とは「ます」とか「ひしゃく」の意味を持っています。
周防大島の油良湾は前文でも触れたように、巨人の手が海水をすくっているように見えます。
海岸に立って自分の手を湾に沿って出してみると、巨人は自分であり、海水をすくっている手は「斗」になり、「ます」になります。
油良の海浜にて油良八幡宮の森を見る(中央の饅頭形の森)。
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次に、周防の方言ですが、「良い」を「いー」とか「えー」と言います。
原文の文字は「斗那加能(となかの)伊(いー)久(く)理(り)爾(に)」です。「いー」と伸ばしたり、「いい」と二回続けることもあります。
次も周防の方言ですが、玉石のことを「グリ」と言います。今でも土建業などで使われている言葉です。
「クリ」とか「グリ」と言って、濁音で発声することが多いようです。
次は「菜(な)漬(づ)」ですが、文字を見ての通り「さいづけ」です。賽または斎に通じています。
賽の河原の「賽」であり、菜(な)漬(づ)とは「戦乱漬け」といった意味になります。戦乱漬けの記録です。
これから見ていく油良八幡宮の拝礼方位は宮崎神宮を指しています。
油良は三地点の重要な場所があり、油良を通る尾国賀茂神社の方位線を始発点側から順に見ていくと、
油良稲荷、油良八幡宮、寿源寺、と連なって通過します。この三地点で中心になるのは油良八幡宮です。
歌中の「菜漬の記のさやさや」とは、油良八幡宮のことを語っています。
油良八幡宮・参道 (デジタル写真・2009年1月撮影)
由来記を引用して分析してみます。
(油良八幡宮)
防長寺社由来より (享保年中の編纂 )
大島郡油良村 正八幡宮由緒書(油良八幡宮の古称)
(長文のため、現代文に直して引用する)
往古勧請の儀は延長年中(923〜930)城州男山より勧請したという申し伝えだが、その時代の確かな旧記など無く不明である。それ以後、度々再興(再建)もあったようだが、これもまた旧記など無く不明である。ただし、最近まで(記録当時をいう)残っていた古玉殿の内に「奉再興、長元三年(1030)庚牛ノ七月吉日奉遷宮、同年八月朔日、神主中郡の幣本、伊勢太夫」と書き付けがあった。そのほか往古再興の趣は不明である。
源平戦の時、義経公の御座船が当郡安下庄の鹿家村の沖に御帯船された。弁慶を連れて油良村にお来しになる。そこから弁慶を久賀村に派遣され、兵糧米を陸路にて鹿家まで運送された。船を繋いだ松を弁慶の船繋松と言う。その時、義経公がこの神社は何神を祭ってあるのかと尋ねられた。正八幡の宮所にてございますと申し上げると、不思議に我が氏神の跡に頭を下げ、社に新造された。(新造・原文では神詣とあるが、文章の前とのつながりを考えると、詣を「いたる」と解釈して「造」となる。著者考)武運いっそう開花して、めでたいことだとたいへん喜んで崇敬された。和歌などで遊ばれたので残し置く。
追いて、社頭(本来は境内をいうが、ここでは神社の一番上の位を意味している。)に取り立てる旨を仰せられ、その書類を下知(いいつけ)せられたが、その後は何のしらせも無かったことが伝えられている。右の御詠歌と御墨付(書類)そのほか往古より伝えられている証拠物など数通、先祖が所持していたものの、大永二年壬牛の秋に西方村の火災により、その類火(移り火)によって残らず消失してしまった。
弁慶の船繋松は百年くらい後まで、ことのほか大切にしていたが、数百年を経て枯れ朽ちてしまった。そのかわりとして、松の苗木二本を植えた。今、真っ盛りである。右の岸より少し丘にその大松二本はある。その松をすなわち弁慶の船繋松と名付け、今もって大切にしている。(記録当時のこと)
右の通り、往古は栄えた由緒もある神社だが、乱世(戦国時代)の頃より移りかわる世とともに、よほどの大破もしたらしい。
(以後の文章は再建の記録にて省略します。)
油良八幡宮・境内 (デジタル写真・2009年1月撮影)
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風土注進案より (天保年の編纂)
油良村
往古よりただ今の名目にて、古人の申し伝え等も無し。大嶋郡本村二十七ヶ村の内にて御座候事。
正八幡宮 新川の内、久保山に在り
祭神三座
応神天皇
仲哀天皇
神功皇后
祭日 八月十七日
社伝いわく、当社勧請にあらず、往古未詳。
当村は耕作等の実りもよろしからず所柄に御座候と言へども、昔、人皇六十代醍醐天皇の御宇、延長年中のこと城州男山八幡宮より神託、奉造立。当社御鎮座以来社地等覆いなす恩を除きおきし総鎮守にて、村中繁栄なるところと云々。
(これ以後の記録は、弁慶の船繋松を語っており、先に上げた防長寺社由来と共通しているため省略します。)
油良八幡宮・礼拝殿 (デジタル写真・2009年1月撮影)
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油良八幡宮は、古記録では正八幡宮と記してあります。
社殿は国道のすぐそば、小丘の頂上にありますが、木々がうっそうと茂っているため、国道から社殿は見えません。
寿源寺は国道脇にあり良く見えるので、先ず寿源寺を目標にして走るといいと思います。
油良八幡宮と寿源寺は目と鼻の先で近接しています。
由来記の冒頭にもありますように、「当社勧請にあらず」です。私に言わせてもらえるなら、日本でも屈指の神社ではないでしょうか。
では、油良八幡宮の方位線を分析してみましょう。
先ず拝礼方向です。我々が神社に詣でて拝礼する方向です。社殿では後ろ(裏)方向になります。
拝礼方向には平郡島があります。油良八幡宮を出た方位線は、東平郡の早田八幡宮を通り、平郡三島に至ります。
三島は写真をごらんの通り、ピラミッド型の島が三つ並んでいるのでそう言いますが、
大きさこそ違えどもエジプトギザのピラミッドと実によく似ています。
こうした三つのピラミッド型は、ここだけにとどまらず、唐戸水道周辺には数多く見られます。
また後ほど森ピラミッドの章で考えてみることにしましょう。
平郡三島を通過した方位線は、やがて九州に上陸し、古代史上重要な地点を次々と通っていきます。
その内容は別図を参照してください。方位線はやがて神武天皇を祀る宮崎神宮に至ります。
方位線の全体像を見渡すと、松地名が多いことに気付きます。
松江、松前、小松、松戸、といったクロス型に分散している地名です。油良八幡宮の由来も松の木を特筆しています。
そして、古事記の歌でも「〜 記のさやさや」ですから、木の枝がさやいでいる感じがあります。
松は「待つ」に通じて神域を意味しています。疎開して出て行った人々が、ふたたび初代の地へ戻って来るのを待つ、
という意味において神域を「待つ」に掛け合わせて「松」と呼ぶようになります。
万葉集などで多く見られる「松の枝を結ぶ」とは、神域を結ぶ、といった意味が大部分を占めています。方位線で神域を結ぶわけです。
油良八幡宮の右側方位線を見ますと、神社群が連なっています。
松戸八幡宮、春日神社、代田八幡宮、柳井天神といった錚々たる顔ぶれの神社です。
又、現在は残存していない遺跡も、この方位線を分析すれば浮上してきます。その代表格として濡田廃寺が上げられます。
幻の大寺と言われてきた寺ですが、どこにあったのか正確にはわかっていません。
屋根瓦などの出土で、大体その辺りだったのだろうと見当は付けられているようです。
ところが、明治時代の伝えを合わせると、つじつまの合わない部分が出てきます。
と申しますのも、明治時代に行われた山陽本線架設工事は遺跡に大きな影響を及ぼしたからです。重要遺跡を狙って線路を敷設しています。
たとえば、一例をあげますと、近隣の重要社寺の方位線の多くは駅を指しています。駅付近で社寺の方位線がクロスしているわけです。
かってそこに何かが存在していたと思わずにはおれません。鉄道にしても同様です。
なぜ明治はそうまでして執拗に遺跡を隠していったのでしょうか。明治時代は遺跡調査も国家圧力の下で行われた時代です。
濡田廃寺が建っていたと思われる所を油良八幡宮が指し示しています。それを分析してみますと、名の通り、海上に建っていた寺です。
海上に浮かぶ大寺です。厳島神社のように・・・・・。明細は別図を参照してください。こうした内容を見ても、
油良八幡宮は歴史上重要な地点を指し示しています。
(油良稲荷)
解説では中心になる油良八幡宮を先にしましたが、別図を見ての通り、尾国賀茂神社の方位線が油良に入って通過する順は、
先ず、油良稲荷、油良八幡宮、寿源寺、の順に通過していきます。
油良稲荷という名称は通称名です。正式な名称は不明ですが、地元では稲荷さまと呼ばれています。
丘の上の小さな稲荷堂、というのが第一印象です。油良八幡宮は丘と丘の隣同士であり、
両神社の隔たりは距離にして約三百メートルくらいでしょうか。近接しています。
油良の集落を山手に入って丘の上の畑のなかにありまして、堂宇のなかは三畳くらいの小さな稲荷堂です。
とても見晴らしの良い所で、家屋が無ければ油良湾を一望のもとに見渡せる所です。
稲荷堂の地点から油良八幡宮が見えるので、両神社の高度差を調べてみますと、稲荷堂の方が少し高い位置にあります。
こうしたことは前章の長尾八幡宮などと共通していることです。
油良八幡宮の場合いは、丘と丘とで規模が大きいのでわかり難いと思いますが、縮小してみると同じことです。
稲荷堂のほうが少し高い位置になっています。また、左右の関係は、油良八幡宮に向かって右側に稲荷堂があります。
これもまた、長尾八幡宮などと共通していることです。
次に油良稲荷の方位線ですが、小さな堂宇ということもあり、当初は半信半疑でした。
ところが、線を引いてみると実によく残っているというか、よく継承されています。
明細は別図を見ていただくとして、特に大事だと思われるのは、「家」の文字を用いた地名が多いことです。
今わかっている限りでは、前後と左に見ることができます。
家の文字が何を意味しているのかは推測するしかありませんが、家とは、たぶん「母」を意味しているのではなかろうかと推測します。
稲荷は女神ですから、母とは、稲荷神をいっている可能性があります。今、分析している方位線自体、稲荷から出ているものです。
そして、稲荷堂の方が高い位置に祀ってある、ということを考え合わせると、やはり稲荷は母として考えられていた可能性が高くなります。
さらに方位線を分析していくと、母を裏付ける事実性が出てきます。
拝礼方位は由宇町の銭壺山を指しています。
正確には、銭壺山の頂上を東側へ少し下った所に池がありまして、方位線はそこを通ります。
その池は現在、改良工事などをされて大きく新しい池に変わっていますが、昔から存在していた池です。
本来は泉のようなものとして存在していたとおもわれます。
銭壺山は伊勢につながっていることは前章でも述べた通りです。伊勢は日神ですから、「母」になり得ます。
油良稲荷の右方位は、岩手県花巻に到達します。
花とは、木花の佐久夜姫の花と関連していることがうかがえ、木花の佐久夜姫は日神の祭祀をつかさどっていた人物ですから、
ここでも伊勢に関連してきます。
こうした遠距離の繋がりを見ますと、当時の日本の統一状況がよくわかります。
統一されていたからこそ全国規模で地名を置いていくことができたのです。
現在の日本とほとんど変わらないほどに良く統一されていたことがわかります。
油良稲荷が主張しているところはそうした部分ではなかろうかと思います。
(寿源寺)
油良の国道沿いに寿源寺という浄土宗の寺があります。油良八幡宮とは二百メートル程度の距離を置いて近接しています。
国道は近年になってつくられたもので、本来の旧道は、国道から見て寺の向こう側にあります。
寿源寺の境内は少し小高い所にあり、周囲を石垣が築いてあります。本堂は海を背にして、前面は山が近接しています。
初めて参拝すると、その堂宇の向きに少しとまどうといった感じです。
普通、建物は前面を開放感のある海側にして、山を背後にするのが一般的ですが、この寿源寺は独特の向きをしています。
その背景には神道色の濃さがあります。
寺の境内から油良八幡宮の方をみると、三地点(油良稲荷、油良八幡宮、寿源寺)が直線的に並んでいるのがわかります。
では、寿源寺の由来から見ていきましょう。
寿源寺より油良八幡宮の森を見る
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(防長寺社由来より)
浄土宗 寿源寺
往古、教徳寺と申す古跡御座候所に、その後、大破に及び申しに付、開基年号旁(かたがた)相い知れ申さず候。然る所に元和元年(1615)に実言と申す僧を取り立て、そのころ沓屋五兵衛殿の先祖で沓屋筑前と申す仁、大旦那に被相い成る。彼の方死去にて(朱筆、寛永五戊辰十二月十二日)法名本性院心峰寿源(朱筆、居士)と申し候に付、その節、寿源寺と相い改め被申し候。右、元和年中再建の節、住職実言より当住職の春道までおよその年数、百二十余年ほどに相い成り候事。
(防長風土注進案より)
浄土宗心峰山寿源寺 神田東村にあり
(朱、後筆 同郡西方村の神宮寺へ合併、神宮寺の地へ住、改號、神源寺)
本山、京都智恩院下、当郡安下庄の快念寺末寺にて御座候。当寺の儀は往古教徳寺と申す古跡の由。開基年号相い知れ申さず。
(以下、防長寺社由来と共通するため省略します。)
本尊 阿弥陀如来(木刻立像、一尺六寸)
侍立 観世音菩薩(木刻立像 一尺二寸)
聖至菩薩 (同断) (現代は、勢至菩薩と書くが、原文字のまま記す)
寿源寺・本堂
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この二つの記録で共通しているのは、往古に教徳寺という寺があって、その古跡が寿源寺になった、ということです。
特に問題になるのが、風土注進案の後筆です。
朱色で記されたその後筆は、寺の合併したことを伝えている文ですが、西方村の神宮寺へ合併して神源寺になった、という内容です。
ところが、西方村の神宮寺は今でも実在しており、下田八幡宮の近くにあります。この不明点をどう解釈するか、
神宮寺の由来記にも同じ後筆が記してあります。両者を並べて引用してみます。
寿源寺由来より部分引用 (風土注進案)
(朱、後筆)「同郡西方村の神宮寺へ合併、神宮寺の地へ住、改號、神源寺」
西方村 神宮寺由来より部分引用 (風土注進案)
(朱、後筆)「同郡油良村寿源寺へ合併、本地へ住改号神源寺」
神宮寺
神宮寺・本堂
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寿源寺と神宮寺は今でも実在していますが、神源寺という寺は見あたりません。
文章をよく見ますと、「改号」の号の文字が、号と號で相違があります。なんでもないようなことですが、
この朱筆ばかりがクローズアップされるように仕組んである、と解析するのは私の早合点でしょうか?
一番大事なことは寿源寺の前身である古跡の教徳寺です。
教徳寺について何かわからないかと、寿源寺に何度も足を運びました。
寿源寺の前身が教徳寺ですから、さして問題にすることもないのですが、周辺の古記録を見渡すと、教徳寺につながってくるものが見えます。
油良の隣り地域になる下田浜に「一ノ宮」の記録があります。引用してみます。
防長寺社由来より
一ノ宮 下田浜にあり
石の小社あり、御祭毎年六月七日、九月七日居祭執行仕候。この社の儀は、往古西方村の城山事無しが城に宇野筑後守殿と申す城主御座候時分までは、西方村そのほか近在の総鎮守にて、神事祭礼等もことのほか賑わしき。殿数も数多ありし大社の由に御座候ところに、彼の御城主退去の後は只(ただ)様(よう)零落(れいらく)及び大破に、往古の旧跡も一ノ宮と申す穂木にて、田畑に相い成り居申し候。今もって右の旧跡より大木の根、あるいは土器、神徳、神楽鈴等の破れ、そのほか神具類、追々だいぶ掘り出し申し候。往古勧請の由来年数旁怠転の社ゆえ、旧記等無く御座、委細の様子相い知れ申さず候。尤元禄年中右同断。
この記録にある「石の小社」をたずね探してみました。取材方々、地域の古老にも話しをうかがってみました。
その結果、一ノ宮と呼ばれていた社は無い(不明)ただ、厳島社という石の小社があるが、それは、たぶん違うだろう、
菅原社は、もとは下田八幡宮の参道脇にあったものを境内に上げたものだが、それも一ノ宮の由来とは違う、ということでした。
厳島社は下田地区の海側、柑橘選果場の脇にありまして、石の小社というには随分豪華な境内です。
私がそこを初めて取材した時には、ここに違いない、という心境でした。
初めはそう思いましたが、由来記をよく読んでみると、もしその厳島社が一ノ宮とすると、
そこは古代には岩礁のごとき小さな島だったはずですから、由来記のほとんどの内容が合わなくなってくるわけです。
合うのは「下田浜にあり」の一節だけという有り様です。やはり古老の言った通りそこではない、と思いました。
一ノ宮の由来記にこんな一節があります。「由来年数旁怠転の社ゆえ」。
旁の文字は「由来年数かたがた 〜」といった読み方ですが、ここでは少し変わってきます。
各文字の意味を並べてみると次のようになります。
「旁」かたわら わき そば ほとり
「怠」おこたりくずれる
「転」ころがる めぐる
文字の意味を底辺において「旁怠転」と組みますと、「かたわらより退転」という意味になります。
これを由来文に取り入れてみると。
「往古勧請の由来や年数は、かたわらより退転の社ゆえ旧記等も無く御座、委細の様子相い知れ申さず候。」と、なります。
「かたわらより退転」が問題になってくるのですが、どこの地から移って来たのでしょうか?。
寿源寺の由来記には、往古に教徳寺という古跡があった、とあります。
記録の通りに信用すれば、前身となる古い寺院があったことになります。特に問題視することもありません。
ところが、先でも少し触れたように、寿源寺は神道色の濃い寺院です。そう決定付けた根拠は、寿源寺の方位にあります。
前身となった建て物の方位を、現在の寿源寺が継続しています。
簡単に言うと、古跡と呼ばれてきた現存しない建て物と同じ場所に同じ向きで寿源寺は建設されているようです。
前のページの方位線図を参照してください。
その方位線上に浮かび上がってくるのは、数多の神社です。
寿源寺の拝礼方向には浮島(うかしま)があり、方位線は浮島の磐尾神社に到達します。
磐尾神社は浮島の江ノ浦という所にありまして、その祭神はアマテラスです。
すなわち、寿源寺は寺院でありながら、アマテラスを拝礼するようになっています。古代神道の名残です。
こんどは左方位を見てみますと、大島町東浜にある大州若宮神社に至ります。その祭神は大多麻流別に豊玉彦、豊玉姫です。
この大州若宮神社は明治四年に建てられたことになっていますが、周辺の明治建立と伝わる神社を分析してみますと、
創建ではなく再建、または社名のみ替えた継続、そうしたものが大部分を占めています。この大州若宮神社も同じことです。
これらの神社は寿源寺の方位線上にあります。いかに寿源寺が神道とつながっているかがわかります。
では、古跡と伝わる教徳寺とは何なのか、と申しますと、それは隣地域の下田浜の由来と合わさっており、すなわち、一ノ宮です。
寿源寺の前身が一ノ宮です。原点に一ノ宮があって、そのあと教徳寺になったと考えられます。
原点から古い順に並べてみますと、一ノ宮、教徳寺、寿源寺、と替わっていったのでしょう。これらは同一地点です。
現在の寿源寺の場所で替わっていった歴史のドラマです。
さらに油良全体を見ますと、往古は、尾国賀茂神社の方位線上に、油良稲荷、油良八幡宮、一ノ宮と、
神社が一直線上に並んでいたことがわかります。
油良八幡宮の由来記には、こうありました「当社御鎮座以来社地等覆いなす恩を除きおきし総鎮守にて・・・」
この一節は油良八幡宮が隠されていたことを語っているものです。
一ノ宮は寺院に変えられ、わからなくなったまま現在まで来たのでしょう。証明しているものは、ただ一つ、寿源寺の方位線です。
よって、寿源寺こそ一ノ宮を継承している寺であると思います。
古事記の仁徳天皇の段の最終歌は油良をモデルにした歌です。周防大島の油良八幡宮が中心になっています。
もう一度その歌を載せておきます。
古事記 仁徳天皇の段より
加良怒(からと)を琴に造り 描き引くや 由良(ゆら)の門(と)の 斗中(となか)の良い(いー)玉石(くり)に触れ立つ 菜(な)漬(づ)の記(き)のさやさや (史本にやし字が余り)
では、結果的に一ノ宮の由来を抱える下田浜はどうなるのか、ということになりますが、それは現在の下田八幡宮を見ればわかります。
率直に申しますと、下田八幡宮は初代伊勢の系列です。下田浜は二つの由緒がごちゃまぜになっています。
一つは初代伊勢継承の由緒、もう一つは一ノ宮の由来です。
もっと詳しく知るためにこんどは下田浜を分析してみましょう。
下田地区は、油良の東隣に位置しています。白木港(湾)の広がる比較的広い地域です。
現状では、油良地域の少し寂れた感じとは対照的とも言える華やかさがあります。
現在の国道は埋め立てによって通した道ですから、古代史でいう下田浜とは、国道よりも山側になります。
その下田浜にあったと伝わる古跡を考えると、下田八幡宮に行き着きます。
下田八幡宮
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下田八幡宮は国道より山側の丘の上にあります。国道と並んで通っている旧道横に鳥居が立っています。
油良八幡宮とは目と鼻の先といえるほど近くて、車で走ると、まさにアッという間の距離です。
参道は旧道横の鳥居から石段が上がっており、地域の古老の話しによると、昭和初期頃までは鳥居の前は海岸だったそうです。
今は埋め立てられて海は遠くなっています。
鳥居をくぐって石段を昇って行くと、ついこの間まで境内に保育園がありましたが、今は撤去されて、
その建物があった場所すら定かにならないほどです。
ここに保育園があって子供達の声がにぎやかだったんだ、と思っても信じられないほどの草地になって、ひっそりと静まり返っています。
この神社の大きな特徴は、油良の寿源寺と同じように、神殿が海を背にして建っていることです。
おのずと参道も特徴的になっており、石段を昇りきると社殿の背面があります。
参詣する我々は社殿の横を通り、前面の境内でグルリと三百六十度反転して参拝するようになっています。
初めて参詣すると、この造りに少しとまどいます。
今、自分が通って来た参道は裏手かと境内を見渡しても、社殿の前面は森林であり、間違いなく本参道だと確認する感じです。
社殿の造りは大きく豪華です。周囲の玉垣を見渡しても、かっては相当な参拝客を持っていたことが見て取れます。
こうしたあたりも油良八幡宮の寂れとは対照的です。
ところが、それほどりっぱで豪華な下田八幡宮も、現状では専属の宮司がおらず、
一山越えた隣り地域の山田神社の宮司さんに祭祀をしてもらっているとのことです。
では、下田八幡宮の由来記を見てみましょう。
下田八幡宮・本参道にて
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(風土注進案より)
下田八幡宮 西方村の内、本郷にあり
(社殿の規模省略)
祭神八座
応神天皇 仲哀天皇 神功皇后
天照皇大神 天児屋根命
表筒男命 中筒男命 底筒男命
安鎮の玉殿三社御相殿
祭日 八月十六日
氏子 五ヶ村 西方 平野 外入 地家室 沖家室
右五ヶ村の氏子より古いならわしにて輪番に御免し、踊や狂言、無怠転の興行を相い成り候事。(途中省略する)
附箋
△ 宇佐より男山へ勧請の途次、当国の下田浜へ影向。故に往古は下田浜に座します。その後いつの頃かこの本郷へ移す。
下田八幡宮
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由来記は以上ですが、錚々たる祭神が並んでいます。特にアマテラスがいることは重要です。
下田八幡宮の最初は下田浜にあった、という由来とアマテラスとを合わせてみますと、前章の戸田神社でも研究した「渚のアマテラス」です。
渚のアマテラスとすると、本当に同系列なのか、もう少し突っ込んで研究してみましょう。
現状の下田八幡宮は小丘の上にあり、渚というには少し離れています。
他所のアマテラスが海抜ゼロメートル付近に鎮座していることを思うと、比較の対象になりません。
ところが、本来は渚に鎮座していたと思われる下田浜の由来が浮上してきます。
今まで下田浜に前身となるものがあったということは由来記などで知られていました。
しかし、そ の古跡があった場所となると、あいまいな点が多く、証明する充分なものが無いということで現在に至っています。
その古跡のあった場所さえ明確にできれば、下田八幡宮も渚のアマテラスの系列として考えることができるようになります。
それを研究するために、ここでは下田八幡宮周辺の寺院に焦点をあててみます。
下田八幡宮の山側には三ヶ寺がひしめきあっています。ほんのわずかな範囲のなかに三つもの寺があります。
それらのなかで、下田浜の古跡地点を知る手がかりとなるのが、眷(けん)龍寺(りゅうじ)という寺です。
眷龍寺・山門
眷龍寺・本堂
眷龍寺前の丘から瀬戸を見おろす。
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眷龍寺の方位を分析してみると、前面重視型の方位をしており、創建当初から寺院であったことがわかります。
方位線の特徴として、右方位線は東平郡の中手の入り江を指しています。
中手の入り江は前巻で研究しましたが、神武遠征に登場する五瀬命が手の傷を癒した所です。
眷龍寺がその地点を指しているということは、それほど古い寺であるということの証明でもあります。
古い寺であるということの証明は、そのまま下田浜をも証明できる素質を持っていることにもなります。
中手を指しているのは右方位線ですが、下田浜は前面方位に記録してあります。
前面方位線をたどってみると、現在の旧道脇にJA農協西方支所がありますが、方位線はその辺りを指しています。
私の個人的推測で申しますと、そこは仰拝所であって、拝礼していた所は、現在も厳島社として存在している祠堂です。
そこは現在、地続きになっていますが、かっては海岸近くに浮かぶ小島でした。おのずと海岸に仰拝所が必要だったわけです。
そして、厳島社という名が示すとおりに祭神は女神です。下田八幡宮に祭ってある女神の前身は、その厳島社に関係している、と思われます。
下田・厳島神社
下田・厳島神社 (後ろの大岩が大事です)
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すなわち、下田八幡宮のアマテラスは、渚のアマテラスと同系列であり、初代伊勢の系列です。
下田八幡宮には、参道を昇りつめた正面に天神さまと呼ばれる祠堂が祀ってあります。
天満宮とか菅原神社と呼ばれるものは、周防では充分に注意してかからないと、菅原にすることによって由来を新しくして隠しているわけです。
菅原だから新しい、と思ったらとんでもない。
下田八幡宮の天神さまは、古老の話しによると、もとは下の参道脇にあったのを上げたもの、という話しでした。
その天神さまこそ、由来にある「石の小社」です。つまり、当初は仰拝所の役目をしていた地点に祀ってあったのでしょう。
下田八幡宮のふもとは下田浜になりますから、古老の語る「もとは下の参道脇に祀ってあったもの」という語りと一致します。
その証拠に今の祠堂も、かっての名残りとして地家室の日吉神社を拝礼するようになっています。
下田八幡宮・天神社
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話しが、かなりややこしいので、もう一度まとめておきます。
古記録にある下田浜の一ノ宮は、二つの由来が合わさったものです。
一ノ宮は寿源寺の前身であり、寿源寺の地点です。寿源寺は一ノ宮の方位をそのまま伝えています。
そして、下田浜の古跡は下田八幡宮の前身です。その古跡は初代伊勢のアマテラスを渚に祀る目的で創建された神社です。
なぜ二つの由来が合わさってしまったのかと古記録を調べてみますと、記録した人物が下田八幡宮の神主だったということが上げられます。
また、一ノ宮は寺になり変わっていますから、そうした面もあったのでしょう。
話しが油良から離れてしまいましたが、油良八幡宮の前面方位線と、下田八幡宮の拝礼方位線とを結ぶと、交点は油良沖の海域になります。
その目に見えない交点は、唐戸水道時代の海の秘話を内包しています。その秘話(悲話)を油良八幡宮が指し示しています。
だからこそ、歌にあったように「菜漬の記のさやさや」なのです。海域の交点は万葉歌にも詠まれていますので、その歌を載せておきます。
こうしたことを見ていくと、油良という地名は由来を意味しているのではないでしょうか。
万葉集 巻第九 一六六八
白崎は 幸くあり待て 大船に ま梶しじ貫き またかへり見む
しらさきは さきくありまて おおふねに まかじしじぬき またかえりみむ
同 一六六九
三つ並べの 浦塩撒く路 鹿島なる 釣りする海人や 変り見て来む
みつなべの うしおまくみち かしまなる つりするあまや かわりみてこむ
同 一六七〇
朝開き 詣でて我は 油良の前 釣りする海人や 変り見て来む
あさびらき もうでてわれは ゆらのさき つりするあまや かわりみてこむ
同 一六七一
油良の前 潮干にけらし 白神の 磯の浦廻を あへて同胞
ゆらのさき しおひにけらし しらかみの いそのうらみを あえてどうほう
同 一六七二
黒牛か 潮干の浦を 紅の 玉裳裾引き 往くは誰が妻
くろうしか しおひのうらを くれないの たまもすそひき ゆくはたがつま
同 一六七三
風無の 浜の白波 いたづらに ここに寄せ来る 見る人なしに
かざなしの はまのしらなみ いたずらに ここによせくる みるひとなしに
(説明)
大事な点は「白波」であり、おだやかな入り江になぜ白波かと思えるが、白という色が大事なのである。
白はヤマトタケルの白鳥伝説に通じている。周防大島の日前(ひくま)には、ヤマトタケルを祭る白鳥八幡宮がある。
ヤマトタケルの陵墓は前巻でも研究したように室津半島佐賀の白鳥古墳である。日前の白鳥八幡宮は、東進改葬を意味している。
つまり、ヤマトタケルの陵墓は、伝説にもあるように、順繰りに東へ向かって改葬していったのである。
改葬の中期的段階において、広島や岡山、姫路などは著者の有力視している所である。
周防大島の白木湾や油良湾は、広島市と海上をほぼ直線的に結んでいる。白木山頂から遠望すると、大黒神島の向こうに広島市が見える。
タケルの改葬地点を探り出すのはそう難しいことではない。諸々の神社の方位線に記録してあるからである。
広島市は広島城が最も有力視される。すなわち、広島城直下は、もと巨大古墳であり、改葬したヤマトタケルを祭っていたと考えられるのである。
そのことは、広島城周辺に「白」を基調とした地名が見られることからも、より明確になってくる。
こうした事実を見ると、歌中の白波の意味が見えて来よう。
すなわち、油良湾や白木湾には、対岸(広島市)のタケルの陵墓から白鳥ならぬ白波が打ち寄せてくるという虚構なのである。
東進改葬については、まだ研究中だが、姫路城も白鷺城という・・・。
油良の万葉歌はどの歌も普及本の翻訳とは異なりますので御了承ください。
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