トップページに戻る   周防解読万葉歌の目次
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



周防解読万葉歌 第4部

巻第一 74番歌〜84番歌




次の74番歌から77番歌まで日本書紀に記してある物部守屋大臣の説話が基になっています。

その説話とは、日本古来の神道と、渡来の仏教とがぶつかり合った物語です。

物部守屋は伝統の神道派であり、仏教は邪道だと訴えます。対する仏教派は蘇我馬子です。


その説話が記載してあるのは日本書紀です。古事記には記載してありません。

そのほか、満野長者旧記(以下・旧記)にも物部守屋大臣との戦いが記してあります。

ただ、日本書紀と旧記とでは経過年数が違い、始まりは敏達天皇の年で同じですが、

日本書紀が崇峻天皇で終結したのに対し、旧記では敏達天皇で終結したことになっています。


さて、万葉歌で大事なのは、その蘇我馬子がうやまった三人の尼です。

蘇我馬子は鞍部村主司馬達等(くらつくりのすぐりしめたつと・・以下鞍部と記す)の女を得度(とくど・・仏門に入ること)させ、

善信尼(年十一歳)と呼びます。善信尼はさらに二人の女性を尼に入れます。合わせて三人の尼を蘇我馬子はうやまいます。

そうしている内にやがて、世間には疫病が流行り始めます。そこで物部守屋大臣は天皇に奏上します。「どうして私どもの

申し上げたことをおとりあげにならないのですか。疫病が流行して国民が死に絶えてしまおうとしているのは、ひとえに蘇我臣

が仏法を広めているからに違いありません。」 天皇は詔して、「明白なことなので仏法を禁断せよ。」と言われます。

物部守屋大臣は寺に入り、火を放ち仏像や仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に投棄します。そして使いを出して、

蘇我馬子がうやまった三人の尼を召喚します。使いの者は尼たちを呼び出し、すぐさま法衣をはぎ取り、その身を縛って、

つばき市の亭で鞭打ちます。



以上の場面が万葉歌の73〜77番歌までのモチーフになっています。近世の歴史書では、物部守屋大臣が尼たちを裸にして

鞭打ったというような文もありますが、尼たちを暴行したのは使いの者です。そこをお間違えありませんように。

いずれにしても、かなり色っぽい場面ではあります。歌人たちはこの色っぽい場面を想像しながら歌を詠んだようです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


74番歌

み吉野の 山下風の 寒けくに はたや今夜も 我がひとり寝む

みよしのの やましもかぜの さむけくに はたやこよひも あがひとりねむ


従来の解読は、「山の嵐の」と解読していますが、原典の文字に忠実に従うと、「山しもかぜの」となります。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


75番歌

宇治間山 朝風寒し 旅にして 衣借るべき 妹もあらなくに

うぢまやま あさかぜさむし たびにして ころもかるべき いももあらなくに

右(上)の一首、長屋王


なぜここに宇治間山があるのか、ということは、物部守屋の物語が入っている敏達天皇の段に

菟道皇女(うじのひめみこ)の物語があります。人物設定はかなり混乱しますが、とりあえず

歌の宇治は菟道皇女に繋がっています。ひいては物部守屋の物語と連動しています。

それらは、日本書紀を基にしてあり、古事記には菟道の名は付いていません。


「借る」の部分、原典には「衣應借」とあります。返り点が打ってある本と打ってない本があることです。

打ってなければ「衣を借りる」となります。推測ですが、たぶん返り点は打ってないと思います。

原典を見ないと、活字本ではわかりませんので、従来通り「衣借るべき」と訳しておきます。

衣のことも日本書紀に記してあります。

物部守屋が仏像を焼き、投棄した日に雲がないのに雨が降ります。物部守屋は雨衣を着て、

蘇我馬子に従う者たちの罪を責め、恥辱を与えようと考えます。・・・この場面の雨衣です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


76番歌

和銅元年戊申 天皇御製歌

ますらをの 鞆の音すなり 物部の 大臣 楯立つらしも

ますらをの とものおとすなり もののべの おほまえつきみ たてたつらしも


物部守屋は於閭礙(おろげ)を遣わして、蘇我馬子がうやまっている善信尼らの尼を召喚します。

蘇我馬子は泣き悲しみながら尼たちを呼び出して於閭礙に引き渡します。官人はすぐさま尼たちの

法衣をはぎとり、その身を縛って、海石榴市(つばきいち)の亭で鞭うちます。


この場面が歌のモチーフになっています。

だから「ますらを」と、その「ますらを」を遣わせた「物部」とが入っています。

なお、原典は「物部」と明確に記してあります。従来の「もののふ」の読みは「物乃布(50番歌)」です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



77番歌

御名部皇女の和へ奉る御歌

吾が大王 物な思ほし 皇神の 嗣ぎてたまへる 吾がなけなくに

わがおほきみ ものなおもほし すめかみの つぎてたまへる わがなけなくに


廃仏派の物部守屋も崇峻天皇の御代になって終に滅ぼされます。

歌で大事なことは、物部守屋は日本古来の伝統を重んじる神道派であることです。

この歌を詠んだ歌人は亡き物部守屋に語りかけるような心で詠んだと思われます。

「物部守屋さま心配なさいますな、神道を受け継ぐ私が居りますでしょうが。」

といった心持ちです。81、82、83番歌が明瞭に示しています(後述)。

さて、歌本によっては嗣の部分が副の文字になっているのもあるようです。

ここは「嗣」の文字を採ったほうが明解です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



次に続く78、79、80番歌を考える前に、知っておきたい由来を挙げておきます。



防長風土注進案 (天保年中編纂・1830〜1844)

(山口県) 熊毛郡上関御宰判 別府村

旧跡

高岸鳴川と申す所に守屋大臣屋敷跡といへるあり。

畠八畝六歩高五斗壹升四合、久保山壹反九畝立銀五分七厘の場所にて持ち主無之候。

其の故に山田荒神中村荒神両社祭事修甫として當屋の者この畠を作り、山にては薪を

採用し祭日のまかないに當て候。また岩かねと申す所に彼の大臣の墓所有之候。

折々奇怪之事とも御座候。




山口県風土誌 (明治年中編纂)

別府村

墳墓 古墓 別府村の岩金 守屋大臣の墓と云

古跡 守屋大臣屋敷 別府村の成川 畠八畝六歩 久保山壱段九畝




ふるさと田布施・歴史散歩 (昭和 54年発行)

守屋大臣屋敷跡

成川(なるかわ)にある。守屋大臣がいかなる人物かは定かでない。

岩金の山中にその墓といわれるものがあって、時折怪しい事なども

あったと伝えられている。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



では歌に戻ります

万葉集 巻第一 78番歌

和銅三年庚戍の春二月、藤原宮より寧楽宮に遷る時に、御輿を長屋の原に停め、

古郷を廻望みて作らす歌。 一書云、太上天皇の御製

飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きていなば 君があたりは 見えずかもあらむ

一云 君があたりを見ずてかもあらむ



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



79番歌

或る本、藤原京より寧楽宮に遷る時の歌

天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎擇 隠國乃 泊瀬乃川尓 船(←漢字無)浮而 吾行河乃 川隈之

八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有

衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之氷凝 冷夜乎 息言無久 通乍

作家尓 千代二手尓 座多公与 吾毛通武



79番歌の長歌を私なりに解読してみますと以下のようになりました。


すめろきの いのちかしこみ にきびにし いえをたくして こもりくの はつせのかわに ●うけて わがゆくかわの かわくまの

やそくまおちず よろづたび かえりみしつつ たまほこの みちゆきくらし あおによし ならのきょうじの さほがわに いさらいたりて わがやどる

ころものうえゆ あさづくよ さやかにみれば たえのほに よるのしもおち いわどこと かわのひこぉり ひやきよを やすむことなく かよいつつ

つくれるいえに ちよまでに いませおほきみよ われもかよわむ



従来の解読と大きく異なる部分は黄色文字です。近畿の奈良と周防とが掛け合わせてあるのでややこしいです。

それが、周防にも奈良という所が麻郷(おごう)にありまして、守屋大臣の遺跡から1キロ少々の所にあります。

では歌を説明します。


「御命畏美」 従来は「みことかしこみ」になっています。「御命」の御は畏敬の念を表す接頭語であり、ここでは発音しません。

「命」を「みこと」と読むと、前に天皇がありますから、それへさらに「みこと」を付けると二度詠みになり、歌としては不自然です。

そうして、この歌を物部守屋の物語として見ますと、天皇の病気の平癒が根本にあり、蘇我馬子が変な仏教を信仰するから

天皇や庶民に病気が広まった、というのが物部守屋の言い分であり、そうした事をひっくるめて「いのち」に結び付きます。

また、守屋は暗殺されて滅ぼされていますから「いのち」と読むのが妥当だと思いました。



次に「家乎擇」の部分。従来は「いえをおき」と解読されてきましたが、「擇」の部分、写本によっては「択」の文字になっているのも

あるようですが、どちらの読みも「タク・ジャク・えらぶ」で同じです。ここは守屋の屋敷跡の由来を意味しており、「いえをたくして」としました。

ここで7音にしておかないと、5音が3回連続することになりますから長歌のリズムとして、きわめて歌い難いアンバランスなものになります。

ここは絶対に7音で決めなくてはなりません。「いえをたくして」です。あるいは、「いえをもたくし」かとも思います。



次に、泊瀬の川、ここで近畿の奈良が入っています。混在している感じで場所を特定できません。


次もそんな感じです。「●うけて」の部分は今までは「ふねうけて(船浮けて)」と解釈して来ましたが、そもそも

舟偏に共を付けた漢字は存在しません。私の調べ方が不足しているのかと中国漢字まで調べてみましたが、無いです。

こうした手法はまれに見られ、無い文字は読み様がないわけです。舟偏が付いているので船とするなら、

笹の葉で作った笹舟かもしれませんし、また、大型船かもしれません。わからないです。文字を書き間違えたとするなら、

長歌を作れるほどの人が船の文字を間違えるのか、ということになり。つまり、この部分は読み手の自由解釈ということになります。

周防の守屋大臣の遺跡は成川(なるかわ)という所にあります。川と呼ばれていても船が上がれるような川はありません。


次に、「楢乃京師乃」です。今までは「ならのみやこの」と解読されて来ました。「みやこ」と読むなら「師」は何を意味しているのか、

ということになります。ここを物部守屋の物語に当てはめますと、「奈良の凶事の」となります。

凶事とは、いわゆる物部守屋が滅ぼされた事などの諸々を凶事と言っています。


次に、「伊去至而」です。現状は「いゆきいたりて」と読まれています。ここは「いさらいたりて」だと思います。

「いさら」とは古語です。わずかばかりの、とか、小さな、といった意味を持ちます。その意味で読めば、

この歌の「いさらいたりて」とは、「わずかばかり進んで」といった意味になります。また、それとは別に

周防守屋大臣の遺跡の北東側の山に「伊佐里ヶ峠」というのがあります。


次に、「ひやきよを」の部分、原典では「冷夜乎」とあります。なぜ夜なのかと疑問だと思います。

なにも夜でなくとも昼でいいはずです。それは佐久夜姫の名から1字を採って夜にしています。

その根拠として、平生町の神花山古墳は佐久夜姫の陵墓ですが、その古墳直下にある神花神社

守屋大臣の遺跡を拝礼方位にして指し示しています。ちなみに、もう1社、大波野天神の

下にある女体社も左手方位に守屋大臣の遺跡を指し示しています。


「つくれるいえに ちよまでに いませおほきみよ われもかよわむ」

家があったわけですから、守屋大臣の屋敷跡の由来通りです。

この長歌の反歌(80番歌)も家の事を詠んでいますから、ほぼ間違い無いと思います。




80番歌

反歌

青丹吉 寧楽乃家尓者 万代尓 吾母将通 忘跡念勿

あおによし ならのいえには よろづよに われもかよはむ わするとおもうな

右(上)歌作主未詳


「寧楽乃家」 この読み方はずいぶん考え込みました。考え様によっては「姉らの家」とも解釈できるのです。

なぜ奈良と書かずに寧楽なのかと考えますと、「寧」の文字を使った意味は「安寧」に関係しているらしく、

この巻一の最終歌(84番歌)は鹿を詠んだ歌になっています。詳しくは後述しますが、その鹿の歌は

小倉の山に繋がっており、今の光市塩田の小倉です。石城山の北側に位置し、佐田の西側になります。

その小倉の辺りに安寧と呼ばれている所があります。そうすると、最終歌ともすべてが繋がって来ます。

話が飛びましたが、この80番歌も家(屋敷跡)のことを詠んでおり、周防の麻里府の山手に位置する

守屋大臣屋敷跡と伝わる遺跡こそが本来の物部守屋に繋がっていると確証できるのです。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




万葉集 巻第一 81番歌

和銅五年壬子の夏四月、長田王を伊勢の斎宮に遣はす時、山辺の御井にて作る歌

山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢乙女ども 相見つるかも

やまのべの みいをみがてり かむかぜの いせおとめども あいみつるかも


82番歌

浦さぶる 心さまねし ひさかたの 天のしぐれの 流れあふ見れば

うらさぶる こころさまねし ひさかたの あまのしぐれの ながれあうみれば


83番歌

海の底 奥つ白浪 立田山 いつか越えなむ 妹があたり見む

わたのそこ おくつしらなみ たったやま いつかこえなむ いもがあたりみむ

右(上)の二首は、今案じるに、御井にして作るに似ず。けだし、その時に誦める古歌か。



まず最初に「長田」の読みですが、これは「おさだ」ではないかと思います。「おさだの王」です。

左注には近畿で詠まれたのにしては疑問があると矛盾が記してあります。



では、81番歌から見ていきます。 山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢乙女ども 相見つるかも

山の辺の御井とは神話に出て来る井戸のことです。

古事記の火遠理命の段にある「海神の宮訪問」に出て来ます。その場面を抜粋してみます。


「ここに海神の女、豊玉姫のまかだち、玉器を持ちて水を酌まむとする時に、井に光ありき。

仰ぎ見れば、麗しき男ありき。いと怪しと思ひき。ここに火遠理命、そのまかだちを見て、

水を得まく欲しと乞ひたまひき。まかだちすなはち水を酌みて、玉器に入れてたてまつりき。

ここに水を飲まさずて、首飾りの玉を解きて口に含みて、その玉器に唾き入れたまひき。

ここにその首飾りの玉、玉器に付きて、姫は玉を離せず。故、玉の付いたまま豊玉姫に

たてまつりき。ここにその玉を見て、まかだちに問ひて言ひしく、「もし人、門の外にありや?」

といへば、答へて言ひしく、「人ありて、我が井の上の香木の上に坐す。いと麗しき男ぞ。

我が王に益していと貴し。故、その人、水を乞はす故に、水をたてまつれば、(以下略す)」


この神話の井戸は今も実在しており、初代の上宮跡の丘のふもとにあります。

その井戸のページへの内部リンクです。このページと合わせてご覧ください。

伊勢乙女とは、その場に伊勢の乙女が居るわけではなく、山を言っています。

歌に神風が入っていますから、神武天皇を意味しており、波野スフィンクスです。

井戸の所から手にとるようによく見えます。下の写真を参照してください。







井戸の説明は上記の内部リンクページに記してあります。




井戸の辺りからズーム撮影した波野スフィンクス頂上遺跡。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



次に82番歌です。 浦さぶる 心さまねし ひさかたの 天のしぐれの 流れあふ見れば

「浦さぶる」の浦とは、海の湾曲して陸地に入り込んだ所を意味しており、

「うらさびしい」の「うら」とは意味が異なります。ここでは海の「浦がさぶる」つまり、浦が衰えすさんだ

ことを詠んでいます。前の歌の81番歌の井戸がある付近は今でも「東浦」という小字です。主に

山陽本線の山側(北側)になりますが、そこには出雲大社の前身となる高い塔があったようです。

その塔の地下深くには仁徳天皇の物語に出て来る船(双胴船)が埋納してあることは近年の

井戸掘りのボーリングで上がった木屑から何らかの木造物が地下深くに埋まっていることがわかりました。

そこで、古事記にある仁徳天皇の物語を読みますと、人民が貧しいので三年ほど税をとらなかった、

天皇の御殿が破れて雨が漏り出しても税をとらず、人民が富みて税をとったので国が栄えた、

という物語があります。だから、歌にはその物語にちなんで雨のしぐれが出て来るのです。

この歌が詠まれた時代には、すでに島根県出雲に移した後だったろうことは「浦さぶる」とある

一節からうかがえます。ちなみに、その東浦の西側 (陸地側) は大村という小字です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



次に83番歌です。 海の底 奥つ白浪 立田山 いつか越えなむ 妹があたり見む

これは石城山を仰いで詠んだ歌です。井戸の辺りからは、小山 (香山) が遮って見えませんから、

たぶん井戸のすぐ上の初代上宮があった所 (現・大内公園) に上がって詠んだと思われます。





なぜ石城山だとわかるのかと申しますと、海 (わた) と奥の白浪が入っているからです。海のことを

古語では「わた」と言いますが、その語源は、綿にありまして、からと水道から石城山の綿園を

仰ぐと山一面が白くなって「綿摘み」が見えたはずです。それは綿の見える海であり「綿つ海」。そうした

言葉がやがて海のことを「わた」と呼ぶようになったと思われます。歌の立田山というのは存在しません。

それは白浪にかけてあるからです。「白浪が立った山」つまり綿の白波が立った山という意味です。だから

「奥つ」です。奥の方に白波が立ったわけです。「妹があたり」とは、木花の佐久夜姫の辺り、という意味。

綿摘みの女たちを意味しています。石城山には宇和奈利社があり、木花の佐久夜姫を祀ってあります。

また、「いつか越えなむ」とあるのは、次の84番歌へと続いており、この83番歌の詠まれた辺りから木地を

通って石城山を越えますと、向こう側のふもとは小倉という所に下ります。すなわち、「小倉の山に鳴く鹿は」と歌う

巻八と巻九 ( 1511番 と 1664番 ) で詠まれた所であり、次の84番歌に鹿の登場する意味へと繋がるのです。

ちなみに、上写真の大内公園から小倉まで石城山越えで歩いて約 2時間もあれば行けます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



万葉集 巻第一 84番歌

寧楽宮

長皇子と志貴皇子と、佐紀宮にして共に宴する歌

秋去らば 今も見るごと 妻恋ひに 鹿鳴かむ山そ 高野原の上

あきさらば いまもみるごと つまごいに しかなかむやまそ たかのはらのうえ

右 (上) 一首、長皇子



元暦校本の目録では以下のようにあります。

あわせ作歌

寧楽宮長皇子與志貴皇子宴於佐紀歌

長皇子御歌

志貴皇子御歌

「あわせ」の漢字が出ないので仮名で書きましたが、「合わせ作る歌」です。

今までの考え方は、長皇子と志貴皇子の名があるので、もう一首あったというのが通説です。


万葉集の注釈文は後代になって推測して記されたものがほとんどなので、アテになりません。

この歌の注釈文などは、ある時代と又ある時代とで頭と尾を二度書きではないかと思いました。

その証明として、元暦校本の目録には、佐紀の宮とは記してありません。

こうした部分を解明するには活字本ではわからないことが多いです。

元暦校本など諸々の書写本を写真に写した本があればいいのですが、どうしても皆、活字本です。

とりあえず今わかる元暦校本の目録文を解読してみますと次のようになりました。

「寧楽宮で長皇子共に志貴皇子が宴において先に詠みし歌」

つまり、もう一首あったのではなく、合わせ歌になっている、ということです。

志貴皇子が先に詠んでいるようですから、「秋さらば 今も見るごと 妻恋ひに」 ここが志貴皇子の作品です。

そして長皇子はその歌に続けて 「鹿鳴かむ山そ 高野原の上」 ここが長皇子の作品です。歌合わせの雅な遊びです。

なぜこの歌だけ合わせ歌にしたのかのナゾは小倉にありまして、後述します。



さて、歌の方に移りまして、「 秋去らば 今も見るごと 妻恋ひに 鹿鳴かむ山そ 高野原の上 」

この歌での秋とは地名の秋を意味します。地名の秋と、季節の秋を上手く掛け合わせています。

周防大島の秋、つまり、秋国の多祁理の宮があった所です。そこに別れを告げて、という意味です。

こうした巡礼にも似た道順は、後々の二十三首などにも受け継がれており、ほとんど同じコースです。


では、秋を去って何処に行ったかと申しますと、それもこの歌に入っています。石城山を越えて小倉です。

小倉という所は前述しましたように石城山の北側ふもとに位置しています。そうすると、この84番歌は

今までの歌群の集大成でもあることになります。だから巻一の最終でまとめてあるのでしょう。

この歌の小倉は、巻八と巻九 ( 1511番 と 1664番 ) の歌の小倉と同じ所です。

まず小倉という所を説明します。




地名の読み。 塩田 しおた  小倉 おぐら  伊賀 いが  十王 じゅうおう  入野 いるの  鹿之石 しかのいし

A 小倉山 光照寺    B 寶樹山 専修院

図の南側 (下側) 大和町と記してある所の等高線は石城山

印 下写真の泣き山が見える地点


この山道は、尾根を縦走して光照寺から専修院を繋いでいる道でもあります。

先に載せた地図を見ていただくと、両寺を行き来するには二通りの道があります。

黄緑色の道は、一旦ふもとに下りて再び登って行かなくてはなりません。

赤色の道は、ほんの少し登り下りしたら尾根を縦走する平坦地になります。

その縦走する道こそ高野原と呼ぶにふさわしい景観です。そこから写真の泣き山が見えます。

つまり、万葉歌が詠まれるのには最適地なのです。

寺の由来は、どちらの寺院も僧侶が来て住みこんで、それが開基になっています。

元々あった寺に住みついたのでしょう。

専修院の由来などは平城天王の名が出てきたりますから相当な古刹だと見ていいと思います。

またふもと周辺の塩田地区には古事記に関係した社寺が多くあります。




小倉の山です。画像加工などは一切していません。向こうの山をよーく見てください。泣いている形をしているでしょう。

いつ頃撮影したのかよく覚えていないのですが、バイクの年式から考えて、およそ30年ぐらい前かと思います。

こここそ万葉歌の「高野原の上」でしょう。




今は繁ってしまいました。およその見当で星印の方向に泣き山があります。

撮影地点 N 34度00分15.7 E 132度01分47.5 位置精度 +- 6m  約 220度方向に泣き山があります。


天保年中編纂 (1830〜1844) 防長風土注進案

石城山 神護寺由来より

(途中より引用) 寺伝にいわく、人王三代 安寧天王大和国に都したまふ時、中つ国に臨幸ましまして

当山に登りたまひ、無際の風光を美賞したもふて御沓をぬひで山の上より投げたまふ、不思議なるかな

片足をうづめ、時の人これを祝ふて安寧の森と號、今は安永年中石の祠を建てり、又片足は塩田村の内、

安榮の里に止まり安寧の森とて小社あり、安寧天王を祭る。(以下略す)


歌の冒頭に 寧楽の宮 とある意味がこれにあります。


なぜ安寧天王は沓 (くつ) をぬいでぶん投げたかわかりますか?

怒ったのです。怒った理由は私ぐらいしか書ける人はいないと思いますから書いておきます。

書こうか書くまいか随分悩んだのですが、こういう事もトータルして考えないといけませんから。

石城山から北側のふもとを見ますと、ふもとの丘の形がみんなお尻の形になっています。

地面からお尻がポコポコと突き出ている形をした丘がたくさんあるのです。





今は浸食されたり木々が茂ったりしていますからそれほどには見えませんが、

昔は木々を薪に使っていたり、鹿などの動物が木を食い荒らすので禿山がほとんどだったようです。

禿山だったことは古記録に「見渡す限り禿山」とある一節からもわかります。

お尻形をした丘が禿山で、土色だと、どうなるか、まさにグロテスクです。





それらを造成したのは誰か?ということについては、様々な推察ができると思います。

それを追及するには、石城山から見おろしてその形状がわかる、という部分が大事です。

ふもとで見たのでは、ちょっとわからないです。石城山は中世には仏教の拠点でもありました。

石城山には沓石 (くついし) と呼ばれる石がありまして、北門跡のすぐ上にあるのですが、

その沓石は元々は北門の柱礎石だった物です。その礎石を門跡から約百メートル程度

上の土手に引き上げて放置してあります。たぶん利用しようとしたけれど、重くて動かすのを

放置したのでしょう。そうした事を見ると、僧侶たちの仕業か、と考えるのが普通です。

たしかに沓石を動かしたのは僧侶たちでしょう。しかし、お尻の丘に造成したのも僧侶たちか

と言うと、そんなに新しい時代の事ではありません。そう言える根拠は遠くエジプトにありまして、

エジプト遺跡の絵文字にある「オシリス王」です。その記述にはドウアトが出て来ますから

からと水道が閉塞して後の記述です。からと水道は侵略者たちによって、現地人の捕虜を使って

塞き止めて閉塞させられました。初代の地を再起不能にされているのです。争乱が収まって後に

からと水道を大畠瀬戸に再現させますが、かっての栄華は取り戻せませんでした。

それがエジプトの絵文字に出て来るドウアトなのです。ですから、お尻の丘といえども

何千年もの年月を経過した遺跡であると言えるのです。


防長風土注進案の塩田村の条にはその事が記してありまして、

書記人は意味がわからないままに書いたと思われます。

その記述を引用して結論とします。



天保年中編纂 (1830〜1844) 防長風土注進案

熊毛郡塩田村風土記

熊毛郡之内道前美和之庄 塩田村

当村近郷道前美和之庄之内、嶋前は大嶋郡の前にあたり、其の故を以って嶋前と云ひしとかや、

大嶋郡の後ろ豫州の内道後と申す所ありし。嶋前嶋後を今誤りて道の字に書けるか、当村の儀は

石城山往古西天痾陀國の天王降臨の刻三方の海原俄かに平地になりぬと石城山縁記に相見え、

故に塩田と言傳えしか、其著明不詳。





石城山 夜泣き石 画面右側の石列は神籠石。 一見雑でありながら繊細な彫刻。

顔の陰影を際立たせる加工法は近隣随所に見られ、そこが重要地点であったりするのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





石城山 北門跡に残る沓石。本来の位置から約数メートル動いている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





北門跡から約百メートル上の森に放置されている沓石。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





続く第5部はこちらです。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トップページに戻る   周防解読万葉歌の目次
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・