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 万葉歌と共に      



 万葉集 雑考-1  戯笑歌(ぎしょうか)の考察 

 私は以前、万葉集書写本の原典が見たくて図書館に相談したことがあります。
 写真にした本を見るためには東京の方まで行かなくてはならず、
 山口県からですと、交通費は新幹線だけでも往復六万円は飛び、
 滞在費などを入れると十万円を越える金額が必要になります。
 最低限でそれですから、実際には二十万円は作らなくてはならない。
 地方人は資料を閲覧するだけでそれだけもの費用がかかる訳です。
 結局、断念しました。今でも原典が見たいという思いに変わりはありません。

 なぜ、原典が見たいかと申しますと、
 古典を追求していくと、ほんの一字が歌や物語の意味を大きく左右する局面に出合うことが一度や二度ではないからです。
 例えば、文字として一例を上げてみますと、「好」と「奸」の文字は活字ですと明瞭に出ます。
 ところが、筆書では、ハテどちらかな?というような疑いが出てきます。
 その疑いのある筆書文字を活字に決定するのは、最終的には解読、翻訳の先生方の一言にかかっています。
 一例として 古事記 上巻  春瑜本 を上げてみます。

 

 赤丸で囲んだ部分が重要です。
 「夜」は後で書き足したらしく、本来は「佐冬ひめ」だったことが見てとれます。
 佐冬を「さとう」と読めば後に続く「あまひのみまさむ」とある文章の意味と合致します。
 「さとう」とは砂糖のことであり、サトウキビに関係しているようです。
 木花の佐久夜姫が南方方面の出身であることも推察できます。

 ほんの一例を上げてみました。
 そうした訳で、なにも原典そのものでなくとも書写本諸本の写真集で構わない訳です。
 現在の写真集でもごく一部の写真は観ることができますが、
 万葉集全巻、それも各系統の書写本それぞれの写真集というと、存在を知りません。
 結局、我々は普及本の活字を見て判断することを要求されます。
 その活字本に、もしも上記のような誤判断があったとすると、永代に渡って誤ったまま進んでしまいます。
 これからの古典は写真集の時代だと思います。正確に伝えるためには写真集にする必要があります。
 その古典写真集にもいろんなのがあってもいいと思います。安く揃えたい人には従来の本形式で、また、
 オリジナルを好む人にはオリジナルを忠実に再現した巻子本や糸綴じ本などがあると、写真と言えど、
 本というものの価値は大きく上昇することでしょう。持つ楽しみ、揃える楽しみ、というのもありますから。

 そうした状況にあって、万葉集に思いを馳せてみました。


 万葉集は全部で二十巻あります。その二十巻に収蔵されている歌の数は四千五百十六首あります。
 それらの歌は一度に編纂したものではなく、何段階もの年代を経て二十巻になったものです。
 編纂を開始した当初の原典がどんなものだったのか残しておいてくれたら良かったのですが、
 残してないようですから、想像してみるほかありません。
 たぶん、木簡や竹簡に歌を書いた物が束ねてあったんじゃないかと思いますが、想像の域は出ません。

 本来の万葉集がどんな体裁だったのか知るには、歌そのものを分析分類して初期の原典を浮かび上がらせる方法があります。
 歌を見ていきますと、巻数が増すにしたがって歌の重厚感が薄れていくのがわかります。
 一例として橘を詠んだ歌を上げてみます。
 歌そのものの解説は「橘の嶋の宮」のページをご覧ください。ここでは、重厚感の薄れていく過程を見ます。  

 巻2  179 
 橘の 嶋の宮には 飽かねかも 佐田の岡辺に 侍宿しに行く 

 巻7  1315 
 橘の 嶋にし居れば 川遠み 曝さず縫ひし 我が下衣 

 巻16  3822 
 橘の 寺の長屋に 我が率宿し 童女波奈理は 神上げつらむか 

 巻16  3823 
 橘の 光る長屋に 我が率宿し 宇奈為放りに 神 子を取らむか 


 こうして並べて比較してみますと、巻2の頃は涙涙だった歌が、巻数が増すにしたがって薄れていき、
 巻16になると嘲笑的とも言える歌になります。簡単に言うと、歌が川柳のごとき感じに変化しています。
 そうした歌を諸本では戯笑歌(ぎしょうか)と呼んでいます。戯笑歌のなかには詠嘆するには耐え難いような歌もあります。
 意地の悪い笑いとでも言いますか、なかには言葉の暴力でいじめられているような感じさえしてくる歌もあります。
 なぜ重厚な万葉集に意地の悪い軽い歌が集録されているのでしょうか?。
 私自身、歌を研究分析していて、この歌もか、と投げ出したくなったことは度々です。
 戯笑歌は巻16で爆発的に多くなり、巻17になると終息し、ふたたび本来の趣に戻っています。
 戯笑歌を一首上げてみます。  



 かるうすは 田廬のもとに 我が兄子は にふぶに笑みて 立ちませり見ゆ     
 かるうすは たぶせのもとに わがせこは にふぶにえみて たちませりみゆ  


 ところが、そんな戯笑歌も、冷静になって分析してみますと、
 歌のなかに必ず大事な一節が織り込んであるんだとわかってきました。
 それぞれの戯笑歌には、一つの事柄を証明するのになくてはならない一節があります。
 その一節があるからこそ、ここだとわかる、という歌が並んでいる訳です。
 例えば、上の3817番歌ですが、この歌は波野スフィンクス(波野行者山)を詠んだ歌です。
 波野という所は田布施町(たぶせちょう)という所にありまして、からと水道の真ん中に位置しています。
 この水道跡が海水によって浮沈していた古代には、都だった所と推測しています。
 万葉集や記紀をはじめとして、遠くエジプトのピラミッドテキスト(壁画文章)においても明瞭に記してあります。

 上の3817番歌の詠まれた場所を特定するには「にふぶに笑みて」とある一節が重要な意味を持ってきます。
 以下、写真を見ながら考察していきましょう。    



 田布施町川添にある浮島(うきしま)神社です。  




 かなり広い境内に社殿があります。


 防長寺社由来より
 麻郷 川添真宮大明神 
 神号 市杵島姫命 
 但し、勧請 元禄十六歳未の八月、毎歳祭礼七月六日より七日の事。

 防長風土注進案より 
 熊毛郡上関御宰判 麻郷 
 眞宮大明神 
 鎮座 年月不知 
 神名 市杵嶋姫命 イザナミ尊 
 祭日 祭事  七月六日夜祭り七日御神幸社人出勤地下役人出張地下中参詣、六月吉日青田蟲祓御祈祷社人出勤地下役人出張地下中参詣。 

 山口県風土誌より 
 浮島神社 (麻郷村の河添、高松八幡宮末) 
 祭神 多紀理姫命 市寸島姫命 多伎津姫命 
 元禄十六年八月、安芸国 厳島より霊を分ち祀る (旧号 真宮大明神、明治四年改称) 

 「ふるさと田布施 歴史散歩」 (編著者 林 芙美夫) より 
 浮島神社 
 川添の小丘にあり、祭神は市杵島姫命、多紀理比売命、多岐津姫命である。
 元禄十六年(1703)八月、安芸国厳島神社より勧請すと伝えている。
 もと真宮大明神と称したが明治初年に現社号に改称。
 「ひねきり明神」の別称があり、
 お祭の夜の参拝者でにぎわうころ、人ごみの中で娘さんのお尻をそっとひねる風習があって、
 ひねられた娘さんは縁づきが早いといわれていた。明治、大正時代まで行われ、昭和になってほとんどすたれた。
 また夏の夜空をいろどる花火も有名であって、
 村から花火作りの名人が次々に出て打上げ花火や仕掛花火の巧妙なものが多く参拝客を集めていた。
 近年は火薬の取り扱いがきびしくなりここで花火を作ることができず、一切買い求めるようになった。
 例祭は八月二十二日。境内の鳥居は明和九年(1772)に寄進されたものである。(原文のまま引用。感謝します。)

 田布施町史より 
 浮島神社 (うきしまじんじゃ) 麻郷の川添九四七 
 配祀祭神 スサノヲノ命  (以下、上記の諸本引用であり、同一のため省略します。)  



 手元に一枚の古地図があります。たぶん古い地図を書写したものだと思います。
 その古地図には「浮島」と記してあります。今は川添という地名ですが・・・。

               

 話が万葉歌から少し反れました。歌中の「にふぶに笑みて」とある部分、
 なぜにふぶに笑みているのか、その意味は祭りの時「女性のお尻をつねる風習」に
 歌の根源があり、さもいやらしく「にふぶに笑みて」見ていらっしゃるわけです。
   

 現在の浮島神社の境内からは竹が茂って見え難いのですが、
 竹を刈り取ったとすると、下の写真の風景が広がっています。
 万葉歌の「にふぶに笑みて」立っている兄子(せこ)とは、波野行者山(波野スフィンクス)のことを言っているようです。



 浮島神社境内から北の方向を見ると、現状は竹が茂って見えませんが、竹林が無ければこの風景があります。


 「勢(せ)」の共通性   
 上の3817番歌には「兄子(せこ)」とあります。
 兄子とは詳しくは古事記の神武天皇の段にありまして、
 神武天皇の段、冒頭には「〜其伊呂兄五瀬命〜」とあります。
 詳しくはこのホームページの神武東征の章をご覧ください。

 万葉集には「わがせ」とか、「せ」や「せこ」の表現が幾つかあります。
 それらの「せ」表現から共通性を見てみましょう。



 総負けの 速し初めの 狭野榛の 衣に付くなす 目に付く我が勢        
 そうまけの はやしはじめの さのはりの きぬにつくなす めにつくわがせ   



 柳井市余田から西を見た写真です。
 石城山は神籠石で綿花の樹園跡ですから、石城山は歌の「衣」に相当します。
 波野スフィンクスのお尻が綿花(石城山)にくっ付いていますから、歌の「衣に付くなす」です。
 歌は続いて「目に付く我が勢(せ)」とあります。ここ「からと水道」から見ると、よく目立ちます。
 前のにふぶな笑みの歌も「我が兄子(せこ)」とありましたから、「せ」は同じ波野スフィンクスを言っていると考えられます。

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 「勢(せ)」の共通性を、もう一首あげてみます。



 これやこの 倭にしては 我が恋ふる 木地にありといふ 名に負ふ勢の山       
 これやこの やまとにしては あがこふる きぢにありといふ なにおふせのやま 

 波野スフィンクスの登山口は2本ありまして、
 1本は田布施町久保という所から、もう1本は田布施町「木地(きぢ)」という所から登っています。
 波野スフィンクス頂上は本来、男王を葬った陵墓だった訳ですが、そこへふもとの香山(小山)に眠る女王を上げて合葬します。
 それが三山歌の一節にもなっている訳ですが、だからこそ歌には「我が恋ふる」とあります。
 恋い慕いながらも「名に負う勢(せ)の山」、名に負う、の意味は「世間に知れ渡った」という意味ですが、
 ひとことで言いますと「すごい」といった感じの意味になると思います。
 「すごい勢(せ)の山」といった感じで、男王的な表現も含まれています。
 ここでも「勢(せ)」とあり、にふぶな歌と共通しています。
 結論として、浮島神社からも波野スフィンクスがもろに見えますから、
 「せ」や「せこ」は波野スフィンクスのことを抽象的な表現で詠んでいることになります。


 写真の道は昔からの道です。拡幅以前は車一台分位の道幅で、歩行路としては広い部類に入ると思います。
 車なんか無い時代にそこの道幅が広いということが少し不思議な感じのしていた道でもあります。
 香山の裏手(北側)から登っています。登りになるあたりに専福寺という寺があります。
 そこは、エジプトでは「トトメス石碑」の地点に相当すると言うとわかりやすいかもしれません。
 そこからかなりの勾配を登って行きますと、間もなく波野スフィンクスの頭部が眼前にワァッと現われます。
 「おぉっ」という感じですかね。それがこの写真のあたりです。
 この歌はたぶん、ここらへんから山を仰いで詠んだと思います。

 現地への道案内はこちらです。      


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 戯笑歌の話に戻りまして。    
 では、どうしてそれが冷笑的な戯笑歌として詠まれているのかと考えてみますと、年代的な隔たりが見えてきます。
 年代的な隔たりはそのまま史実の隔たりとなって厚い壁を作り始めていたようです。
 神々(社寺)や先祖の墓は移住先の「安住の地」に移しました。だから移住先が本元になります。
 しかし、移住しても最初のうちは郷愁の思いを断ち切れず、何度も何度も郷里の地を踏みに帰郷します。
 その時の心情が万葉集の中核になっているのですから。

 やがて、何代もの移り行く歳月は、すべてを遠い過去の事として葬り去ろうとします。
 移住先が本元ですから史実は邪魔になります。何代もの移り行く歳月はすべてを遠い過去へと追いやるのです。
 戯笑歌を分析する上で、その時期が大事です。その時期の世相が大事です。
 歌人達は当時の世相に合わせて冷笑していながら、実は裏側で抵抗している訳です。
 初代の地が隠されてしまう(わからなくなる)のを歌でふせいでいます。
 だからこそ、戯笑歌には一首一首に重要な一節が入れてあるんです。
 初代の地がおぼろになっていく過程において、歌人達の必死の思いが戯笑歌であると言えないでしょうか。


 以下、万葉集 巻第16 より抜粋 

 3786 
 春去らば 髪挿しにせむと 我が思ひし 桜の花は 散り行けるかも  
 はるさらば かざしにせむと あがおもひし さくらのはなは ちりゆけるかも  

 3788 
 耳無の 池し恨めし 我妹子が 来つつ潜かば 水は涸れなむ 
 みみなしの いけしうらめし わぎもこが きつつかづかば みずはかれなむ 

 3794 
 はしきやし 翁の歌に おほほしき 九の児らや かまけて居らむ 
 はしきやし おきなのうたに おほほしき ここののこらや かまけてをらむ  

 3828 
 香塗れる 塔にな寄りそ 川隈の 屎鮒食める いたき女奴  
 かうぬれる たふになよりそ かはくまの くそぶなはめる いたきめやつこ  

 3856 
 波羅門の 作れる水田を 食む烏 瞼腫れて 幡幢に居り  
 ばらもんの つくれるこなたを はむからす まなぶたはれて わたはた(綿畑)におり  
                            (わたはた・はたはた・はたほこ)   

 3858 
 このころの 我が恋力 記し集め 功に申さば 五位の冠  
 このころの あがこひぢから しるしあつめ くうにもうさば ごゐのかがふり   

 3869 
 大船に 小舟引き添へ 潜くとも 志賀の荒雄に 潜き逢はめやも  
 おほぶねに をぶねひきそへ かづくとも しかのあらをに かづきあはめやも  

 3889 
 人魂の さ青なる君が ただひとり 逢へりし雨夜の 灰挿し思ほゆ  
 ひとだまの さをなるきみが ただひとり あへりしあまよの はひさしおもほゆ  


 巻第16は3786番歌で始まり、3889番歌で終っています。
 どの歌もすべて戯笑歌でありながら、裏側では極めて重要な意味、内容を含んで結んであります。

 では、本来の万葉集はどんな体裁をしていたのでしょうか。   
 そのヒントは問題の巻十六の前にあることがわかりました。
 万葉集は全部で二十巻まであります。
 そして、古事記や日本書紀と同じように多くの書写本が現存しています。
 それらの本のなかで、巻十五まで目録があり、巻十六以下の目録が存在していない本があります。
 その本の名を上げてみますと、
 元暦校本 尼崎本 広瀬本 などです。

 こんどは歌を見てみましょう。
 巻十五の終末部の歌を見ますと、そこにはホトトギスを詠んだ歌がズラリと並んでいます。
 なぜあんなに多くのホトトギスの歌が集録してあるのでしょうか。
 ホトトギスという鳥は歌に詠むほどいい鳥じゃないんですが、歌は全部で七首がおそろいになっています。
 七首の最初に花橘を詠んだ歌がありまして、その後の六首全部がホトトギスの歌です。
 注釈文には「花鳥に寄せて思ひを陳べて作る歌」とあります。

 ホトトギスを詠んだ歌として「三井の歌」がヒントになってくれます。 (三井への道案内)   
 三井の歌などを照らし合わせますと、ホトトギスの意味は推古天皇を慕う歌であるということになります。
 七首の内の橘は父親をあらわし橘豊日命(用明天皇)そしてホトトギスは推古天皇です。
 そうしたことを暗示するかのように古事記は推古天皇で完結しています。
 すなわち初期の万葉集は古事記と同じように推古天皇で完結していた、
 そしてその完結部は巻十五だった、ということになります。

 巻第十五 3785番歌 (最終歌より)     
 ほととぎす 間しまし置け 汝が鳴けば 我が思ふ心 いたも術なし     
 ほととぎす あひだしましおけ ながなけば あがもふこころ いたもすべなし      

 (大意)
 ほととぎすよ 間を少し置いてくれ おまえが鳴くと 私の思いはどうにもならない    


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