トップページ    23首の解説ページ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




万葉集 巻第二 188番歌 解説と関連写真



朝曇り 日の入りざれば 御立たしの 嶋に下り居て 嘆きつるかも



この歌は「朝曇り」の部分が問題点です。

原文字で載せてみますと 「 旦覆 日之入去者 〜」になっています。

旦の字は「夜明け」の意味がありますから朝でいいとして、「覆」をどう読むか、です。

朝を覆う訳ですから、朝曇り、にはなりますが、それなら「曇り」の字を使えばいいことです。

いちおう問題提起して、歌の読みは従来通りに朝曇りとして載せました。



ここで少し冗長になるかもしれませんが、歌に隠された意味を探ってみます。

原文字から見ますと、「旦覆」の部分は「田ん覆う」と解読すると、方言が入っています。田とは、木花の佐久夜姫。

その方言を訳しますと、木花の佐久夜姫の物を覆い隠す、といった意味です。木花の佐久夜姫の物、とは、

綿花の農園(樹園)を意味します。石城山のウワナリ社の祭神は木花の佐久夜姫です


覆うとは、綿花の樹園を覆うという意味であり、再利用できないように破壊するという意味です。

侵略者達は神護石の列石群(樹園)を破壊して再利用できないように土を被せて覆ったわけです。

破壊された痕跡は各地の神籠石遺跡を見て歩きますと顕著に現われています。


歌の「日」はいろんな解釈ができ、石城山の高日ヶ峰の件がありますし、また、伊勢にも関連します。

さらに、歌の「日」を火と解釈すれば侵略者に相当して、波野行者山(波野スフィンクス)になります。

地元では、山頂境内の木を採っても火の祟りがあるとして、近付く人は少ないです。

また、火に関しては木花の佐久夜姫の物語と火とは密接な関連性を持っています。


結局、歌の詠まれた場所の正確な特定は困難であり、23首の連係性から見ますと、

御立たしの島に下りる訳ですから、波野行者山が有力であり、または石城山か、琴石山か、

ということになります。それぞれを含んでいると解釈すればいいかもしれません。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




歌に関しては以上です。


他のページと重複しますが、参考までに波野行者山に関して載せておきます。






 波野スフィンクスの頭頂部から、からと水道跡を見おろした写真です。

 歌の「み立たしの嶋」とは蓮台寺山を言っている可能性。初代の四天王寺があったと推測している所です。

 下の写真 1枚も同じ方向を広角で撮影したものです。家屋の建ち並んでいる平野部が、からと水道跡になります。









 視線を少し右方向(西側)にずらしてみますと、麻里府がよく見えます。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 真正面方向(南方向)をズームで引き寄せてみました。小山と林松坊が前足に相当します。

 ほぼ真正面に雑石スフィンクスを遠望しています。両スフィンクスは多少のズレを持って向かい合っています。

西側には岩戸スフィンクスがいますから、随分たくさんのスフィンクスがあります。


 矢印 山の向こう側に神花山古墳 (木花の佐久夜姫陵) 古墳は見えそうで見えない。

 矢印 山の向こう側に阿多田古墳 (石長姫陵・推古天皇・沖の命・すべて同一人物) 古墳は見えそうで見えない。


 大内公園 上宮跡地の前身と推測している所。ここから見ると、スフィンクスが香炉を持っているかのように見える。


 林松坊  歌を照合して初代用明天皇陵と推測している所。林松坊も小山も殯の跡だと思います。小山には築石残存。


小山 (万葉集などでは香山です)初代般若姫陵。万葉歌では小山から波野行者山に上げる時の様子が詠んであります。

林松坊と小山の真ん中の谷間を古事記(雄略天皇)の歌で「入り江の蓮」と詠んでいます。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




波野スフィンクスの頭頂部の状況です。

他のページと重複しますが、ご勘弁を。




 波野スフィンクス頭頂部にある堂宇です。

 本来は木造瓦葺の堂宇だったようです。昭和40年代頃に御覧のようなコンクリート造りに再建されました。

 周囲には、かっての瓦葺の名残りとして、古い瓦が積まれて少し残っています。

 燈籠風の石柱には「明和」(1764〜1772)の年号が見えます。


明和の頃、以降の年代、日本にはシーボルトとかペリーとか、有名人(笑)が多数来航しています。

オランダ、アメリカ、ソ連も来ています。なんで、わざわざ取るに足らないこのせせこましい日本にやって来たのか、

他にもいい所はたくさんあるじゃないですか。それを考えると、エジプトのピラミッドからの出土品の類いが浮上してきます。

彼らもまた、ナゾのホルアクティやドゥアトを目指していたのです。


その頃の、この山のふもとの地域は貧乏村で、石燈籠を上げられるほどの余裕はありませんでした。

そうしたことを考えると、外国からの来賓者に対して国をあげての装飾・荘厳をした、ことが見えて来るのです。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





 古老に境内土地の境界(境石)を教えてもらった時に付け取っておいたメモです。

 波野スフィンクス頭頂部を真上から見ると、およそこんな形をしています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






 波野スフィンクス頭頂部の頂点です。

 画面左側の石の高さ・約1m位。・・・よーく観ると・・・東へ向いた人の顔・・・。

 翔泳社・発行「創世の守護神・上巻」 194ページの絵図と同じものがここに在ります(下の写真)。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





 当初、山頂の表土が流れて大きな石だけ残ったのだろうと思った事もあります。

 ところが、この石積み遺跡は山頂をグルリと取り巻いています。

 下の写真は同じ所をアップしてみました。石の高さ約80cm平均位。











 以下、西側斜面です。

 グルリと大側を通れるということは、段々築造だったと考えられます。











 上の一枚を見ても、人の手になった石積み遺跡だという事がわかります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 古事記・顕宗天皇の段より「御陵の土」 


 注意点・大長谷天皇とは雄略天皇のことですが、実在した人物ではないようです。それは物語に入れてある歌でわかります。

なぜ実在しない人物を設定したかは、架空の人物なら事実を入れやすいからだと思います。ポイントは「呉人」にあるようです。


 天皇、(荻天皇・聖徳太子のこと)深くその父王(仁徳天皇のこと)を殺しし大長谷天皇を怨む。その霊に報いむと欲す。故、その大長谷天皇の御陵をこぼたむと欲して人を遣はしし時、その兄の色、沖の命(推古天皇のこと)奏言す、「この御陵を破りこぼつは他人を遣すべからず。もはら我自ら行きて、天皇の御心のごとく、破りこぼちて参出む。」ここに天皇詔る。「然らば命に従いて、よろしく幸行べし。」是を以って沖の命、自ら下り幸でて、少しその御陵の傍らを掘る。還り上りてまた奏言。「すでに掘りこぼつなり」。ここに天皇、その早く還り上るをあやしみて詔る。「如何に破りこぼつや?」答え曰く「少しその陵の傍らの土を掘りし」。天皇詔りし「父王の仇に報いむと欲すは必ずことごとくその陵を破りこぼつに、なぜ少し掘るや?」答え曰く「しかせし所以は、父王の怨みをその霊に報いむと欲すは是まことに理なり、然れどもその大長谷天皇は父の怨みにあれども、還りては我が従父なる。また天の下治めし天皇。ここに今単に父の仇といふ志をとりて、悉に天の下治めし天皇の陵を破りなば、後の人必ずそしらむ。ただ、父王の仇は報はずにはおれぬ。故、少しその陵の邊を掘る。もはや是の恥を以ちて後の世に示すに足る。」かく申せば天皇答へて詔りし。「是また大き理、命ゆ可や。」故、天皇崩り即ち、
意冨祁命、天つ日續知らしめすなり。 (翻訳・カズマロ管理人) 


 黄色字部分、真福寺本の原典・下巻では「意冨祁命」とあり。

そのくせ上巻・木花の佐久夜姫の段では「佐冬毘賣・春瑜本」でなくてはならない部分が「佐久夜毘賣」になっていたりする。

真福寺本も書写本ではあるが・・・その前に、やはり活字本ではよくわからない。原典の写真本が欲しい。 (原典・毘は田に比)  




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





 (上) 波野スフィンクス頭頂部の堂宇(行者堂)に安置してある「役の小角(えんのおづぬ)」の木像。  

 写真は平成9年2月に私が修復した直後に撮影したものです。





 修復記

 私が修復する以前には寄せ木作りの像が五体バラバラになって岩屋のコンクリート製安置棚に散乱していた状態でした。手も足も、岩屋も(赤と青の部分)みんなバラバラになって安置棚に散乱していました。また、コンクリート製安置棚の内部には大きなヘビの抜け殻の一部分が殆んど粉々になって横たわっていました。なぜそうした悲惨な状態になっていたのかという事については、この神は「火の神」として、地元では凄く恐れられてきました。「触らぬ神に祟り無し」のことわざは今もなお生きており、地元では、ここの境内の木を採っても火の祟りがあるとして、近付く人もいないような状態です。役の小角と言いますと、その謂れは比較的新しい年代の人物として伝わっていますが、それはたぶん特定の地域伝承とうまく融合して語り伝えられて来たのでしょう。役の小角は万葉集に詠まれている人物ですから、年代的には万葉以前の人物であり、別名を「神変大菩薩」と申します。つまり、この像こそ神武天皇の姿でもあります。この像は初代ヤマトを滅ぼした人物であり、今ふうに言いいますと、特級戦犯であり、首謀者でもあります。日本では今だにこの特級戦犯を奉仕し、祭っているのです。その謂れ意味は、上記の古事記に記してある通りです。私自身の本心としては、こんな像など修復せずとも観音菩薩でも安置したほうがよほどいいとも思いました。ですが、千数百年の永きに渡って伝えられて来たものは、それなりに重いものがあります。また、堂内に散乱していたヘビの抜け殻は龍を意味し、市辺之忍歯王(仁徳天皇)のこと。ふもとの天王原に下ろされてしまい、本元の陵墓が抜け殻になったという意味を持っています。その抜け殻ですが、箱にでも入れてあれば良かったんですが、岩屋の安置棚にそのまま入れてあったので、もう粉々の状態でした。奥に寄せておいたんですが、なんせ岩の隙間から空が見えるような安置棚ですので、風で飛ばされてしまうんです。今も少し気になります。こんど登山したら粉々の抜け殻を小箱にでも保存しておこうかと思っています。像の修復は平成9年1月〜2月にかけて、日々登山して修復いたしました。バラバラになって散乱していたにもかかわらず、欠品が青鬼の手だけだったのは幸いでした。堂内を隅々まで探してみましたが、見つかりませんでした。今思うに、もしかして最初から無かったのかなと思ったりします。像に色(絵の具)などは塗っていません。最初からの色彩です。また、文字など無いかと丹念に調べましたが、文字の類いは有りませんでした。修復には天気の良い日を選んで毎日登山し、約一ヶ月かかりました。すべて完了した後、読経をして「これで百年は大丈夫ですね」と語りかけると、ニコッと微笑まれたような気がしました。その後、少しずつ地元の人々の奉納もあったようです。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





 以下は波野行者山と同じ名を持つ小行司・行者山の写真です。(撮影・平成十一年・1999年)

 祀ってある役の小角も共通しています。









 波野・行者山と同じ名を持つ小行司・行者山の山頂に安置してある役の小角の石彫仏。

 こちらは役の小角の特徴でもある半男半女の姿がよく表れています。






 よく見ると、右手を握った拳の形をしています。





 登山道の2合目付近にある鳥居。

 鳥居の左側に見えている三角形の山が小行司・行者山頂。

ここから歩いて約30分位です。ここは握った拳の親指の辺りに相当します。






 頂上にある鳥居と祠堂。 堂宇は南を前面にしています。

 この祠のなかに役の小角の石彫仏が安置してあります。






 小行司・行者山からの眺め。

 遠くに柳井市、唐戸水道・東側進入口が見える。

下の写真は同じ位置を望遠で拡大したもの。



 赤矢印の辺りに水口茶臼山古墳がありますが、山に隠れていて、見えそうで見えません。 






 東側にある隣りの峰を見たもの。

 この峰の向こう側にも、もう一つ峰があり、三つの峰が並んでいます。


 仏教で解説すれば三つの峰は、過去・現在・未来・を表し、

一切の衆生(我々のこと)が生死流転する三つの世界を表します。

 三界万霊・三千大千世界と申します。(さんかいばんれい・さんぜんだいせんせかい)




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トップページ    23首の解説ページ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・