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  荒神谷遺跡  西谷四隅突出型古墳群 
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加茂岩倉遺跡

所在地 島根県大原郡加茂町大字岩倉字南ヶ廻837-11


島根県の国道54号線に加茂町という所がありまして、

国道に加茂岩倉遺跡の大きな案内板があります。

案内板に従えばわかり易いです。




上の写真は国道54号から入った所です。この道は54号ではありませんのでお間違えなく。

白い車がとまっている所が加茂岩倉遺跡第一駐車場です。広い駐車場で、トイレも完備しています。

遺跡へは画面左の道を数百メートル程度入った所に小さな第二駐車場があり、そこから遊歩道が出ています。





遺跡に行くまでの遊歩道です。

今は遺跡公園として整備されていますが、以前は田んぼだったそうです。

両側を山に挟まれていますから、ほんとに小規模な田が昇っていたのでしょう。

弥生時代の田んぼとして考えると、このくらいの規模が妥当だと思いました。




水も豊富に湧いていて、田を作るには最適な環境でもあります。




加茂岩倉遺跡は、かっての田んぼを登って行った最奥部の土手上で発見されました。

この辺は田んぼの最も奥地になる所であり、袋状の地形になっています。

遺跡が発見される前を想うと、田んぼの地主しか入って来ないような所であり、

まぁ言うなれば誰も入って来ない寂しい所です。

上写真の段々を登って行った所に銅鐸が発見された場所があります。

遺跡は発見当時の状態を再現してあります。


北緯 35度21分35.3秒

東経 132度53分00.5秒

位置精度 +−3m





加茂岩倉遺跡は平成8年(1996)農道整備工事で偶然に発見されました。

上写真・手前側の散乱している状態の銅鐸は、発見当時に

パワーショベルのバケットの中に入っていた物だそうです。

随分乱暴な状態で発見されたようです。





発見された当時の状態です。

パワーショベルがザックリと掘り取った痕が生々しく再現してあります。

重機のオペレーターさんはこんなになるまで気付かなかったのかな?とも思いました。

まぁ、見ようによっては捨てられた瓦の残骸が埋まっているみたいにも見えます。






土坑と呼ばれている穴の跡です。

銅鐸埋納地点から2.5mの所で検出されたそうです。




あくまでも推測ですが、盗掘を防ぐためのカモフラージュだったのではないかと思います。

カラッポの穴が開いていると、もう誰か先に掘り出したものと考えますから。

こうした手法は古墳などにも見られまして、ある古墳などは中世に神社を再建するため

土を削って整地していたら石棺が出てきたという記録がありまして、その整地地点を

古墳最上部から考えますと尋常な深さではないわけです。ということは、盗掘を防ぐために

二段構成になっていた可能性が考えられます。上にカラの石棺を置いて

何も残っていないように見せかける訳です。

この土坑もそうした意味を持っているのではないかと思いました。






銅鐸発見地点と丘の頂上はあんまり離れてはいません。

上の写真を見ての通り、頂上からほんの少し(数m)下った所の斜面です。




上まで登ってみました。この道は加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡を結んでいる山道です。

道の向こうから剣で身を固めて正装した出雲タケルがやって来そうな不思議な幻想がありました。





袋状の地形の最奥部付近から遺跡を撮影したものです。

下の図は地形図です。青矢印の地点から撮影しています。





島根県加茂町教育委員会・編集発行「加茂岩倉遺跡発掘調査概報」より引用。

(一部省略・加筆)聞き取りによれば、この丘陵斜面の掘削は平成8年(1996)10月10日に着手し、

11日には上から5mの最上段の法面ステップを完成させて二段目の法面作業を始めた。

掘削した土は斜面下へ落としていた。翌土、日曜日は作業を休み、14日の朝、斜面下の排土の

中にプラスチックのバケツの口のようなものがあると気づいたが、あまり気にとめず掘削作業に

入った。そして、10時頃重機のバケットの中に数個の銅鐸が入っているのに気づいて作業を中止、

作業をしていた高台から斜面下を覗くと下の水田や道路に多数の銅鐸が転げ落ちていたという。

それらを水田の畦に並べて置き、バケットの中の銅鐸は取り出して高台の工事現場の片隅に

寄せ置き、会社に連絡を取った。発見の一報は請負業者を通じて発注元の・・・(以下略す)。

10月26日には持ち帰られていた銅鐸1個の届け出があり、・・・(以下略す)。





加茂岩倉遺跡ガイダンスと呼ばれている資料館です。

本来の地形をかたどる意味において橋架け方式にしてあるのだそうです。

つまり、ガイダンスの所の地面は本来続いていたわけです。

道は遊歩道としてあり、車は通れません。










銅鐸は本来何に使われていたかということに関しましては様々な説があるようです。

そもそも銅鐸の鐸は飛鳥時代に寺院などにぶら下げられていた木鐸や金鐸などの風鐸(風鈴)から付けられた名です。

飛鳥時代にはすでに本来の使いかたがわからなくなっていたらしく、

風鐸に似ていることにより鐸の名になってしまったという由来があります。


重要なこととして、銅鐸が製作された年代の初期と終末期とでは相当な年数の隔たりがあることです。

銅鐸の編年表を見ますと、紀元前三百年の弥生一期と呼ばれる時代からその存在が確認されています。

そして紀元後二百年の弥生五期と呼ばれる時代あたりから使われなくなっていったようです。

その間、およそ五百年もの隔たりがあるのです。銅鐸の歴史はその五百年のなかに凝縮されています。






では、本来の使用目的は何であったのかと、私なりの解釈を順に申し上げますと、

初期の銅鐸は石包丁が進化した物であり、本来は武器として使われていたものです。

その使い方は、型持孔と呼ばれる穴に縄を通しまして、その縄にパイプ状の(竹など)の

持ち手(ハンドル)を通します。そして鐸身と呼ばれるラッパ状の内部に衝撃緩衝材(布団状の綿など)を

挿入します。そして左腕を突っ込んでハンドルを持ち、敵の討ってくる剣を受け、右手(利き腕)に持った剣で

相手を討つ、というのが本来の使われかただと確信しています。つまり、簡単に言えば盾に相当する物です。



だから荒神谷などでは剣と一緒に出土しています。

左腕に付けた銅鐸で敵の攻撃を受けて、右腕に持った剣で敵を倒すものです。

銅鐸のサイズが大小色々あるのは、日本人と外国人または男性と女性の体格の違いを表わしているものです。

極端に小さいのは子供用も当然あったことでしょう。



そもそも戦いと言えば、棍棒での殴り合い、槍の放り投げ、命中精度の悪い弓矢の打ち合い、など

が主流だったような時代です。そうした時代にあって銅鐸は強力な武器として君臨したことでしょう。

その銅鐸も弓の命中精度の高まりにつれて、板などで作った盾に取って換わります。やがては鉄剣の普及。

銅鐸が廃れていった要因でしょう。鉄剣の普及により、銅製の武器は廃れる一方の運命をたどります。



盾や鉄剣を使うようになりますと、銅鐸は先祖の使っていた物として守護神として崇められるようになります。

祭祀銅鐸の始まりです。

銅鐸先端の包丁の部分を鈕(ちゅう)と言いますが、その包丁の刃に相当する大事な部分に飾耳を

付けている銅鐸も他所では出土しているようですが、それなどすでに使い方がわからなくなっていた可能性があり、

当然実戦に使われた物ではなく、最初から祭祀銅鐸または装飾用銅鐸として作られた物だと思います。



この加茂岩倉出土の銅鐸はすべて実戦に使われた物です。

それは有名なバツ印でわかります。





私は訳あって様々な祈祷を見てきました。祈祷には、いかがわしいものもあれば、

原始から延々と伝えられ続いてきたような極めて古いものもあります。

祭りもさることながら、古代史では祈祷こそ重要な研究課題だと思っています。

祈祷は独自に発展してきたものが主流を占め、極秘にされているものが多いです。



そうした祈祷のなかに問題のバツ印を描く祈祷があります。

私の記憶では石鎚系の祈祷師さんがやっておられたと記憶しています。

いずれにしましても祈祷でのバツ印は悪霊払いが根本にあります。



特にこうした武器は何人もの人間を殺傷していますから、その怨霊も相当なものがありそうです。

怨霊の多くはこうした武器に篭って戦いなどの邪魔をするといいます。

そうした根本には人間の心理があるわけですが、その邪心を払う意味において

バツ印を結んで邪心(悪霊)を断ち切るわけです。



そうした訳で、バツ印の打たれた時期は様々あると思います。

戦いに使っている時に悪霊払いで打たれたものもあれば、

埋納する時に悪霊を追い出して綺麗にして埋納した物もあると思います。













複製とある部分に注目してほしいのですが、原品所有は文化庁になっています。

所有権について私がとやかく言う筋合いはありませんが、現地に複製品はおかしいです。

これは逆でなくちゃいけない。現地に本物を置き、東京のほうに複製品でなくちゃいけないんです。

本物指向の私などは現地を訪ねて、さらに東京まで行かなくちゃいけない。こんな不合理なことはないです。

複製品と本物を見比べると微妙に違いがあるんですね。それよりなにより、本来神々の祭り物です。

それを骨董収集のごとく現地にニセ物を置いて、本物は東京に持っていっている。神々への屈辱です。

日本がうまくいかないところはこういうところにあるんじゃないかと思いました。

たぶん東京の国立博物館あたりに所蔵されているのでしょうが、原品だけ見て何かわかりますか?

大震災による大津波がささやかれる今、一極集中保存は危険でもあります。

全国各地の出土地の資料館や博物館、郷土館などに本物を置いて、

所有は文化庁で構わないですから出土地で分散保存するのが最良だと思います。

そうすれば神々の意思にも適うことでしょう。





ふたたび第一駐車場です。ここには重要な岩倉があります。




加茂岩倉遺跡の第一駐車場から見る岩倉です。

この位置から見ると富士山そっくりの形をしています。

まるで富士山を箱庭に置いたような感じがあります。







古事記では景行天皇「小碓命の西征」の段に記載してあります。

と言ってもこの岩倉を直接的に書いたものではなく、斐伊川(原文・肥河)の

ほとりでの物語形式で記してあります。その斐伊川のほとりとは何処なのか、

斐伊川も長いですから、そのヒントがこの富士山の形をした岩倉です。


国道9号線から斐伊川沿いの道に入り、県道26号を三刀屋方面に向かって走りますと

左手方向に富士山そっくりの形をした山があります。この岩倉を一度でも見ていれば、

おやっ?と疑問に思うはずです。この岩倉とまったく同じ形をした山があります。

そこで古事記を読んでいれば物語の斐伊川のほとりと繋がりがあるのではないかと

思うはずです。 そうです。 そここそ物語の現場です。


物語は歌を基にして後代に編纂されたものだと思われ、実話としてとらえるか

どうかは神話を読む人々たちのフィーリングで構わないと思います。

物語では太刀が特出しています。太刀こそ古事記編纂の作者が訴えていることであり、

物語にある太刀こそが加茂岩倉と荒神谷遺跡を意味したものであるのです。


なお、上写真の由来とほぼ同じ由来を持っているのが山口県岩田にある岩戸八幡宮の岩戸石です。

岩戸八幡宮は神武遠征の段で鳥の地上絵でも挙げましたが、三輪神社のすぐ近くにある神社です。




岩戸石の由来です。 

防長風土注進案 岩田村風土記より

当村は美和庄の内にて岩田村と唱え候事その訳詳らかなることは相知れ申さず候へども、

当村岩戸御立山の内に高さ六尺五六寸幅四尺三四寸厚さ一尺余りにて建塀の様なる

石御座候。これを天之岩戸石と申し伝へ、よって岩戸村と名付けしをタチツテトの五韻

相通ずを以って岩田と言ひ習はせしならんか岩戸八幡宮をも岩田八幡宮と唱へ来り候。

彼是、岩戸村を岩田村と転じたるにおいて可有御座と被相考へ候。前断りし岩戸石の下に

金の鶏埋めありて大三十日夜只一声啼く、是を聞く者は富貴を得ると申し伝へ候得共聞きたる

者も無き御座故詳らかならず候。





境内周辺一帯は弥生遺跡です。地名を「溝呂井(みぞろい)」といいます。

その地名を見ても地上絵と一体になっていることがわかります。


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さて、下の写真をご覧ください。

この航空写真は加茂岩倉遺跡のガイダンス(資料館)で撮影させてもらいました。

これこそ古事記にある出雲タケルの姿です。どうして出雲タケルとわかるかと申しますと、

古事記の歌に詠まれているからです。





A ● 地点 加茂岩倉遺跡

B ● 地点 荒神谷遺跡

C ● 地点 西谷四隅突出型弥生墳丘墓群


手の所から頭をかすめて流れているのが斐伊川です。

歌は斐伊川のほとりでの物語の終末部に記してあります。

まず原文で載せてみます。


夜都米佐須伊豆毛多祁流賀波祁流多知都豆良佐波麻岐佐味那志爾阿波禮

これを解読すると次のようになります。意味は諸本と違いますが失礼。

やつめさす いずもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにあはれ



「やつめさす」これは出雲の枕詞(まくらことば)ということになっています。

実際には方位線のことなんですが、それを言うと歌のありがたみが

無くなってしまいますので。^^。従来通り枕詞ということでいいと思います。


「いずもたけるが はけるたち」これはそのままストレートに解釈していいと思います。


「つづらさはまき」ここからが問題です。「つづら」とはつる草の総称です。

ここでは「つる草のごとく巻き付いて」と解釈されますが、前に太刀がありますので、

「太刀をつる草のごとくたくさん身に付けて」と解釈するのが妥当ではないかと思います。


「さみなしにあはれ」これもまた問題です。現状では「さ身無し」で「刀身が無い」と解釈

されています。それは物語に合わせた解読です。実際には「みなし」とは「身だしなみ」の

方言です。その「みなし」の前に「さ」という丁寧語が付いていますので今風に言うと「お身だしなみ」

という相手を敬う気持ちが入っています。そうすると後に続く「あはれ」は感動を表現するあはれになります。


全部続けて解読(口語訳)しますと、

「出雲タケルさまが身につけていらっしゃる太刀。

つる草のごとくたくさん巻き付けて、その身だしなみに感動する」



という意味になり、斐伊川のほとりですから上の航空写真の通りの事実があります。

また、この巨大な人型は天空のオリオン星座を地上に表現したものでもあります。

オリオンという星座をご存知ですか?今の時期(12月)には一晩中よく見えます。

星座を知らない人も、オリオンと北斗七星くらいは知っておいてもいいです。

夜空を見上げてみてください。

オリオン星座はまるで巨大な蝶が羽根を広げているようにも見えます。

その星座の蝶の胴体に見える部分にある三つの星(ベルトスター)が

エジプトピラミッドの配列に関係していることは諸本でも明らかです。

そのベルトスターの少し下側、腰に下げた剣を意味する星座があります。

うっすらと見える星で、よく見るとまるでオシッコをしているようにも見えます。

その腰に下げた剣の部分がこの加茂岩倉遺跡に相当します。



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加茂岩倉遺跡と初代ヤマトとの接点


下の写真は「からと水道(柳井・平生水道跡)」周辺の半径十キロ圏内の神社の方位をリストアップして線をひいた図です。

からと水道跡の半径十キロ圏内にこれだけもの神社が出雲を指しているということだけでも普通じゃありません。

実際にはまだ幾つもあるんですが、方位のデータが円形コンパスを使っていた頃のものがまだ残っており、省略しています。

つまり、これだけではないということです。しかし説明するにはこれだけあれば充分過ぎるほどだと思います。





方位線の特徴的なこととして、下の写真をご覧ください。

巨大な人型の頭部から足元部分にかけて方位線は人型に集中しています。

それらのなかで特に重要な方位線として三輪神社と鮎原剣神社の方位線があります。

三輪神社は神殿と拝礼殿の方位が異なっていまして、神殿が西谷墳墓群の辺り(頭頂部)を指し

拝礼殿が足元を指しています。下の写真の赤ラインは三輪神社の方位線のおよその位置を示したものです。

三輪神社は大物主の神を祭神としていますから、この巨大な人型は大物主の神を意味していると考えられ、

だからこそ頭頂部と足元を指しているわけです。そしてそれが通称出雲タケルであることは歌を見れば明らかです。


周防でリストアップした多くの方位線を五万分の一の地図で分析してみましたところ、

大物主の神(出雲タケル)の陵墓は西谷墳墓群の中にあるようです。





さらに三輪神社の2本の方位線を挟むかのように外側に鮎原剣神社の方位線があります。

鮎原剣神社は構造こそ本殿と奥社という分離式ですが、三輪神社の神殿拝殿方位分離式と似通った面があり、

鮎原剣神社の本殿と奥社は同一線上に並びながら本殿と奥社の方位が異なっています。

その鮎原剣神社の2本の方位線で特筆したいのは本殿の方位であり、奥出雲のタタラ製鉄遺跡を指しています。

そうすると三輪神社は銅を意味し、鮎原剣神社は鉄を意味していることになります。

銅から鉄への変換点を方位線によって記録してあるのかもしれません。



申し遅れましたが、三輪神社の左方位(西方向)の方位線は山口県の秋吉台を指しており(下写真)、

秋吉台の周囲には長登銅山をはじめ多くの銅山遺跡が散在しています。また、鮎原剣神社は

二鹿(ふたしか)鉱山などの、かっては銅も産出していたタングステン鉱山遺跡へ続いています。

簡単に言いますと、巨大な人型を指している神社の西方位はすべて長登銅山付近を指していると言えます。






この加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の出土品は銅製品がすべてを占めています。

銅の産出地点を知るうえで長登銅山遺跡を指していることは重要な手がかりです。

つまり、朝鮮や中国などの大陸から渡って来た物ではなく、純粋な国産の銅製品であるのです。

だからこそ埋納して崇められてきた訳です。


さて、出雲市の北側の海岸に猪目洞窟遺跡があります。

出雲国風土記では散々なことが記されているようですが、人を近づけないための由来でしょう。

実際には洞窟信仰の跡であり、神々は洞窟から出て来たという信仰によります。

洞窟信仰は石器時代の人々(先祖)を神々とした縄文時代から弥生時代初期の頃にかけての信仰です。

本来は洞窟のなかには何も無い状態で、洞窟そのものに神々が宿るという崇拝です。


その神聖な洞窟も後代になると葬送場所(墓地)に様変わりします。

その猪目洞窟から弥生時代後期に埋葬された人骨が出土したそうです。

その右腕には「ごほうら貝」がはめてあったそうです。

ごほうら貝と言ったら山口県の土井ヶ浜遺跡が連係します。

すべてが南方へ繋がっています。南方からの渡来ですね。



考古関係者たちの大陸信奉はとどまるところを知らず、根拠は如何ほどかは知りませんが大陸とを結び付けようとされる。

さらにはそうした大陸信奉の方々が学校で教鞭を執るものですから大陸信奉はとどまるところを知らず増え続けていく。

これほど南方からの渡来である根拠がそろいながら一切それを言おうとはしない無視です。



ダイコク様はインド人です。そして洞窟遺跡から出土する舟形をした棺桶「舟葬(しゅうそう)」はスカンジナビア系です。

舟葬の名残りとして今でも船形後背を持つ仏像(お地蔵さまなど)があります。それらは古代スカンジナビア系の名残りです。

近代になってもオランダからの渡来は南方からの海路であり、陸路(通称のシルクロード)ではありません。



そもそも古墳などに埋納してある中国製の銅鏡は叩き割られている物が多いわけです(下写真)。

銅製品はただ叩くだけでは割れないそうです。

材質にもよると思いますが、叩くだけでは変形するだけだそうです。

銅製品を割るには、火にくべて焼いたうえで叩くと粉々に割れるそうです。

わざわざ焼いて叩き割るほど憎しみや怨念が強いわけです。わかりますか?




柳井市水口茶臼山古墳出土。

現存する銅鏡四面の内、これだけが中国からの舶載鏡(はくさいきょう)です。

焼いたうえで 30片に叩き割られています。

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ヒミコに贈られたという銅鏡は未だに歴史家を熱くしますが、銅鏡は葬送用具です。

中国は日本(ヒミコ)に常識外れな数の葬送用具を贈りつけているわけです。

今で言うと棺桶を百箱贈りつけて来たのと同じ意味があります。

そもそも、ふんどし姿の日本人を描いたあの絵、見たことがあると思います。

あんな格好で出向くと思いますか?まるっきりバカにしています。

自分たちに都合良く書かれた小説を信じているとしたら、正直なことです。



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加茂岩倉を指しているのは山口県柳井市伊陸(いかち)の「こんこん神社」から出ている方位線です。

伊陸の周辺には鍛冶に関係した遺跡が多くありまして、古来より鍛冶で栄えた地域です。

地名も鍛冶屋原とか諏訪の地名も残っています。また、伊陸は神武遠征物語に関連している所です





伊陸集落の中心地点とも言える「こんこん山」と呼ばれている丘の頂上にこんこん神社はあります。

小さな祠堂ですが、境内はグラウンドほどの相当な広さを持ち、

かっては栄えていた神社であろうことが推察されます。





向かって右側に稲荷社、左側に神社という配置で並んでいます。

稲荷社のほうが祠一つ分程度の少し高い位置になっています。


こんこん神社 拝礼方位 25度

計測及び写真撮影 2007年12月


私の持つデータを全部出して分析しましたのでこれほど正確に射ている神社は

ほかには無いとは思いますが、新たな発見があればまた掲載します。




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