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 加茂岩倉遺跡    西谷四隅突出型古墳群
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荒神谷遺跡

島根県簸川郡斐川町大字神庭
ひのかわぐん ひかわちょう かんば


博物館のある辺りは「西谷(さいだに)」と呼ばれ、
出土地点の辺りは通称「畑ノ奥(はたけのおく)」と
呼ばれていたそうです。荒神谷と呼ぶのは、近くに
荒神さまが祀られていることに因ります。



荒神谷博物館の駐車場です。
駐車場はまだこの他にも北駐車場と南駐車場がありまして、
車をとめる心配はしなくて大丈夫だと思います。
目指す荒神谷遺跡はこの奥にあります。





博物館の前から撮影しました。黄色丸印の辺りに出土地点があります。
この荒神谷遺跡も、加茂岩倉遺跡と同じように袋状の地形になっています。





本来はここに広域農道が建設される予定だったそうです。
工事の始まる前に遺跡の分布調査が行なわれ、一片の土器片の発見によって状況は変わりました。
黄色丸印の右下辺りに道の脇に石柱が立っているのが見えると思います。
そこら辺りから古墳時代後半期の須恵器が採集され、周辺に遺跡の存在することがわかったそうです。





袋状になっている地形の谷間の最奥部から撮影しました。黄色丸印は出土地点です。
画面には入っていませんが、右側には小さな溜め池があります。
昔の地形はどんなだったのか博物館の人に尋ねてみましたところ、
周辺の地形は昔からのままで工事は加えられていないということでした。





奥に板ハシゴがかけてある所が出土地点です。
この小規模な広場が気になったので博物館の人に尋ねてみましたところ、
昔からこの規模で小広場になっていたとのことでした。
大雨が降るような時には向こうから鉄砲水が出るそうなので、
そうした雨水が土砂を運び出してできた広場かなと思いました。
私の推測ですが、埋納地点を拝礼する神社のような物があったとしたらこの広場ですね。
鉄砲水で廃社になったのかな?とも思いめぐらしてみました。丁度この角度で拝礼することになります。





出土地点です。
黄色丸印の所で土手の傾斜角度を計測してみましたところ、40度の斜面でした。
ハシゴが無いと登れないような、かなり急な斜面です。
その斜面に棚状の段を掘り込んで水平にし、矛や剣そして銅鐸が並べられています。


北緯 35度22分35.2秒
東経 132度51分08.5秒
精度 +− 4m





谷の対岸から見た遺跡の全景です。





ズリ落ちそうになっているところも出土した時のまま再現してあるそうです。
なにもギリギリに置かなくとも左側はかなり空いているのにと思うのですが、
関連書籍にはそのことも触れてありまして、ナゾと言えるかもしれません。

私が推測するに、数が多いんで並べ替えるのが面倒だったのかな?と思ったりもして(笑)。
ズリ落ちそうになっている部分、この谷間は大雨の時には鉄砲水が出るという証言が大事です。
埋納当時には斜面からもっと深かったのかもしれません。そして2千年の歳月が斜面を侵食し、
さらには斜面上の土砂をも斜面に被せる複雑な侵食・堆積作用が働いたのではないでしょうか。

右側の3列は真ん中の辺りで並びにズレがあるそうです。
よって、列は4列でも、7つの並びの分類ができるそうです。
私が推測するに、たぶん1度には持って上がれませんから7回分に分けて持って上がった。
そして、並べているうちに土手側に近くなると足場が悪くなるので、丁度真ん中の辺りから
それまでの並びから外れる乱れが生じたのではないかなと推測しました。

また関連書籍によりますと、隣り合う列の刃先などが絡み合っている所もあるので、箱などに入れて
埋納されたものではなく、ナマのままで土の上に並べて、土を被せたことがわかるそうです。





棚状に掘り込まれた段からは直径10センチ程度の柱穴が検出されています。
関連書籍でも触れられているように、地鎮祭の痕跡です。
今でも地鎮祭は工事を始める前と、工事完了後の2回やりますから、
埋納坑を覆っていた土からも検出されたということで地鎮祭の理論に合います。





丘の頂上はすぐ上にあります。
頂上の景観は下の写真です。



丘の上はこんな感じになっています。
画面左下の斜面に出土地点があります。




谷の奥側から遺跡を眺めていますと、なぜこんな斜面に埋納したのかな?という疑問が浮かびました。
やがてその疑問は古代へと跳躍を始め、未来の誰かが見つけ出してくれることを前程にして埋納したのではないだろうか?
という想いに変わっていきました。・・・「未来の誰かさん見つけ出してくださいな」。^^。・・・そういう感じでしょうかね。
土手の斜面は雨水などで侵食作用が働きますから、いつか必ず露出します。それを予見していたのでしょう。
もう大丈夫です。半永久的に記録され保存されますから神々も安堵の表情かもしれませんね。





ふたたび入り口の所に出ます。
向こうに見える建物は博物館です。





舌状に伸びている丘の先端部付近です。
出土地点は手前の右奥側です。





袋状の谷になっている地形の対岸から撮影した遺跡の丘です。
出土地点は画面右側の道がぐっと登りになっている左奥です。
周辺の田には古代ハスが育てられていて、2000年ハスと呼ばれています。
6月中旬になると5万本の花が辺り一面に咲きほこります。





荒神谷博物館です。
遺跡を見学する前に入るか後に入るか少し悩みました。
まぁ同じことではあるので(笑)私は先に遺跡見学をしてから入館しました。



私が訪ねた時には丁度「薬草と注口土器」の展示がしてありました。



今でこそ「ヤカン」の部類に入る注口土器ですが、
古代の用途は主に薬草の精製に使われたようです。




万葉集 巻第五 沈痾自哀文 より 山上憶良(やまのうえのおくら) 女性ですか?。^^。?

(前文略す) 我聞く、前の代に良き医(クスリ師)多くありて、青ひとくさの病を癒す。
(中略) 件の医(クスリ師)を追ひ望むとも、あへて及ぶ所にあらじ。
(中略) 遊仙窟にいわく、「九泉の下の人(亡くなった人のこと)は、一銭にだにあたひせず」と。
(中略) 千年の愁苦、更に座後に継ぐ。
(中略) 鼠を以ちて喩ひとなす。なんぞ恥ずかしいことがあろう。



からと水道にいる大鼠。周防大島にもいます。
山口県熊毛郡田布施町大嶺コバルト台地より撮影
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矛が剣・剣が矛

現在呼ばれている矛と剣の分類はいつ頃のものなのか定かではありません。
昔の偉い考古学の先生が分類されたのではないかと思います。
今さらその矛と剣の分類を変える訳にはいかないとは思いますが・・・。
変えられる時に変えておかないと後代になって又議論しなくちゃいけなくなります・・・。
私のような地位も名誉も無い、無くすものの何も無い者が言わないと誰も言わないですから。
しかしまぁ、昔の先生は罪な分類をされたものです。^^。






矛という物は長い柄を付けて、突き刺す武器です。
私はこちらが剣だと思っています。
突き刺す矛なら83.5センチもの長さは必要ありませんから。
袋部とある部分が持つところであり、柄と一体式になった剣です。




いちばん長い5号は全長が83.5センチもあります。
その長さをスケールで出してみてください。剣です。
突き刺す矛なら包丁の長さあれば充分です。




綾杉状の文様は出雲を指している方位線にも表わしてあります。









こちらが剣ですから袋部に鋳型の土が詰まっていても問題無く実戦で使えます。
重量バランスの面からも剣は多少重いほうがよく切れます。

その訳を実践として説明しますと、たとえば絶対に折れないカッターナイフがあるとします。
カッターナイフですから、よく切れてすごく軽い。そのカッターナイフで竹を叩き切るとします。
残念ながらカッターナイフでは竹の表面を傷付けるだけで竹を切り倒すまでにはいきません。
ところが、こんどは重量のある重いナタを使ってみますと、竹は一撃でスパッと切れます。
剣は重量が大事なんですね。よく切れる刃は勿論のこと、ある程度の重量が必要です。



上写真・私がつい近年まで竹を伐るのに使っていたナタです。
少々の太さの竹は一撃二撃で切り倒せます。
歳をとって腕や肩をかばうため今は竹きり鋸を使っています。
赤矢印の出っ張りの部分に古代の剣と同じ名残りがあります。
あの出っ張りがあるから振り下ろす時に手から抜けないのです。
刃の方に行くにしたがって細くなっているのも共通していますね。
そうなっているから手から抜けずに打ち込めるのです。



上写真・右側  10号銅矛 (中広型) と呼ばれている剣の全長は83.1cmもあります。
矛とするならあまりにも大き過ぎます。木製の柄を装着したとすると頭デッカチで先の重い、
極めてバランスの悪い物になります。重量バランスを考えても矛にはなりません。
これはこのまま使います。ちゃんと柄の部分も一体式で付いています。






くどいようですが、私はこちらが矛だと思っています。
朝鮮半島から伝わってきた、という部分は不明です。
本来日本固有の物かもしれませんね。
日本の武器が朝鮮半島に渡ったのかもしれません。
そして朝鮮半島で矛と剣の使い方を誤ったのかな?
なんせ日本考古学界は大陸信奉者が多いですから。^^。




いちばん長いのが53.94センチとあります。
長い柄を付ける矛ですからそのくらいの長さで充分でしょう。
あんまり長くすると頭デッカチで使い難い矛になってしまいますから。




矛先です。^^。







大雑把と申しましたのは、下写真-Aの矛は短剣にも代用されたらしく、
矛として使っていた物を柄を短い物に取り替えて儀礼時に身に付ける短剣、いわゆる装飾剣としても
代用されたようです(写真-C)。しかし剣とは言っても突き刺す使い方であり、柄に矛の名残りが残っています。






儀礼時に身に付ける短剣としても使われた「矛」。
戦いの時には柄を長い物に取り替えて矛で使ったのだろうと思います。
もしかしたら、これは最初から装飾剣として作製されたのかもしれませんね。



矛の柄

矛に柄を取り付ける時どういうふうにしていたのか考察してみました。



まず柄になる棒の先端を矛の元部に合わせて縦割り形にくり貫きます。
矛の真ん中の丸い部分にしっかり合うようにくり貫けば横方向にズレることはありません。




次に矛と柄を密着させるために革などでしっかり縛ります。これで完成です。

しかし、これだけだと使っていると、突き刺した後で引き抜く時に
矛先が柄からスッポ抜けてしまうトラブルが起こります。

ためしにナイフなどを木に突き刺してみますとよくわかります。
突き刺すのは簡単なんですが、引き抜く時が大変なんですね。

遺跡から出土した人骨などには骨に矛先が刺さったまま
先端部が折れて骨に残っている物もあるそうです。
それほど引き抜く時は大変なんです。

その矛先のスッポ抜けを改良したのが以下の穴あけ矛です。






翼(よく)と呼ばれている部分に穴をあけて楔(くさび)などを
打ち込んでおけば引き抜く時のスッポ抜けを防止できます。




荒神谷遺跡からも穴あけ加工をした矛が見つかっているようです。
これは前でも説明した儀礼時などに使う短剣にも流用されたらしく、
穴の部分を埋めて整形してあるようです。


銅の出所(加茂岩倉遺跡のページに飛びます) 


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荒神谷遺跡と初代ヤマトとの接点




大波野天神社の方位線。
大波野は「おおはの」と読みます。神社は万葉の佐田に行く途中の山腹に
ありまして、ふもとには弥生明地遺跡が広がっています。




なんだ、こんな小さな神社か、と思われるかもしれません。しかしその方位は一流です。
山の中腹にありますもので、昔から大きくも小さくもならずに続いてきたのでしよう。



昔からあまり手を加えられなかったせいか礎石が動いていないのは幸いでした。



大波野天神社の御神像です。
腕が無いという点では隣りの山、波野行者山頂の児鬼と共通性があります。
反戦を訴えているような気がしてなりませんでした。




大波野天神社の境内から遠望する琴石山(こといしやま)です。
なんとなく富士山と似ているでしょう?周防大島から見るとまさに富士山になります。
また、境内前面のふもとには、このホームページでの通称「大波野涅槃像」が横たわっています。

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大波野天神社に登る途中に女体社があります。
大波野天神と女体社は一体と言ってもいいかもしれません。
その方位線も出雲と密接な関連性を持っています。
以下、女体社の方位線です。



出雲の全体図です。
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出雲大社の参道入り口辺りを通過しています。
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周防大島 帯石観音 大悲閣






大悲閣のページはこちらです。





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