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熊野村


 故、神倭伊波禮毘古命、その地より廻りゆき熊野村(熊の村)に到りし時、大熊の神、い出入りて即ち失せき。


史実を訴えている神社として、光市熊野神社(下写真)があります。その光市熊野神社は、かっては

十二社大権現とも呼ばれていたようです。こうした呼び方は石城神社などでも三社大権現とも呼ばれていますから、

仏教と密接なかかわりからの名称です。また中世に熊野本宮から神霊を勧請したともあります。しかし、その本宮の

神霊は見えません。古事記の記述から推察しますと、本来の名が「 熊野神社 」という名称だったのかもしれません。



では、その光市熊野神社が指し示している方位線を見てみましょう。次々と史実が見えて来ます。




光市熊野神社

N 33度58分31.7
E 131度56分00.6
位置精度 +- 6m
拝殿前の境内にて計測


拝礼方位 13.5度 (点があります 13点5度です)





光市熊野神社の方位線を引いた図です。拝礼方向は北側(図上側)です。

拝礼方向に妙見所という地名があります。妙見は北極星であり、熊座を意味します。

古事記の記述通りです。 さらに詳しく見ていきましょう。

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光市熊野神社・拝礼方位線




光市熊野神社の拝礼方位線は熊毛町勝間の熊毛神社を指しています。

物語の「長く寝ていた」とあるのは熊毛神社の神霊を意味しています。

熊毛神社の神霊(ご神体)は、あちこち持ち回りでお世話をしていたらしく、万葉集にもその事が詠まれています。

熊毛神社の伝承を持つ神社が多いのはそこにあります。点々と持ち回りでお世話をして、やがて勝間の地に

落ち着かれます。なぜ勝間の地に鎮座されたのかは、侵攻経路と密接に繋がっています。指標として勝間の地が

ふさわしかったのでしょう。そうして考えますと、古事記が記されたのは鎮座されてから後の可能性が出てきます。

逆に考えますと、勝間に熊毛神社が鎮座されたのは古事記が記される前のことである、ということにもなります。

式内制の記録に関しましては、こちらに説明しています。

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続いてこの間、方位線は玖珂鉱山を通っています。

その内容は「井氷鹿」のページで説明します。



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光市熊野神社の拝礼方位線は、やがて島根県の江の川河口付近に行き着きます。

図の右上に石見銀山があります。

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光市熊野神社・前面方位線




ご覧のように宮崎県の西都原古墳群を指しています。

古事記には熊野の荒ぶる神々との戦いが短く記してあります。

他国からの侵攻による犠牲者の遺骨を郷里に持ち帰って埋葬したのではないでしょうか。

たしか木花の佐久夜姫陵があったと思います。たぶん分骨だと思います。

仏教では釈迦の遺骨を皆で分け合ったということから、分骨は一般的です。

だから、周防の神花山古墳には頭骨だけ残っているのでしょう。

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光市熊野神社・社殿に向かって右手方位線




右手方位線で大事なのは、呉麓山(くれろくさん)下写真を指していることです。

呉麓山は熊の形をしており、このホームページでは岩戸スフィンクスと仮称しています。


まとめますと、古事記の記述に繋がる熊は、光市熊野神社が指し示しており、北側に熊毛神社の熊、

そして、東側に呉麓山の熊があります。さらには、上図のように妙見宮(北極星・熊座)もあります。

そうした事により、記述の熊野村とは、「熊の村」と読むのが古事記著者の意図したところではないかと思います。






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余談になりますが、

光市熊野神社の右手方位線は平生町の般若寺をも指しています。

般若寺は熊毛神社とも関連していることは別章で書いています。

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ややこしくなるかもしれませんが、以下は物語の内容に関する余談です。

古事記の熊野村の物語は、波野スフィンクスのふもとをも混ぜて語っています。


その事を単直に表わしている一節が「熊野之高倉下」とある部分です。

この一節には注釈文が記してありまして、「こは人の名」と小さい文字で入れてあります。

その注釈文で迷わされる訳ですが、人の名はおかしいです。

解読しますと、「熊の高倉の下」 と読めます。


この記述の後、剣を降す場面には次のようにあります。

穿 高倉下之倉頂

私がパソコンで返り点を打つ方法を知らないので開けていますが諸本参照してください。

解読しますと、「高倉の下の倉の頂を穿つ」と、なるはずです。

人の名などではなく、高倉とは、出雲大社の前身である高層神殿を語っています。

波野スフィンクスのふもとにある高倉(高層神殿)の下(地面を意味)が

高倉の下の倉です。下の倉は地下ですから、その頂とは地表になります。


地表を穿つ、つまり、掘れという意味です。

そこの地下十数メートル地下水脈帯にエジプトの太陽の船と同じように埋納船が埋めてあるはずです。

埋納船は綺麗な地下水によって守られています。現に、井戸掘りボーリングの時に木片が上がっています。



こうした諸々の事情をごちゃまぜにして熊の村の物語が編んであります。

次のページで吉野川を研究してみます。




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