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吉野川・贄持の子
〜そのヤタガラスの後より幸行けば、吉野河(吉の川)の河尻に到る時、〜
古事記では熊の村の物語の後、ヤタガラスの先導によって吉野川の河尻(河口)に到ります。
その吉野川の所在を明確にして、それから諸々の内容に進もうと思います。
吉野川に関して、天保年間(1830〜1844)に編纂された防長風土注進案
嶋田村の条には以下のように記してあります。
舊跡の事 吉祥寺古跡 大田村にあり(嶋田村の内の小名)
右は十二社権現(光市熊野神社)別當十二坊の内大坊にてありし由、兵乱によって
摧頽天正の頃断絶といふも年号詳らかならず、今その寺跡の地名を寺河内といふ。
一株の森あって其の下に仏具杯埋め置きしならん。動ハ仏像怪器など掘り出し候。
鐘突き堂仁王門跡有りし、一の門有りし所に大なる石仏ありて梵字三つ彫り明徳二年辛未六月と有りし。
吉祥寺衆徒の輩は吉の字を定紋とするよし、妻帯宗と相見え候。
宗徒の内幸助といへる者の家に釣鐘残り居候ところ、延宝天和の頃三井村○○喜左衛門の貫請、
三井の氏神、鴨社に寄進せしよし銘に貞治貳年と有りし。北朝の年号と相見え申し候。
龍頭異形にして小さき穴抜け通り軍陣に用ひし物ならんと思し此邊神社へ釣鐘を置く事これより初るといふ。
十二坊の内末山の地名今顯然たるは田代利庵法性坊尾崎岩崎なといふ所あり。餘は知れず。
この由来で特に重要な記述が「 吉の字を定紋 」の部分です。
吉は「きち」と読むのだろうと思います。そうすると、古事記の吉野河の読み方は
「熊の村」と同じことであり、「吉の河」(きちのかわ)と解読すれば由来や古事記の記述と合います。
吉の河がどの川を語っているのかは、今の島田川になります。
島田川 三井の辺りから上流方向を見た写真です。
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古事記の記述は、吉の河の河口で魚を捕っている人に会います。
その人の名を「贄持の子」と言います。この名の読み方は「煮え餅の子」と読むのだろうと思います。
というのも、島田川の河口は虹ヶ浜と隣接しており、砂浜ですが、その砂浜の西端には餅を置いたような
丘がありまして、その丘には、かって古墳がありました。今は国道188号線の拡幅工事によって
消失してしまいましたが、その丘(古墳)こそ「贄持の子」の陵墓だったのではと確信するのです。
広角撮影。 河口の末端部になります。
砂州のこちら側が島田川河口、砂州の向こう側が瀬戸内海です。
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肉眼だと、このぐらいで見えます。
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丘は虹ヶ浜の西端部に位置しています。
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島田川河口から上流方向を見た写真です。
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次に、説明する順が前後しますが、ヤタガラスとは人質にとられた子供たちを意味しています。
ヤタは長さ(身長)を意味しているとして、なぜカラスなのかは、着ている衣服にあります。
古代の熱気球は、バルーンに太陽光線の温度を吸収させるため黒色だったようです。そうした内容は
こちらのページ(内部リンク)で説明しています。つまり、バルーンを縫製する時の余り布で子供たちの
衣服を作っていた、としたら、ヤタガラスは人質にとられた子供たちであることを意味していることになります。
さらに、子供たちであることを現代に伝えているものとして、「島田人形浄瑠璃」があります。
人形浄瑠璃とは、人形芝居のことです。島田に伝わる由来は室町時代に疫病が流行したので
人形浄瑠璃を祇園社に奉納して祈願した、とあります。
旧暦六月十五日に満月の下で夜を徹して祇園社に奉納していたそうです。
室町時代には存在していたということは、随分古い由緒を持っています。
その祭事は天保時代の防長風土注進案にも記してありまして、
六月十五日は祇園祭とて(中略)中古より祇園社の境内において、一両夜宛、操り狂言仕来申し候事。
とあります。狂言がその人形浄瑠璃のことです。その人形浄瑠璃こそ、
侵攻の犠牲になった子供たちの霊を慰めるための祭事でありましょう。
由来の祇園社というのは、光市熊野神社の社殿に向かって左側に鎮座してあります。
今は松浦神社と呼ばれています。
多くの神社がそうですが、勧請年と、創建年(起源年)とは別物です。
現代は一応、勧請年を創建年としていますが、
もともと在った神社に新しい神霊を迎えてその年を創建年としたのでしょう。
そうした立証は、方位線を分析することによって明確になります。
つまり、創建された年代はわからないぐらい太古にさかのぼります。
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