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初代岩戸・呉麓山
(くれろくさん)


呉麓山は、からと水道の西側にある山です。

からと水道跡の柳井市新庄の辺りから見ますと、

270度の方向にあり、丁度真西になります(下写真)。





呉麓山の読み方(呼び名)は人によって様々な読み方をされており、特にこれといった

確証になるものがありませんでした。そうしてあれこれ調べていきますと、呉麓山の東側

に位置する川西(かわにし)地区の風土記に「暮六」と記してあります。「くれろく」です。





呉麓山は、山の東西どちらから見ても動物が伏せている形をしています。

上の写真は山の西側から見た呉麓山です。

これは南向きの熊か、はたまた耳の無い兎か、どちらにも見えます。





こんどは山の東側に回りまして、田布施町宿井(しゅくい)から見た呉麓山です。

山の陰影が濃くなると、犬が北向きで伏せている形に見えます。

こうしたどちら方向から見ても動物に見える造形は近隣の山も共通しています。

だから山跡(やまと)なのです。




以下、2012年4月に登山した時の写真です。






呉麓山の頂上です。

ふもとから見た熊(犬)の頭のてっぺんになります。

十数年前ここに登った時、視界はほぼ360度の絶景でした。

今は植林されたヒノキが成長して、南側しか見えなくなりました。

山頂周辺のヒノキだけでも伐採し、見晴らしを良くすれば観光資源になると思うのですが。

 この頂上はクロス十字の西側が無いT字形になっていて、

 T字形の各尾根は正確に東南北を指しています。

なお、西側は谷になっています。










円形コンパスで計った方位です。

 山頂の広さ 大幅歩きで東西に10歩、南北に15歩。

 東・南・北に人工的に削り取って形にしたと思われる出っ張り(尾根)がある。

 出っ張り部分は相当に浸食されている。

 出っ張りの方位は東南北に正確。西側は深い谷になっており、無い。

 からと水道のほぼ全域を見渡せる。

 馬島より西側は千坊の峰が横に広がっているため海は見えない。

 光市の虹ヶ浜の辺りがよく見える。

 北の少し西寄りに岩戸八幡宮。

 東北東に石城山。

 東丁度に赤子山(阿児山)。

 西丁度に笠戸島。

 北北東に三輪神社。

 南東に大星山。











岩戸八幡宮

岩戸八幡宮は、JR山陽本線「岩田駅」の南側約1キロ程度の所にあります。

呉麓山から見ると北北西の位置にあります。











防長風土注進案 岩田村風土記より引用。

当村は美和庄の内にて岩田村と唱え候ことそのわけ詳らかなる事は相知れ申さず候得共、

当村岩戸御立山の内に高さ六尺五六寸幅四尺三四寸厚さ壱尺余りにて建屏の様なる石御座候。

是を天の岩戸石と申し伝へ、よりて岩戸村と名付けしをタチツテトの五韻相通ずを以って岩田と

言習はせしならんか、岩戸八幡宮をも岩田八幡宮と唱へ来たり候。彼是岩戸村を岩田村と轉じたるにて

可有り御座と相考え被り候。前ことわりし岩戸石の下に金の鶏埋めありて大三十日夜只一声啼く、

是を聞く者は富貴を得ると申し伝へ候得共聞きたる者も無く御座故、詳らかならず候。





由来にある岩戸石です。





うしろの木は早く伐ってしまわないと石を割ってしまう恐れがあります。

近隣の遺跡と照らし合わしますと、木は無くとも立っているはずです。

そもそも以前は杉の木でした。杉が枯れて写真の木が生えたのです。





本殿に戻りまして。

この神社は古墳の跡地に建っているのではないかと思います。

そうしたことを検証してみました。以下、内部リンクです。

石押分の子の陵墓跡の研究     岩戸八幡宮方位線分析





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冠念寺





冠念寺の拝礼している所(背後方向)は岩戸八幡宮です。

地上絵ではここが鳥のくわえている実(果実)に相当します。

ここら辺りの地名を溝呂井(みぞろい)と申しまして、

防長風土注進案にもその地名で記してありますので、

地上絵は太古からあったことの証明です。
















岩田村風土記の風俗の段には、祭事の時に大勢の子供が登場します。

子供という部分が大事なのですが、先の川西妙見宮にも地蔵さまを背負って登るという

祭事があったようです。戦乱として見ますと、人質としての子供ということになります。

人質としてとられた経験から、戦乱になると真っ先に子供たちを疎開させたのでしょう。

子供たちを引率して逃げた女性は万葉歌にも登場していますが、涙無くしては読めません。

それらの女性は、やがてのちに女神として祀られることになります。





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