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造山古墳
(国指定史跡)

所在地 岡山県岡山市北区新庄下

N 34度40分26.6
E 133度48分15.1
位置精度 +- 3m
後円部上で計測


現地写真撮影 2015-2/18



山陽自動車の倉敷インターをおりて、国道429号線を北上します。

約十数キロ走ったら「国分寺西」という交差点を右折します。

その県道270号線を少し走ると県道に造山古墳の案内板があります。

そこを入って行けば、山のような巨大な古墳ですからすぐにわかります。

上の写真は遺跡専用の駐車場です。広いので安心して見学できます。

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前方部から後円部を見た写真です。

右向こうの山の稜線は北東から東の方向になり、日の出方向です。

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歩いている人と比較してみますと、いかに巨大な前方部であるかわかります。

この撮影地点から前方部の指している方向を計測したところ、南西(215度)になりました。

この南西方位は、近隣の楯築弥生墳丘墓や、作山古墳と同じです。

同じ方位であることは、この古墳の築造年代を特定する上で極めて重要なことです(後述)。

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後円部の頂上です。

向こうの人と比較してみますと、いかに広いかわかります。学校のグラウンドほどの広さがあります。

この後円部の頂上は戦国時代に毛利が城を築いています。

当然のごとく造成していますから、古墳本来の墳頂ではないはずです。

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後円部の頂上縁から南の方向を見たもの。

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後円部の頂上脇にある築城した時の造成跡

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後円部の頂上にて。画面中央が東北東の方向。

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後円部の頂上からふもとを見たもの。いかに巨大な古墳か実感します。

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前方部の先端にある荒神社。

前方部の先端が丘状に盛り上がった所に荒神社があります。

この前方部の先端が丘状に盛り上がった形は、隣りの作山古墳と同じ造りです。

そのことは極めて重要であり、この古墳の築造年代をも決定します(後述)。




荒神社。

社殿の拝礼方位は305度であり、社殿の左右方向が古墳の主軸線と合致しており、

この神社は古墳と一体です。つまり、この神社の創建は古墳と一緒に造られています。

そこを証明すれば、隣りの作山古墳も同じ構成ですから、前方部の盛り上がりは、

築造当初から丘状に盛り上げる設計で造られています。そしてその丘は祭祀場だったようです(後述)。

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石棺




荒神社の境内にある九州産の石材を用いた石棺。

他所の古墳から持って来たなど、この石棺は様々な説があるようです。江戸時代にはここにあったということはわかっています。

後円部を発掘してみればすぐにわかるのですが、なぜか未発掘です。これが後円部に埋葬してあった本当の石棺でしょう。

築城の造成の時に出土したので荒神社におろして納めた、と考えるのが自然です。

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石を曳くために削り残してあった取っ手を取り除いた痕跡が前後にあります。


こうした重量物の運搬によく言う車輪やコロなどを使いますと、先に地面を舗装しておかないと車輪やコロが

地面に埋まり込んでしまいますから、舗装の無かった古代には車輪の使用は実用的ではありません。


こういう重量のある大きな石などを曳く時には、先ず自山に深めの溝を掘りまして、その溝に滑り易い

竹などを縦に何重にも敷き詰めます。その竹の上に運ぶ石を置いて、竹の上を滑らせながら運搬します。


ためしに竹の上で一抱えの石を滑らせてみるとよくわかります。石に少しの慣性を与えるだけで

重かった石がツーッと竹の上を滑っていきます。石を曳く力はほとんど必要としません。


溝を掘っておく意味は、曳く石が横方向にズレないようにするためです。

曳く石を溝の中に落とし込んで曳けば、溝の通りに動いてくれます。


たぶん、牛をろくろにかけて曳き上げたと思います。そうした作業は古墳の形に造成する前の

本来の山の時にやっておきます。古墳造成前なら、石を曳き上げる傾斜はなだらかだったことでしょう。













石材のX線回析像による産地の特定。


この石棺に使われている石材は、安山岩質阿蘇熔結凝灰岩と言いまして、九州産です。

研究資料には、近隣に良い石材の採れる場所がありながら、なぜ遠方の石材なのかと

疑問を掛け、当時の勢力圏などの考察もありました。遠方産のナゾは、石材の産出地を特定

することによっておよそ見えて来ます。私の手元資料に、1974年に実施された岩石の

X線回析像があります。その回析像を比較してみますと、この造山古墳に置いてある石棺は、

大分県臼杵市熊崎で産出する石材のX線回析像とピタリ一致します(下写真図)。


臼杵と言えば、言うまでもなく臼杵磨崖仏で知られています。石仏ですから仏教集団です。

仏教はインド本国から我が国に直接早くに入っていたことは、コンピラの大物主伝説でも

明らかになります。そうすると、仏教集団が財源確保のため石工物を作って売り歩いていた、

という推察が成り立ちます。たとえば、現代で考えてみましても、墓地の隣りに良質な石の

採れる石切り場があったとしても、その石を使うとは限りません。今も昔も同じことです。


石材加工のエキスパートがいて、完成品の需要をとって歩くエキスパート、完成品を運搬する

エキスパート、さらにそれを設置するエキスパート、それらの集合体が全国各地の墳墓に設置

して歩いていたと考えられます。臼杵近隣には横穴群が数知れず存在しています。

神々は洞窟から現れたという、洞窟そのものを神とする洞窟信仰の痕跡ですが、その岩山に

掘られた洞窟を見ても、石棺を作る技術はすでに備わっていたと見ていいでしょう。


やがて、それらのエキスパート達は集合体から独立して、

全国各地の良質な石材の採れる所へ独立店を構えます。




石材のX線回析像図

熊崎という所は臼杵湾に面していて、すぐ近くは速吸の瀬戸であり、そこにも高島があります。

臼杵川から臼杵湾へ、やがて瀬戸内海へと石材を船で搬出するのには好都合な位置です。





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前方部にある丘状の盛り上がりについて。








造山古墳には前方部の先端に丘状の盛り上がりがあります。

隣りの作山古墳にも同じ築造がしてあり、この地域にしか見られない形状です。

この形状は、この古墳が築造された年代を決定するのに重要な役割をしています。






このホームページの冒頭で、前方後円墳の基となったのは室津半島であると説きました。






室津半島を、もう一度見てみますと、後円部が皇座山であり、頂上には古来より「常香盤」

と呼ばれてきた石畳の広場があります。そこは古代の自然葬の場所になっていました。

だから前方後円墳も後円部に埋葬します。では、前方部の丘状の盛り上がりは何を意味

しているかと考えますと、室津半島の前方部には大星山があります。そこは古事記では

天孫降臨の段に登場します。 「ここは辛国(塩を意味)に向かい、笠沙の御前を真来通りて、

朝日のたださす国、夕日の日照る国なり。故、ここはいとよきところ。」 と語られた所が

大星山です。その古事記の一節は神社のことをも語っており、大星山頂上には初代の

熊毛神社があったことは別章でも証明した通りです。大星山の頂上に立ちますと、

前方後円墳の後円部に相当する皇座山がよく見えます。大星山から皇座山へ向いて

祭祀をすることも可能です。また、大星山の箕山には「神武さぁ」と呼ばれている神社

今もあることは、大星山は祭祀場としての機能をも負わされていたと考えられます。


それをこの造山古墳に当てはめますと、ピタリと一致します。造山・作山古墳の前方部の

盛り上がりは、室津半島の大星山を意味していることになります。盛り上がりは祭祀場として

存在していたのでしょう。その一致が意味するところは、造山・作山古墳は前方後円墳の

初期の体裁を有していることです。楯築弥生墳丘墓と主軸線の方位が同じということも

築造年代の決定に大きな影響を及ぼさなくてはなりません。

出土品は、その出土物を置いた時であり、築造年代は決定できないはずです。


現代の解釈は、あくまでも近畿を中心としての広がりとしてありますが、その論考は、

現代の繁栄が大きく左右しています。古代には、荒れ野や湿地帯が大部分を占め、

その一角に一つの国があった。そこへ初代ヤマトの人々は移住して行ったのです。

だから山などは初代の山容とそっくりです。


こうした事実を見ますと、現代の説は逆である、ということになり、前方後円墳は岡山から

近畿へと移動して行ったのです。そして近畿に到達した頃には前方部の盛り上がりの意味

は忘れ去られ、盛り上がりを省いた精悍な前方後円墳のデザインになったのでしょう。

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造山古墳・方位分析

N 34度40分26.6
E 133度48分15.1
位置精度 +- 3m
後円部上で計測

主軸線・前方部方位 215度




主軸線・前方部方向




古墳の前方部が指している方位線です。

青ラインが作山古墳、赤ラインが造山古墳です。

造山古墳は高梁川の河口を指しています。これは光市島田川河口と同じ戦法です。

作山古墳は笠岡市の神島を指しています。その神島のすぐ隣には高島があります。

この両古墳は神武東征(侵攻)と密接な関連性を持っており、侵攻ルートを指し示しています。

第一波は高島をベース基地にして、高梁川をさかのぼって鬼城山へ攻め込んだようです。

または、福山の吉備津神社があることを思うと、高島から井原市へ上がって現在の

国道486号線(旧山陽道)を東進して鬼城山へ攻め込んだ可能性もあります。

何回かに分けて攻撃したのでしょう。


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石鎚神社本社 愛媛県西条市西田甲   主祭神 石鎚毘古命

伝説では崇神天皇35年(紀元前63年)創建。

役小角が開山したという伝説(後述)が造山古墳に関係していることを物語っています。


上黒岩岩陰遺跡  愛媛県久万高原町(発見された当時は美川村)

高さ30mの石灰岩の岩陰にあるのでそう呼ばれています。

縄文遺跡で、1万2千年前の土器や、石に女性(女神)を刻んだ線刻礫などが出土しています。

特筆は、投槍(なげやり)の刺さった女性の腰骨です。再調査によると、経産婦の腰骨で、

槍(やり)は腰骨を貫通して直腸に達していた、同様の傷が他にもある、ということです。


私の個人的直感として、山口県の土井ヶ浜遺跡と内容がよく似ています。

もし、この遺跡が記録的な意味合いを持っているとすると、原始時代から続く祭祀場を

使って記録性を持たせた、ということになってくるのです。 なお、この遺跡は、

人々がそこで生活していたというよりも、神社起源前の祭祀場的な遺跡だと思います。

そうでないと、人を埋葬したその場所で生活したとは考え難いのです。

この遺跡は山口県の三輪神社(祭神・大物主神)も指しているので、

古事記を見ましても神武天皇に大いに関係性があると思います。


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愛媛県宇和島市です。


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木崎浜  宮崎県宮崎市大字熊野

木崎浜は青島がある所です。2〜3キロに渡る長い海浜です。

そこは加江田川の河口でもあります。

木崎という名称は、山口県上関の長島にも同じ名で木崎という人形の岬があります。



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主軸線は図のように串間市を通って大隅半島へ到ります。


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主軸線・後円部方向




後円部方向は寺院が主体になっています。

最上稲荷 岡山県岡山市北区高松稲荷

最上稲荷の正式名称は「最上稲荷山 妙教寺」といい、日蓮宗の寺院が発端です。

所在地が高松地区であることにより、高松稲荷と呼ばれることもあります。

本尊は「最上位経王大菩薩」、その絵像を見ますと、稲荷の祭神ウカノミタマであり女神です。




小山(香山)頂上にある徳吉稲荷蔵のウカノミタマ(女神)の神像(木彫)。
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さて次も寺院です。

本山寺 岡山県久米郡美咲町定宗

天台宗岩間山本山寺といいます。本尊は観音菩薩です。

江戸時代建造の三重塔があり、国重要文化財に指定されています。

特筆は開山が役小角(えんのおづぬ)だということ。


前方部方向の愛媛県の石鎚神社も開山は役小角でした。

ということは、造山古墳主軸線の前後には役小角がいることになります。

別章でも採りあげましたが、役小角の正式名称を神変大菩薩と申します。

半男半女で描かれることがほとんどで、まあ、一言で言うと気味の悪い像です。

役小角の生没年についてはナゾが多く、各地の伝説などを基にして推測しているのが現状です。

役小角についての考察は、こちらのページで採りあげていますのでご覧ください(内部リンク)。




波野行者山(波野スフィンクス)頂上に祀ってある役小角の木像。
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小行司行者山頂上に祀ってある役小角の石像。


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真言宗 亀居山 大乗寺(応挙寺とも) 兵庫県美方郡香美町香住区森

円山応挙という画家が描いた襖絵などがあるので応挙寺とも呼ばれています。

特筆は、客殿にある立体曼荼羅を表わす障壁画空間です。

十一面観世音菩薩を中心に安置して、東西南北と十文字形式です。

ちなみにその配置は以下のようになっています。

東 持国天 (生産・経済)

西 広目天 (芸術・文化)

南 増長天 (政治)    

北 多聞天 (生命・医薬)


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造山古墳の前方部先端は丘になっていて、そこに荒神社が祀ってあります。

その荒神社の方位は造山古墳の主軸線に対してほぼ直角方位になっています。

そのことは、荒神社と古墳は一体であるという古代からの訴えです。つまり、

主軸線方向を検証したら左右方向も検証しなさいということに他なりません。

造山古墳・主軸線方位 215度

荒神社・拝礼方位 305度




荒神社の拝礼方向




造山古墳と荒神社の十文字方位の関係はわかったと思います。

荒神社の拝礼方向は雲南市や奥出雲になっています。

そこら周辺は砂鉄を溶かして鉄製品にする「たたら製鉄」のメッカです。

付箋で指している所には菅谷たたらがあります。

たたら製鉄の作業場を「高殿」といい、屋根が高いのが特徴です。


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荒神社の前面方向




赤ライン 荒神社・前面方位線

青ライン 作山古墳・左手方位線

黄ライン 高嶋神社・前面方位線

この児島湾には高嶋神社が二社ありまして、一社は高島に、もう一社は対岸の宮浦にあります。

黄ラインは、島にある高嶋神社です。ご覧のように、それぞれのラインは児島半島が主体です。


岡山の児島というのは、この児島半島の北岸一帯を言いまして、地名を挙げると今の

南区、北浦、宮浦、飽浦、が古来よりの児島です。しかし現在は、通常、児島というと

倉敷の児島をいうため、岡山では児島の名で呼ばれることはほとんどありません。


さて、この児島半島の主峰は金甲山(403.39m)です。その名の由来は、坂上田村麻呂が

由加山の鬼退治に向かう際に戦勝を祈願して金の甲を山中に埋めたという伝説から来ています。

由加山というのが不明なのですが、もしそれを鬼城山とするなら、温羅伝説と絡んで来ます。


さらに、この金甲山は別名を「神の峰(こうのみね)」とも呼ばれており、かっては磐座や祠が

あったそうです。そうした事実を総合的に見まして、神武東征の鬼城山侵攻派と、児島湾侵攻派

二つの分派の内、児島湾侵攻派はこの児島半島をベース基地にして吉備(岡山市)へ攻め込んだと考えられます。

おそらく、狼煙(のろし)で鬼城山と交信して南北に挟み撃ちしたのでしょう。湾内の高島は前線基地だったのです。


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方位線は徳島県鳴門市鳴門町高島です。

徳島県の高島は、元々は高島山という山の名から来ており、三つの島が砂州で繋がって

西部が竹島、東部が中島で、中央部に高島山があったようです。その竹島という名は、

児島湾の高島も竹島と呼ばれていたようです。どちらにしても同じ名です。

ここも神武侵攻地だったとするなら、近くにある矢野遺跡の解明に繋がります。


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和歌山県御坊市の竪田遺跡を指しています。

弥生時代前期の環濠集落で、ヤリガンナの鋳型や銅を溶かした遺構が発掘されています。


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方位線は紀伊大島を指しています。


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以上の分析結果を見まして、主軸線の前後に役小角が祀ってあることをどうとらえるか、

という事が重要になってきます。造山古墳の訴えているところは「神武東征の吉備の段」と

密接に関連していることは間違いなさそうです。





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