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こうもり塚古墳
(国指定史跡)
所在地 岡山県総社市上林
N 34度40分01.8
E 133度47分08.9
位置精度 +- 3m
後円部上にて計測
写真撮影 2015-4/22
こうもり塚古墳遠景。
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こうもり塚古墳へ行くには、県道270号線沿いの備中国分寺の所にある「吉備もてなしの館」の
駐車場へ車をとめればいいです。上写真、左右に通っているのが270号線です。
吉備もてなしの館(黒い建物)の裏側(向こう側)に広い駐車場があります。
左側に見えている資料館は、私は入ってはいないのですが、酒造り資料館とか?
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もてなしの館へ車をとめて、備中国分寺の方へ歩いて行きます。
国分寺の前で東の方(国分寺に向かって右手方向)へ歩いて行きます。
道の分枝点に立ててある石柱をよく見て進めば、国分寺の東側、約数百m
の所に見える森がこうもり塚古墳です。(道の分枝点には石柱があります。)
こうもり塚古墳全景。
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開口部の正面参道です。画面真ん中の黒い所が開口部。
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この参道(墓道)の下も発掘調査されており、下の図のようにU字形の溝があったそうです。
発掘記録を読みますと、およそ上写真の縁石の幅でU字形に彫り込んだ溝があったようです。
重い石棺を引き込むための溝であり、造山古墳のページで推察したことが明瞭に出ています。
資料図 岡山県教育委員会発行 備中こうもり塚古墳より引用
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この墓道に積もった最下層の土から年代決定に結び付いた須恵器が出土します。
下図の緑色の点で示した部分です。須恵器の器種は、杯1、高坏1、提瓶2、です。
それらが小範囲に一括しておしつぶされた状況で検出されたようです。
いずれも6世紀後期の須恵器だったようです。
資料図 岡山県教育委員会発行 備中こうもり塚古墳より引用
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ここからは私の考えですが、以上の事を見て、
墓道のU字溝は古墳が完成した後も残してあった、という事にならないでしょうか?
出土した須恵器の位置から見て、埋葬された後に、その須恵器が出土した入り口付近で
6世紀後期に祭祀をしていたと考えると、その頃にはすでに開口していた、ということになります。
そうすると問題になるのが、なぜU字溝を埋め戻さないで残していたのか、という事です。
U字溝を残していれば開口部はわかってしまいますから、U字溝を残していたという事は、
開口部は封をしてなくて、今と同じような状況だったという事になってくるのです。
そう考えると、天井石に巨石を使っている訳がわかってきます。見えない物ならこれほどの巨石を
使う必要はないですから。見えるからこそ威厳を示すために巨石を使ったと考えられるのです
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六世紀後半に築造されたというのは、たぶん出土品などを基にしているのだろうと思います。
私が見た限りでは、隣りの作山・造山古墳とほぼ同年代であるという結論に至りました(後述)。
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県下屈指の巨石が使ってあります。
この古墳は本来「黒媛塚」と呼ばれていたのを、こうもりが沢山
住みついていたので「こうもり塚」と呼ばれるようになります。
黒媛(くろひめ)とは、仁徳天皇の后でもあった人です。
古事記によると、石の姫皇后の妬みに遭って吉備へ追い返されたことになっています。
それは物語上の上辺であり、実際には初代の地の戦乱を逃れて子供たちを引率して
吉備へ逃れた人です。そうした事情は歌でわかります。黒は苦労をも意味しています。
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不思議に思うことに、開口部から約1mぐらい下がっています。
こういう造り方をすると水が溜まるんです。
石積みの隙間から排水するように考えてあるのかなとも思います。
なぜ下がっているかは、石棺を安置する時の工法によるものです。
最初に古墳の側壁だけ造って、天井石はまだ置かずに、画面の位置から
スロープ(傾斜)をつけておきます。そして埋葬時に石棺の蓋をしたうえで
スロープを滑り下ろします。側壁の上から吊って石棺を平坦に安置します。
そしてスロープを取り除いて天井石などを置く、という工法になります。
墳墓を先に造っておいて、後で石棺を入れるなどということは
石棺の重量と、この狭さを考え合わせて見ても不可能です。
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蓋だけでも数トンはありそうです。
盗掘時に石棺の重い蓋をどけることができないため、蓋を割っています。
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後円部脇から前方部を見た写真です。
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前方部です。向こう(右方向)が前方部の先端になります。
よく見ますと、前方部の先端が丘になっています。
これは隣りの作山・造山古墳と同じ造り方です。
なぜ丘になっているのかは、造山古墳のページで説明しました。
そうすると、この古墳は前方後円墳でも初期型であることになります。
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画面右側の盛り上がりが前方部の先端です。
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後円部の丘。右手が前方部方向。
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後円部の頂上から前方部の方向を見たもの
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前方部の付け根から先端方向を見たもの。
緑色の草が見えている範囲が前方部の幅です。
画面左側に池があります。
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こうもり塚古墳・方位分析
N 34度40分01.8
E 133度47分08.9
位置精度 +- 3m
後円部の上にて計測
前方部方向主軸線方位 50度
前方部方向主軸線
方位線に近接して兵庫県養父市の養父神社があります。
養父神社は式内社であり、大巳貴命を祀ってあります。
農業・米作りの神です。
続く大宮売神社も式内社です。
大宮売神社の祭神は「大宮売神(オオミヤメノカミ)」と、「若宮売神(ワカミヤメノカミ)」
この神は織物と酒造の神であり、どちらも女神です。酒造と言いますと、養父神社の祭神
「大巳貴命」は、「オオアナムチノミコト」と読んでいますが、「オオミキノミコト」とも読めます。
ミキ、つまり御神酒です。古事記の応神天皇の段にある酒造の歌が連想されます。
その歌の場面ひとつを採っても古事記が紀伝体であることがわかるのですが、それはさて置き 。^^。
大宮売神社から約二キロぐらいの所に大谷古墳と呼ばれている帆立貝式の前方後円墳があります。
出土した遺骨から埋葬されていた被葬者は四十代の女性であることがわかっています。
その古墳は残念ながら工業団地造成の犠牲になり、残存しておらず、今は別の場所に移築されています。
大事な事は、方位線を出しているこうもり塚古墳も元は「黒媛塚」と呼ばれて女性の陵墓だったことです。
その黒媛塚が京丹後の女王が眠る大谷古墳の方へ向いていますから、女王同士の繋がりがあったのでしょう。
女王同士の繋がりを端直に表わしている物に元伊勢があります。丹後半島の南側には今でも元伊勢と呼ばれて
いる神社が複数あります。吉備から見て夏至の日の出方向になります。
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後円部方向主軸線
鉛筆で指している笠岡市の西大島という所に津雲貝塚という縄文時代終末期の貝塚があります。
そこからは約170体もの人骨が出土しています。170体はあまりにも数が多いです。
そのすぐ沖には神武東征の高島があることから、侵攻の犠牲になった人々と考えることができます。
しかし不信に思うのが、貝塚というのはゴミ捨て場なんですね。いくら古代人とはいえ、亡くなった人をゴミ捨て場に
放り込むということはしないはずです。・・・ということは、敵方の手によって埋葬されたとも考えられます。
幼児などは甕の口を欠き割ってそれに詰めて別の土器で蓋をして埋めてあったそうです。普通ではないです。
こうもり塚古墳の後円部方向主軸線はそこを指し示しています。
広島県福山市沼隈町にある阿伏兎観音は国指定重要文化財です。
鞆の浦からほど近い岬の突端に建ち、創建は相当に古い寺院です。
毛利輝元は再建です。
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愛媛県今治市です。
江口貝塚・愛媛県今治市波方町馬刀潟字江口にあり、縄文時代から弥生時代にかけて続いた遺跡です。
妙見山古墳・今治市大西町にあり、四世紀に造られた前方後円墳。大型の物が一基と小型の物が二基あります。
加茂神社・今治市菊間町浜にあり、祭りの「お供馬の走り込み」は少年(子供)が馬に乗って疾走します。
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亀塚古墳・大分県大分市里にある前方後円墳で、全長116メートルは大分県一の規模です。
亀塚古墳の近くに小亀塚古墳というのがあり、前の愛媛県の妙見山古墳と似通ったところがあります。
善光寺磨崖仏・大分県豊後大野市朝地町上尾塚にあります。
日本最大の磨崖仏で、大小が五体一組になっています。
鎌倉時代の作と言われていますが、私の個人的史観で見ますと、もっと昔です。
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脇本古墳群・鹿児島県阿久根市脇本字新田ヶ丘、及び、糸割淵。
新田ヶ丘丘陵に四基、糸割淵丘陵に二基、合計六基の古墳があります。
同一丘陵上に三形態の埋葬施設があるのが特徴です。それらを分別しますと、
横穴式石室墓、組合式箱式石棺墓、地下式板石積石室墓、の三種類となっています。
甑大明神・「こしき」と読みます。こしきとは「せいろ」のことです。
海岸にある巨大な岩が「こしき(せいろ)」に似ているのでそう呼ばれています。
「こしき」とは、米などを蒸すのに用いる器です。今調べているこうもり塚古墳の前方部に
米作りの神と酒造の神がありました。そうすると、これは連係していることになります。
甑に似た巨大な岩が御神体になっています。また、甑に連係して、下甑島には「ナポレオン岩」
と呼ばれる人の顔をした巨大な岩山があります。赤矢印の所です。すべては連係しています。
ナポレオン岩とよく似た物に、山口県の高水の夫婦岩や、上関町蒲井の木崎という岬があります。
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前方部方向に向かって左手方向
出雲国一之宮・熊野大社 島根県松江市八雲町熊野
和歌山県の熊野本宮とは祭神が異なり、古来より出雲国一之宮・熊野大社の名です。
出雲大社の祭事で使う火は、この熊野大社からおこします。
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以上、こうもり塚古墳(黒媛塚)の方位線を分析してみた結論としまして。
重要な事として、前方部の指している方位は6月の日の出方向です。
つまり、こうもり塚古墳の前方部は夏至の日の出方向へ向いています。
また、こうもり塚古墳は、隣りに位置する作山古墳や造山古墳のほぼ中間地点にあるのが特徴です。
主軸線の方位はそれぞれの古墳共にほぼ共通していますが、向いている
(指している)方向が下図のように、こうもり塚古墳に対して真反対になっており、そのことは
作山・造山古墳の前方部は冬至の日の入りへ向いています。夏至と冬至です。
さらに、夏至の日の出と冬至の日の入りの両方を指しているのが楯築弥生墳丘墓であることになります。
特筆として、これらの四基の古墳から南北に縦線を引きまして、その線の
距離を測りますと、 楯築弥生墳丘墓が約五百メートル多いですが、他の三基はピタリと
等間隔に並んでいます。その事は、最初から意識して築造していることになります。
作山・こうもり塚・造山の三基はほとんど同年代の築造と見ていいと思います。
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