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石押分の子の陵墓跡の研究
岩戸八幡宮を石押分の子の陵墓跡地として検証します。
以下の写真はすべて2013年撮影です。今も特に変化はありません。
かっての墳丘をわずかに残した造りです。
黄色線の辺りが丘の頂上部です。
天明三年(1783)建立の鳥居。
岩戸八幡宮境内には4本の鳥居がありまして、これが最古の鳥居です。
この道を向こうに行くと通称大日さまと呼ばれている冠念寺に通じています。
地上絵では、ここが鳥のくちばしに相当します。
この掘り割りの向こう側は下り斜面になっています。
わざわざ掘り割りにしなくとも、通常なら丘の上から整地していきますから、こういう形にはなりません。
丘の上の土を整地して広げ、社殿を建立します。だから境内は平地になっているのが一般的です。
掘り割りにして残していることを見ますと、この小丘の本来は陵墓(古墳)であって、古墳であったことを
後世に知らすため、わざわざ墳丘の端を残す掘り割り工法を用いている、と私は見ました。
平生町佐賀の白鳥古墳と同じです。
そうしますと、境内の端っこの辺りで弥生時代の祭祀土器が多数出土している事実とも合致します。
本殿左側にある掘り割り土手はこの神庫の所で
境内と同じ高さまでゆるやかに下降しています。
周防の地が神武遠征のすべてに関連していることをみましても、
物語に登場する石押分の子の陵墓であると推察できます。
多くの陵墓がそうであるように、ここも人々の移住が落ち着いて、改葬されたのでしょう。
しかし、陵墓の主(神霊)が一緒に移ってくれたかどうかは我々人間にはわかりません。
本来の陵墓跡を残し、覚えておくためにも古墳の跡地に神社を建てて
末永く敬って来たと推察できます。
では、改葬はどこにされたのか、また石押分の子はどういう人物だったのか、
ということは、物語の二重性を分析し、さらにはこの神社の方位線が
指し示している地点を分析すればほぼ明確にできるのではないでしょうか?
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