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井氷鹿(ゐひか)


 その地より幸行けば、尾ある人、井より出来る。その井に光あり。
「汝は誰か」と問うに、「吾は国つ神。名を井氷鹿(ゐひか)と謂ふ」と答へ申す。



井戸の光は、光市光井の冠天満宮が大意を占めていますが、冠天満宮を説明する前に

熊の村のページで説明した光市熊野神社の拝礼方位線から先に見ておきたいと思います。

下の図は光市熊野神社の拝礼方位線です。




光市熊野神社の拝礼方位線は玖珂鉱山跡を指しています。


ここで大事なことは、玖珂鉱山は灰重石(タングステン鉱石)を採取していた鉱山です。

方位線は偶然の一致だと思われるかもしれませんが、JR島田駅の近くに島田多賀神社

というのがありまして、その神社が指し示している所は二鹿鉱山(喜和田鉱山)です。

二鹿鉱山もまたタングステン鉱石を採取する鉱山として世界トップクラスの鉱床を持っていました。

つまり、島田川沿いには二社の神社がタングステン鉱山を指し示していて、無視できないものがあります。



灰重石(タングステン鉱石)というのは、紫外線を照射すると、灰重石が綺麗に発光します。

暗い坑道の中で紫外線をあてると、灰重石がまるで天の川のように光り輝いて発光します。

そのことから光る石とも呼ばれています。




灰重石(タングステン鉱石)

石の真ん中に金色に光っている部分がタングステン鉱石です。

石英(白い部分)の周りに付属しているのが特徴です。





光市熊野神社の拝礼方位線が指し示している玖珂鉱山跡です。画面右の岩山の中に坑道が伸びています。

今は美川ムーバレーといって子供の探検施設になっています。坑道のなかに入れます。


古事記の記述にある「井の光」井戸の中に光があったという記述は、もしかして坑道の中で明かりをともして

鉱石を探していたのを簡単に書いて表現しているのかもしれません。尾がある人、というのは明かりをともす

ための例えば電源コードのような物だったのかもしれないと考えるのです。タングステン鉱石の場合は

紫外線を照射して探しますが、紫外線自体は光りとしては見えませんから、やはり灯火だと思います。



余談ですが、こんな話があります。

イラクのバグダッドにあるパルティア王朝の遺跡から古代の電池が発掘されています。

その電池は土器壺に電池構造を組み込んでいて、壺の高さ 15p、幅 9.2p、の土器壺の中に

長さ 10p、直径 2.6p の銅製の円筒を入れ、その筒の中に鉄棒を挿し込んであります。

それらは天然アスファルトで固定されていたそうです。


近年にそれらのレプリカを 10個作り、電解液にはレモンジュースを使って繋いだところ、

最大で 4ボルトの電気が得られたそうです。そうしたことから古代電池説が有力になっています。

電源コードが出土していないことを弱点にしてありますが、銅線は現代に至っても再利用します。

捨てはしませんから、当然出土はあり得ません。使用目的が電気メッキ用かとも言われていますが、

古代のメッキ方法は水銀メッキなので関係なし。そうした事を見ますに、灯火用の電池だったと

すれば使用目的は解決するのですが、残念ながら電球の問題が出てきます。そこでタングステンが

浮上してくるのですが、電球を作れるだけの技術があったかという証明は困難です。


エジプトのルクソール、ハトホル神殿地下にある灯火を持つ人のレリーフを思うと絵空事ではないでしょう。




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では、光市光井(ひかりし・みつい)にある冠天満宮に移ります。


冠天満宮
(かんむり・てんまんぐう)


「井の光」に関係してくる所。光市熊野神社から東へ約 3キロ少々の所に光井・冠天満宮があります。

冠天満宮には光る井戸の伝説がありまして、神武侵攻地を考える上で重要です。




上の写真は2006年に撮影したものです。

参道左側に見えている竹を被せた井戸がそれです。

下の写真が現在です。井戸に石囲いがされました。






赤矢印の所が光る井戸の解説です。

八海と西方の意味は、八海が波野スフィンクス、西方が森ピラミッドを意味します。

どちらも見える地点の地名を引用しています。つまり、エジプトに繋がっています。

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 天満宮の由来は、およそどこの天満宮も共通していて、菅原道真が筑紫へ渡る時に

風波を避けて上陸したというもの。そして、それがご縁で神社を建立したというものです。

 ところが、周防各地の天満宮を研究分析してみますと、もともと在った神社に菅原道真という

新しい神を祀っている神社が多いです。この冠天満宮もそうです。

 私など「天満宮」と聞きますと「ああそれは古い神社だ」と、逆の思考回路が働いてしまいます。

それほど天満宮には菅原道真の時代以前の由緒深い神社が多いです。

では、古記録を見てみましょう。


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 天保年中(1830〜1844)編纂の防長風土注進案より (部分引用)


 光井天満宮

 神殿 桁行貳間壹尺七寸 梁行貳間壹尺五寸 枌葺之事
 釣屋 桁行三間五尺三寸 梁壹間半 瓦葺之事
 拜殿 桁四間半 梁貳間半 茅葺之事

 祭神三座

 吉祥女  右大臣菅相丞  春彦


 祭日 (部分抜粋)

 二月廿四日廿五日五穀成就御祈祷居祭り。

 五月五日端午の式とて粽(ちまき)数多を奉りて神主神勤有之氏子中作り初穂など奉備、右之粽を頂戴して帰る。

この粽を食する時は百疾百病を遁れ、産婦食すれば體中折合宜由申傳候事。

 九月晦日之夜神主社参、榊貳枝に紙にて四手を切かけ於神前勤行、むかしより今に至るまで戸中の

○○なるもの之家より嫡々のもの社参、丑満の比彼貳もとの榊を以て沖の御旅所に持出、左右の村境に立て置也。

 十月八日は荒注連の神事とて地下役人中其外祭式役付之銘々○○家へ群参し、聊賄あって華表の七五三縄を調、

尚祭禮之神事式入用之品々一件を相整、神輿を餝り神事執行、尤祭禮米地下中より奉備るなり。


 石華表一基

 銘文略之元禄十五午年八月吉日

 當社御殿申(さる)の方に向ふ境内松樹森々と繁茂し、麓より壹丁程有之、 (以下略す)




 大社神社

 桁行五尺 梁行四尺 雑木作り瓦葺之事

 稲作綿などへ昆蟲おびただしく災いをなすゆへ依祈願、先年出雲国大社より奉勧請と云々。

 社伝に曰、延喜元年菅公左遷之折り洋中西風強く此の浦に御繋船遊ばされ磯辺に上らせ玉ふ。

此の時神太夫といへる者出迎ひ、いかなる御方にてわたらせ玉ふやと尋ねしかば、我は都のものなり、

筑紫の配處へ赴くなりとのたまふ。神太夫供奉して我が家へ伴ひ奉り一両日も御滞留被遊候内、

風も和らぎ浪も静かに成りければいざや御船に召させんと付添ふ官人御供して御出立の時被仰置けるは、

勅許あって帰洛せば此處に立寄べし、先形見に見よと被召し御冠を脱ぎあたへ給ふ、

神太夫泪に咽び有難く領掌仕けり、又其子太郎次勘之介貳人の者へは○○○○と名乗べしと御立遊され、

父子三人磯の方迄供奉仕帆の影の見ゆる限りは御見送なして歸り、彼御冠を筥にひめ置しとぞ、

其後神太夫年老ひて古人の数に入、嫡子○○太郎次家相続しける所、承平四年の冬十月七日の夜、

太郎次夢中に官位正敷御方枕上に立玉ひ、我は先年筑紫左遷の時立よりしものなり、

其折柄形見に残し置冠をもつて神體とし一社を建天神と可祝祭と見て夢は覺けり、

偖々不思議なる夢なりとおもひ居たるに、次の夜も又替らず夢中の告ありけれども妻子にも語らでありしに、

三夜の夢に我社の事を告るといへども疑心をもつて是を用ず、かならずうたがふ事なかれひとつの奇瑞を見すべし、

此家より東に當り山あり、其所に梅の古木あり、今宵のうちに花を開かすべしとの御告なるより、

明る間遲しと隣家の人々をかたらひ尋行に果して一株の梅あり、花爛漫と春のごとく、因茲いよいよ神勅なりとこころ決し、

其時の領主大内の家臣内藤下野守へ願出、ひめ置し御冠を神體として梅の古木ありし所を社地にひらき、

終に宮殿を造建なし奉る、于時承平五年庚子卯月廿三日午ノ刻造営成就し天満神と奉仰冠の宮といふ、

梅花を見たる日を以十月十日を祭日として今に至る迄祭祀變る事なし、就中寛元年中社頭及破損願出しかば、

寶治元年領主御下向の砌り、再建被仰付候よし、夫より天文年中又々廃壊に及び○○○○願によって

領主○○兵庫介○○○再々建と舊記に相見候、其後貞享二、元禄十一、寛延二、文政六の年造営と云々。



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 こんどは享保年中(1716〜1736)に編纂された防長寺社由来を見てみます。(部分引用)


 寛保元辛

 防州熊毛郡光井村 天満宮ならびに小社由来書

 酉十一月

 (由来は防長風土注進案と共通のため大幅に略します)

 棟札の事

   承平五庚子卯月廿三日午刻

 奉造立周防熊毛郡光井保天神宮

   西方領主○○下野守興盛也 

 (裏側)天文十八三月六日の記録で光井代々先祖の記録。



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 防長風土注進案では、光井天満宮と大社神社の二社の記録に分けてあります。ところが、

約百年古いはずの防長寺社由来では「天満宮ならびに小社」という記述で、大社神社の記録がありません。

 そうするとその百年の間、つまり、寺社由来と注進案の記された年の間に大社神社が

勧請された、となりますが、実際には大社神社が古来からのものであり、その証拠として

菅原道真に由来していながら、出雲国大社より勧請したとある記述が重要です。

出雲国大社とは、島根県の出雲大社ではなく、出雲大社の前身を言っています。

つまり、出雲大社の前身から勧請した、と考えれば良いと思います。


出雲大社の前身とは、からと水道の一画にあり、地下に双胴船を埋納した高層神殿のことです。

それらを見おろして波野行者山(波野スフィンクス)があります。方位線はそこを通っています。



 注進案と寺社由来の記述の不可解な部分を証明するには、建物の規模の記述が役に立ちます。

 光井天満宮の神殿は桁行きが二間一尺七寸です。現在のセンチメートルに換算しますと、

曲尺換算で約4メートル11センチになります。対する大社神社は桁行きが五尺です。

換算すると、1メートル51センチです。この寸法を比較してみるとよくわかります(下写真)。




 画面左の大きな神殿は天満宮。寸法を分析すると、

画面中央の小さな堂宇が古記録にある大社神社だとわかります。

由来も天満宮のほうとごちゃ混ぜになっているという感じです。




 大社神社という名でありながら小さいですが、その裏に秘めた内容は大きいものがあります。

 この神社の御神体である「冠石」(下の写真)が重要な意味を持っています。







 由来記録によると、冠は「筥(はこ)」に入れて保存されていたことがわかります。

 問題はその筥が何を意味しているかです。この小さな社殿も囲えば筥と言えなくもありません。

 そこで、クローズアップしてくるのが棟札の記述です。棟札には「西方領主・・・」と記してありました。

「西方」とは地名であり、周防大島の「西方」という所を語っています。

西方からは海上に浮かぶ三つのピラミッド、森ピラミッドが整列して見える所です。


 もし、大社神社がエジプトピラミッドと関連しているとしたらどうでしょう。

「冠」と呼ばれて来た物は、実はピラミッド最上部の「冠石」だったのではなかろうか、ということになります。

そうしたことを裏付けるかのように、方位線は波野スフィンクスを指しています(方位線図を参照してください)。


 では問題の冠石を見ますと、亀の甲羅形をしており、およそ三角形とは程遠い形です。そのことについて、

昔には三角形を忌み嫌う一つの迷信がありまして、私も子供の頃に画用紙で三角形を作って遊んだりすると

祖母から止められた記憶があります。迷信の根源は明確ではないのですが、もしその迷信を当てはめるなら、

縁起の悪い三角形の石はどこかにしまい(埋める、沈める等々)、その代わりに縁起の良い亀甲形の石を祀った・・・、

と推理するのであります。もしも本来の冠石が存在しているとしたなら、神殿の下に埋納してあるか、

それとも「井の光」という由来に当てはめると、井戸の底に沈めてあるのかもしれません。

たぶん、井戸の底が有力だと思います。いつの日か出土してくれることを祈ります。





 島田川河口からの距離を地図で見ると遠く感じますが、現地で見るとすぐ隣りです。




冠天満宮・方位線図


所在地
N 33度57分19.1
E 131度57分32.8
位置精度 +- 5m

拝礼方位 75度
本殿及び大社神社同一方位

以上計測 2015年11月


拝礼方位線



拝礼方位線は光市岩田の呉麓山(くれろくさん)を指しています。

呉麓山は熊の形をしており、私は岩戸スフィンクスと仮称しています。

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岩戸を通過した拝礼方位線は、田布施町波野にある波野行者山を指しています。

波野行者山も熊の形をしており、私は波野スフィンクスと仮称しています。

西側の木地は万葉歌にも詠まれており、木地弥生集落遺跡があります。

東側は天王原古墳を通過しています。天王原古墳の被葬者は波野スフィンクスの

頂上に埋葬されていた王をふもとに下ろして改葬した古墳です。また天王原古墳の

東側には明地弥生遺跡が広がっています。方位線はそこを通過しています。

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丸印の所に寺院があります。福楽寺という寺ですが、先ほどの波野スフィンクス頂上に

ある役行者堂の祭事は昔からこの福楽寺が担当しています。方位線はその寺を通過しています。

なお、余談ですが、地図の線路の所は、からと水道跡の最深部を通っています。

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拝礼方位線は、やがて由宇町銭壺山ふもとの天神、神東という所に到達します。

南側の丸印は「 舟木 」という所ですが、神武天皇の船の材木を伐り出したという由来があります。

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この図は、冠天満宮の社殿に向かって右手方位線です。

普賢寺の入り口を指しています。特筆は、北と南に学校がありますが、

方位線は正確に学校を通過しています。学校が出来る前には何があったのでしょう??

調べてみる価値はあるかもしれません。



井氷鹿の陵墓跡の研究(内部リンク)




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