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井氷鹿の陵墓跡の研究


古事記の神武侵攻に登場している人物を現地で研究しますと、それぞれに陵墓があります。

井氷鹿の陵墓として考えられるのが、島田多賀神社から少し山手に入った所の山中に

島田柿本明神と呼ばれて来た神社があります。その神社の境内は、まさに前方後円墳の形を

克明に残しており、近くの島田多賀神社は二鹿鉱山との関連性がありますから、井戸(鉱山)に

関係する井氷鹿との連係が見えます。さらに島田から山越えをした所にある岩戸(石押分の子)との

連係性もあります。さらには、柿本神社の境内からは三井が展望できますことを思うと、万葉歌との

関連性も出て来るのです。そうしたことから、島田柿本神社の境内こそが古事記に記してある井氷鹿の

陵墓跡だと確信します。では、その島田柿本神社を見てみましょう。









バイクでも境内まで登れるのですが、遠慮しておきました。









左側は深い谷の竹やぶになっており、廃屋があります。











社殿が荒廃しているのは問題ではありません。

神社は永い年月で盛衰を繰り返して今に至っています。

その永い年月のうちの、今はほんの一瞬でしかありません。

大事なことは、社殿の礎石だけは絶対に動かさないことです。


境内にて計測

N 33度59分21.8

E 131度58分05.9

位置精度 +- 5m


拝礼方位 300度


方位線分析

拝礼方向 ⇒ 花岡八幡宮参道入り口 ⇒ 龍宮の潮吹き

前面方向 ⇒ 岩戸石 ⇒ 竹部稲荷山古墳・深田古墳 ⇒ 大野・日向平 ⇒ 伊保庄賀茂神社参道入り口 ⇒ 周防大島・出井

社殿に向かって右手方向 ⇒ 三刀屋 ⇒ 多古

社殿に向かって左手方向 ⇒ 光井(方位線の近くに金山彦神社)




前方後円墳の後円部が整地されて境内になっています。

周囲の竹やぶが無ければ島田川を見おろせる展望良好な所です。

社殿の向こう側に前方部が 210度方向にのびています。

この地点から撮影者の後ろ側を見たのが下の写真です。




後円部に沿って参道が登っています。






社殿の所から前方部の左側の地形ラインを見た写真です。

改葬する時、神社にするために整地されたのでしょう、

今でも前方部の痕跡が土手になって明瞭に残っています。

画面の左側は一段置いた後、谷になっています。







こんどは前方部の右側ラインを見てみますと、こちらも前方部の形状が明瞭に残っています。

何段かの構成だったのでしょうけれど、整地する時に土を斜面にかき落としますから、段は隠れます。

後円部の辺りの形状から推測して、三段構築だったのではないかと思いますが不明です。







石押分の子の陵墓は冠念寺が指しています。 同じように井氷鹿の陵墓は永明寺が指し示しています。






手持ちの写真が十年前の古いものしかないので、いずれお参りして再撮影させていただきます。


 防長風土注進案より

 曹洞宗 霊亀山 永明庵

 本尊 聖観音

 脇立 不動 毘沙門

 同境内 荒神社石祠  建立年月不相分

 當禅刹前開山養月玉和尚永禄六亥十二月七日寂、後開山林應文徳大和尚天正十五丁亥十一月十九日寂、

中興王海玉友大和尚寛延三庚午正月廿日寂、建立年月不分明、舊記由来等不詳。








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